▲マナーハウスの基本要素
▲マナーハウスにおける身分秩序(断面図)
中世騎士の住居といえば、城が思い浮かべられるかもしれません。しかし、騎士であれば誰でも石造りの城に住んでいたわけではありません。建設に莫大な費用のかかる城は、広大な領地を持つ公や伯などの諸侯や、彼らから複数の村落や荘園を含む支配域を封土としてを受けた城主層たちのものでした。封建制ヒエラルキーでより下位に位置する騎士―ひとつ、ふたつの村や荘園を預けられた平騎士―たちはもっと簡単な造りの領主館(荘館)に住んでいました。英語圏ではマナーハウスと呼ばれる建物がそれです。
マナーハウスは騎士とその家族の住居であると同時に、その騎士が統括する荘園の中心でした。ここは荘園で収穫された作物の集積場であり、また荘園内での揉め事を解決するための裁判所であり、中世の重要建築の御多分にもれず防御施設でもあったのです。しかし、領民の避難や篭城を考慮に入れた、本格的な防衛施設としての城に比べ、簡単な堀や柵などしかもたないマナーハウスは営農的性格が強いものでした。以下は特に中世イギリスにおけるマナーハウスについて書いています。
最初期のマナーハウスはただひとつのホールに過ぎませんでしたが、12世紀頃に別棟で立てられていた領主の私室(ソーラー)が結合してからは、ホールとソーラーの二部屋構造となります。ソーラーはホールより一階分上に作られることもあり、その際にはソーラーの下は倉庫や礼拝堂として使われました。この二部屋は防衛上の理由から二階に設けられることが多く、その場合一階は倉庫・納屋として使われました。一階と二階にはそれぞれ出入口が設けられていましたが、一階と二階は完全に分離されており、内部からは昇降できないようになっていました。これは、物資搬入のために大勢が出入する一階出入口からの、ホールやソーラーへの侵入者を警戒したためです。
マナーハウスは時代の経過と共に居住性を高めていきました。二部屋構造の次にはホールを挟んでソーラーの反対側に台所や食料庫が置かれるようになり、さらに13世紀にはホールのソーラーよりに一段高いスペース(ダイス)が置かれるようになります。台所が近くなったことで、それまで別棟の台所で造っていた料理を二階まで持っていく手間がはぶけ、熱いままの晩餐を食べることが出来るようになりました。またダイスの形成は、古ゲルマン時代からの戦士集団としての団結精神を養っていた主人と家臣が共にとる食事の形式から、封建制の上下関係を明確に表す形式への変化を促しました。領主は、家族やときには賓客と共にダイスの上で上等な椅子に腰掛けながら食事をしたのです。こうして、マナーハウスは領主一家の居住性を追及していく中で、封建制的身分秩序を一本の軸として持つ建物へと進化していったといえます。
14、15世紀に暖炉が普及するまでは、マナーハウスの暖房具は平炉だけでした。しかし、天井の高いホールを完全に暖めることは不可能でしたので、炉はダイスに近くに置かれせめて領主一家が寒さに辟易しないようにされただけでした。また、15世紀以降ガラス窓が多く使われるようになる以前は、騎士の家の窓であろうと農家のそれと変わらずに木製の扉で風雨をしのぎました。しかし、通常の窓とは別に設けられた小窓に油を染み込ませた麻布を張るなど、ガラス窓を使えるようになる前にも採光する努力はなされていました。ガラス窓は教会のステンドグラスなどには見られるものの、中世には高級品で、そのために人々はステイタスシンボルとしてこぞってガラスを求めました。初期のガラス窓は、まだ私たちの知っているような一枚のガラスでできているものではなく、ガラスの小さな破片や、丸型や菱形のガラスを鉛の枠で囲ったものでした。
建物は木造の簡単な造りで、壁は漆喰塗りがされていました。窓はありましたが、領主館にもめったにない硝子窓があるはずもなく、風雨の際には木製の雨戸を閉じました。裕福な農家の床は板張りでしたが、多くの農家の床は踏み鳴らされた土間で、藁が敷かれることもありました。地域や時代によって差はありますが、一般的な農家の広さは30平方メートル未満で、大きいものでも40平方メートルは越えなかったようです。家の周囲には穀物倉、家畜小屋、納屋などの農業に関連した施設が置かれていました。
居間の中央には石を積み上げてつくった簡単な炉が置かれました。かまど税が家屋税(今で言う固定資産税)の呼び名として使われていたことは、居間の中心の炉の重要性を物語っています。この炉は、部屋を温めると同時に人々に粥やスープを提供しました。この時代には、まだ暖房用の火と、料理用の火が分化していなかったのです。炉から出る煙を外に出すために屋根には穴が設けられましたが、たいした効果は上がらず炉のせいで「寝間も広間も煤だらけ」(『カンタベリー物語』)でした。暖炉がある農家は中世には稀で、煙突が農村でも普及したのは16世紀以降のことでした。
寝具は質素で、貧しい家では藁の山がそのまま寝台となりました。農家では藁のマットレス、リネンのシーツ、毛織の掛け布団があればもう立派なベッドができました。シーツはただ藁にかけられていることもありましたが、袋状になっていてそこに藁が詰められることもありました。掛け布団には羊毛が使われ、野ウサギやキツネの皮などで裏打ちされていました。中世人口の9割を占める農民は、このような大変質素な家で暮らしていたのです。
▲都市住宅の基本形
▲住宅部分の拡大と中庭採光の減少
中世都市が抱える問題のひとつに、市域が狭隘であることが上げられます。ローマ帝国末期は人口の減少や田園への流出などもあり、市域は縮小する傾向にありましたが、11世紀以降の経済活動の活発化や農業生産の増加により都市集落の発展が見られるようになると、都市に人口が集中するようになっていったのです。市壁の建造は莫大な費用と時間がかかるため、市壁拡大は住民にとって大きな負担でした。そのため、そう何度も増築して市域を拡大することはできません。中世都市の人々にとって限られた空間をいかに広く使うのかというのは大きな問題だったのです。
限られた都市空間をできるだけ有用に使うためには、街路の数や幅を制限する必要があります。この少ない道に面して多くの住宅を建てるために、間口が狭く、奥行きの深い長方形が都市住宅の基本形となります。この長方形は、古代からの伝統を持つ都市の場合にはローマ時代のインスラ(集合住宅)に影響を受けて形成されましたが、ライン川以東のローマの支配が及ばなかった地域にある都市では、街路に面した小さな住宅が人口増により奥に増築された結果として造られるようになりました。後者の場合、元々あった空間が建物によって埋められていくと、採光の面で問題が出てくるために、すぐに長方形になったわけではなく、その過程でL字型やコの字型、ロの字型の住宅を生み出しました。
ローマのインスラの伝統は狭い間口と深い奥行きだけではありません。インスラは中世の住宅とは異なり複数世帯が同じ屋根の下に住むものだったため、通常の出入口の他に二階へ通じる階段に直接繋がっている出入り口がありました。この一宅二口の伝統は、上階に別の家族が住まなくなった中世になっても継承され、一つで事足りる出入口が二つある様式を残しました。また、地階を店舗にしていたインスラの正面玄関には陳列棚が壁に接する形で設けられていましたが、これも中世に鉤型の開口部を残すことになります。
床面積を確保するために住宅は上にも伸びていきます。都市建築では2階建て以上は普通で、5階建てやそれ以上のものもありました。また、屋根を急傾斜にすることで屋根裏まで余さず利用しました。さらに、少しでも利用空間を増すために、2階以上の部分が下の階よりも道側に迫り出す構造も多く見られます。多くの場合、1階は作業所・店舗・倉庫・畜舎(都市でも自宅で家畜が飼われていた)などとして使われました。商人や職人の多く住む都市では1階は仕事の場とされたのです。続く2階は家主一家のための空間でしたが、個人の部屋というものはなく、もっぱら居間と寝室の二部屋構造でした。3階以上や屋根裏部屋は倉庫や使用人の部屋が配されました。
初期の都市住宅は木造が一般的でしたが、都市住民の財力が向上するに従って、石造・煉瓦造りのものへと変化していきます。こうして、柱、梁などの木造骨組をそのまま外部に露出せ、骨組みの間を石や煉瓦で埋めて壁を造るハーフティンバー造りが中世住宅の基本形として定着するようになります。完全に石造にする余裕がない場合は上階を支える地階のみを石造にしました。また、防火のために屋根も藁葺、木製のものからスレート(粘板岩の薄板)葺きのものへと変わっていきます。しかしながら、プライバシーの意識は相変わらず弱いままで、ベッドにカーテンを備えるなどの工夫はなされるものの、農村の住宅と基本的には変わらない居間・寝室の二部屋構造は維持されました。住宅に個室が普及するのは近世以降のことです。
<建築材料>
中世の家は、その家のある地方や家の主の富によって変わりましたが、ほとんどが木材、石材、土で建てられました。家の床は石を敷き詰めたものや、もっと簡単に土を踏みしめただけのものもありました。二階以上の床は木でできていて、これは下の階の天井となっていました。屋根は石の瓦を敷き詰めたり藁で作られたりしました。
窓は小さいことが多く、まだ大多数の家には非常に高価だったため窓硝子はついていませんでした。その代わりに蝋や油をひいた紙や布、木製の枠などが使われました。戸締りするのには木の鎧戸を用いました。
「紗瑠々の資料室」は中世ヨーロッパ世界を中心とした情報サイトです。通史・軍事・城・都市・農村などの中世社会を理解するにあたってポイントとなるものを少しづつ紹介しています。学術的なものではなく、一個人が趣味で収集した資料ですので不適当なところもあるかと存じます。お気づきの点がございましたら、ご指摘をお願いします。
画像・文章の無断転載等はご遠慮下さい。また、このブログの情報を運用した結果の影響についてはいっさい責任を負いかねますので、観覧は全て自己責任でお願いします。
百年戦争。荒れ狂う戦火の中で、金と仲間にしか興味を持っていなかった傭兵隊長が、ひとりの少女に強く惹かれていく。少女の名はジャンヌ、オルレアンの救世主にして、フランスの希望だった。
英仏百年戦争、ジャンヌが登場してからの歴史は有名ですが、それ以前となるとあまり知られていません。百年戦争前半の英雄、名将デュ・ゲクランや賢王シャルル5世、黒太子エドワードや重鎮チャンドスの活躍に注目です!
王妃はフランス王ルイ12世の妃であるジャンヌ。王は彼女の離縁を求めて離婚裁判を起こすが、そこに弁護士フランソワが立ちふさがる。15世紀を舞台にした、異色の法廷劇の中で、中世人の心性が伝わってきます。
ロードス島。東地中海に浮かぶ小島は聖ヨハネ騎士団の拠点にして、イスラムとの戦いの最前線でもある。16世紀、拡張を続ける大帝国オスマン朝の大群に立ち向かった騎士たちの、壮絶な戦いが甦る。
コンスタンティノープルの陥落という世界史的大事件を、当時生きた様々な立場の人から多角的に描いた作品。スルタンや皇帝といった指導者の他に、キリスト教徒の同胞との戦いを強いられたバルカン半島の騎士、皇帝を支えた重臣などの活躍も見どころ。
騎士の生活から、彼らの使った武器や防具に関する詳細な情報。騎士になるための訓練、文学の中の騎士、騎士の華馬上槍試合と、中世の騎士に関する情報が満載の一冊。中世騎士なら、まずはここから始めてみてはいかがでしょう。
Powered by "Samurai Factory"