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【憲法と、】

第1部 50年代の攻防<2> 判決に教わった9条

かつて在日米軍立川基地だった陸自駐屯地のフェンス脇で、砂川闘争を語る島田清作=東京都立川市で(久野功撮影)

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 一メートルほどの高さの柵を倒し、学生たちが米軍立川基地(旧東京都砂川町、現立川市)内になだれ込んだ。警官隊は、有刺鉄線を広げて待ち受ける。大学生だった島田清作(74)=元立川市議=は、後続のデモ隊に押され後戻りできない恐怖の中で、足で押し返した有刺鉄線の硬さを覚えている。一九五七年七月八日のことだった。

 五五年、基地の拡張が公表され、土地を奪われる農民に、学生や労組が合流。警官隊と衝突を繰り返した。島田は兵庫県西宮市出身。小学生のときに、空襲で街が廃虚になる姿を目の当たりにした。「基地拡張は戦争をするということ」という思いがあった。

 大学生だった榎本信行(78)=弁護士=は近所だったので、好奇心で出かけた。炊き出しをする農家の女性から「憲法に軍隊はだめだと書いてある。米軍基地もだめだろう」と話しかけられた。

    ◇

 「日本の非武装化は誤りだった」。五三年十一月、来日したニクソン米副大統領=当時(40)=は日米協会主催の昼食会で演説し、軍事協力を呼び掛けた。平和憲法を求めた米国が、自国の軍事費を削減しつつ共産主義勢力と対抗するため、方針転換したことがあからさまとなった。

 「米国に押しつけられた憲法」と改正を訴えた政治家の論調に、ねじれも生じた。五四年三月の自由党憲法調査会初会合で、鳩山一郎は「(改憲で)冷却しつつあるアメリカとの関係をふたたび旧に復することができる」とあいさつ。七月には自衛隊が発足した。

 砂川闘争は、その日米関係にくさびを打ちかねない司法判断をもたらす。刑事特別法違反罪で起訴された学生ら七人に、東京地裁は五九年三月、無罪判決を言い渡した。米軍駐留を憲法九条違反と指摘。伊達秋雄裁判長の名から「伊達判決」と呼ばれる。

 伊達とともに判決に臨んだ裁判官、松本一郎(82)=独協大名誉教授=は、憲法公布直後は「米国に押しつけられた」と反感を抱いていたという。任官して学ぶにつれ、戦力不保持をうたう九条を「成立の経緯はどうあれ、大切にしないといけない」と思うようになる。米ソ冷戦に日本が巻き込まれることも心配だった。「改憲派の言い分は米国べったりで日本がステイツ(州)の一つになりかかっていると感じていた」

 伊達との議論は「駐留米軍が日本の戦力と言えるかどうか」が中心だった。当時、憲法違反の判例はほとんどない。「僕の前に道はない」という高村光太郎の詩の一節を思い浮かべながら原案を書いた。法廷で判決を読み上げる伊達は胸に辞表を忍ばせていた。

 検察は、高裁を飛び越えて最高裁に上告。結局、最高裁は伊達判決を破棄。差し戻し審で有罪が確定したが、九条の存在感は増す。弁護団事務局長内藤功(82)は「憲法をちゃんと使えば平和は守れるんだ」と感じ入り、イラク派兵など自衛隊の合憲性を問う訴訟に身を投じる契機になった。

 デモの先頭にいた島田は、新聞で伊達判決を知る。交渉が進む日米安保条約改正のことで頭がいっぱいの時だった。「憲法とはこういうことを決めているのかと、判決が気付かせてくれた」 =敬称略

◆2013年の窓

 政府は自衛隊の海外活動を次々に増やす一方、憲法が禁じた「戦力」ではないとの立場を取り続ける。一九九〇年代から海外派遣を開始。二〇〇三年成立のイラク特措法で、戦闘が続く外国領土にも初めて派遣した。安倍晋三首相は今年二月、憲法解釈で禁じられた集団的自衛権の行使容認に向けた有識者会議を再開した。

 砂川訴訟では、最高裁判決前に米大使が田中耕太郎最高裁長官から越権的に情報収集していた事実が近年、米公文書から判明している。

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