出会った人々 
一ノ瀬 綾
鄭承博著作集第一巻『裸の捕虜』
李 順 子
鄭承博著作集第二巻『松葉売り』
新屋英子
鄭承博著作集第三巻『ある日の海峡』
島津威雄
鄭承博著作集第四巻『私の出会った人々』
佐野通夫
鄭承博著作集第五巻『奪われた言葉』

 

  ●鄭承博を語る    陽だまりのたんぽぽ    李順子

 

 一九八二年の秋。

 淡路勤労セソターは熱気につつまれ、立錐の余地もないほど人があふれ、「李順子望郷を歌う」公演は大盛況に終わりました。

 「淡路ではまだまだ無理」という声を押し切っての開催。周囲の消極的な意見や、初めての手づくりの公演への不安など、実行委員の方達の公演実現のための奔走はただごとではたかったと聞きました。

 鄭承博さんに初めてお会いしたのは、淡路公演の半年前の春、京都楽友会館で行なわれた私の京都公演の成功を祝う集いででした。人、人で、ごったがえす会場で、今は亡き、高麗美術館創立者の鄭詔文先生から、鄭承博さんはじめ、淡路朝鮮文化研究会の方達を紹介されました。

「いい音楽会でした。今度はぜひ淡路で歌って下さい」

 白髪にベレー帽、にこにこと柔和で温かたまなざし、やさしく親しげな物腰に、初対面のはずが妙になつかしい気分になり、どぎまぎしたがらも、「ありがとうございます」と言ったように記憶しています。

 公演を承諾したものの、歌を主とする生活ではない私が、商いのかたわら、そして家事の合い間、歌の練習や、公演準備のための渡島は大変なものがありましたが、淡路島を訪れる度、鄭さんが満面に笑みを浮かべ、小柄な身体いっぱいに、「よく来てくださった。みんた、首を長くして待ってましたよ」の歓迎に、疲れがとび、不安が消えました。

 実行委員の方達との打ち合わせが夜半になり、話し合いが白熱化する中で、鄭さんはいつも上機嫌でした。支援者、協力者への呼びかけ、広告の依頼、宣伝方法、切符のさばき方、舞台演出、司会は誰にと、山積みの難題に、歌う私もいつしかハラハラドキドキ。

 鄭さんの時折とばすゲキは強力な援護射撃でした。淡路島でどっぷり生活してきた長い年月、濃密な人との出会いがあったのでしょうか。日本人の中の鄭さんはひょうひょうと泰然、陣頭指揮をとりながら、お祭り騒ぎに興じるご隠居さんの風情、たのもしい存在でした。戦前戦後、あの理不尽な時代の苦闘の痕跡がみえません。

 淡路島での公演は大成功でした。

 超満員の興奮の熱気に、誰もが奇跡と思いました。「よかった、よかった」。とびあがらんばかりのよろこびは、二次会三次会へと続き、公演準備についやした半年間の苦労が、その分、大きな自信につながったと聞きました。

 それからほどなく、鄭さん宅で淡路島の公演の関係者との会食をもうけました。私の手料理ということで、大阪から韓国料理の材料を持ちこんでの仕度。調理を前に、お手伝いが鄭さんと聞き、びっくり。隠居所に見えた鄭さん宅には調理の道具がズラリ。洗う、切る、煮る、いためる、焼くを、役割分担でみるみる仕上げる。器用であざやかな手つきに目をみはりました。

 メニューは少し豪勢にと宮廷料理の九節板、ナムルの盛り合わせにイカフェ、チヂムに、ゆで豚には白菜のキムチを添えて、三枚おろしのあじはムニエルに、料理を前に喜々と舌づつみ。今にしておもえば鄭承博さんとの楽しい思い出です。人生の辛酸をなめつくした鄭さんの深い人間性の柔軟さに心を熱くしました。

 淡路島の人々に囲まれ、豊かな風土になじみ、酒に酔い、文学に興じ、時には声を荒げ、少しばかり我がままに、天衣無縫なふるまいは、悲しみと怒りを押し殺してきた不断の闘志につちかわれてきたしなやかな感性なのでしょうか。鄭さんの作品を読み、その実感を強くしました。

 「富田川」「山と川」「裸の捕虜」の主人公は鄭さん自身、テーヤン、張一、承徳。わずか十歳の幼い少年の異郷への渡日。不安と淋しさに押しつぶされそうになりながらも、夢と希望、過酷な生活情況の中の創意の発想等、飢えとたたかい、逃亡におびえ、小説でありながらあまりにも切実でリアルな実感体験。なのに何故か明るい。卑屈さも、屈折した感情も見えない。前向きに進む不屈の闘志と、やさしさと思いやりがきわ立つ。貧しくつらい情況の日常生活すらが創意と工夫でいきいきと輝く。

 鄭さんに何度かお会いし、その作品にふれ、鄭さんの人柄、風貌の奥に秘められた、人生の軌跡のうめきが聞こえたようにおもえました。

 在日を生きた歳月の長さは、この地がふるさとと定めざるをえない覚悟に動揺があります。饒舌な日本語に、この地の風土へのいつくしみの我が心に、父祖のかの地への憧憬が増幅します。

 鄭承博さんが数十年ぶりに故郷の安東に行かれた折、ふるさとの風景に、幼き頃の友との再会に、ぼうだの涙を禁じえたかったとききました。何故かほっとしました。

 祖国・ふるさとへの切ない郷愁が、淡路島の自然と風土を愛し、人々の中で共生することでいやされているように思えます。

 風流風雅にひょうひょうと身を置くかのような鄭承博さんが、現代社会の飽食を憂い、現代文明の不気味さを警告しているとききます。大気中を放射状に電波がひしめき合い、肌につきささる感触が、願わくば一輪のたんぽぽの綿ぼうしとなり、空を浮遊することを祈ります。鄭承博さんの人柄とその風貌が、春を告げる陽だまりのたんぽぽと重なるのです。

    (イ・スンヂャ 声楽家)

1939年 大阪で生まれる  独学で声楽を学ぶ。
1981年 大阪で“望郷を歌う”初リサイタル
以降 神戸、京都、名古屋、沖縄、福島などで“民族の心”“望郷の想い”を歌にたくして公演。

 特に、若い人々へのメッセージとして、祖国統一への民族の悲願や、この日本で共生の道のりに、希望や夢を託して歌い続けたいと思っている。

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  ●鄭承博を語る    鄭承博さんとの出会い    佐野通夫


 朝鮮の民衆にとって近代学校は、近代学校としての国家支配と、植民地の異文化支配を示すものとして、二重に外的なものとして登場した。しかし、日本の支配の浸透の中で、ただ民衆と無縁のものとしてだけは存在していない。

 民衆が学校を「受容」するとは、どのようなことを意味するであろうか。

 鄭承博の「奪われたことば」(第二巻『松葉売り』所収)は、一九二三年生まれの作家の自伝的小説である。普通学校三年になった主人公が(であるから一九三〇年代半ば)、学校の中で朝鮮語を使ったことをきっかけに退学となり、日本人の牧場で働き、そして日本に渡っていく物語である。学校に通う主人公にとっては「日本語と朝鮮語を自在にあやつって、偉そうな官吏やむずかしい世間を、冷やかに見下ろす。この素晴らしさ」と日本語使用による実利的側面が意識されている。しかしこの「利便性」を通じて主人公は父母や祖父の持つ朝鮮人としての意識、民族性から離れて行ってしまう。例えば「色服着用」について、主人公は白い朝鮮服を着ようとする人々の思いが理解できない。「白地の朝鮮服を止めて、命令通りに、日本服と同じ色(力ーキ色)に染めればよいのである。真っ白が自慢で、洗たくに明け暮れする女たちが、むしろ滑稽でならなかった」と否定する評価しかできない。

 これに対して母は言う。
「ゆくゆくお前も流れ者になるのさ。学校を中退して家に居着いた者はいないよ。川下にある酒屋の一人息子は、ちゃんと卒業したのに、それでも家出をして、いまだに行方がわからないんだもの。だから学校なんか反対だったんだよ」

 祖父も言う。
「そうだ。漢文こそが本当の学問だ。寺子屋をやめたのが間違いだ。田を耕し薪を取るのが人間の営みである。明日からでも、野良へ出て働きながら、寺子屋へ戻りなさい。それが幸せというものだ」

 日本国内の学校も、学校の基本的構造は故郷を捨てる教育である。学校は地方の人材の中央への吸い上げ機構として働く。明治以来の「立身出世」の構造である。植民地において、それは民族を捨てる教育として働く。学校へ行ったことで、少年と父母、祖父との間には文化面の断絶が生じている(佐野『近代日本の教育と朝鮮』社会評論社刊、序論)。

 私の鄭承博さんとの出会いは、『季刊人間雑誌』第二号(一九八○年)に掲載された「奪われたことば」でした。植民地朝鮮における日本の植民地教育を通して、近代日本公教育の持つ意味を考えていた私にとって、この作品は、植民地教育の中で、すなわち少年が日本の学校に通い、日本語の教育を受ける中で、父母や祖父母に代表される民族の価値から離れ、日本を「価値」とする意識を持つようになる過程を克明に描いた衝撃的な作品でした。少年は故郷を捨て、日本にやって来ます。

 その後、一九八七年の『季刊三千里』終刊記念パーティーで人間・鄭承博さんに出会いました。作品に表わされた人柄そのままの作者でした。『裸の捕虜』を送ってくださり、故郷を捨てた少年が、日本でどう扱われたか、どう生きたかが私の前に展開しました。植民地における植民地人のあり様から植民地本国における植民地人の生き様にまで、私の中の鄭承博の世界が広がりました。

 植民地統治は民衆の生活の次元での支配でした。例えば、民衆のささやかな楽しみであったタバコを庭先に植える事で専売法違反とされ、同じく酒を造った事で酒税法違反とされ、そしてそれらの罰金を払うために借金をして農地が差し押さえられていくことが、日本人地主の大土地所有につながりました。政治的、経済的支配も、具体的な民衆の生活の支配を、そしてその心性の支配を通じてなされたという事ができるでしょう。そしてその過程を、植民地人とされた者の悔しさと抵抗の気概を、静かに優しさと力強さを持って描き、また語っているのが鄭承博さんの小説、またその語りの世界だといえます。鄭承博さんの小説が日本語で書かれている事は、正に植民地支配の徴の一つであるという悲しさを負う事実である一方で、日本人も共有させてもらえるこの宝を、現代日本に生きる者としてどう読み解いていくかが、鄭承博さんの世界に出会う日本人・朝鮮人がともに担うべき課題であるといえるでしょう。

    (さの・みちお 四国学院大学教員)

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    今も生き続けている出会い    島津威雄

   「出会い」から箸作集刊行まで

 鄭承博という人物にはじめて出会ったのは、大阪で辛基秀(シンギズ)さんが主催された「日本の朝鮮植民地支配戦前・戦後・三十六年――アリラソの夕べ」の時であった。二、三人の人が証言や話をしたように思うが、細かいことは全部忘れてしまって、一つだけ、くっきりと印象に残っているのが鄭さんのお話である。

「私が生まれたのは三・一運動の少し後のこと、一九二三年で、朝鮮の太白山脈の山の中の寒村、田舎も田舎、日本でいえばちょうど平家の落人部落のような、近代文明とはまったく隔絶した小さな村で、貧しいけれども必要なものは何でも自分で手に入れる、自給自足の平和な生活を営んでいた部落でした。その山村が、ある日、朝鮮人の案内人に連れられて山にキジを撃ちにきた日本人に見つけられてしまったことが、そういう平和な暮らしがメチャメチャに破壊されてしまうことになるきっかけでした……」というような、何かお伽話を聞くような、やわらかくなつかしい語り口でありながら、一つ一つの具体的な体験を通して話される、侵略植民者日本人の登場によって当時の朝鮮の農村にもたらされたあらゆる伝統的な生活習慣、文化の徹底的な破壊のようすが、実にリアルに迫ってきた。「これはぜひ一度、三重に来てもらわんといかん」と思った私は、厚かましくも、集会が終わって鶴橋の焼肉屋で開かれた打ち上げにまでくっついて行ったのだった。

 三重ではその少し前、一九七九年に三重大教育学部の二人の韓国籍の学生が教員採用試験を受験するというできごとがあり、「在日朝鮮人の教職員採用を進める三重の会」が生まれ、手さぐりの市民運動の後押しで、一九八○年李慶順(イギョンスン)、八一年韓哲吉(ハンチョルギル)の二人の小学校教員が誕生していた。その「進める会」の主催で、八二年九月に四日市に鄭さんを招いて、鄭さんの講演と新屋英子さんの「身世打鈴(シンセタリョン)」の一人芝居のジョイントの催しを行なった。それが縁になって翌八三年の一月に、鄭さんたちがやっている「淡路朝鮮文化研究会」が洲本で「身世打鈴」の公演をするというので、三重大の四人の朝鮮人学生を誘って淡路島まで見に行ったのが、鄭さんと私や学生のつき合いの最初であった。四日市では五、六〇人の集まりだったが、洲本では軽く二〇〇人は越えていそうな超満員で、暖房のない公民館が汗ばむほどの熱気にびっくりし、また元気も出た。はじめて鄭さんのお宅に泊めてもらって、次の日、新屋さんといっしょにみんなで、寒風の中を水仙郷を訪ねたこともなつかしい。

 私はその時、鄭さんがかつて芥川賞候補だったことも知らなかったのだが、当時すでに絶版になっていた幻の名作『裸の捕虜』(一九七三年、文芸春秋社刊)の貴重な一冊をもらって感激した。読みはじめて、講演とはまったくちがう、青年承徳(スンドギ)の息づまるような絶体絶命の体験の迫力に引きこまれてしまった。一人だけ読むのがもったいなくて、両面コピーで簡易製本にして、複製を四、五部作って三重大生や知人に読んでもらったが、読んだ人は皆感銘をうけていた。

 それ以来、いつの間にか時々洲本に遊びに行くようになって、『文芸淡路』に掲載された「豚小舎の番人」や連載の「松葉売り」を読むことができた。「豚小舎の番人」には、日本の敗戦後の淡路島の朝鮮人が、生きる道であるドブロクの密造所を警察と税務署に急襲されて、カメをぶちまけて抵抗する場面があるが、在日朝鮮人連盟時代の生活を守る闘いの様子が生き生きと描かれていて、鄭さんの姿が目に浮かぶようで面白かった。「裸の捕虜」やこういうドラマチックな話とは対照的に、安東の街に松葉売りに通った子ども時代の、日本人に仕切られる朝鮮の様子を淡々と描いている「松葉売り」は、正直のところ、最初、単調で退屈に感じられた。私自身の問題意識が薄かったからかも知れない。後になって、少しずつ私の中に、自分自身の生きてきた歴史に重ねて具体的に在日朝鮮人の歴史を知らなければならないという欲求が生まれてくるのと併行して、この一見地味な小説が貴重な意味深い作品であることがわかってきたのである。

 ものぐさな私は、鄭さんが『季刊三千里』やあちこちに書かれるものを自分で積極的に集める努力をしたわけではない。淡路島に行ったり電話をするたびに、いちど鄭さんの作品をまとめて読みたい、といつもお願いしてきたのだが、むとんちゃくな鄭さんは「さあ、探せば物置きかどこかに放りこんであるはずですけど」というだけで、いっこうに探してくれない。以前、神戸新聞の支局にいた清水兼男さんが、新聞や雑誌に鄭さんが書いたものを集めているらしいとやっと教えてくれただけだった。何回か手紙や電話でお願いしていたが、忘れた頃になって九一年の十二月にその清水さんから、月刊『ミセスあわじ』に連載中の「私の出会った人々」の初回から七、八年分、全部のコピーがドサッと届いた。

 パラパラひろい読みしてみると、淡路島にわたってからのことを中心に、鄭さんが戦中・戦後の日本社会を生きぬいていく苦闘の中での人との出会いが、短い文章の中に鮮明な記憶で記されていて、なかなか味のある読みものだと思った。今、中断しているが、私たちも月一回三人で、三重在日朝鮮人史研究会と称して、日本の敗戦までの地元新聞の朝鮮人関係の記事のひろい出しを細々とやっていたので、貴重な証言、淡路島の在日朝鮮人史の資料だとも感じた。しかし、整理されない、かさのたかい新聞コピーの山は読みにくく、もてあまして、正月にでも読もうと放っていた。ちょうどそんな時に、近々年明けの九二年二月に洲本で鄭さんの「作家活動二十年をたたえる会」が計画されていることを聞いたのである。ふと、あの「私の出会った人々」のコピーを切り抜き、編集して自分用に読みやすい冊子に整理できないだろうか、という気持ちがおきた。暮れ、正月休みにあれこれやってみて、切り張りで一編一ぺージにうまく収まり、一〇〇編近くを整理する少し気が遠くなりそうな手間さえ覚悟すれば、一冊にまとめることは出来そうだという見通しがついた。そこまでくると今度は、出版界から目を向けられないまま、断念せず書き続けて来た鄭さんの「二十年をたたえる会」がもたれるというまたとない機会なのだから、自分もこの際、思い切ってがんばってみようかという気になってきた。だれも読みたくてもまとまった本の形で手にすることができない鄭さんの作品の一つを、粗末な冊子ではあっても印刷物にして、当日集まる人だけでなく、いろいろな人に広く手渡すことができたらどんなにいいか、という情熱がムラムラと押さえがたくわき起こってきたのである。

 具体化は遅れていたが、前から地元には鄭さんの作品の出版計画があったらしく、中途半端な冊子を作ることに対しては一、二、批判も受けた。しかし鄭さん自身がたいへん喜んでくれたのと、神戸新聞の淡路総局長の了解も得られたので目をつむってやることに決めた。一月いっばいかかって編集を終えた「私の出会った人々」を数百部印刷して、鄭さんから「作家活動二十年をたたえる会」に参会した人たちにも配っていただくことができた。あちこちの私の知り合いにも、実費で紹介してくれるようにと送りつけた。

 その間、新幹社の高二三さんに電話をかけたりした時に、鄭さんの「作家活動二十年をたたえる会」があるという話や、『裸の捕虜』の再版が何とかできないものかということ、『文芸淡路』に書かれた作品や鄭さんの詩などへの私の感想、「私の出会った人々」の小冊子を発行することについての相談など、あれこれと何回か話した。高さんの話を聞いて、今の大手の出版社の商業主義的な営業方針では、『裸の捕虜』の再版の見通しはたたないことや、まして鄭さんの作品の新たな出版を引きうける社がなかなか見つからないということはよくわかった。でき上がった『私の出会った人々』を新幹社にも送ったが、目を通した高さんからは、これは単行本にすれば評判になるかもしれないという感想といっしょに、ある程度の販売の見通しがたつのなら、思い切って鄭承博さんの全集の出版を考えても面白いのではという、思いがけない言葉が飛び出してきたのである。

 迷惑をかけてはいけないと、さかんにしりごみをする鄭さんを二人がかりで説得するのもなかなか骨が折れた。その鄭さんから話を聞いた北原文雄さん、野口早苗さん、岩淵紹安さんたちは大賛成で、地元の書店・成錦堂にまで話を持ちこんでくれた。淡路島でぜひ盛り上げて出版を成功させよう、という話にまでなってきたのである。「作家活動二十年をたたえる会」がきっかけになって、いろいろな偶然が結びついて、とうとう「鄭承博著作集」全五巻を出版しようというのが、現実の話になってしまった。いかにも鄭さんらしい、偶然の成り行きであった。

   生活に根ざした創作活動

 今でも洲本では「ナイト」の「マスター」で通っているが、鄭さんは作家である前に何よりも生活者である。それはありとあらゆる職業遍歴も含めて、家族四人の生活をしっかり支えてきた経済能力のことだけを指すのではない。胃潰瘍で死にかかって以降、一人暮らしをしながら執筆生活を送ってきた鄭さんは、食事を作ることやその他の家事労働は、暮らしの中のあたり前の仕事として執筆活動と同じように大切にしているようだ。十歳で叔父を頼って単身渡日して、紀伊半島の朝鮮人飯場の飯炊き小僧として在日の生活がはじまって以来、まもなくその叔父とも離れて、まったくの一人で日本人杜会の中にとびこんで生きてきたといってもいい鄭さんにとって、食うこと、着ること、日常の身のまわりのことも、自分でやらない限り、だれもめんどうを見てくれない生活の連続だっただろう。まだ子供であるのに頼るべき家庭を持たない鄭さんは、在日のはじめから自立して生きる他なかったのだ。身体に浸みこんだそういう生活感情が、ものを書くようになった鄭さんの文学に対する考え方にも反映されている。「高尚なこと」をいう前に、自分がどう生きているのかこそが大切なのであり、足が地についていることが大事なのである。

 鄭さんの小説、エッセイ、詩のどれをとってみても、「食べる」ことが、実に克明に切実に、また愛情をこめて描かれている。例えば、故郷太白山脈のふところの幼い日を、鄭さんはさまざまな食生活を通してふりかえっている。日常の麦や黍の入った粟飯や粟の粥。蒸したジャガイモの食事。山野の新芽に大豆の粉や黍の粉をまぶして蒸して食べたこと。よくドングリを集めに行かされたこと。棗入りの餅や、その棗や大豆が日本の軍隊に供出させられて手に入らなくなってしまったこと。日本に働きに行って、炭鉱で片足をなくして帰ってきた青年と二人暮らしているおばさんが、必死に松の木の皮をはいで、甘皮を集めていた記憶。日本の話が聞きたくて訪ねていって、その松の皮で作った赤い餅をよばれたこと。祭祀に炊く米も魚もない正月に、松葉売りに行った安東の街で、投げ売りの大きい塩サバを三本買って帰ってオモニを喜ばせたこと。役所からの罰金の命令や手紙など、村の人の読み書きを一手に引き受けている書堂の先生への、年に一回のお礼の宴会のようす。書堂をやめて犬の肉を売り歩いている先輩の少年。拾い上げるときりがないが、当時の朝鮮の暮らしのようす、日本人の植民地支配によってそれがどのように破壊されていったかが、まざまざと伝わってくるのである。

 戦争中や日本の敗戦後にかけての、十代後半から二十歳すぎの鄭さんの痛切な体験をえがいた「裸の捕虜」や「私の出会った人々」にも、「飢え」と結びついて、「食べる」描写が切実に印象的に出てくる。

 集まって屠殺した犬を丸ごと炊いて、共に飢えをしのぐ中国人捕虜たちや、洲本の千草川の川原の朝鮮人たち。何日も飢えて放浪している鄭さんに、烏貝を掘ることを教えてくれた大和川の川口の掘っ立て小屋の住人。淡路の磯の小エビの食べ方を教えてくれた人。橋の下のバクチ場のおやじ……。

 ここでも「食べる」こと自体が目の前に見るように描かれているだけでなく、その描写を通して、その場面の鄭さんがおかれている状況や、いっしょにいる人間とのつながりがリアルに表現されているのである。

 鄭さんの文学活動は、「雑俳」と川柳からはじまったという。「いろいろな商売を手掛けてはみたが、何一つ稔ることなく、結局は小さな飲み屋を始めたのが、どうなりこうなり続いてやっと落ちついたものである」と鄭さんは書いているが、その洋酒バー「ナイト」に時々来る客に、書道の先生をしている淡路雑俳の師匠がいた。雑俳というのは、俳句からわかれた明治以前からの民衆文芸で、農民や商売人が集まって飲み食いをしながら、上句(題)に下の句七・五をつけたり、決められた頭韻をふんだりして句を競い合い、優秀作には賞品に米俵何俵とか子牛まで出るという、賭け事的な娯楽をも兼ねた、民衆の生活と密着した集団的文芸であるらしい。その常連になった鄭さんは、さらに川柳にも熱中し、参加を認められるのがなかなか難しいという大阪番傘本杜の同人にもなり、淡路島の支社の設立にも加わっている。

 しかしそのうちに川柳では自分の本当にいいたいことが表現できないと感じるようになった鄭さんは、自分が編集・発行していた地元の川柳月刊小冊子に、手さぐりのまったくの自己流で、自分の幼少年時代の体験を小説として連載しはじめる。六歳にもならない幼い鄭さんの目を通して、当時の朝鮮の農家の生活を描いたはじめての習作「書堂(ソダン)」(一九六一年)には、アボジとハラボジのふとんの谷間で、いびきに悩まされる様子や、大人にくっついて畑で綿花を摘んでいるうちに、眠りこんでしまったりの天真欄漫な生活を描いている一方で、すでに、日本の警察の、朝鮮人を一方的に米泥棒と決めつける横暴ぶりや、書堂の宴会に集まった大人たちの朝鮮の伝統的な習慣を圧迫する同化政策への慨嘆などが書かれている。

 二作目の「富田川」(一九六六年)は、鄭さんが学校にあこがれて十歳で単身渡日してからの、紀伊半島の朝鮮人飯場での飯炊き小僧としての純情・素朴な生活を描いた小説であるが、ここでも、大雨で工事現場に被害が出ると、何の補償もなく、たちまち夜逃げしなければならない不安定な飯場のようす、せっかく入学できたあこがれの小学校もすぐあきらめなければならなくなってしまったこと、村のようすをのぞきに行って村の子供とたちまち仲よくなるが、母親から「朝鮮人の乞食が子どもをそそのかして!」と決めつけられ、「お母ちゃんのあほう」とその子が泣く話、親方である叔父の逃亡先を聞き出そうとして警官が小さい鄭さんを連行して取り調べる話などが出てくる。創作活動の最初から、鄭さんは、朝鮮人が日本との関係においてどういう思いをして、どのように生きて来たのかを描こうとしているのである。

 農民文学会の募集のために淡路島を訪れた作家・一の瀬綾さんに声をかけられた鄭さんは、その同人となり、作品を投稿しはじめる。朝鮮人はスパイを働くおそれがあるとして、せっかく入った東京の高等無線学校を退学させられる話を描いた「追われる日々」によって、鄭さんは『農民文学』編集長の藤田晋助さんに見出される。鄭さんのありのままを見すえる目を認めた藤田さんが、たびたび洲本に来て、一週問くらいいっしょに寝泊まりしながら鄭さんの書くものにこまめに批評をするようになる。何べん書き直してもただ「ダメですね」といわれた。「鄭さんの文体は絶対さわってはいけない」といって、鄭さんが自分で何べんも書き直すのをじっと待っていたという。藤田さんからは「どう社会の中を泳いできたか、したたかに生きて来たかを書け、いいカッコしなくていい」「商売人が中央にウヨウヨいる。あんたの創作を読みたい人なんてだれもいない。これでいいからキョロキョロするな」とも言われた。これらは、仮に藤田さんから言われなかったとしても、最初から鄭さん自身が感じていたことではないだろうか。指摘されることによって自分の考えにはっきり確信がもてるようになったということなのだろう。

 農民文学賞をうけた「裸の捕虜」で第六十七回芥川賞の候補になって一挙に脚光を浴びた鄭さんは、賞からはずれた後、胃潰瘍で倒れたことも重なって、その後ずっと出版界から目を向けられることもないままに終わった。不遇であったかも知れない。しかしそれでよかったともいえるのではないだろうか。「文学が何が何かわからなくなっていた」「このまま死ぬんやと思った」という鄭さんは、死に場所のつもりで建てたという大野の寓居で一人暮らしの静養生活をはじめる。そして健康を回復するにつれて、少しずつ自分をとり戻して、『だん』や『季刊三千里」や『文芸淡路』などの、いわばマイナーな場に、断念することなく黙々と再び作品を書きはじめる。たくさんの読者がいようといまいと、世の中の評価がどうであろうと、自分は自分の吐き出したいことを書くだけだという鄭さんのスタイルが守り通されたのではないだろうか。大病をする前の鄭さんの写真をみると、いかにも精力的に商売に走りまわっていそうな、きまじめで繊細そうな、小柄できちんとした背広姿の、頭も黒々とした若々しい鄭さんである。一〇年前にはじめて出会ったときの、白髪で身なりも人柄もくだけた、明るく豪快で気の若々しいハラボジのイメージとは別人のようにちがうのに驚く。作品も病気の前と後では、「裸の捕虜」のような絶体絶命の、無我夢中の世界から、いかに苛酷なものであっても現実をありのままに見すえる、目のしっかりとすわった、沈潜したものへと変化している様に感じられる。体力や気力にも衰えはあっただろうし、たしかに作品のもつ迫力はなくなっているかも知れないが、一方で腹のすわったひとまわり大きい鄭さんを感じる。そういう境地になった鄭さんは、さらに新たに詩やエッセイを書きはじめる。そういう頃の鄭さんに私は出会ったことになる。

 鄭さんほどきさくでざっくばらんな人も珍しい。ずっと年下の相手であっても、また金があろうとなかろうと、職業や肩書きが何であろうと、相手によって接する態度や話し方が変わらない。幼児のようないたずらっ気の多い庶民そのものの人柄の鄭さんである。その一方では、「先生」や「文化人」、権力・権威を背負っている人間に対しては、酒が入ったときなどは特に、思わずふき出してしまいそうなくらい辛辣な毒舌が止まらない。気のおけない淡路島の住人に対しては、天衣無縫、いいたい放題の口の悪さで、徹底的に陽性な、人間好きの鄭さんである。そんな鄭さんが自分のことを「ペシミストだ」というのである。また、どこから見ても朝鮮人一世そのものでありながら、「自分はパンチョッパリだ」ともらすことがある。日本かぶれというほどの意味で、あの頃はそうでもしないと生きていけない状況だったと鄭さんはいう。鄭さんに自分はペシミストだ、パンチョッパリだと言わせるものは何なのだろうか。

 好奇心のかたまりのような人柄であることは、作品のいたるところにあらわれている。実に多様な職業を転々としているのも、朝鮮人のつねとして何をやってみてもうまくいかなくなるという閉塞状況のためだけではなく、あらゆるものに対して向けられる鄭さんの涸れることのない無心な好奇心というか、何かにひきつけられると、すべてを忘れて夢中になる性質のためでもあったのではないだろうか。そういう熱い関心は人間に対しても向けられていて、七十を迎える年齢になっても相手の心の中にばっととびこんでいく、心の熱い柔軟な包容力のある人柄である。

   日本人が「朝鮮人」と出会うことのむずかしさ

 この巻に収められている「私の出会った人々」は、神戸新聞淡路総局が出している小新聞月刊『ミセスあわじ』に鄭さんが一九八四年四月からずっとひき続いて今も連載しているエッセイを集めたものである。いろいろな筆者が三回連続で書いて交替していたらしいが、鄭さんの連載を終えた時に、そのまま続けて書いてくれということになって、「私の出会った人々」というタイトルがついたという。

 はじめのうちは、鄭さんが淡路島に渡ってきた戦争末期や日本の敗戦後の混乱期の鄭さんの食べていくための格闘を通して、当時の島の世情が描かれているが、途中からは、今の淡路島の情景から過去の体験を対比させて、社会や生活の時代変化の大きさや、それが人間に対して持つ意味合いを考える文章が多くなっている。殆どが生活に密着した話である。中でも「飢え」の体験や「食べる」ことに関する話が多い。それらがすべて、具体的な人間との出会いを通して語られている。

 一つ一つの出会いの場面を鄭さんが実に克明に記憶していることは驚くばかりである。よく鄭さんが土産にチリメンジャコを買いにつれて行ってくれる魚の加工場があるが、ある時ふと鄭さんが「ここに大きい平なべがかかっていた」と話したことがある。持ち主は変わっているが、敗戦後こわれていた平なべを鄭さんが修理してやった、その煮干し作りの納屋なのであった。鄭さんの中には、一貫して人間を「……このむつかしい世の中を、共に生きねばならない者同士として親切にされたことは、いまも忘れることが出来ない」と素朴にとらえる心情が脈打っている。

 鄭さんが書いているのは決して単なる過去の記憶ではなく、鄭さんの中で今も生きている「出会い」なのだと思う。そのことは、鄭さんが生きるための方便としてでなく、いつも真正面から相手の中にとびこんでいたということを、またそうしなければ朝鮮人が生き抜いていくことはできなかったのだということを意味しているように感じられる。

 鄭さんはまた一方では、幼なかった頃の植民地支配下の朝鮮の故郷の貧しい暮らしや、戦争中、敗戦後の飢餓の体験、食べるために大変な苦労の要った時代と、物があり余る飽食の現代日本を対比させて、鋭い現代文明批判をしている。豊かになればなるほど、人間が小さな意味のない存在におとしこめられていくこと、人と人とのあたり前の気持ちのつながりが消え去っていくことに対する、人間がなぜ粗末に扱われるのかといういきどおり、絶望感が語られている。

 このような、ペシミスティックな気分に重なるように、鄭さんが言葉としては発していない日本・日本人に対する絶望のようなもの、うめきが感じられるといえばいい過ぎだろうか。鄭さんが一言も触れなければ触れないだけ、なぜ日本人は朝鮮人を虫けらのように扱うことができたのか、朝鮮人の生活も、朝鮮人が朝鮮人であることすらも、ふみにじることができたのか。一体、そのことに日本人は気がついているのか。自分たちの歴史を日本人はふり返ったことがあるのか……。そういう押し殺されたうめきが浮きぽりにされているかのようである。

 一人一人の人間の価値を大切に見ない現在の日本の物質的な繁栄は、かつての朝鮮侵略を今も肯定していることと重なり合うのではないかという鄭さんの直感がにじみ出ているように感じる。

「私の出会った人々」は、苦労をくぐり抜けてきた人だけがもつ深い人間性のにじみ出た庶民論としても読めるし、文明批評でもあるし、また淡路島の世相の移り変わりを書き留めた貴重な地方史の資料、在日朝鮮人一世の貴重な証言としての価値をもっている。読む者の間題意識、関心の質に応じてさまざまな多様な読みとり方ができる奥行きのある作品であると思う。

 荒っぽく言ってしまうと、鄭さんの文学の根本的なテーマは、日本の朝鮮植民地支配とは一体何だったのか、ということであり、また、日本人にとって朝鮮人である自分は何者なのかという問いだといえるのではないだろうか。この「私の出会った人々」もさっと読み流してしまえば、単に心温まる出会いが回想されているだけに見えるが、抑制された何気ない文章を通して、鄭さんが朝鮮人としてくぐり抜けてきた現実の苛烈さが、声にならない叫びとして感じられるのである。……朝鮮人である私はいつだって、全身であなたたち日本人に出会おうとしてぶつかってきた。その日本人はいったい朝鮮人である私と出会ったことがあるのか?いつも朝鮮をはぎとられた私と出会っていたにすぎないのではないか……。

    (しまづ・たけお 三重大学教員)

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  ●鄭承博を語る    マグマを抱く人    一ノ瀬綾


 テレビ番組に『知ってるつもり』というのがある。私たちは日頃、大方のことは、"知ってるっもり"で暮らしているが、時にはその認識の一面性に気付かされて愕然とする。

 私と鄭承博さんとの交流は今年で二十三年になるのだが、昨年、淡路島で催された〈鄭承博先生の作家活動二十年をたたえる会〉に出席し、"知ってるつもり"でいた鄭さんの未知の面をおおいに思い知らされた。

 私が鄭さんと出会ったのは一九七〇年五月のことである。当時私は、東京で会社勤めの傍ら、『農民文学』に所属して小説を書いていた。前年の六九年に農民文学賞を貰ってはいたが、それで食える筈もなく、社命に追われる出張生活が続き、神戸でニカ月暮らしたことがある。その折に遊びがてら淡路島の農民文学会員を訪ね、彼の紹介で鄭さんを知った。その時の笑顔が今も眼に鮮やかである。

「西原ひろしです。川柳やってますねん」

 くだけた関西弁とおだやかた風貌が印象的だった。その後、鄭さんが農民文学会員になり、「裸の捕虜」を書くまで、私は彼が朝鮮人だということを知らなかった。やがてその作品が農民文学賞を受け、第六十七回の芥川賞候補とたるのだが、その前後のさわぎや成り行きを、私は当時『農民文学』の編集者だった藤田晋助さんからたびたび聞かされた。

「偶発的に引き出された才能だから、このままでは潰される。責任を感じるよ」

 藤田さんは再三淡路島を訪ね、鄭さんと寝食を共にして創作活動を支えた。苦節何十年の文学青年にとってもジャーナリズムの流れに乗ることはむずかしい。まして鄭さんを阻むハードルの高さがどれほどのものか、当時の私にも察しがついた。チャンスを生かすために苦闘する日々が、鄭さんの心身を傷つけない筈がなかった。やがて胃潰瘍で手術、静養という事態に追いこまれていく。それまでに私は上京された折の鄭さんや御家族とも何度かお逢いし、電話や手紙での交流もあって、お元気な様子に安心していた。それだけに、手術後初めてお逢いした時のショックは今も忘れられない。黒々と豊かだった髪は半白になり、体もひとまわり縮んで見えた。

「いやア、死ぬかと思いました」

 それでも明るくジョークをとばす鄭さんの貌は柔和で、眼は深く澄んでいた。私も自分の文学に行きづまりを感じ悩んでいたから、鄭さんの病後の姿は他人事に思えなかった。その後鄭さんは、藤田さんが主催する同人雑誌『だん』に書き始め、やがて地元の『文芸淡路』や『季刊三千里』などで活躍、その仕事ぶりが伝わってくるようになった。

 私も一九七六年に田村俊子賞を受けたことで、どうやら迷いがふっ切れて書き続けられるようになっていた。それからも鄭さんは上京のたびに顔を見せ、藤田さんを交えた交流の時を作ってくれた。人づきあいの温かい律義な人柄である。その鄭さんが荒れ狂う姿を私は一度だけ目撃した。

 私が二度目に淡路島を訪れたのは、鳴戸大橋が完成する直前だった。その折『文芸淡路』同人の方々の親睦会があり、私も同席させてもらった。酒が入り、文学論で座が大いに盛りあがった終わりの頃、突然に鄭さんの怒声が響きわたった。

「おまえら日本人に、この俺の本当の気持ちがわかってたまるか!」

 地団太踏みたがらの絶叫だった。席が遠くて前後の事情は解らなかったが、その言葉は鋭い楔のように私の胸に打ちこまれた。気を許し、信頼できる仲間だからこそ吐ける本音であり、その仲間にさえ伝えきれない情念の重さが、勝手に言葉になって噴き出してくる。そんな光景だった。

 理不尽に祖国を追われ、迫害の中で生き抜いてきた鄭さんにとって、日本人が気軽に示す"理解している"ふうの態度ほど、我慢ならないものはないだろう。怒りや悲しみを笑顔で押し殺すには、不断の闘志が必要である。その闘志をバネにして鄭さんは作品を書き続けてきたのだと思う。

 昨年の「たたえる会」でお会いした鄭さんは、すっかり銀髪になられ、ますます柔和になったお顔には飄逸な風格さえ加わっていた。だがそのおだやかで優しい笑顔の底には、民族の誇りと情熱が火山のマグマのように滾っていると、私には思えてならなかった。今度初めて、鄭さんのエッセイと詩をまとめて読んで、改めてその感を強くした。どのぺージからも鄭さんの見知らぬ貌が現われてきて、"知ってるつもり"でいた私の思い上がりをたしなめてくれた。日本人と朝鮮人の本当の出会いと理解のために、私は鄭承博さんの作品が一編でも多く、人々に読まれて欲しいと願わずにはいられない。

    (いちのせ・あや 作家)

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  ●鄭承博を語る    美少年の鄭さん    新屋英子


 冬枯れの庭の片隅に、水仙の葉がつくつくと青い芽を出しているのを見つける年の暮れは、淡路島を思い、やがて一月の末から二月にかけて蕾がふくらみ、冷気をなだめるかのようにその香りが充ちるとき、鄭さんが灘の水仙郷を案内してくださった一九八三年一月三十日の朝を鮮やかに思い出すのです。 三重大学の島津威雄さんから、ひとり芝居「身世打鈴(シンセタリヨン)」を招かれたのが八二年九月。
 九月十八日(土)は三重大学学生寮の食堂で、不意に思いたって突然集められた学生二八人の前で上演。十九日(日)は津市民会館で鄭さんの講演とひとり芝居の会が催されたのです。
 実は公演前日になって、「予算がないので一人芝居は次の機会にしたい」と云われたのですが、「そんなことはどっちでもええから」と押しかけて行ったのが、鄭さんや淡路島の人々との出逢いであったのです。「身世打鈴」を見た鄭さんが、同行の文芸淡路の北原さん、片桐さんに、「こりゃ、ぜひにも洲本へ来てもらうようにしよう」と語られ、翌八三年一月に「身世打鈴」公演が実現したのです。 鄭さんから、「当日は洲本港まで、文芸淡路・淡路朝鮮文化研究会など、主催者が迎えに行く」
など、たび重なる丁寧な連絡。

一月二十九日(土)  快晴

 鄭さん達が港に出迎えていると思うと面映ゆく、少々興奮気味だったが、船着き場が違っているのか誰もいない。
 気落ちと不安で、下船した人々がどんどん去って行く後ろ姿から離れ、別の船着き場に目をやると、やっと気がついた鄭さんはじめ五人の人たちが走ってきたので、思わずわたしの方が「ようこそ!」と云ってしまい、自分で笑ってしまった。
「すんません、すんません」と云われる鄭さんは優しくて可愛くて、ひとり芝居の申英淑そのままの気分になってしまい、懐かしい故郷へ帰り、アボジに逢っているのではないかと錯覚した。
 芝居は、ゆっくり見られるようにと一一〇枚で札どめしたのに、いざ開場すると一五八人で超満員になった。
 劇団「ともしび」の内山さんたちが、音響・照明・舞台作りを一生懸命してくださり、感謝(カムサ)ハムニダ。
「わたしは日本名ですが、実は朝鮮人なんです」
 と本名を名乗られた婦人があった。
 座談会での思いがけない成り行きに鄭さんは大変喜んで握手してくださった。
 温かくとても柔らかい手であった。(当日の日記より)

 翌三十日日曜日は、鄭さんの運転で灘の水仙郷見物という楽しさ。
 海を渡ってやってくる三重大学の島津さんや崔君たち、わたしへのもてなしに、花の盛りにとスケジュールを組んでくださった。
 道々鄭さんは、くっきり三角にとがった行手の山を指して、「あれは先山。朝鮮語ではソンサン、お墓という意味。山上にはお寺があるんよ。きっと朝鮮と縁があるんだな」
「秀吉の暗殺を企てた三十人衆がいたんやが、結局バレて処刑されたんよ」
「慶野というのは、慶州(キョンジュ)を思って昔渡来してきた朝鮮人がつけた地名だろう」
 つぎつぎと話される歴史の新鮮さに心が踊るのでした。
「うわーッ!」と思わず歓声をあげたほど、山一体を包むように群生する水仙は、その馥郁たる香りを撒いて、明石海峡の海面を煌めかせているのではないかと思うほど匂い立っていた。
 記念に球根を五つ求めてきたのです。
 それが九年間、年々増えて今年は三十一も花をつけた。
 八四年の二月には三島高校生徒四〇〇人の観劇会で、鄭さん、岩渕さん、野ロさん、北原さん、片桐さんと歓談した。
 話がはずみ、やくざをやりこめた話は鄭さんに書いてもらいたいと思う面白さ。
「ボクは男前だろ」と云われたので、「美少年ですわ」と云ったことから、折々の機会に九州の酒"美少年"を献上する破目になった。
 正直、美少年だと思うのです。童のようた笑顔が忘れられない。
 会うたびに、ちりめんじゃこや鳴門のわかめのお土産。そして鄭夫人手作りの美しい千代紙細工の小箪笥は枕元に置いて、目がね、爪きり、鋏、ナイフ、ピソ、鉛筆、メモ帖、懐中時計などを入れてお二人を思い、心洗われている。
 九二年八月、北京の国際朝鮮学会文化芸術部門の分科会で「身世打鈴」を演じた時、鄭さんが沢山ある会の中で最前列で見てくださったことは大感激でした。
「裸の捕虜」は、温かく優しい人間愛に根ざした平易た文章で、しかもそれが冷徹な厳しい目で、わたし達日本人に鋭くつきささる。

 このたびの『私の出会った人々』は、掌に載せて包みこむ肌のぬくもりを感じさせる燻し銀のようたエッセイ集。
「播磨灘の夕日」に体がふるえる感動が走った。
 鄭さんの生きるひたむきさとその笑顔を直かに感じることができたから……。
 来年、水仙はいくつ花を咲かせるでしょうか。
    (しんや・えいこ女優)

<主な舞台・映画・テレビ>

 舞台

 チェホフ「三人姉妹」 椎名麟三「第三の証言」  山代巴原作「荷車の歌」(大阪府民劇場賞)   野上弥生子「藤戸」(大阪府・大阪市文化祭賞)   鶉野昭彦「幻列車」「赤い鳳仙花」「希望ー陽のあたる丘で」他多数。 

 映画

 斉藤耕一監督「旅の重さ」 金英吉監督「あーす」 羽仁進監督「手をつなぐ子ら」 大島渚監督「愛の亡霊」   山田洋次監督「学校」他多数。

 テレビ

 NHKドラマスペシャル「李君の明日」「山頭火」「雪」(モンテカルロ大賞)  NHK朝ドラ「よーいどん」「やんちゃくれ」他  MBS「嫁と姑」ドキュメント「朝鮮人従軍慰安婦」  YTVドキュメント「沖縄・竜子の旗」  「大気汚染」「報道被害」「徹子の部屋」  他に「仮面の忍者 赤影」の魔老女など、他多数。

 ひとり芝居

 「身世打鈴」「ヒミコ伝説」「チョゴリを着た被爆者」「章ちゃんの青空」「わたしの蓮如さん」「燕よ、あの人に伝えてよ」他。

 脚色

 田辺聖子「姥ざかり」「姥ときめき」「すべってころんで」「中年ちゃらんぽらん」  松谷みよ子「竜の子太郎」他。

     
(詳しくは野火の会のページで)

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