植村隆
植村 隆(うえむら たかし、1958年 ‐ )は、新聞記者・朝日新聞社社員。1991年、いわゆる従軍慰安婦問題を初めて報道したが、事実に反する捏造であったことが判明している。
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[編集] 経歴
高知県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1982年、朝日新聞入社。
韓国語の学習のため、朝日新聞社入社後に延世大学校へ留学した。
妻は韓国人であり、同国の太平洋戦争犠牲者遺族会の常任理事である粱順任の娘である。粱順任は日本政府に対してアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件を起こし、また、日本政府からの補償金に絡む詐欺事件で容疑をかけられている[1]。
[編集] 従軍慰安婦記事
[編集] 記事
韓国特派員時代の1991年8月11日の朝日新聞にて初めて慰安婦に関する記事を掲載。これが韓国の様々な新聞に転載され、慰安婦問題がクローズアップされた。
日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。 尹代表らによると、この女性は六十八歳で、ソウル市内に一人で住んでいる。(中略)女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた。ニ、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの四人が一般の兵士ニ、三百人を受け持ち、毎日三、四人の相手をさせられたという。「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思いつづけた」という。また週に一回は軍医の検診があった。数ヶ月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている[2]。
植村の記事にある金学順の証言と、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件における金学順の陳述には異なる点も多い。また女子挺身隊と慰安婦を混同した「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」という解説は現在では誤りとされているが、[朝日新聞社]は今もって訂正していない。本記事を発端とし国際社会にいわゆる従軍慰安婦問題が提起されていくこととなる。
「金学順」も参照
[編集] 金学順の記事に対する批判
- 1991年8月に金学順が日本国政府に対して訴訟を起こした際、訴状には「親に数十円で妓生に売られた」と書いている。
- 西岡力は「すべては朝日新聞の捏造から始まった」、山際澄夫は「朝日新聞こそ「従軍慰安婦」捏造を謝罪せよ」との論説を掲載している[3]。
- 池田信夫は、「慰安婦について調査委員会を設置せよ」[4]において、金学順が日本政府に対する訴訟の原告として名乗りでた時は、「親に40円でキーセンに売られた」と訴状に書いていたのに、植村隆記者が「女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦のうち、一人が名乗り出た」と報じ、これが騒ぎの発端になったとして、これは誤報ではなく意図的な捏造であり、植村記者の妻は韓国人で義母が訴訟の原告団長だったので、義母の訴訟を有利にするために「日本軍の強制連行」という話にしたのだ、と批判している。
- なお、その義母は裁判費用を詐取した廉で逮捕されている。
- 西岡は、北朝鮮の拉致問題のように政府が外務省から独立した調査委員会をつくって事実関係を徹底的に調査すべきだと提案し、池田は、この調査委員会には植村記者を喚問して、朝日新聞の責任を追及すべきだ、と述べている[5]。
[編集] 著書
[編集] 脚注
- ^ 黒田勝弘 (2011年5月9日). “「日本から補償金」3万人だます 韓国の団体幹部ら摘発”. 産経新聞 2011年6月30日閲覧。
- ^ 朝日新聞大阪版27面 1991年8月11日, 植村隆
- ^ WiLL, 2007年8月号増刊
- ^ 2012年08月08日アゴラ
- ^ 2012年08月08日アゴラ「慰安婦について調査委員会を設置せよ」