ACT1 ホノカ・ラーシャル
西暦2028年1月19日、世界中で天体観測に従事している人間は、アマ・プロを問わずに、1つの異常現象を観測していた。
「月の地面に、大きな穴が開いている。」
昨年2027年の最後の日に、「人類の歴史上最も原始的な象形文字が現れる」と言う、ある意味ビッグイベントに見舞われていた大衆は、その現象には以前ほどの衝撃を受ける事はなかった。
彼女も、ホノカ・ラーシャルも、その1人である。彼女は、そんな「低俗」な話題よりも、1つの大きな問題に直面していた。
東南アジアにて、日系2世として産まれ落ちた彼女には、二つの進路が用意されていたのだ。そのどちらかを選ぶかで、人生は大きく変わってしまう。
1つは、「苦学」の末に北米の大学を卒業した身で、トップ企業に就職するか。もう1つは、近年東南アジアから世界に広がっている、バリ島の神話に出てくる正義の神から名付けられた、「バロン連合」からのオファーを受けるか、である。
親が居ないと言う環境の中で、文字通り「苦学」の末に大学を卒業した彼女にとって、これは大きな分岐点であった。これまでの、21年間の苦労を水泡に帰してまで、「バロン連合」に加わるか、あるいはビジネス・ウーマンとして生きて、アメリカン・ドリームを掴むか。
大抵の人間ならば、何の迷いも無く後者を選ぶだろうが、ホノカにはそれを迷わせてしまう、1つのトラウマがあった。
大勢の人混みの中を歩くのが不安だったのだ。それ以前に、人とのコミュニケーションも苦手であった。
あれは、まだ彼女が物心を覚えるかどうか、と言う時期である。おぼろげながらに覚えている両親に手を引かれながら、彼女は故郷の東南アジアの歓楽街を歩いていた。昼下がりになり、そろそろ家に帰ろうかと話しあい始めた時である。
凄まじい轟音と共に、まだ幼い彼女の身体が吹っ飛んだ。彼女はまだ幸運であった。と言うのも、彼女が受ける筈の爆風から、両親が庇ってくれたのだ。その結果、両親は原型を留めない身体となり、この世を去った。
1人残されたホノカ・ラーシャルは、以来親族の元をたらい回しにされつつも、捻くれたり挫けたりせずに真面目に勉強し続けて、果てには北米の有名大学を優秀な成績で卒業するのに至った。
が、彼女にはウィーク・ポイント、弱点が1つ、それも致命的なものが。あの日以来、爆風から両親に救われたあの時以来、ずっと心に根付いていた。
人混みとコミュニケーションが苦手になったのだ。
「君の様な優秀な人材が、「バロン連合」なんていう胡散臭いNPO法人に盗られてしまうのは惜しい限りだ。是非わが社に来てほしい。君に合わせた環境も用意してあげるよ。重ねて言う、是非わが社に来てほしい。」
そう念じる様に懇願するのは、北米に本社を置く多国籍企業の人事部の男である。忙しい中、時間を作ってまでこうも懇願してくるのだから、それだけでホノカは自分を誇るべきであったが、どうにもホノカの顔は煮え切らない。
「確かに、君はコミュニケーションが苦手だ。人混みを前にすると、途端に動けなくなる。だが、それだけで君の才能を埋めるなんて、実に勿体無い。わが社は福利厚生も万全だし、今後も成長の見込める会社だと自負している。あんな宗教じみた連中のオファーなんかに騙されてはいけない。」
もう、ホノカを採用出来れば、欲しい物は何もないと言う流れになっている。こう言う他人からの感情の押し付けも苦手であると男が思い出したのは、その直後である。
「すまない、その、話に感情が籠ると、ついこうなってしまうんだ。本当にすまない、二度としない。」
高圧的な表情と口調を改めると、男は、静かな口調でもって言いなおす。
「これがラスト・チャンスだよ。今日中にわが社のオファーを受けてくれなければ、この話はなかった事になる。」
それでも、ホノカの表情が晴れる事はなかった。いい加減、男の方も苛立ちが募ってきたのか、はたまた時間が無くなってきたのか、最後の最後で、諦めた様に言い放つ。
「決心が付いたなら、今日の5時までに、私のオフィスに、私宛に連絡をしてほしい。いいか、今日の午後5時までだ。それから1秒でも経てば、別の会社を当たってもらう事になる。」
「すみません。」
ようやく出てきた、震えるか細い言葉が、それである。男は、半ば呆れて、ホノカの住んでいる、学生寮の部屋を出ていく。人混みとコミュニケーションが苦手。そんなハンディキャップを持ちつつも、彼女がこうして一流企業からのオファーを受けられるのも、東南アジアから単身渡米して、尚且つ優秀な成績で大学を卒業出来るからである。
だが、さっきの男で、今期の採用枠で探せる1流企業は最後である。他を当たろうとすれば、どうしても自分の様な高学歴の人間がやる様な仕事にはつけない。
ホノカは、自分の学生寮の部屋を見回す。個室である部屋には、机が1つと、ノートパソコンが1つと、大量の本が並んでいる。他の学生からは、嫌味を込められて「核シェルター」と呼ばれている。
このまま故郷のアジアに戻っても、真っ当な仕事があるかどうかは分からない。渡米して大学を優秀な成績で卒業できましたけど、就職は出来ませんでした、とあっては、誰もが手を引っ込めるところであろう。
ましてや、こうもコミュニケーションが苦手では、採用されたとしても、1日と経たずにオフィスから叩きだされるのは目に見えている。
「このままじゃあ、駄目。」
ホノカはそう呟くと、携帯端末を手に取り、タッチパネルに指を当てて、先程の男に連絡を取ろうとした時、携帯端末に別の人間から連絡が入っているのに気が付く。調べてみると、案の定、「バロン連合」からの勧誘であった。
先程の人事部の男と話をしている間はマナーモードにしていたので、留守電として音声のみが収録されていた。
『今、人類は君の様な人材を求めている。今巷を騒がせている月の大異変は、ほんの序の口だろう。近い内に、人類を大規模な災害が襲う。神の名の元に、また破壊と殺戮が行われていようとしている。』
その全てを聞く事無く、ホノカは音声の再生を停めると、音声を削除する。あまりにも馬鹿げている。第一、「神の名の元に、破壊と殺戮が行われている」のは、人類社会では「日常の出来事」ではないか。
ホノカ・ラーシャルの両親を奪ったのも、宗教の宗派間の争いによる爆弾テロである。あの日の出来事を、ホノカは鮮明を覚えている。ゴロゴロと石ころの様に転がっている人間の身体、そして粉々になったガラスやコンクリートの破片、幾重にも聞こえる悲鳴と怒号、それに泣き声。
正直な話、ホノカにしてみれば、明日人類が滅びてしまおうと、一向に構わなかった。彼女が大事にすべき人間も、大事に取っておくべきだった「もの」も、あの時、爆風を受けて吹き飛ばされてしまったのだ。
そう思うと、突然、彼女の中で膨らんでいたとある感情が、急速に萎んでいくのが感じられた。あの日から今日までの日々の中で、一瞬でも良い。自分が自分らしく生きられた事があったのだろうか。
「今日の、午後5時までに。」
ホノカは、人事部の男から言われた時間を復唱する。今は、午後2時過ぎだ。あとの約3時間、どうしていよう。
そうだ、人気のない場所に行きたい。彼女はそう結論を下すと、携帯端末を持って、学生寮から歩いていく。人気は疎らで、時折教科書やノートを覗きこみながら歩いている生徒や、散歩に出かけた人間が見当たるのみである。
なんだ、人気のない場所は此処ではないか。そう気が付くと、大学の敷地のベンチに腰を降ろす。ある意味、此処は彼女にとって居場所が良い空間であった。大勢の生徒が一同に集まる授業は苦労したが、それ以外は基本単独行動である。
コミュニケーションが苦手で、ひたすらそこから逃げていたホノカにとって、「勉強」は非常に有意義かつ有益な「暇つぶし」であった。
この有意義な「暇つぶし」が生かせる職業等、この地上にあるのか? そう思った直後に、彼女が思い付いた職業が、頭に浮かんだ。そして、彼女は携帯端末を取り出すと、連絡を取る。
『もしもし?』
「ホノカ・ラーシャルです。」
『君か!? 決心してくれたか?!』
「はい、自分の希望する部門に配属してくれるのなら。」
『良いとも! 我々は常に人手不足だ! どの部門だろうと大歓迎だよ!』
「それでは、「バロン連合」の戦略研究部門に配属してください。」
『よし、契約成立だ。翌日、そちらに迎えをやるから、それまで待機していてくれ。ありがとう、一緒に人類を救おう!』
「はい。」
これで良いんだ。これで。
彼女は、胸の中で呟く。自分には、1流の多国籍企業なんて似合わない。北米の白人社会における競争原理主義社会を生き抜いていけるだけの自信など、彼女には無かった。
期待の人材が、自分の期待を裏切っているとは気がつかず、例の会社の人事部の男は、苛々しながら時計とにらめっこをしていた。あと10分程で、午後5時である。
もういい加減諦めたら良いのであるが、どうしてもホノカ・ラーシャルに入社してほしかった。その一心で、もう1度電話をかけようとした直後である。彼の居るオフィスが大きく揺れ始めた。
地震か? しかし、この地域で地震など起きない筈である。そう思った次の瞬間には、彼はオフィスごと、巨大な拳で叩き潰されていた。拳を放った、言葉では形容し難い巨大な怪物は、続いて腹部の割れ目から無数の触手を伸ばすと、それでもって地面を逃げ惑う人間達を叩き潰す。
巨大なビルや建物を次々と腕や触手で薙ぎ払い、街を破壊していく怪物の前に、人間はただ逃げ惑うのみである。この世の終わりだ、この世の終わりの地獄絵図だ。誰もがそう思った時である。
1人の女が、パニックを起こして逃げる人々に逆らう様に、冷静な表情でもって、だが確固たる意志を示しつつ歩いて来ていた。やがて、暴れる怪物を前に1人立つ形となった女は、形が歪なペンダントを取り出すと、それを握りしめる。
その刹那、雲ひとつない筈の空から雷が彼女を打つ。その眩しい光が収まると、そこには巨大な身丈の、真っ白い仮面を被った、全身タイツの上に鎧を着ている様な女が立っていた。
その仮面を被った女は、怪物に向かって拳を叩き込む。それも1発や2発では無い。複数の拳が、怪物の身体に叩き込まれる。その度に、怪物は耳を劈く様な悲鳴を上げる。
その怪物に止めを刺す様に、仮面を被った巨人の女は、数歩後ろへ引き下がると、勢いをつけて右の拳を叩き込む。怪物の巨体を拳が突き破り、大量の緑色の血液らしき液体が零れだすと、怪物は断末魔の悲鳴をあげて、半ば廃墟と化した街に倒れると、最後に爆発して、周囲にその破片が飛び散る。
それと同時に、巨人の女も、眩い光を放って消えていく。
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