T中世の風俗 |
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(A) 都市にてー「活人画」の題材の例ーパリスの審判 ホイジンガが紹介している記述によると、<当時支配的であった羞恥心から考えて、一層奇異に感ぜられるのだが、一般に絵画において余り見られない婦人の裸体が、活人画の中では無造作に使われている。どんな入城式典の際にも裸の女神(ヴィナス)や妖精(ニンフ)の見世物が無いことはなかった。 (B)ひっくり返り(ダンス遊びの一種) 『風俗の歴史3』( フックス 光文社 1966年 安田徳太郎訳、p187−188) ”中世とルネッサンスのたいていの遊戯には、こういうエロチックな内容が、まだひじょうに露骨に示されていた。 「ひっくり返り」という遊戯では、一人の紳士と一人の淑女の喜劇的な格闘が中心であった。この格闘はつぎのようにおこなわれた。男女二人のどちらかが、足をあげて相手の足のうらを蹴る。その結果、蹴られた相手は釣合いを失って、ひっくり返る。女はこの格闘のあいだ、地面にすわっている一人の男の背中の上にまたがるが、蹴る方の男は立っている。 『ねむり姫の謎』(浜本 隆志 講談社現代新書 1999年、p126−131 ダンスの陶酔) ”ダンスは歌とともに、糸つむぎ部屋の集まりや祭りにおいて、たいへん重要な娯楽であった。多くの資料が語っているように、農村では人びとは糸つむぎ部屋以外の祭りや結婚式などでも、たえず会合の機会がるたびに踊っている。 フックスの『風俗の歴史』によると、農民の踊りのなかでもとくに、「ひっくり返り」という競技に人気が集まった。これは男女が踊る際に片足をあげ、相手の足の裏に蹴りを入れ合う、というものである。 かつて、あらゆる身分やほとんどの年齢でも、お気に入りの娯楽であったダンスは禁じられてしまった、ただ結婚式のときだけ、なお許されたけれども、日暮れとともにダンスをやめなければならなかった。この娯楽がたまにしかおこなわれなればなるほど、人びとはそれだけ激しくダンスに熱中して楽しんだ。 若い陽気な連中は、跳びはねて相手をひっくり返すことに、面目をかけた。その際、女の踊り手は相手がひっくり返ると、いっしょに倒れることもまれではなかった。そのあられもない姿によって、笑いを誘うというのがいつものことだった。それは悲しむべきことに、かれらの風紀を乱した。 しかし監視官が制止しても、その場かぎりのことである。彼は民衆の楽しみを根絶やしにすることはできなかった。それほどダンスの魅力は大きかったのである。 その上、ダンスはたがいの親しい愛情を交換するための、機会をたえずもたらした。キスがそのトップであった。男は女の踊り手の唇や頬にキスをしただけではなく、すっかりあらわになった胸にキスするのを一番好んだ。 それほど近くない場所では、ペアのダンスが主流である。なおグループの輪舞は、糸つむぎ部屋でというより、野外における祭りの踊りであったが、これも一般に好まれ、各種の祭りの際に、人びとが踊り狂っている姿が多く描かれている。 フランス革命の際に流行った、「自由の木」のまわりで踊るしきたりも、このような農民の習俗にルーツをもつといわれている。 人びとがダンスによって官能が刺激され、性的に興奮してくると、気の合った者同士では、最後のいきつくところまで進展していった。糸つむぎ部屋でもそのような事例は、いくつか認められる。 『ジャンヌ・ダルク』村松 剛 中公新書 1967年、p48−49) ”ドンレミイの村から西に三キロメートルほどのところに、「槲の森」(かしわの森 ボア・シュニュー)とよばれている森がある。このあたりは丘陵で、ムーズ川のつくる緑の渓谷が、眼下に美しくひろがる。丘のうえには十九世紀にジャンヌのためにつくられたノートル・ダム教会が立ち、そばに巡礼のための小さな宿屋もある。 ここはジャンヌがお告げをきいた、といわれる場所の一つなのだ。教会のまえには、聖ミカエルと二人の天使の石像が、跪づくジャンヌを見降ろしている。 ジャンヌの時代には、「槲の森」にひとりの少女が出現し、フランスを救うという伝説があった。もっともジャンヌ自身は、これに無関心だったらしく、自分はそういうことをしんじなかったと、法廷ではこたえている。 教会のまえのゆるやかな斜面を下がった水ぎわに、そのころ巨大な山毛欅(ブナ)の木があった。この山毛欅は、「仙女の樹」または「女たちの樹」と呼ばれ、ここに仙女が出没するといわれていた。すぐそばの泉の水を飲むと、病気がなおると村びとたちは言った。 晴れた日には、木のまわりに村の娘たちが集まるのが見られた。ことに日曜日のミサのあとには、晴着姿の娘たちや若い男が、パンや水とをもちよってここに遊びにきた。彼らは木陰に布を敷き、パンやりんごをかじりながら、踊ったり歌ったりするのである。 「仙女の樹」は、キリスト教以前からの古い土着の伝説だろう。ジャンヌも友人たちも、仙女を文字どおり信じていたわけではなかった。私は仙女が出たというはなしをきいたことがありませんと、彼女はのちに法廷で答えている。 しかしこの「仙女の樹」の一件は、裁判のさいに、ジャンヌが異端だったことの証明材料として用いられている。この地方には魔女が多く出没し、ジャンヌもまたそのとりこにされた、ということになるのである。” (C)15世紀フランスの、お尻と脚線美の男性モード
『百万人のお尻学』(山田五郎 講談社α文庫 1998年,p164) ”近代以前のヨーロッパの服飾体系の中では、男性がスカート型の服を着ることは決して珍しいことではなく、お尻と脚は女性ではなく男性のセックス・シンボルだったのだから。
『あぶない世界史 U』(桐生 操 福武文庫 1996年,p261) 「股袋」というはでなファッションはどうして流行したか? そのうちこの股袋は、男にとって欠かせないオシャレになった。みかけもハデになる一方で、ダマスカス産の絹を使ったり、金銀の刺繍をしたり、ルビーやサファイアをはめこんだり、先っちょにリボンや花を飾ったものまで現れた。女たちが鯨の骨でつくったコルセットでバストをせりあげたように、男たちもこの股袋で、思いっきり、男性の大切なものをみせびらかした。”
『風俗の歴史1』( フックス 光文社 1966年 安田徳太郎訳、p230−231) ”男はまず第一に、ひとつひとつの筋肉がはつきり目立つようにと、体にぴつたりくつついた服装をつけ、上衣は昔よりうんと短くし、たいてい帯の下に手の幅以上を出ないという、一種のジャケットをつけるようになった。 こういう服装では、運動のときはひじようにたよりないから、結局、この傾向が絶頂に達すると、ひとつの急変があらわれて、それは時代のきめたこういうつとめを解決するための、第二の形をとるようになつた。 つまり、ジャケットの切れめから絹のシャツを襞のようにはみ出させ、ズボンの切れめには、けばけばしい色の、絹の襞をつけた。こういうようにして、十五世紀の終わりごろからはじまつた、襞つき服の最初の形があらわれた。” 修道院の藪かげにいる百姓の女房と田舎貴族。この時代では田舎貴族はまだズボンをはいていなかった。 バーゼルの旗手。ハンス・バルドゥング・グリーン。木版画。
『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』( レジーヌ・ペレヌー 白水社 2002年 高山一彦編訳、p165) 3月17日“同女がミサに与りにゆけるよう提供された女性の服について、同女の申し立てを訊ねると、次のように答えた。女性の服については、わが主の思し召しにかなわぬ限り着るわけには行かない。もしこのまま処刑場に曳き出され、そこで脱がされるようなことになるなら、女性の長い下着と頭に被る頭巾を与えてくれるよう、教会の偉い方達にお願いする。 みだらな娘。テオドル・ツルドレン画。 nobody:『復権裁判』はジャンヌの名誉というかジャンヌを称えることでジャンヌが支持したシャルル七世の威光を高め、同時にブルゴーニュ候権を貶める意図があったというのが、拙稿「聖魔女ジャンヌ・ダルク処刑についての小稿 A11.ジャンヌ=ダルクの百年戦争 堀越孝一 清水新書 清水書院 1984年」で紹介した 堀越孝一氏の見方です。
ジャンヌの最後についても、ジャンヌ処刑の伝聞を記載した『パリの一市民の日記』などの「直ぐ死んだ」のではなく、よくある絵画そのままに、”そこで司教フォン=ボォヴェと宗教裁判官が1431年5月30日に、ヨハンナを教会から追放に処すという教会側の判決を告げ、それに囚人を世俗裁判所に引渡すという慣習上の付帯決議をつけたとき、イギリス占領軍が世俗裁判所の代行をし、彼らの敵のこの二十歳の少女に、できるだけゆっくりとした残酷な火あぶり刑を決定したのであった。”(『魔女と魔女裁判』( クルト・バッシュビッツ るぶらりあ選書法政大学出版部 川端豊彦・坂井洲ニ訳1970年、p81)のであり、乙女は、”苦痛のあまり呻き声をあげながらも、命あるかぎりイエスの名を繰り返し、鎖につながれた両手のなかの木の十字架に接吻した。 そして、改めて、『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』( レジーヌ・ペレヌー 白水社 2002年 高山一彦編訳、p165)3月17日の「長い服」に係る部分を読み返しつつ、15世紀のフランス男性ファッションと『ひっくり返り』を見比べると、ジャンヌの不安がよく分かります。 (D)裸で寝る 『中世の森の中で』(堀米庸三編著 河出文庫 1991年、p73−74) ”中世の人びとは、裸で寝た。夜着をつけて寝たのは、聖職者だけである。病院のベッドでも、病人はすべて裸で寝かされ、しかも男女の区別なしという、むしろ現代の男性にとっては大変に結構な、羨ましい状態であった。 ”貴族の場合は別として、庶民の男女の愛の営みは、夜のベットでより、昼間の戸外でなされることが多かった。 『中世を生きる女たち』 ”護衛はジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジで、四人の射手もいた。騎士ジャン・ド・メスは、後に復権裁判の際、こう証言している。 他の者たちもジャンヌ一行には、性的な要素が驚くほど見受けられなかったと感じている(23)。ジャンヌがなぜ彼女が男性の服を選んだのかについて説明することはなく、彼女の「声」が彼女にそうするように指示したから、また神がそれを好まれるから、というだけであった。しかしおそらくそれは、自分を援護してくれる男たちからの性的なアプローチに対して、心強さを増やさせるものであったろう。 nobody:「 ド・メスは彼女が夜でも服を脱がなかったと証言している」のは、わざわざ、慣習に反して「裸で寝なかった」と言わないと、何か問題があると思ったのでしょうか。 (E)中世末期の都市における売春と強姦 『性と歴史』(ジャン=ルイ・フランドラン 新評社 宮原 信訳 1987年、p345−348) ”昔のフランス社会では、結婚と私有財産は密接に関係していた。結婚するためには財産を所有していなけらばならず、同時に経済的に独立している者は妻帯者でなければならなかった。 十五世紀のフランスではあらゆる都市が市営娼家を備えていたらしい。それはしばしば公共の資金で建設され、常に市議会によって直接間接に経営され、原則として独身者専用とされていた。 それにもかかわらず強姦が頻繁に行なわれ、かつきわめて特異な性格をもっていた。記録に残るもののうち80パーセントが集団的、もしくは、いわば公的なものだったからである。 しかしながら常習のならず者が犯人であるケースは10パーセントしかなかった。ふつうは、下男、徒弟、職人、商家の番頭、書記、職人や商人の子息といった、警察沙汰とは無関係の18ー24歳の若い独身者たちが犯人だった。 目星をつけられるのは一般に、貧しい女、下女、よそ者、あるいはひとりまたは複数の男と結婚外の性的関係をもったらしいと噂されている女性である。 中世末期の都市で、思春期の娘がどんな危険にさらされていたかがこれでわかろう。だからこそ親たちは、娘を早く結婚させようと努めたのかもしれない。 農村部でも、付属資料の示すごとく、売春婦が存在し強姦も行なわれた。しかし私の知るかぎりでは公営の娼家はなく、農村青年にとって娼婦の交際は都市の青年の場合ほど頻繁ではなかった。 (F)平均寿命が短い社会 『中世の森の中で』(堀米庸三編著 河出文庫 1991年、p175−176) ”中世、騎士の子であれ、農夫、職人の子であれ、7歳前後から職業の訓練を受け、労働を負担した。13歳ともなれば、男女ともに適法の婚姻が可能であった。15歳は法的な成人の目じるしで、ここまで来れば家計であれ、一国の命運であれ、全責任を負うたのである。35歳ともなれば、すでに老境であった。 (G)宗教的禁忌(フランスでの例) 『性と歴史』(ジャン=ルイ・フランドラン 新評社 宮原 信訳 1987年、p140−141) ”カンブレ司教区での特殊権限ケースのリスト(1300−10年)を検討しよう。このリストはわれわれに、司教権限の罪、司教派遣の聴罪師に委ねられた罪、教区司祭。助祭に委ねられた罪をつぎつぎに列挙してくれるが、反自然の罪も三つのグループに分けられる。 司教権限=20歳以上の男子による反自然の罪 聴罪師権限=年齢を問わず女子が、または20歳未満の男子が、犯した反自然の罪。年齢を問わず、手淫。 司祭権限=女性との放埓な交接。軟弱の罪(le peche de mollesse)。 右の分類から、「反自然の罪」とだけ呼ばれているものは、おそらく同性愛的関係だったと推測される。 nobody:中世フランスでのレズビアンの罪は、ソドミーより軽かったようです。
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