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代表の監督は公人 今はバレーしか考えられない 男 1960年代生まれ 四国地方の出身 熱血 教育

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植田辰哉 (うえたたつや)
1964年7月25日 香川県生まれ
バレーボール全日本男子監督
新日本製鉄入社後、バレーボール部の主力として国内タイトルを全て獲得し、新日鐵バレーボール部の黄金時代を築いた。1992年には日本代表チームの主将としてバルセロナオリンピックに出場し、6位入賞を果たす。その後、新日鐵コーチ、監督を経て2002年より日本代表チームコーチに就任、2003年より日本代表ジュニアチームの監督、2004年11月より現在まで日本代表チームの監督。主な成績は2005年1995年以来となるアジア選手権優勝、2006年24年ぶりとなる世界選手権ベスト8、2007年アジア選手権準優勝、2008年自身が出場したバルセロナ以来16年ぶりに北京オリンピックに出場、2009年アジア選手権優勝、さらに、ワールドグランプリにおいて、主要国際大会32年ぶりとなる銅メダル獲得、2010年には16年ぶりにアジア大会で金メダルを獲得した。【JVA承認 2011-08-010】

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幼少~学生時代
小学校時代は剣道一色の日々を送り、将来の夢は警察官でした。中学入学後も剣道部に入部しましたが、顧問の先生が亡くなったことで剣道部が休部となってしまいました。当時から身長が高かったので、当時のバレーボール部の監督から勧誘を受け、バレー部に入部することに。その後、偶然テレビで春の高校バレー全国大会の決勝戦をみて、大商大高校に憧れ、自ら受験して入学することができました。その後大学、社会人、そして現在に至るまで約30年間バレー界での生活が続いております。

続き(覚悟の瞬間)

覚悟の瞬間
大学卒業時には、ありがたいことに数社からオファーをいただくことができました。新日本製鉄、松下電器(現パナソニック)、日本鋼管(現JFEスチール)、その他数社、この際家族は松下電器を強く希望していましたが、私の意思は固く新日鐵に入社をしました。そして、入社2年目でチームが日本一に輝き、私自身も全日本チームに選考されることに・・・。新日鐵に入社していなければ、全日本にも選ばれていなかったと思っています。運命のようなものを感じますね。

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続き(今後の目標)

今後の目標
まず、ロンドンオリンピックにおいて、目標であるメダル獲得することが目標です。その後は8年間の代表監督の経験を生かし、日本国内の指導者育成及び指導体制の更なる整備、特にU-20の強化に力を注いでいきたいと思います。

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続き(日本のアカルイ未来のために)

日本のアカルイ未来のために
諦めなければ、終わることはありません。苦しい時は毎日同じではなく、必ず喜びに変わります。逆に楽しい時も毎日ではなく、必ず苦しい時を迎えます。おごり昂ぶることなく謙虚に、日々を大切にしましょう。

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強化準備ノート

過去のも含め、練習前に準備したものが書き込まれています。それを選手たちと見ながら、打ち合わせをします。選手たちの能力を伸ばせるよう、改善を行うために不可欠なノートです。

ハードディスク

試合に関するデータが主に入ったハードディスクです。2005年からの100試合以上のデータが入っています。