T中世の風俗

  

  

  

 

 

(A) 都市にてー「活人画」の題材の例ーパリスの審判 

  ホイジンガが紹介している記述によると、<当時支配的であった羞恥心から考えて、一層奇異に感ぜられるのだが、一般に絵画において余り見られない婦人の裸体が、活人画の中では無造作に使われている。どんな入城式典の際にも裸の女神(ヴィナス)や妖精(ニンフ)の見世物が無いことはなかった。
 例えばデューラー(ドイツ・ルネッサンス最大の画家 1471〜1527)1502年アントワープ(ブルゴーニュ公国・現在のベルギー領・アントワープ市)におけるカール五世(スペイン王としてカルロス一世と称す。在位1519〜56・神聖ローマ皇帝)の入城式である(エロティシズムの世界史2 福田和彦 久保書店 1966年 p90)。 


(B)ひっくり返り(ダンス遊びの一種)

 

 『風俗の歴史3』( フックス 光文社 1966年 安田徳太郎訳、p187−188)

 ”中世とルネッサンスのたいていの遊戯には、こういうエロチックな内容が、まだひじょうに露骨に示されていた。
   とりわけ、遊戯のなかで官能の粗野な快楽という、いちばんのたのしみの現われ、つまり男女のみだらな露出だけを狙う遊戯では、それはひじょうに露骨に示された。世人は、男女がすいうじゃらけのなかで持つたのしみを、底抜けに、またゆかいに味わいたいと思った。
 世人は、男女の遊び仲間になる遊戯のなかでだけ、それを「無邪気に」味わうことができた。こういう遊戯で特色のある例は、「ひっくり返り」、「接吻盗み」、「新しい町からの羊飼い」という遊戯であつて、それらはすべてひじょうに大衆化して、大いに人気をよんだ。

 「ひっくり返り」という遊戯では、一人の紳士と一人の淑女の喜劇的な格闘が中心であった。この格闘はつぎのようにおこなわれた。男女二人のどちらかが、足をあげて相手の足のうらを蹴る。その結果、蹴られた相手は釣合いを失って、ひっくり返る。女はこの格闘のあいだ、地面にすわっている一人の男の背中の上にまたがるが、蹴る方の男は立っている。
   当時、女はスカートの下着をつけていなかったので、女が足のうらを蹴られるときは、脚や太腿が見物人の前にたえず、またひとりでにむき出しにされた。女の、下から上へのこういう露出は、男が勝って、女の方がこういう姿勢で、地面にうしろ向きにひっくり返るときに、最高潮に達した。
   ところが、さきに述べたように、このころの男もほとんどすべて、ブルフ、つまりボタンのない股引きしかつけていなかったから、こういう遊戯のばあい、男のほうも前がいつでもまる出しになった。”

 『ねむり姫の謎』(浜本 隆志 講談社現代新書 1999年、p126−131 ダンスの陶酔)

  ”ダンスは歌とともに、糸つむぎ部屋の集まりや祭りにおいて、たいへん重要な娯楽であった。多くの資料が語っているように、農村では人びとは糸つむぎ部屋以外の祭りや結婚式などでも、たえず会合の機会がるたびに踊っている。
  農民たちのダンスはいうまでもなく、社交ダンスのような洗練されたものではなく、粗野でエロチックなものであった。酔に浸ることができた。気が合えばキスや相手の体の部分に触れることが許されたからである。その楽しそうな光景は、多くの絵画にも描かれているが、一例を図で引用しておきたい。

 フックスの『風俗の歴史』によると、農民の踊りのなかでもとくに、「ひっくり返り」という競技に人気が集まった。これは男女が踊る際に片足をあげ、相手の足の裏に蹴りを入れ合う、というものである。
  すると相手はバランスを欠き、ひっくり返る。まったく単純な遊びであるが、女性の方が転ぶと、見物人は一層大喝采をおくった。というのも当時、農家の女性はスカートの下に何もはいていなかったからである。
  このような猥雑な遊びは、1555年に当局によって禁止されている。

  かつて、あらゆる身分やほとんどの年齢でも、お気に入りの娯楽であったダンスは禁じられてしまった、ただ結婚式のときだけ、なお許されたけれども、日暮れとともにダンスをやめなければならなかった。この娯楽がたまにしかおこなわれなればなるほど、人びとはそれだけ激しくダンスに熱中して楽しんだ。

 若い陽気な連中は、跳びはねて相手をひっくり返すことに、面目をかけた。その際、女の踊り手は相手がひっくり返ると、いっしょに倒れることもまれではなかった。そのあられもない姿によって、笑いを誘うというのがいつものことだった。それは悲しむべきことに、かれらの風紀を乱した。
  したがって『ひっくり返り』は禁じられたが、ダンスに熱中すると、人びとは禁止事項を忘れてしまった。ひとりがひっくり返されると、それが次つぎと伝染した。こうして人びとは、慣れたすぐさでお返しをしようとした。このような無作法なことを阻止するために、当局はダンスの場に特別の監視官を派遣した。

 しかし監視官が制止しても、その場かぎりのことである。彼は民衆の楽しみを根絶やしにすることはできなかった。それほどダンスの魅力は大きかったのである。
   また、「キス盗み」というダンスや狂騒踊りの乱舞も好まれている。二人はリズムをとって跳びはね、ぐるぐる回る。やがて男性は女性を高く持ち上げ、振りまわした。その際、見物人は喝采をおくったり、冷やかしの声をかけたりした。とくに腕力がある男性は女性の人気を博した。また、フックスは、しだいにダンスがエスカレートする状況を次のように述べている。

 その上、ダンスはたがいの親しい愛情を交換するための、機会をたえずもたらした。キスがそのトップであった。男は女の踊り手の唇や頬にキスをしただけではなく、すっかりあらわになった胸にキスするのを一番好んだ。
  この愛撫は、どんな妻でも娘でも、彼女たちの評判をおとしめることなく、容認できる愛情表現とみなされていた。しかし手の方が、口よりもっと積極的だった。
  「男たちはあけすけに、女の胴着のなかを手でまさぐり、そこでさぐりあてたものを掴んだ。そうするとたいていの娘たちは、ひそかに喜んだ」

  それほど近くない場所では、ペアのダンスが主流である。なおグループの輪舞は、糸つむぎ部屋でというより、野外における祭りの踊りであったが、これも一般に好まれ、各種の祭りの際に、人びとが踊り狂っている姿が多く描かれている。 フランス革命の際に流行った、「自由の木」のまわりで踊るしきたりも、このような農民の習俗にルーツをもつといわれている。

 人びとがダンスによって官能が刺激され、性的に興奮してくると、気の合った者同士では、最後のいきつくところまで進展していった。糸つむぎ部屋でもそのような事例は、いくつか認められる。
   なお昼間では、男女は前述のように畑や森のなかに消えていくのが一般的であった。こうして二人は愛しあうのであるが、それを陰からのぞき見する者は、いつの時代にもどこでも存在した。”

 『ジャンヌ・ダルク』村松 剛 中公新書 1967年、p48−49)

 ”ドンレミイの村から西に三キロメートルほどのところに、「槲の森」(かしわの森 ボア・シュニュー)とよばれている森がある。このあたりは丘陵で、ムーズ川のつくる緑の渓谷が、眼下に美しくひろがる。丘のうえには十九世紀にジャンヌのためにつくられたノートル・ダム教会が立ち、そばに巡礼のための小さな宿屋もある。

 ここはジャンヌがお告げをきいた、といわれる場所の一つなのだ。教会のまえには、聖ミカエルと二人の天使の石像が、跪づくジャンヌを見降ろしている。

 ジャンヌの時代には、「槲の森」にひとりの少女が出現し、フランスを救うという伝説があった。もっともジャンヌ自身は、これに無関心だったらしく、自分はそういうことをしんじなかったと、法廷ではこたえている。

 教会のまえのゆるやかな斜面を下がった水ぎわに、そのころ巨大な山毛欅(ブナ)の木があった。この山毛欅は、「仙女の樹」または「女たちの樹」と呼ばれ、ここに仙女が出没するといわれていた。すぐそばの泉の水を飲むと、病気がなおると村びとたちは言った。 

 晴れた日には、木のまわりに村の娘たちが集まるのが見られた。ことに日曜日のミサのあとには、晴着姿の娘たちや若い男が、パンや水とをもちよってここに遊びにきた。彼らは木陰に布を敷き、パンやりんごをかじりながら、踊ったり歌ったりするのである。
   ジャネットは木の葉をつないで、聖母マリアに捧げるような長い葉飾りをつくった。彼女は踊りよりも歌の方が好きで、よくとおる声でうたった。

 「仙女の樹」は、キリスト教以前からの古い土着の伝説だろう。ジャンヌも友人たちも、仙女を文字どおり信じていたわけではなかった。私は仙女が出たというはなしをきいたことがありませんと、彼女はのちに法廷で答えている。

 しかしこの「仙女の樹」の一件は、裁判のさいに、ジャンヌが異端だったことの証明材料として用いられている。この地方には魔女が多く出没し、ジャンヌもまたそのとりこにされた、ということになるのである。” 


(C)15世紀フランスの、お尻と脚線美の男性モード

 

『百万人のお尻学』(山田五郎 講談社α文庫 1998年,p164)

  ”近代以前のヨーロッパの服飾体系の中では、男性がスカート型の服を着ることは決して珍しいことではなく、お尻と脚は女性ではなく男性のセックス・シンボルだったのだから。
 19世紀以後、パンタロン、つまり現在の我々がはいているような筒型ズボンが男性の間で一般化するにつれて、お尻と脚のエロスはいつの間にか女性のものとなっていく。”

 

 

 『あぶない世界史 U』(桐生 操 福武文庫 1996年,p261)

 「股袋」というはでなファッションはどうして流行したか?
 ”15世紀のはじめまで、ヨーロッパの男だちは、短い上衣を着ただけで、下はスッポンポンだった。これでは女たちも目のやり場に困るというので、教会の命令で、男の大切な所をかくす「股袋」が考えだされた。ドイツ語では、シャーム・カプセル(はにかみ屋の袋)などとよばれる。

 そのうちこの股袋は、男にとって欠かせないオシャレになった。みかけもハデになる一方で、ダマスカス産の絹を使ったり、金銀の刺繍をしたり、ルビーやサファイアをはめこんだり、先っちょにリボンや花を飾ったものまで現れた。女たちが鯨の骨でつくったコルセットでバストをせりあげたように、男たちもこの股袋で、思いっきり、男性の大切なものをみせびらかした。”

 

 

 『風俗の歴史1』( フックス 光文社 1966年 安田徳太郎訳、p230−231)

 ”男はまず第一に、ひとつひとつの筋肉がはつきり目立つようにと、体にぴつたりくつついた服装をつけ、上衣は昔よりうんと短くし、たいてい帯の下に手の幅以上を出ないという、一種のジャケットをつけるようになった。
 「尻はそういう上衣のために、ほとんどまる見えであつた。それが当時のクロイツブルグの服装であつた」とクロイツブルグ年代記に述べてある。男たちは着ものをできるだけ体に密着させようとした。そのため着ものはまるで第二の皮膚のように、体にぴつたりくつついているように見えた。この服装は十四世紀の終わりごろに絶頂に達し、十五世紀にはいつても、づつとまだおこなわれていた。

 こういう服装では、運動のときはひじようにたよりないから、結局、この傾向が絶頂に達すると、ひとつの急変があらわれて、それは時代のきめたこういうつとめを解決するための、第二の形をとるようになつた。
 つまり、もつとうまく歩けるように、また、らくに動けるようにと、ズボンと袖は、間接のところで、幾重にも切れめをつけなければならなかつた。こういう切れめの形は、もちろん飾りになつた。

 つまり、ジャケットの切れめから絹のシャツを襞のようにはみ出させ、ズボンの切れめには、けばけばしい色の、絹の襞をつけた。こういうようにして、十五世紀の終わりごろからはじまつた、襞つき服の最初の形があらわれた。”

  修道院の藪かげにいる百姓の女房と田舎貴族。この時代では田舎貴族はまだズボンをはいていなかった。
作者不明。15世紀。ブラウンシュヴァイク画廊。

  バーゼルの旗手。ハンス・バルドゥング・グリーン。木版画。
1512年。男の服はズボンなしで、尻がまる出しであつた。

 

    『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』( レジーヌ・ペレヌー 白水社 2002年 高山一彦編訳、p165)

  3月17日“同女がミサに与りにゆけるよう提供された女性の服について、同女の申し立てを訊ねると、次のように答えた。女性の服については、わが主の思し召しにかなわぬ限り着るわけには行かない。もしこのまま処刑場に曳き出され、そこで脱がされるようなことになるなら、女性の長い下着と頭に被る頭巾を与えてくれるよう、教会の偉い方達にお願いする。
 また、わが主が自分にさせようとしたことを否認するくらいなら、死ぬほうがましであり、わが主は自分が憐れな状態におちるようなことにはしておかれないし、自分は奇蹟によって間もなく救い出されるであろうと固く信じている、と。
 同女が神の命令で男の服を着ているというなら、どうして死ぬ間際になって女の下着を要求するのかと問うと、「長いということが私には大切なことです(1)」と答えた。”
 編訳者の注釈3月17日 註1 「服が長いといことが私には大切・・・」 前に注記したように、十五世紀の女性の衣服は、階層により素材に差はあっても極めて長く、逆に男性の上衣は一般に非常に短かった。”

  みだらな娘。テオドル・ツルドレン画。

 nobody:『復権裁判』はジャンヌの名誉というかジャンヌを称えることでジャンヌが支持したシャルル七世の威光を高め、同時にブルゴーニュ候権を貶める意図があったというのが、拙稿「聖魔女ジャンヌ・ダルク処刑についての小稿 A11.ジャンヌ=ダルクの百年戦争 堀越孝一 清水新書 清水書院 1984年」で紹介した 堀越孝一氏の見方です。


  そうだとすると、「天下人」の前に存命中のジャンヌの処刑裁判に係る裁判官たちが、時間経過もあるのでしょうがジャンヌ復権裁判において軒並み「記憶が曖昧になり」、コーションの意を受けたブルゴーニュ派の騎士エーモン・ド・マシをして、「牢内に入りこみ、ジャンヌに襲いかかる」ことが、復権裁判での表現では、”「何度も彼女の乳房に触れてやろうと、手をのせようと試みましたが、ジャンヌはありったけの力で私をはねのけました。ジャンヌは言葉づかいといい、ふるまいといい、実にりっぱでした。」(『.ヨーロッパ中世を変えた女たち』 福本秀子 NHK出版 2004年)”となるのです。


   『中世を生きる女たち』( アンドレア・ポプキンズ 原書房 2002年 森本英夫監修 朝香佳子訳者代表、p65−66)では、ちなみに、”塔の独房に戻った彼女の髪は剃られ、女性用の服があたえられた。 しかし彼女はそこに、前と同じ五人のイングランド人兵士たちとともに置かれたのだ。彼らは彼女に襲いかかり、彼女を犯そうとした。断固として彼らに抵抗した彼女は、ひどく殴れらた。”とされています。
  『インターコース』( アンデレア・ドウォーキン 青土社 1989年 寺沢みずほ訳)でのこの部分の解釈を待つまでもなく、「復権裁判」には「復権裁判」なりの「バイアス」があるのでしょう。

 ジャンヌの最後についても、ジャンヌ処刑の伝聞を記載した『パリの一市民の日記』などの「直ぐ死んだ」のではなく、よくある絵画そのままに、”そこで司教フォン=ボォヴェと宗教裁判官が1431年5月30日に、ヨハンナを教会から追放に処すという教会側の判決を告げ、それに囚人を世俗裁判所に引渡すという慣習上の付帯決議をつけたとき、イギリス占領軍が世俗裁判所の代行をし、彼らの敵のこの二十歳の少女に、できるだけゆっくりとした残酷な火あぶり刑を決定したのであった。”(『魔女と魔女裁判』( クルト・バッシュビッツ るぶらりあ選書法政大学出版部 川端豊彦・坂井洲ニ訳1970年、p81)のであり、乙女は、”苦痛のあまり呻き声をあげながらも、命あるかぎりイエスの名を繰り返し、鎖につながれた両手のなかの木の十字架に接吻した。
  断末魔が長く続き、(『地獄の辞典』( コラン・ド・プランシー 講談社 1990年  床鍋 剛彦 訳、p44)”、苦しんだのかもしれないのです。この辺が資料を批判的に解釈するところなのでしょうか。

 そして、改めて、『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』( レジーヌ・ペレヌー 白水社 2002年 高山一彦編訳、p165)3月17日の「長い服」に係る部分を読み返しつつ、15世紀のフランス男性ファッションと『ひっくり返り』を見比べると、ジャンヌの不安がよく分かります。
  そして、うかつにも、3月17日の編集者の注釈も『上衣』のことしかふれていないことにも気がつきました。
  女性たちが「カルソン」といって、それまで男性専用だった、いわゆるパンティを身につけるようになったのは16世紀のカトリーヌ・メディチの時代になってからなので、『同女が神の命令で男の服を着ているというなら、どうして死ぬ間際になって女の下着を要求するのかと問うと、』などと白々しく乙女に尋問する「聖職者」には「つつしみ」とかいう言葉は頭にないのでしょうか。これでは、うら若い乙女に対して、言葉による『拷問』とかわりはないではありませんか。
  ジャンヌの火刑台は、悪魔と通じたとされた乙女の性器が燃えるのを民衆にしかと見せて安心させるために高く造られた旨が、『死刑全書』で述べられていることの意味深さを感じたような気がした瞬間でした。
  ベッドフォード候が考えたとされる、一般大衆のサディズムを満足させる「見事な治世」かもしれませんが、ジャンヌが処刑された一年後の同じルーアンの広場で反乱が起き、援軍がなかったために参加した騎士達は処刑されたという事件がその答えかもしれません。


(D)裸で寝る

 『中世の森の中で』(堀米庸三編著 河出文庫 1991年、p73−74)

 ”中世の人びとは、裸で寝た。夜着をつけて寝たのは、聖職者だけである。病院のベッドでも、病人はすべて裸で寝かされ、しかも男女の区別なしという、むしろ現代の男性にとっては大変に結構な、羨ましい状態であった。
 聖職者は個人用の藁ぶとんを持っていたが、庶民は寝室も家族全員共同なら、ベッドも大型で、数人が同じベッドで一緒に寝た。個室は存在しない。人びとは裸になるのを見られるのを恥ずかしい余り、ベッドにもぐり込んでから衣服をとり、手の届くところにそれを置いておき、朝起き出る前に、またベッドの中で衣類を着た。” 

 ”貴族の場合は別として、庶民の男女の愛の営みは、夜のベットでより、昼間の戸外でなされることが多かった。
 ベットは雑魚寝である上に、藁が湿っていたりノミがピョンピョンはねたりして落ち着けず、それよりは昼の農村のほうが遥かにに健康的で、またわが国の十倍はある作付面積のお陰で、麦畑のなかに入れば人目につくこともなかった。家屋内がいちじるしく改善され、個室が生まれて男女が室内に姿を消すようになったのは、ようやく17世紀以降のことである。
 男女の愛を描いた版画を見ると、バックに十六世紀のものは自然風景が、17世紀のものは家具調度品が描かれ、両時代のコントラストは著しい。”

 『中世を生きる女たち』
 (アンドレア・ポプキンズ 原書房 2002年 森本英夫監修 朝香佳子訳者代表,p31 ジャンヌ・ダルク)

 ”護衛はジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジで、四人の射手もいた。騎士ジャン・ド・メスは、後に復権裁判の際、こう証言している。
 道中、ベルトランも私も、毎晩彼女とともに眠りました。乙女は、胴着もズボンも脱がないまま、私たちの側で眠りました。
 そして私自身に関していえば、彼女に尊敬の念を強く抱いていたので、彼女のかたわらへと行こうなどとは思いもしませんでした。誓って申し上げますが、私は彼女に対して欲望うあ性的な感情を抱いたことはまったくありませんでした。

  他の者たちもジャンヌ一行には、性的な要素が驚くほど見受けられなかったと感じている(23)。ジャンヌがなぜ彼女が男性の服を選んだのかについて説明することはなく、彼女の「声」が彼女にそうするように指示したから、また神がそれを好まれるから、というだけであった。しかしおそらくそれは、自分を援護してくれる男たちからの性的なアプローチに対して、心強さを増やさせるものであったろう。
 ド・メスは彼女が夜でも服を脱がなかったと証言している(もっとも、時は二月、三月であったから、ド・メス自身も、おそらく脱ぎはしなかっただろうが! ”

 nobody:「 ド・メスは彼女が夜でも服を脱がなかったと証言している」のは、わざわざ、慣習に反して「裸で寝なかった」と言わないと、何か問題があると思ったのでしょうか。 


(E)中世末期の都市における売春と強姦

   『性と歴史』(ジャン=ルイ・フランドラン 新評社 宮原 信訳 1987年、p345−348)

 ”昔のフランス社会では、結婚と私有財産は密接に関係していた。結婚するためには財産を所有していなけらばならず、同時に経済的に独立している者は妻帯者でなければならなかった。
   動詞 s’etablir(身をたてる)が古いフランス語で、「経済的自立」と「結婚」の両方を意味していたのもそのためである。
   都市部の青年の大多数は、下男、徒弟、職人であり、職人である者を除けば、彼らは経済的条件から独身を余儀なくされていた。私有財産のまったく持たない殻ら独身者たちは(12)、妻帯者たちと社会構造のうえから対立していた。
  後者はたんに経済・社会・政治権力ばかりでなく、性的権力をも独占していた。彼らは自分たちの妻、娘、下女たちに近づくことを何人たりとも禁止していたからである。
  ただこの独占状態は、ストライキ、暴動、強姦によってたえず脅かされ、かつ周期的に追放措置がとられていた乞食と違って独身者たちの労働力が不可欠だったので、妻帯者側も一定の譲歩をする必要があった。
  性的な領域にかぎっていえば、十分な数の売春婦を独身者たちに提供してはじめて、彼らは、妻、娘、下女たちの操を守り得たのである。

 十五世紀のフランスではあらゆる都市が市営娼家を備えていたらしい。それはしばしば公共の資金で建設され、常に市議会によって直接間接に経営され、原則として独身者専用とされていた。
  上りの値段はきわめて廉価で、職人ひとりの日給の八分の一ないし十分の一にすぎなかった。こうして、「堅儀の」娘、妻たちから遠ざけられていた独身者たちも、「公共の」、もしくは、「共有の」娘たちによって性欲を満たすことができたのである。

 それにもかかわらず強姦が頻繁に行なわれ、かつきわめて特異な性格をもっていた。記録に残るもののうち80パーセントが集団的、もしくは、いわば公的なものだったからである。
   その筋書は細部は別としていつも決まっていた。男たちは、夜、犠牲者として目星をつけた女性の家に出向く。そしてまず窓の下で騒ぎ、名前を呼び、はすっぱ女だといって囃したてる。それから相手が黙っているとドアを壊し、女を掴まえ、外に引きずりだして、殴り、強姦するーかわるがわる、ときには一晩中ー。そのあとで、ときとして女を家に送り届け、しばしば金を受け取るよう申しでる。物音がするから隣人はなにが行なわれつつあるのか一部始終を知っていて、耳をすまし、鎧戸の隙間から外を覗いているが、五度に四度は、放っておく。

 しかしながら常習のならず者が犯人であるケースは10パーセントしかなかった。ふつうは、下男、徒弟、職人、商家の番頭、書記、職人や商人の子息といった、警察沙汰とは無関係の18ー24歳の若い独身者たちが犯人だった。
  ロシオは、計算の結果、ディジョン市で、少なくともふたりにひとりの都市青年がすくなくとも一生に一度は強姦に参加したことになるとし、この場合の強姦は青年期から成人期への通過儀礼の一種ではないかと考えているが、犠牲者である女性にとってもそれが通過儀礼だったことは明らかである。

 目星をつけられるのは一般に、貧しい女、下女、よそ者、あるいはひとりまたは複数の男と結婚外の性的関係をもったらしいと噂されている女性である。
   しかも略奪者たちは等しく彼女らをふしだらな娘、もしくは妻とみなす。いずれにしても集団的=公開の強姦によって彼女たちは、それまで主張してた堅儀女性の範疇から「公共、供用の」娘の範疇へと、つまり妻帯者たちの息がかかっている領域から独身者の自由にまかされた領域へと突き落とされたのである。

 中世末期の都市で、思春期の娘がどんな危険にさらされていたかがこれでわかろう。だからこそ親たちは、娘を早く結婚させようと努めたのかもしれない。
   しかし男子にとって、若さと独身は少しも辛いことではなかった。それは職人組合と「陽気な僧院」でくり広げられる男どうしの友情の時期であり、責任のない年齢、性的自由を謳歌する年齢だった。
  ところでこうして男子の特権も16世紀以後、俗界の、時に教会の行政指導いよって大部分つぶされてしまった。1520年から1570年にかけて、市営娼家はすべて閉鎖され、公開強姦も同じ世紀の終わりまでには姿を消したようである。また、「陽気な僧院」の騒ぎも、17、18世紀にはしだいに厳重な取り締まりの対象となる(13)。

 農村部でも、付属資料の示すごとく、売春婦が存在し強姦も行なわれた。しかし私の知るかぎりでは公営の娼家はなく、農村青年にとって娼婦の交際は都市の青年の場合ほど頻繁ではなかった。
  また農村の娘たちは都市の娘たち以上に自由に同じ村の男子と交際し、そこからなにがしかの性的満足を得ながら、そして名誉を失う危険にもさらされていなかったのである。” 


(F)平均寿命が短い社会

  『中世の森の中で』(堀米庸三編著 河出文庫 1991年、p175−176)

  ”中世、騎士の子であれ、農夫、職人の子であれ、7歳前後から職業の訓練を受け、労働を負担した。13歳ともなれば、男女ともに適法の婚姻が可能であった。15歳は法的な成人の目じるしで、ここまで来れば家計であれ、一国の命運であれ、全責任を負うたのである。35歳ともなれば、すでに老境であった。
  新進の中世史家R・ドロールのごときは、45ないし55パーセントが20歳以下の者で占められていたのではないかと推定し、政治事件にさえもその影を落としている中世の人間の行動特有の激情と稚拙さ、特に愛憎の烈しさやその変転とこの社会的年齢構成の若さとの関係を示唆している。”


 (G)宗教的禁忌(フランスでの例)

  『性と歴史』(ジャン=ルイ・フランドラン 新評社 宮原 信訳 1987年、p140−141)

   ”カンブレ司教区での特殊権限ケースのリスト(1300−10年)を検討しよう。このリストはわれわれに、司教権限の罪、司教派遣の聴罪師に委ねられた罪、教区司祭。助祭に委ねられた罪をつぎつぎに列挙してくれるが、反自然の罪も三つのグループに分けられる。

司教権限=20歳以上の男子による反自然の罪

聴罪師権限=年齢を問わず女子が、または20歳未満の男子が、犯した反自然の罪。年齢を問わず、手淫。

司祭権限=女性との放埓な交接。軟弱の罪(le peche de mollesse)。
                未成熟期ー男子では14歳未満、女子では25歳未満ーにおける反自然の罪。

  右の分類から、「反自然の罪」とだけ呼ばれているものは、おそらく同性愛的関係だったと推測される。
  男子よりも女子によって罪が軽いとされているのも、裁判所の判決例に関するわれわれの知識と一致する。わからないのは「軟弱」が何をさすかだ。「年齢を問わず、手淫」は別に扱われているからである。”

 nobody:中世フランスでのレズビアンの罪は、ソドミーより軽かったようです。

 

 

 

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