追悼

昨年暮れ、年賀状作成に取りかかっていたときのことです。例年のように、喪中を知らせるハガキが届き始めていました。
多くは知友の両親や義父母の逝去を知らせるものでしたが、その中に、もう40年も昔に、わたしを自宅に招き、手料理で持て成してくださった、あるお人の悲報がありました。名を河崎弥生さんといいます。

わたしは、京都に生まれ育って20歳前には東京で暮らしていました。テニスラケットのメーカー、カワサキラケット(河崎ラケット工業株式会社)に勤めていたのです。
余談になりますが、当時、テニスラケットといえば、硬式も軟式もカワサキとフタバヤがトップメーカーとして名を馳せ、国内の販売シェアを競っていました。その後、バドミントンラケットの老舗、米山製作所(現ヨネックス株式会社)がテニス業界に参入し、「K」・「F」の両ブランドに代わって「YONEX」の国内支配が始まります。そして、いまや世界ブランドに登りつめ、先駆社「カワサキ」は過去のものになったのです。

河崎弥生さんは、カワサキの創始者で社長だった故河崎吉太郎氏の令夫人です。ご夫婦は富山県人、確か高岡市のご出身だったと記憶しております。奥さま(弥生さん)は、台東区御徒町の本社事務所に毎日出向かれ、工場(北区東十条))に足を運ばれることの多かった社長に代わり、社業の一部を預かり守っておられました。ご自宅は上野駅から真東に徒歩15分ほどの東上野。その近くの社員寮に寄宿していたわたしは、よく車で送り迎えをしたものです。

そんな1965年の1月15日、台東体育館で成人の祝賀を終えて戻ったところを、奥さまに呼ばれてご馳走になったのが冒頭の「手料理」の謂われです。外食をひかえて自炊に苦労した時期に、わたしだけが招待を受けたこと、多忙な社長夫人という身で、わざわざ料理されたことに驚いたものです。懐かしく食した家庭の味の温かさが忘れられません。

社内でも人前を憚らず社長を「お父ちゃん」と話される奥さまは、すっかり江戸っ子気質を備えられ、気さくな人柄を醸しておいででした。奥さまとは、いろんな思い出がありますが、誰にも譲らない仕事をお持ちだったことも印象深い回顧です。

またも話が逸れますが、奥さまを偲ぶには、そのお仕事についても触れておかなければなりません。

ソフトテニスのガットは、鯨を加工して製造する「鯨筋」が、ずっと主流をなしていました。ガットを張り上げた状態で売られる初心者用のラケットにも「標準装備」でした。しかし、原料の供給量が不安定なうえ、熟練に頼る手作業で作られるため、製品は常に品薄状態が続いていました。当然のごとく、異業種メーカーの進出・商品開発が進み、ガット製品は革新を強いられます。そこで市場に割り込んだのが、安価で雨や湿気に強いナイロン・合成繊維製ガットです。

その新種のガットは近年、鯨筋ガットに取って代わり覇道を歩みます。当初は、打球に思うような回転が加えられない、飛球の行方が定まらないなどの難点が気になり、使うことを敬遠していましたが、鯨筋ガットの入手はだんだんと困難になり、やむなくわたしも「新種」に切り替えます。使い慣れていくことに加え、品質の向上も顕著にみられました。抵抗なく使えるようになり今日に繋がっています。

鯨筋ガット製造の主要地は島根県安来市でした。カワサキへは、いくつもの製造元から裸の製品が不定期に届きます。一方で、その入荷量では賄いきれないほどの注文が得意先から殺到します。問い合わせの電話も連日鳴り続け、納品先と数量をどう振り分けるかは、重要なポストの仕事になりました。奥さまは、ガットの管理一切を任されていたのです。

そのころのカワサキブランドの鯨筋ガットは、数字の244から254までの6つの偶数に製品番号(若い番号が上質)が振られ、事務所内で選別・袋詰がなされていました。奥さまは「○○さん(製造メーカー)のガットは、惚れ惚れするわねー。作り方と検査基準が良心的よ」、「それに引き替え、○○さんのは、いい加減だね」などと話しながら作業を続けておられました。下っ端のわたしなどは、手に取ることもできません。価格は憶えていませんが、防湿コーティング処理を施した244・246には、フレーム(ラケットの)代の半分ぐらいの値が付いていたでしょうか。それでも、注文は途切れず納品は滞ります。社内のテニス愛好者といえども、私用に買い取りすることは、容易ではありませんでした。上級品の規格にパスする製品が極めて少なく、下級品に回る製品でさえ得意先の注文に応じる数量ではなかったのです。まさに宝石・宝物のような扱いでした。こっそり売られていく、好きだった「特撰 248」を、自分のラケットに張りたいと何度願ったことでしょう。いつも下級品でした。……そんなことを、奥さまの事務所内に響く声、絶やされなかった笑顔とともに思い出すのです。


4年前、元従業員の有志の呼びかけで「河崎ラケットOB会」が発足しました。数人の元上司と音信がありましたが、案内の名簿にギッシリ書かれた元社員名に、会いたい一心が、わたしの胸に沸き起こります。所用で初回は断念しましたが、2回目の宴席で、奥さまの様子を「上野の不忍池近くでお嬢さんとマンション住まい。少し記憶が薄れて耳も遠くなられたがお元気」と聞き、住所も教わりました。わたしは早速、若き日の不義理を詫び、在りし日のお礼と心に温めていたエピソードなどを手紙に認め送ります。

「大声で読み聞かせたところ、ところどころで少し思い出したのか、肯いたり、ほほえんだりする場面もあった」と、奥さまの次男、河崎勝さんから返事をいただきました。昨年の3回目のOB会でも、「達者にお過ごし」と聞いていたのです。それなのに半年も経たないうちに亡くなられるとは……。もう少し早く居宅を知っていれば、お会いできたのにと悔やみました。6月6日、96歳でした。

勝さんは、「カワサキは無念にもなくなりましたが、もはや、そこにカワサキはないとしても、カワサキが確かにあったということを確かめる場所が河崎ラケットOB会です。思い出してくれる人、単なる懐かしさ以上のものを抱いて集まってくれる人がいることに、河崎家の末端に連なる小生にとりましても、身に余る光栄と同時に忸怩たる思いも致します」と返信にお述べでした。来月には4回目が開催される予定です。奥さまの追悼会、今年もわたしは東京へ足を運びます。

                            2007 1 15              森   昭 夫

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