謎が解けるように、ある瞬間に自分を苦しめていたものの正体が見えてくることがあります。
先月、私はふと思い立って、旅行に行きました。行き先は、アラブ首長国連邦のドバイです。はじめて行く土地でした。
旅行中はなんともいえない解放感があり、とても楽しかったです。しかし、帰国して新宿駅まで戻って来た途端、私は打ちのめされたような気持ちになりました。
私が目にしたのは、よく行くファッションビルのショーウインドウでした。普段見ているものですし、そこに驚くような変化があったわけではありません。
いつもと変わらないショーウインドウ。変わったのは、私の「それを見る目」のほうでした。
そのショーウインドウにディスプレイしてあった服は、春らしいアプリコットピンクとアイボリーのバイカラーワンピース、レースのブラウスに、ミントグリーンのショートパンツ......。ガーリーで、とてもかわいらしかったのです。それを見た瞬間、私の中からドバイで味わった解放感が、あっという間に消え去っていきました。
「ああ、私はまた、日本の『かわいい』至上主義の中で暮らしていかなきゃいけないんだ」。そう思ったのです。
それほどたくさんの国に行ったことはありませんが、海外に行くと、自分が普段、いかに日本での価値観に縛られているかに気づくことがあります。
よその国には、よその国の価値観やルールがあり、それに縛られた日常もあるのでしょう。私は、そこまで深入りしない旅行者だからこそ感じられる、束の間の解放感を味わっているだけですから、「よその国が日本よりもいい」と言いたいわけではありません。
しかし、日本で自分が萎縮していたのはいったい何だったんだろう、と感じることが多いのも事実なのです。
例えば、ビーチで水着になること。私は日本の海岸で、40歳以上と思われる女性が水着姿になっているのを、ほとんど見たことがありません。自分が泳ぎに行くための水着を探したときも、売っている水着はビキニか、ワンピースでも過剰にフリルやリボンのついた20代向けのデザインばかり。水着の売り場に、自分と同じ年代の人の姿すらないのです。少し体型をカバーしてくれるような水着を探すと、ジムで着るようなスポーツウェアしか見つかりませんし、ほどよくセクシーで品の良い水着や、洋服を選ぶときと同じような基準で自分らしい水着を探すのは、とても困難です。ビーチに行く前に、「そこに行く客層として捉えられていない」ことに、心がぐっと沈みます。そして、実際にビーチに行くと、10代や20代前半のものすごく若い人たちがメインです。日本では、そういう遊びの場は、「若い人が主役」になっているように感じます。そういう場に行くとき、私は気後れしてしまいます。なんとなく、思いきり遊んではいけないような気持ちになるのです。若い人たちの邪魔にならないよう、隅っこのほうにいなければいけないような、そんな気持ちになります。
私はドバイのショッピングモールのランジェリーショップの中に、水着のコーナーを見つけました。そこには、ワンピース型の水着がたくさん揃っていました。そこにあったのは、体型を見せたくない部分はカバーしながら、さりげなく背中が深めに開いていたり、胸元のスリットが深かったり、全体のデザインはシンプルですが、どこか一カ所セクシーな演出がある、かわいすぎない大人の水着ばかりでした。ここ数年、探しても探してもなかなか見つからなかった水着が、そこには山ほどあったのです。サイズも豊富でした。
よく言われることですが、海外のビーチでは老若男女、さまざまな体型の人が平気で水着になり、日光浴を楽しんでいます。その光景を見ていると、自分がいかに「歳を取った女、体型の崩れた女は人前で肌を見せてはいけない」と思い込んでいたかに気づかされます。そして、その「人前で肌を見せてはいけない」という思い込みは、ときに「ただ全身に気持ちの良い日光を浴びる」という、他愛のない、しかしとても大きな喜びの瞬間を私から奪ってゆくのです。
「かわいい」という言葉自体に、私はネガティブなイメージを持ってはいません。かわいいものは好きですし、かわいいという言葉で表現されるものの豊かさも大好きです。日本特有の、ほとんど奇形化したようなエッジィなかわいさも好きです。
「いいな」と思うものを見たとき、多くの女性は反射的に「かわいい」という言葉を口にしているのではないかと思います。
ただ、日本にこの「かわいい」という、非常に大きな幅を持った豊かな言葉があるからこそ、一方で失われているものがあるように感じます。
「かわいい」という言葉がカバーする範囲は、あまりにも広いのです。日本では、美しいことも、セクシーであることも、魅力的であることも、「かわいい」で言い換えが可能なところがあります。非常に多彩な魅力のあり方が、「かわいい」という一語に集約されてしまうのです。異性に好かれる魅力も、「かわいい」で表現されることが多いです。
そうなると、女性に対する褒め言葉の多くが「かわいい」で済まされてしまうことになります。そして、「かわいい」が最大の褒め言葉になっていくのです。
もちろん、「かわいい」以外にも褒め言葉はあります。見た目に関するものも、内面に関するものも。私自身も、周りの女性に対して、「かわいい」以外の美点を発見することがたくさんあります。けれど、それは「かわいい」ほど言いやすくない。「かわいい」以外の褒め言葉は、多くの日本人にとってなじみのない言葉になりがちですし、さらに「かわいい」が幅をきかせている社会では、「かわいい」以外の部分を褒めると、「かわいくないから、そこしか誉めるところがないんだ」と曲解されてしまう可能性すらあるのです。
「自立している」「知的だ」「存在感がある」「いつも華やかだ」「独特のムードがある」......。これらの言葉は、褒め言葉でしょうか? 私は、相手を賞賛する意味でこれらの言葉を思いついても、口にすることをためらいます。「自立している」は「恋人がいないように見える」、「知的だ」は「性的な魅力がない」、「存在感がある」は「太っている」、「いつも華やかだ」は「派手で浮いている」、「独特のムードがある」は「変わっている」という意味だと、曲解されるおそれがあるからです。
「かわいい」の次によく使われているであろう褒め言葉は「綺麗」「美人」だと思いますが、これもあまり喜ばれることがありません。「綺麗」「美人」などの言葉を言われると、「冷たい印象を与えているのかもしれない」「とっつきづらいと思われているのかもしれない」と解釈する人が多いからです。
日本での褒め言葉は、圧倒的に「かわいい」が主流なのです。「かわいい」には、「好ましく思う」気持ちが込もっているようにも感じますし、だからこそ、それ以外の言葉に「好ましさ」を感じにくくなっているような気がします。本当にその人の美点を好ましく思っていても、なかなかそのままには受け取られにくいし、言われた側も受け取りにくいのです。
このような状況の中、日本で「かわいい」以外の魅力を持つ女性は、まるで日本のビーチにいるときの私のように、自分のことを「中心ではなく、隅っこのほうにいなければいけない」人間だと、認識させられてしまうのではないでしょうか。
そして、この「かわいい」という言葉は、若さと非常に親和性が高いです。世の中の「かわいい」商品は、若い人向けに作られていることがほとんどです。
私は、日本の女性が美しくなろうとする努力が、ひたすら「若作り」の方向に向かう理由は、「かわいい」という価値観が圧倒的に強いこと、そして「かわいい」という価値観が若さと結びついていることにあるのではないかと考えています。
かわいいものを身にまといたい、と思った場合、それなりの若さがないと、似合うと言える状態まで持っていくのが難しいです。そして、外見的に「かわいい」という評価を受けたいのなら、若さは必須に思えます。
私は、無理して若作りをしたくないという考えを持っていますが、若作りをしている人のことを笑う気持ちには、どうしてもなれません。周りがシワやシミを極力除去し、若さを保っていく中で、自分だけが自然な老いを堂々と晒して生きることは、戦いだと言ってもいいほど、勇気の要ることだと感じます。そして、「かわいい」という価値観に対し、「そうでない価値観もあるのだ」と、自分の姿を通して表現することは、やはり同じく、とても勇気の要ることだと感じます。
かわいい以外の価値観もある、自分は自分らしくいたい、と考えていても、これだけ「かわいい」という価値観が強い世の中で生きていると、自分も「かわいい」と評価されたいと思ってしまう瞬間が、あって当然だと思うのです。
私は、若さということについて、35歳を過ぎるまでさほど深刻に考えたことがありませんでした。深刻に考えるようになったのは、年齢を重ね、「かわいい」と呼ばれる年齢でなくなり、「かわいい」の世界から追い出された今になってからです。
これまでだって、自分はかわいくない、美しくないと疎外感を感じることは数多くありましたが、この「かわいいと呼ばれる年齢でなくなった」という疎外感は、これまでに感じたものとはまったく違っていました。
それは、自分が永遠に主役になれない世界に来てしまったかのような、絶望的な気持ちでした。
このような気持ちから逃れるために若作りをする人がいても、私はそれは、ごく自然な気持ちだと思います。そして同時に、若くないだけで、まるですべての褒め言葉や楽しいことから遠ざけられているように感じ、肩身の狭い思いをしなければならないということに、強い疑問を感じます。
「かわいい」という言葉が、豊かに肥え太っていくあいだ、それ以外の褒め言葉がやせ細っていってしまったように思えてなりません。言葉がやせれば、その言葉の現すものも存在感を失ってゆきます。
今は、そんな状態なのではないでしょうか。
海外にいるとき、私は自分の年齢をあまり意識せずに済みます。それは日本人が童顔で、海外では若く見えるせいもあるかもしれません。それだけでなく、海外では自分が「かわいい」と言われるタイプの見た目でないことも、まったく意識せずに済みます。日本以外の国にいるとき、不思議なことに私は自分のことを「悪くないな」と思うのです。欧米人の中に混じれば、東洋人の私の見た目はとても個性的なものに見えますし、「個性的である」ことを嫌だとは感じません。
大人びた魅力を堂々と発散している、はっきりした主張を持つ人たちのあいだにいると、「かわいい」なんて、むしろ幼稚で恥ずかしいことのように思えてきたりもします。
自分が若くないこと、かわいくないことを意識せずにいられるだけで、こんなに自由な気持ちになれるのか、と思うほど、のびのびした気持ちを私は旅行中に味わっています。
私は、「かわいい」という範疇に自分が入らないことをおそれずに、旅行中のようなのびのびした気持ちで生きていきたいと思っています。「かわいくない」ことで、自分にまったく何の価値もないのだと思い込み、いろんな楽しみを諦めて、隅っこのほうで人の邪魔にならないように生きていくのは、嫌です。
きっと、これからも何度も心を折られるような出来事があるでしょう。けれど、それに負けて、楽しみを諦めて生きていきたくはないのです。
自分らしく生きるのは、その状態を誰かが「素晴らしい」と認めてくれさえすれば、とても簡単です。でも、もしもその自分らしい生き方を、良いものだと認める人が自分自身しかいなかったらどうでしょう。「いいと思っているのは自分だけで、周りからはすごくみっともないと思われているのでは?」と、不安になって揺れ動く人が多いのではないでしょうか。
揺れることを、私はおかしいと思いません。一度も揺れず、まったくぶれずに自分を貫ける人と同じくらい、何度も揺さぶられ、ぶれてもなお「自分らしさ」を持つことを諦めない人のことを、素晴らしいと思います。
そして、できれば自分もそうありたいと思うのです。