幸いな人たち(その1)
マタイ福音書5章1〜12節/ルカ福音書6章20節〜26節
【聖句】
語録集
1さて、イエスは彼の目を上げ、その弟子たちを見て言われた。
2貧しい人々は幸いである、神/天の国はあなたがたのものだからである。
3飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされるからである。
4悲しんでいる人々は幸いである、あなたがたは慰められるからである。
5あなたがたは幸いである、人の子のために、ののしられ、迫害され、
あなたがたにあらゆる悪口を浴びせられるときには。
6喜びなさい。歓喜しなさい。天にはあなたがたに大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じであったからである。
ルカ6章
20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。
21今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、
汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。
この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。
この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。
マタイ 5章
1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。」
11私のためにののしられ、迫害され、
身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。
12喜びなさい。大いに喜びなさい。
天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
皆さんもご承知の通り、私たちコイノニア会では、聖霊のお働きを信じて、その賜(たまもの)への信仰を抱いています。異言や預言や病気の癒しのような霊的な現象に対しても開かれた立場をとっています。同時に、私たちの信仰は、十字架による罪の赦し・復活してキリストとなったイエス様の聖霊の降臨と宿り、これら三つの一貫した信仰に基づいています。いわゆる「御霊の賜(たまもの)」は、人それぞれに多様ですが、この三相を一貫する基本に関する限り共通しています。このような信仰は、パウロに負うところが大きいのです。十字架と復活が御霊の働きと結びついてくるのは、言うまでもなく、使徒言行録やパウロの手紙などにおいてです。ルカの証しするとおり、キリストの教会は、エルサレムでの聖霊降臨から始まりました。
ところが、イエス様の十字架以後では、そういう聖霊のお働きだけが、イエス様を信じる人たちに伝えられたわけではありません。生前のイエス様のお言葉とその教え、つまりイエス様のライフスタイルですね、これをその通りに実行しようとした人たちもいたからです。この人たちは、イエス様の語録集、現在「Q資料/Q文書」(Qはドイツ語から)と呼ばれている文書を編集して、自分たちの生き方への手引きにしました。彼らは月に一度くらい自分たちの家に集まって、イエス様の教えを学び、祈り、ともに食事をし、語り合って交わりを保ち続けました。もちろん癒しやその他の霊的な賜への信仰もなかったわけではありませんが、どちらかと言えばイエス様のお言葉に従って生活することを重視したのです。
この二つのやや違った信仰のあり方は、現在の日本でも見られます。イエス様を神の子として信じてはいますが、聖霊の働きにはあまり近づかない。それでいてイエス様の生き方あるいはイエス様の教えに深く共鳴している人たちがいます。かつて私のゼミナールにいたひとりの学生は、自分はイエス様を神の子だと信じることはしないけれども、イエス様の生き方からその愛を学ぶことは、とても大切だと言って、「歴史的なイエス」についての論文を書きました。日本のキリスト教の中でも、このようにいくらか違ったふたつの信仰のあり方が現在も見られます。こういう学び方は、聖霊の賜やパウロの説く十字架の罪の赦しへの信仰と必ずしも矛盾しません。語録集の人たちもパウロたちの信仰と必ずしも対立したわけではありません。
なぜこういうことを今日お話しするかと言いますと、今日からは、イエス様の「教え」について学びたいと思うからです。今まで、イエス様の病気の癒しやイエス様と安息日、すなわちイエス様とユダヤ教の指導者との対立について見てきました。しかし今日からはイエス様の教えについて語りたいと思うのです。これから読むイエス様の教えは、今お話ししたイエス様の語録集(Q資料)に基づく部分が多いのです。
■ルカの平地の教え
ルカを読むときに注意しなければならないのは、ルカにとって、イエス様がこの地上におられたときは特別な時であったことです。現在私たちもルカと同じく、イエス様が十字架にかかり復活されて、御霊が降る時代に生きています。ルカから見るならば、イエス様がこの地上におられた時は、メシアの時代が「現実に」地上に到来した特別な啓示の時だったのです。すなわち、ある意味では「終末が今地上に来ている」状況だということです。それは、イエス様がカファルナウムの会堂で、イザヤ書の61章を引用して「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために」と言われてから、「この聖書のお言葉は、今日あなたがたが聞いたときに実現した」(4章21節)と言われたことからもわかります。歴史のある一点で、突然に終末の光がこの地上に差し込んで来ると、私たちが普段生活している人間社会の実際の真相が、その光に映し出されて、その実態が根底から暴露されたのです。そこに見えたものは、普段私たちが考えている世界やその価値観とは全く逆さまの世界、価値観が逆転した世界でした! それはちょうどあの出エジプトの時に、豊かな古代エジプトの世界がモーセによる神の裁きに照らされると、美しいナイル河の水が突然人間の血の色に変わったのに似ています。あの豊かな古代エジプト文明も、一皮めくればそこは人間の「血の池地獄」の上に成り立っていたんでしょうね。イエス様からこの驚くべき啓示を受けたのが「十二使徒」でした(6章13節)。ルカは「その時」使徒たちに与えられた啓示をそのまま書きとどめて、私たちに伝えようとしているのです。
ルカは、前半の「幸いな人」とその逆の「不幸な人」、すなわち、人に「災いを招く」状態とをはっきり対照させます。この明暗二つの人間の姿は、金持ちと乞食のラザロの譬えによって見事に描き出されています(16章)。おそらくルカの「幸い」と「災い」の対比には、旧約聖書の申命記(8章)に、主の律法と戒めを守る者は神に祝され、これを守らない者は神に呪われるとあるのが反映しているのでしょう。けれども、ここでの神からの祝福は、旧約の「戒め」や「律法」を守ることによって来るのではありません。新約のイエス・キリストにある十字架の赦しと恵みによってもたらされるのです。この幸いと不幸との鋭い対比ですね、これは、「世間の知恵」から出たものではありません。パウロが語ったように、「神の知恵」(第一コリント1章21節)から来るのです。同じ日常生活を送っていても、十字架の罪の赦しとその恵みを体験している人の知恵は、イエス様の御霊からくる知恵です(コリント人への第一1章24節)。
ルカは、イエス様のおられた時を啓示の時と見ていると言いましたが、それは、ルカのほうが、マタイより一層終末的な色彩を帯びていることを意味します。「今、飢えている人」「今、泣いている人」とルカが「今」を付け加えているのもこのことを表しています。一方では、飢えている人、泣いている人、貧しい人たちがいます。もう一方では、そういう貧しさや飢えや泣き叫んでいる人たちを虐げや搾取によって「作り出して」いる者たちがいます。預言者アモスは、民を虐げる北イスラエル王国の貴族や富裕階級の人たちを激しく糾弾しました(アモス5章18節)。イザヤも同じように、当時の南ユダ王国の富んで飽き足りている人たちを攻撃しています(イザヤ5章8〜24節)。またエレミヤは、当時の南ユダ王国において、誤った預言をして、為政者と民を惑わす偽預言者たちを激しく非難しています(エレミヤ14章14〜16節)。イエス様は人をののしることはめったにありませんが、このイエス様でさえ、貧しい者を売る人たち、悲しむ人たちを虐げる者たち、飢えて貧しい人たちの犠牲の上に自分たちの幸せを築こうとする人たちに対して、激しい怒りと呪いを投げつけられたのです。ルカはこのように、虐げられた者と虐げる者とをはっきり対照させて、神の国は貧しい者を立たせると同時に、飽き足りておごり高ぶる者たちを厳しく糾弾すると告げるのです。
イエス様は、貧しくて泣いている人たち、飢えている群衆に向かって直接にお語りになりました。イエス様が「幸いだ」と言われる人たちは、現実に今「幸いな」状態にある人たちではありませんね。むしろ逆の状況に置かれている人たちです。しかし、それは決して気休めの言葉ではない。またそのうちにいつか未来にいいことがあるだろうとか、あの世では幸いになれるという意味でもありません。ではどうしてイエス様はそういう人たちに向かって「幸いだ」、しかも今のこの時において幸いだと言われたのでしょう? それは、「イエス様が共におられる」からです。苦しい状態の中にあってもそこに「イエス様がおられる」、これが救いの根源ですよ。イエス様が人々と共に臨在しておられるところ、そこにははっきりと神の国が臨在しているのです。その時、「今ここで」神の国が始まっている。こうルカは伝えているのです。
■マタイの山上の教え
マタイが山上の教えを解釈したその姿勢は、「マタイの現在」に通じています。この意味でわたしたちも、この教えを「わたしたちの現在」に即して読むことが許されるのです。マタイにとって、イエス様の教えは、ルカが描いたような時、イエス様がこの世におられた「終末的な啓示の時」ではありません。ルカは終末に顕れる人間の「状態」を映しています。マタイは、わたしたちが、「天の王国の定め」を実生活に活かして「守り行なう」よう勧めるのです。それは、「命令」と言うよりも、イエス様の十字架の恵みと復活の御霊にあって生きるわたしたちの内に働く「イエス様の霊法」なのです。イエス様の御霊の促しなのです。無心無力にされて、イエス様の御霊の己をお委ねする時に、わたしたちの内に働く御霊の霊法です。これがわたしたちをして絶えず「祈り求めさせる」力です。このみ力によって、わたしたちは、イエス様が地上におられた時に示されたあの啓示の時が、再び訪れる終末を目指して、「今の時」を歩むことができるのです。
ここで語られる教えは、人類が到達することを許された最も深く最も高い「知恵」から発しています。21世紀の現代で、わたしたちが人間として守るべき人類普遍の「霊的憲法」が、今わたしたちに委ねられています。神からの使命を帯びた「主の弟子」として、わたしたちは、「神の国」の新しい「法」を人々に語るべく遣わされています。マタイによれば、これが、弟子の選びに先立って、イエス様がまず教えをお語りになった理由です。では次に、マタイの聖句の順に従って、ルカも併せながら、「幸いな人たち」を見ることにします。
■貧しい人の幸い
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」ここでの「幸い」は神から与えられる「祝福された」の意味です。詩篇(1)も「幸いだ」で始まりますが、この詩篇で「祝福される」のは、悪を行なわない人で、樹木のようにじっと立っていて動かない人のことです。だから必ずしも行動的で有能な人のことではありません。なおマタイでは「天の国」とあり、ルカでは「神の国」ですが、同じことを指しています。
「貧しい」は、字義通りに「貧乏」の意味です。しかしヘブライでは、富裕層や権力者に圧迫された人たちを指す場合が多いのです(詩編9章13節)。ここの「貧しい」も経済的に貧しいだけでなく「虐げられた者」、「へりくだった者」、「悔い崩れた者」の意味にもなります。ヘブライ語の「貧しい者」はさらに転じて、神により頼まざるをえない人たち、すなわち敬虔で信仰深い人たちを意味するようになりました。マタイはこの点を意識して、「心の」が「貧しい」に加えられています。これの原語は「霊において」です。「霊において貧しい」という表現は、清貧を尊ぶ信仰深い人たちを意味します。「霊」を聖霊と解して、「聖霊によって内面的に貧しくされた者」と解釈する説もありますが、むしろ「その人の霊性において(神の前に)内面的にへりくだる者」という意味です。でも人間が自分の力で、「霊において」貧しくなることなどとうていできることではありません。十字架のイエス様のみ前に立たされて、主様の愛の御霊に照らされて、自らの内にある誇りや高ぶりや欲望が、ひとつひとつ風に吹き流される雲のように、取り除かれていく。そういう境地のことでしょう。
ただし、マタイは「貧しい」が本来帯びている社会的意義を変質させているのではありません。「霊において貧しい」とは、神の前に無力なものとされることです。ルカもまた「貧しい人々」と対照させている「富んでいる人々」は、すでに「慰めを受けている」とあります。ここを「(神からの)慰めを放棄している人」とも読むことができるのは、示唆深いと思います。豊かさに飽き足りて神からの霊的な慰めなど目に入らない状態を指しているからです。言うまでもなく、貧しいからといって、必ずしも恵まれ祝福されているわけではありません。貧しく、飢えて、泣いている人々なら、現在北朝鮮に何十万、いや何百万といます。こういう人たちは「幸い」だと誰も思いません。逆に言えば、貧しくないから、神様から見放されているという意味でもありません。ザアカイは富んだ悪徳の人でしたが、イエス様は他の人の家には泊まらないで、いきなり彼の家に泊まるよと言われました。それでザアカイは今までの罪を悔い改めましたね。このように、神様の御前にへりくだって自分の罪を悔い改める人も「心の貧しい人」になります。
かつて日本がバブル景気に沸く前には、人々は貧しかった。けれどもあの頃は、何となく希望があり、人々は意欲を持って仕事をしていました。ところが今はバルブがはじけてしまった。物が豊かになり何でもそろうのになんとなく人々に元気がなく、若い人に希望が持てないような状況になっています。これはどういうわけでしょうね。貧しいことが、それだけで不幸とは限らない。豊かなことが、それだけで幸福とも限らない。貧しさは辛いです。でもその貧しさの中に希望があった。さあこれからやっていくんだという気概があった。だから貧しくても幸せだったのです。やる気があったからです。金持ちが恐れること、それは富を失うことです。権力者が恐れること、それは権力を奪われることです。野心家が恐れること、それは競争相手に負けることです。富や権勢や名誉への欲望に駆られて人は動き回ります。けれどもイエス様の御霊に導かれると、そういう野望や欲望の真相が見えてくる。するとだんだんそれらが意味を失うのです。今まで大事に思っていたものが、かえって邪魔になってくる。それで、思い切って捨ててしまおうという気持ちになるのです。すると気持ちが楽になって、身も心も軽くなるから不思議です。
自分から進んで「貧しく」なる人もいますが、多くの場合はそうではなく、何かの弾みで、貧しく「させられて」しまう。ところが、今までは恐れていたことが、いざそのことが起こると、案外平気で、不思議に平静でいられる。こういうことがよくあります。特に、イエス様と共にある時にはそうです。世間の人から「不幸だ」と思われていることが、いざそれが現実になると、御霊にあって逆に「幸い」に転じる。こういう「不幸」という姿に「変装した幸い」「偽装した祝福」があるのです。それは、外から見ると「幸い」や「幸福」という姿に「変装した不幸」があるのとちょうど同じです。人生とは、わたしたちが考えるよりもずっとずっと底が深いです。貧しくて権力者に搾取される時、心はうなだれ気は沈みます。しかし、イエス様にある「幸い」とは、まさにそういう時に訪れます。これは「富んでいる人」には分からない。御霊にある喜びが人の心に宿るのは、まさにそういう時です。そこから力が湧く。命が湧く。死んでも死なない御霊の命とはそういうものです。もう終末的、根元的に、問題は解決している。後はそれが現実するのを祈りつつ待ち望み、待ち望みつつ歩むのです。これが主様にある御霊の問題解決の方法です。
■悲しむ人の幸い
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」「悲しむ人々」とは、ルカでは「泣き叫ぶ」人たちのことです。おそらくこのほうが原義に近いです。そこには社会的・政治的・軍事的な状況が引き起こす悲しみだけでなく、個人の悼みまで、あらゆる悲しみが含まれています。ここにもイザヤ書(61章2〜3節)が響いています。おそらくイエス様にとって、最も大きな悲しみの一つは、滅亡を控えてなおこれを悟らないエルサレムへの「罪に対する悲しみ」であったろうと思います(ルカ13章33〜34節)。ここでは、「悲しみ」の根本に、「神に対する罪」があります。それは個人の罪だけでなく、この世の中の罪とこれを悔い改めない人間の傲慢と無知から来るものです。この意味で、マタイとルカとはほとんど変わりません。これに対して「慰める」とあるのは聖霊の働きを意味する原語「パラカレオー」と同じで、ルカでは「笑う」という具体的な姿で語られています。聖霊に満たされると実際に笑い出す人たちがいるそうです。悲しみと不幸の中での「笑い」には、絶望の「笑い」があり、復讐への「笑い」もあります。しかしここでの「笑い」はそうではありません。御霊の慰めと平安の内に自然とほほえむのです。イエス様は、「神を最も必要とする時」に、その人と共にいてくださるお方です。ルカは、このような「泣き悲しむ人々」に対して「今笑う人々」を対照させます。ルカは貧しい人たちの犠牲の上にあぐらをかいて悦に入っている人たちを指して「災いだ」と断じているのです。
世界には飢えていて、ただ国連の食糧援助だけに頼っている大勢の人たちがいます。そういう状態の人を指して「幸いだ」とは言えません。日々の生活をやる気をなくして国連からの援助だけを当てにしている状態では、貧しいことも飢えていることも「幸い」につながりません。自分たちの力でその厳しい状態を克服しようとする。頭を働かせ体を動かすことで、貧しさを克服しようという意欲を持つ。そういう動機が与えられると、その人々はやる気を起こします。それこそ生きがいというものです。これが幸せにつながります。自分の力で「創り出す」勇気と力です。お情けや同情ではだめです。やる気を起こさせる力、これが本当の人助けのサポートですね。貧しいこと、飢えていること、悲しいことは、それだけでいいことではありません。これは不幸なことです。ではその不幸な人たちがなぜ幸いになるのか? 神の国が来るからです。神の国が来るとなぜ幸いになるのでしょう? 御霊が働くからです。神の御霊が働くと何が起こるのでしょうか? その人たちに「創り出す力」が与えられるからです。問題を解決しようとする、そういう力が与えられるからです。その力は、創造の力です。神の国は力です。しかしこの力は創造的な力ですから暴力ではありません。人はたとえ貧しくても、飢えていても、自分の力で問題を解決しようとクリエイトしていく。そういう御霊の力が与えられることで、その人にとって「幸い」が始まるのです。生きるとはそういうことですね。逆にこれを失うことが「不幸」です。またこれを妨げようとする人たちが「災い」なのです。
■柔和な人の幸い
「柔和な人たちは幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」「柔和な」というのは、ヘブライ語では、「頭を押さえられる」「虐げられる」「へりくだり謙虚になる」を意味します。ここから、「虐げられて貧しい」と「柔和で謙虚な」の両方の意味が出てきます。したがって、「柔和」は「貧しい」とつながり、権力を持たない人たち、あるいは権力によって虐げられる人たちをも意味します。創世記(26章15〜25節)にイサクの話が出ています。昔父アブラハムが掘った井戸をペリシテ人が潰してしまった。イサクがその井戸を掘り返して水が出ると、ペリシテ人はそれは自分たちの井戸だと争いを仕掛けた。そこでイサクはまた別に井戸を掘った。するとまたペリシテ人が来て、井戸のことで敵意を示した。そこでイサクは、「争いの井戸」と「敵意の井戸」を捨てて、もう一つ自分で、「広い自由の井戸」を掘った。すると主の祝福が彼に臨んだとあります。「柔和」とはこういうことです。ただ屈辱に甘んじることではないのです。イサクは弱い人ではない。強い人、ほんとうの意味で「神にあって勝ち残る」人です。争い敵意を示した人は消え失せてしまった。しかしイサクのしたことと彼の名は、今でも伝えられています。「柔和な人」は、「おごり高ぶる者」と対照されます(イザヤ14章3〜7節)。「高ぶる者」は長続きせず、神によって「断ち滅ぼされ」ます(ルカ1章51〜53節)。しかし「謙虚な」人たちは、「地を受け継ぐ」のです。「受け継ぐ」とは、本来イスラエル民族が神から約束された土地を与えられることですが、ここでは霊的な意味で、神からの契約によって神の国を受け継ぐことです。それはまた個人が永遠の命を「受け継ぐ」ことにもなります(マルコ10章17節)。しかしここの「受け継ぐ」には、「謙虚でへりくだった人たち」が、この地上で神の支配する王国が与えられるという意味です。これこそイエス様の父の神からでたことです。弱い者、柔和な者が、最後には地上でも勝利するというのは不思議です。
■義を求める人の幸い
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」ルカは「貧しく」「飢えて」「泣いている」人たちが、慰められ涙をぬぐわれ、食べて満足して飽き足りて笑う時が来ると率直に伝えています。そこに命令的な響きはありません。これに対してマタイのほうでは、「義」は神によって契約の民に命じられた行為を指し、特に為政者たちによる民への公正と正義を意味します。これがホセアやアモスなど預言者たちの言う意味です(アモス5章24節)。したがって、「義を求める」のは、圧政や暴力で苦しむ人たちからの神への切実な叫びなのです。いわゆる「正義感の強い人」という積極的な意味ではありません(これは11節に表れます)。この意味では、マタイの用法は旧約の伝統に近く、それは神の正義が成就されることを要求する終末的預言と重なります(ペトロ第二3章13節)。
現在、世界では、飢えに苦しむ子供たちを含めて何百万もの人たちが、飢えと悲しみから正義を渇望しています。しかもこのような悲惨な状況が、ほかならぬ社会正義を掲げ革命を唱えて武力闘争を繰り広げる「革命指導者」たちによっても作り出されているのです。為政者も革命家も、自分の権力を拡大するためには同胞を犠牲にして省みないのです。マルクス的な正義観が崩壊し、資本の「暴力」が猛威をふるっている現代において、「義への飢え渇き」が「満たされる」ことを求める声が今ほど切実な時はありません。終末の到来を待ち望む本当の意味がここにも示されているのです(ルカ22章30節)。その意味でこの節は今の世界に大切な警告を発していると言えましょう。
パウロは、イエス様の十字架の恵みに与ることによって、自分の義を立てず主のみ恵みに生きることこそ「神からの義」であると教えました。だからこのような「義」は、人が実行し行動して、その結果与えられる神様からのご褒美としての「正しさ」のことではなく、自分がどこまでも「罪人」として留まり続けるところに注がれる憐れみであり恵みなのです。パウロは、人間の行為による「正しさ」を「律法の諸行」と呼んで、「キリストの信仰」と対立させています。この意味からすれば、「義に飢え渇く」とは、イエス様の十字架の憐れみと恵みを切に求めることです。しかしパウロは、キリストの信仰/真実の結果として、愛と平安の御霊の実を結ぶように勧めるのです。これがパウロにある「キリストの霊法」です。この霊法に生きる人は、期せずして、マタイの言う「神の義」を人々の間に広げていく器として用いられるでしょう。ちょうどあの奴隷解放令を制定したアメリカの大統領エイブラハム・リンカーンのようにです。