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【芸能・社会】バタヤン田端義夫さん逝く 水平ギターの個性派歌手94歳2013年4月26日 紙面から
「バタヤン」の愛称で親しまれ、「大利根月夜」「かえり船」などのヒット曲で知られた歌手の田端義夫(たばた・よしお、本名田畑義夫=たばた・よしお)さんが25日午前11時45分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。94歳。三重県松阪市出身。葬儀・告別式は家族葬で行い、後日お別れの会が開かれる。 1938年、新愛知新聞(現中日新聞)、吉本興業主催のアマチュア歌手コンクールに出場し、優勝。これをきっかけに39年「島の船唄」でデビュー。ギターを水平に抱え、ステージで右手を挙げて「オース!」とあいさつするスタイルで人気を集め「大利根月夜」「別れ船」などが次々に大ヒットした。 粗削りともいえる発声や泥臭さ、気さくな人柄で親しまれ「波の背の背に ゆられてゆれて」の歌い出しで知られる「かえり船」は、多くのファンがまねをして歌った。62年に「島育ち」がヒットし、その後も一線で活躍し続けた。 戦前から60年代にかけて、喜劇や時代劇などの映画にも軽妙な役どころで出演、「月の出船」などの主演作もある。 79年には米ラスベガスのスロットマシンで29万ドル(当時のレートで約6400万円)の大当たりを出して話題を呼んだ。 89年に勲四等瑞宝章。91年に自伝「オース!オース!オース!」を出版。95年から日本歌手協会会長を務め、2003年から名誉会長。 ◇ 遺族によると東京都内の病院に入院していた田端さんは24日に容体が急変。25日、妻の尋美(61)ら家族に見守られ眠るように息を引き取った。 田端さんは2010年3月31日に東京都内の自宅で転倒し、病院に運ばれた。転倒による大きなけがなどはなかったが、検査で胃潰瘍が見つかり、そのまま入院した。 その後は、高齢からくる体力的な問題などから病院での闘病生活が続いた。容体が急変することも何度かあったが、そのたびに持ち前の気力で乗り切った。体調が良い時は、看護師や見舞客にジョークを飛ばすこともあったという。 08年の2月に名古屋・中京大学文化市民会館(現日本特殊陶業市民会館)でのコンサートが最後のステージになった。最後のレコーディングはこの年の秋。吹き込んだ新曲は90歳の誕生日だった09年1月1日に発売したデビュー70周年記念アルバム「バタヤンの人生航路」に収録された。 今年5月18日には、東京都内の劇場で田端さんをモデルにしたドキュメンタリー映画「オース!バタヤン」が公開になる。田端さんの生き様を貴重なライブ映像や著名人へのインタビューで構成された。田端さんの大ファンだった亡き立川談志さんも登場し、熱い思いを披露している。 今年2月。スタッフが公開日が決まったことを田端に知らせると「そうか」と笑顔を見せたという。再び、ステージに立つことも最後まであきらめなかった。側近のスタッフが「そろそろ新曲を出しましょうか」と向けると、田端さんも「そやな!」と言って身を乗り出していたという。 田端さんの娘で「田端義夫音楽事務所」の社長を務める宮田紗穂里さん(34)は昨年末に結婚。娘の吉報を田端さんはことのほか喜び、初孫の誕生を楽しみにしていたという。9月に出産予定の紗穂里さんは「孫の顔を見せられなかったことが残念です」とコメントした。 ◆「お父さんみたいな方」田端さんの担当ディレクターだったテイチクの小松永枝さん(44)は「最期は奥さまと娘さん、息子さんに見守られ旅立ちました。何度も危機を乗り越えて来たので、今回も大丈夫だと思っていたのですが」。 小松さんが最後に会ったのは2週間前。30年前のブラジル公演の思い出を話してくれたという。「『あんた独身か!?』とか『男に気いつけや!』が田端さんのあいさつ替わりの言葉でした。ステージを降りても気さくさは変わらず、お父さんみたいな方でした」と語った。 ◆悼むコメント◆北島三郎(76) 「中学生のころ、田端さんの歌を聴いて歌が好きになり、自分も歌うようになりました。歌手になるきっかけをつくってくださった方。気さくな方でステージでも楽屋でも、いつもその場を明るく盛り上げてくださり、そんな先輩の姿は、若かった自分にとって、とても勉強になりました。いつも愛用のギターを宝物のように大切にされ、『つらいこと、苦しいこと、このギターがみんな知っている』と話されていました。優しい田端さんでしたから、きっと天国からわれわれを温かく見守ってくださると思います」 ◆島倉千代子(75) 「とても信じられません。いつも年末のテレビ東京の『年忘れにっぽんの歌』で“おう、元気か”とお声をかけていただいていました。『バタヤン先生』と呼ばせていただいていて、いつも世間話をしてくださる、とても優しい先生でした。本当に言葉もないです。先生には『いっぱい頑張ったから、ゆっくり休んでください』とお伝えしたい」 ◆千昌夫(66) 「ミノルフォンレコード発足当時、すでに大スターの田端先生が移籍してこられました。当時デビューまもない私の『星影のワルツ』を聴かれて、『千君、この曲は絶対にヒットする。大事にしろよ』と温かいお言葉をかけていただいたことは、いまでも忘れられません。昭和の歌謡界の星がまたひとつ消え寂しい限りです」 ◆都はるみ(65) 「明るくてとてもすてきな方でした。後輩の私たちにいつも優しくしていただきました。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします」 PR情報
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