ゆとり全共闘批判 宮内春樹
~「能無し活動家」が自分の存在を安定させるための共同体としてのゆとり全共闘~
1.批判者たる私の立場性について
批判文を寄稿するにあたり、まず簡単に自己紹介することから始めよう。この文章を読んでいるもので私の名前を知らないものはいないと自負しているので、私と「ゆとり全共闘」との関連を紹介することが、自己紹介にあたるだろう。
私は新左翼活動家であった両親の影響を受け、入学以前から大学に入ったら左翼活動に身を投じようと決意していた。しかし諸般の事情により両親のつてを使うことが憚られたために、「どのように左翼活動をしてよいかわからない」という問題が生じた。ちょうど大学二年になろうという春、縁あって白石らと知り合い、それ以来一年ほどにわたって、「ゆとり全共闘」の”幹部”として、”組織”の中枢を担ってきた。(このように書くと、ゆとり全共闘闘志諸君から批判があることは請合いだろうが、客観的合理的にみて、多くの大局的判断を下してきたのは私であり、多くの実務的問題を解決してきたのも私であった。事実私が”抜けた”後のゆとり全共闘は壊滅状態にあり、「戻ってきてくれ」という慰留を多方面から再三受けている。)私は、大学の規制強化問題などゆとり全共闘が扱う「社会問題」にはさほど興味・共感を覚えなかったが、それをすることが「革命」の助けになるはずだと、半ば自分に暗示をかけながら、活動を担ってきた。
サマライズするならば、私は真面目な「社会運動家」志望の青年であったが、運悪く不真面目な「社会運動体」にコミットすることになり、これまた運悪く組織の中枢を担うことになってしまった一大学生、ということであり、これが私と「ゆとり全共闘」との関係である。
2.「無能」を肯定する論理を構築する共同体
活動家を活動家たらしめる唯一絶対の意識は「生きにくい世界を変えたい」ということである。そしてその意識が、具体的行動という形であらわされるまでに高揚した人物のことを、一般に活動家と呼ぶ。しかしゆとり全共闘闘志諸君は、何よりもまず、世界を変えようとする意識に乏しい。より正確にいえば、その無能さゆえに「世界をより良くする」ことができないため、自分たちはそんなことは志向していないかのように振る舞い、それを肯定する論理を構築し、強固にそれを信じ込んでいる。ゆとり全共闘でなされる活動の半分は「ふざけた活動」であり、もう半分の真面目な部分は「自分たちの無能さを肯定するための論理構築」である、といいきっても過言ではない。
具体的に示そう。
ゆとり全共闘は2012年3月に、主として就活・学費・学内規制の問題を訴える「大学取り戻せデモ」を行った。私はその問題意識にはいたく共感していたが、助力することはしなかった。なぜなら、彼らには「就活・学費・学内規制の問題を解決しよう」という現実的意識が一切ないことを私はこれ以上なく知っていたからである。
具体的問題を解決するための手段としての「デモ」が持つ唯一の価値は話題性である。広く議論を引き起こし、確かにこれは変えなければならないと思わせることこそ、デモの価値である。そのためデモは、話題性こそすべてなのである。そのデモ一週間前、情宣で一番大切な時期に、彼らは「勉強会」と称して市民会館で会合を行っていた。放送をしていたものの、視聴者数は10か15ほどであったと記憶している。
私はなぜあの時期に勉強会なんだと責任者に問うた。その答えは「やっていることが重要」「自分たちの中の論理が構築できないことにはデモはできない」などという、極めて稚拙なものであった。
この例が特殊なのではない。彼らはいつでもこうなのである。問題を解決するための戦略を立てよう、という意思がまるでない。いや、放送を入れたところを見るに、多少はあるのだろう。しかしそれが戦略として妥当か否かを問うことができない。しようとしない。なぜなら、世界をよりよくしようという意識がまるでないからである。いや、ないのではなく、無能だから具体的プロセスを想像できず、結果「デモひとつするのが限界」という状態になるのだ。
このような事務能力・管理能力の不足は、どのような言い訳をしても、端的に無能なのである。しかし彼らは、自分が無能だということを認めない。そして、自分は無能でないという論理を紡ぎだすのが非常にうまい。すなわち自己批判の精神がまったくない。私がこれだけ書いても、彼らは「まさに自分が批判されているのだ」という意識を持たないだろう。これは単に社会不適合者であるというだけの話である。念のためいえば、この批判に当てはまらないゆとり全共闘闘志は、私のほか1名だけである。(君ではないぞ、ゆめゆめ自分かも知れないなどと思うなよ。)
サマライズするとゆとり全共闘闘志は端的に無能であり、およそ社会変革など期待してはいけない、ということである。またゆとり全共闘闘志諸君には、自分の無能さを「アナーキー」であることと混同しないでほしい。無能を自覚しない無能ほど面倒で不幸な存在も珍しいからである。
3.「社会不適合者」の受け皿としてのゆとり全共闘
さて「悪口」を書き始めると止まらなくなりそうなので切り上げることにして、ゆとり全共闘のあるべき姿―おそらくそうなっていくであろう私の予測だが―を示す。
ゆとり全共闘闘志諸君に、何か社会変革を期待することは、私はもう諦めた。そして事実、そうなることはないだろう。
ゆとり全共闘は、単なる左翼趣味を持ったサークルになっていく。そして、それでいい。いまのつらい世の中、左翼趣味を持った学生は増えていくだろう。そしてそのうちの多くは、セクトの「厳しさ」についていけない無能であろう。そんな人たちが集まって、学生運動のまねごとをして満足する。ただそれだけで、幸せになる人が多くいるのなら、それでいい。
私はこれ以上ないくらいに無能無能と罵ったが、能力と人柄は別物で、ゆとり全共闘闘志には人柄のよい人が多い。思想信条が合致していて人柄のよい人が集まるサークル、これはとてもいいサークルだ。その意味で、ゆとり全共闘が持つ社会的役割は大きい。
一方で真面目な社会運動家になりたい青年諸賢は、-そんな人はこの文章を読んでいないだろうが-、ゆとり全共闘にはコミットしないよう、私は強く勧めたい。
サマライズすれば、ゆとり全共闘は左翼趣味を持った若者のサークルであるべきで、その一点においてのみ価値がある、ということである。
4.終わりに
私にとっては、ゆとり全共闘闘志諸君は、同志というよりも、大切な友人であるといったほうが適切だろう。この批判文を書こうと思ったのも、何より友人が困っていたからである。大切な友人であるゆとり全共闘闘志諸君の活躍を祈って、批判を終わる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
プロフィール
宮内春樹
慶應義塾大学学生。元・新左翼活動家。宗教家。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
(追記)
この文章は2012年4月の時点で、「ゆとり全共闘の機関紙を作るから文章を書いてくれないか」と依頼され、寄稿したものである。その直後に某同志が逮捕され、その対応に追われていたこともあり、2013年2月現在も発刊に至っていないため、同様に文章を寄稿した当然世界くん(http://touzensekai.blogspot.jp/)が文章を公表したため、私の文章も公開することに相成った。