西村修平さんが今日の昼から活動されるので、関心のある方は早起きしたら、ともかくブックマークをご覧下さい。
昨夜、何かブログに書こうとしたら、突然画面のスタイルが変わっている上に、フォントが半分ぐらいになって読みにくい。
出来る範囲のことをやったが、どうにもならない。編集画面からフォントの設定を見ることは出来るが、所謂「灰色反転」に近い状態で操作できない。
フォントが小さくなったこと以外はgooのあらゆる機能が編集画面から全部見える状態になっていて便利だが、これでは書いている私も、読者も読みにくくて仕方ないと思う。今日は日曜だからどうせgooスタッフは休みだろうし、nttのリモートサポートもこういう問題はgooに聞いてください、で協力してくれないだろう。そういえば、一昨日のサポーターの女性は素人で、何度もアンチョコを見ては変なことやっていたなぁ、と思い出す。私は大抵ブラウザをグーグルクロームで使っているが、色んな設定を解除して、一つのトラブルは消えたのだが、他のがダメになったのか、とか、gooはパスワードの新設定など要求してきたしメンテナンス障害か、とか考えているうちに日をまたいで28日の午前2時を越えた。
とりあえずこの画面だけはフォントを大きく出来るので、今日はそれでごまかします。
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さて、今日は「場合によっては一発で悟れる」かもしれない公案を試すことにします。
私が尊敬する玄侑宗久師は公案には答えはない、と言われます。そう言われるのは充分な根拠があります。
が、私の体験と理解をあわせた結論では、公案は様々な種類に分かれていて、比較的答えがはっきりしているものから、その人の即興の心境を老師が見抜くものまで種々のケースに区別されます。これを分析した本も持っているのですが、押入れのどこかに入れたままで探すことは出来ません。
ある程度答えが分かっている証拠として、「難透」(白隠八難透など)という言葉があります。ということは、逆に簡単に解ける公案があるわけですね。ということは、ある程度答えは分かっている公案がある証拠です。ただそれを体全身で分かったかどうかを老師たちは見るわけです。そこを強調して 玄侑師は「公案に答えはない」と言われるのだと思います。この辺りを含めた面白いサイトにhttp://www3.tokai.or.jp/counseling-zen/link2.htmがあります。後ほどぜひご覧下さい。
ともかく、そういうネタバラシは後にしましょう。
読者の皆さんが今現在どういう心境なのか、最も有名な公案を読み、考え、どうにもならなかったら解説(提唱)を読んでみてください。
(本当はそういうことをするのはダメですが、人生は短く、本格的に出家するとか見性しようという人はほとんどいないので、これもあり、にしましょう)
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.1.htmより
非常に短い公案ですが、まずこれが何を言っているのか解説してみます。
ある時、1人の僧が趙州(じょうしゅう)和尚に問うた。
「犬には仏性が有るでしょうか、それとも無いでしょうか。」
「無」と趙州は答えた。
この短い会話そのものは、あえて説明する必要はないと思います。また、趙州和尚についても、仏性についても、いちおう解説しました。では次に進んで、この僧が趙州和尚に問いただした意図は何なのでしょうか...ここから禅問答に入ります。
この僧は、実は犬に仏性が有るか無いかは百も承知で尋ねているのです。むろん、大禅匠である趙州和尚も、“生きとし生けるものは、ことごとく仏性を有する”ことは知り尽しています。では、何故あえてこんなことを質問したのでしょうか...
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ここまででこの公案を解いてみてください。こういう言い方も掟破りですが、師匠の出す問題を解くには、師匠の考えそうなことの上を読むことです。つまり、知恵比べですね。
山川草木悉有仏性、という仏教の基礎用語が示すとおり、植物どころが石ころにさえ仏性があるのですから犬に仏性があるのは当然です。
因みに「一念三千」という思想は天台以後の全ての宗教がいいます。が、本当のことが分かっている人は少ないようです。普通は単純に「心の中に三千の世界がある」と解釈します。違いますよ。これも「十界互具」と同じで「三千界互具」です。つまり、石ころのほうでも三千の世界を持っているわけです。
これが分かっていればこの公案はすぐに解けます。解けたら悟っています。
先ほどから「掟破り」「型破り」を繰返していますが、これらは「掟」と「型」がないと破れないということ理解してもらいたいと思います。
微笑禅の会の方、あるいは関心をお持ちの方はお分かりのように、本当は悟る必要もありません。悟ったつもりで狂う人もいます。自分の出来る範囲で淡々と日常を暮す、但しダイヤモンドのような心だけは包み隠している凡人、というのが私の理想です。では失礼します。
昨夜、何かブログに書こうとしたら、突然画面のスタイルが変わっている上に、フォントが半分ぐらいになって読みにくい。
出来る範囲のことをやったが、どうにもならない。編集画面からフォントの設定を見ることは出来るが、所謂「灰色反転」に近い状態で操作できない。
フォントが小さくなったこと以外はgooのあらゆる機能が編集画面から全部見える状態になっていて便利だが、これでは書いている私も、読者も読みにくくて仕方ないと思う。今日は日曜だからどうせgooスタッフは休みだろうし、nttのリモートサポートもこういう問題はgooに聞いてください、で協力してくれないだろう。そういえば、一昨日のサポーターの女性は素人で、何度もアンチョコを見ては変なことやっていたなぁ、と思い出す。私は大抵ブラウザをグーグルクロームで使っているが、色んな設定を解除して、一つのトラブルは消えたのだが、他のがダメになったのか、とか、gooはパスワードの新設定など要求してきたしメンテナンス障害か、とか考えているうちに日をまたいで28日の午前2時を越えた。
とりあえずこの画面だけはフォントを大きく出来るので、今日はそれでごまかします。
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さて、今日は「場合によっては一発で悟れる」かもしれない公案を試すことにします。
私が尊敬する玄侑宗久師は公案には答えはない、と言われます。そう言われるのは充分な根拠があります。
が、私の体験と理解をあわせた結論では、公案は様々な種類に分かれていて、比較的答えがはっきりしているものから、その人の即興の心境を老師が見抜くものまで種々のケースに区別されます。これを分析した本も持っているのですが、押入れのどこかに入れたままで探すことは出来ません。
ある程度答えが分かっている証拠として、「難透」(白隠八難透など)という言葉があります。ということは、逆に簡単に解ける公案があるわけですね。ということは、ある程度答えは分かっている公案がある証拠です。ただそれを体全身で分かったかどうかを老師たちは見るわけです。そこを強調して 玄侑師は「公案に答えはない」と言われるのだと思います。この辺りを含めた面白いサイトにhttp://www3.tokai.or.jp/counseling-zen/link2.htmがあります。後ほどぜひご覧下さい。
ともかく、そういうネタバラシは後にしましょう。
読者の皆さんが今現在どういう心境なのか、最も有名な公案を読み、考え、どうにもならなかったら解説(提唱)を読んでみてください。
(本当はそういうことをするのはダメですが、人生は短く、本格的に出家するとか見性しようという人はほとんどいないので、これもあり、にしましょう)
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.1.htmより
非常に短い公案ですが、まずこれが何を言っているのか解説してみます。
ある時、1人の僧が趙州(じょうしゅう)和尚に問うた。
「犬には仏性が有るでしょうか、それとも無いでしょうか。」
「無」と趙州は答えた。
この短い会話そのものは、あえて説明する必要はないと思います。また、趙州和尚についても、仏性についても、いちおう解説しました。では次に進んで、この僧が趙州和尚に問いただした意図は何なのでしょうか...ここから禅問答に入ります。
この僧は、実は犬に仏性が有るか無いかは百も承知で尋ねているのです。むろん、大禅匠である趙州和尚も、“生きとし生けるものは、ことごとく仏性を有する”ことは知り尽しています。では、何故あえてこんなことを質問したのでしょうか...
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ここまででこの公案を解いてみてください。こういう言い方も掟破りですが、師匠の出す問題を解くには、師匠の考えそうなことの上を読むことです。つまり、知恵比べですね。
山川草木悉有仏性、という仏教の基礎用語が示すとおり、植物どころが石ころにさえ仏性があるのですから犬に仏性があるのは当然です。
因みに「一念三千」という思想は天台以後の全ての宗教がいいます。が、本当のことが分かっている人は少ないようです。普通は単純に「心の中に三千の世界がある」と解釈します。違いますよ。これも「十界互具」と同じで「三千界互具」です。つまり、石ころのほうでも三千の世界を持っているわけです。
これが分かっていればこの公案はすぐに解けます。解けたら悟っています。
先ほどから「掟破り」「型破り」を繰返していますが、これらは「掟」と「型」がないと破れないということ理解してもらいたいと思います。
微笑禅の会の方、あるいは関心をお持ちの方はお分かりのように、本当は悟る必要もありません。悟ったつもりで狂う人もいます。自分の出来る範囲で淡々と日常を暮す、但しダイヤモンドのような心だけは包み隠している凡人、というのが私の理想です。では失礼します。