[一]
新宿駅のJR東南口を出た。改札を通ってから、遠回りになってしまう事に気が付く。
そうして渋々甲州街道沿いに歩き出したのが、運命と言うのか・原因と表現するか。
とにかくその日は肌寒かった。丁度季節の変わり目で、薄着の人と厚着の人が交錯する期間。
私は前者であり、ショートパンツで無防備に生足をさらしていた。
どうせ人様に見せる様な、綺麗な代物でも無いのだから、下にタイツを履いて来れば良かったと後悔していた。
だが、世の中には私よりもっと残念な人がいるものだ。
人波に合わせて歩いていると、歩道の脇に、Tシャツにハーフパンツ姿で、おまけに足元は草履という格好の男性が立っていた。
草履と言ってもゴムや皮の製品では無く、昔ながらの畳表草履だ。風流と呼ぶには季節が違う。
格好が場違いというなら私も大して変わらないけれど、良く見ると彼は怪しいプラカードを掲げていた。
「お金を恵んでください」と書かれている。おまけにボサボサの髪と無精髭。
一目見ただけで、関わらないでおこうと思ったのが本心だ。
大多数の人がそういうもので、彼を避けるように人の流れが出来ているのが、その証拠。
私もその流れに逆らわず、ほぼ無意識に彼を避けた。
こういう場面に慣れてしまったと言えば、間違いじゃない。あと数か月経てば上京してきて二年になるが、もう珍しいとも思わなくなった。
秋葉原で集団パフォーマンスをする人達、五反田駅近くのガード下でサックスを吹くおじいさん、下北沢で目撃したコスプレをして叫んでいる外国人、渋谷の路上に円を描くように座る若い集団、東中野で上半身裸のまま全力疾走している男性も居た。
異様な姿に最初は反応する。やがてリアクションが薄くなってきて、その内に見ることも面倒になってしまった。
私にとって大事なのは、待ち合わせの時刻を過ぎてしまっている現実、それ以外に気を取られるのが億劫なのだ。
十五分遅れて待ち合わせ場所に着いた。だが相手は見当たらない。電話をかけると「中に入ってこい」と言われた。
中とはバスターミナルの建物内で、つまるところ私は、今から高速バスに乗ろうとしている。
「どこ?」
私は携帯電話を片手にターミナルへ入ったが、どこにも居ない。
「地下だよ、一番奥に階段があるだろ」
そっけない返事が返ってきた。声の調子で、機嫌の悪さが伺える。
待ち合わせの相手は、高校生の頃から付き合っている彼氏で、連休を利用して一緒に里帰りしようと計画していた。
これが中々難しい人で、一度機嫌を損ねると容易く許してはくれない。バス中寝たフリをするのが決定した、とか考えつつ、ようやく彼を発見する。
「ごめん、ホントごめん」
ひたすら謝罪から入ってみたものの、こちらを見ようともしない。めげずに謝り続けながら、横に座った。
「あれほど遅れるなよって言ったのに、結局遅刻するんだな」
「だからごめんって。でもほら、徹が読みたいって言ってた本は、ちゃんと持ってきたから」
鞄の中から一冊の文庫本を取り出す。何年か前に出版された本で、最近になって人気が出たシリーズ物の推理小説、その最初の巻。
「『だからごめん』って言い方は何なんだ。あと十五分遅れてたら、乗り過ごしてたんだぞ? お前は事の重要性がわかってない」
やはり物で機嫌は取れなかった。そのくせ彼は、当たり前の様に本を受け取ったのだが。
「普通はさ、待ち合わせって言ったら五分前には着くようにする。
三十分かかるんだったら、余裕を持って四十分前には家を出る。そういうもんじゃないのか」
いつものお説教が始まった。聞く気はさらさら無くて、適当に相槌を打ちながら鞄の中を漁っていた。
何はどうあれ、私だって機嫌というものがある。
遅れた身で言える立場ではないけれど、そういう型苦しい話を真面目に受けていたら、こっちの理性が持たないのだ。
「おい、聞いてんのか」
聞いていません。
鞄の中から財布を取り出した私は、中を開けて乗車券の確認をする。
「あれ?」
確かに乗車券を入れておいた……はずだった財布の中身は、数枚のお札と山のようなレシート、ポイントカード、クーポン券。
「どうした?」
「えっと、チケットが――」
まさか忘れてはいないだろうと、更に鞄の奥をかき回す。
わずか二日間滞在するための服やら化粧品やらで、目的の物は一向に見当たらない。
「あれ? 嘘……無い! チケット無い!」
もう一度財布の中を見た。今度は一枚一枚を丁寧にかき分けながら、あの小さい乗車券の姿を探す。
「冗談だろ?」
徹も一緒に探し始めた。二人で懸命に探してはみたものの、もともと荷物自体が大して多くないのだ。
すぐに「忘れてきた」という事実が浮き彫りになった。
「そうですね、再度代金をお支払いして頂いて」
売り場の係員に事情を説明すると、丁寧に回答してくれた。要は、代金をもう一度支払って乗車券を買えという事だ。
「悪いんだけど、徹。立て替えておいてくれない? 私手持ちが足りなくて……」
彼の機嫌が、最高に悪いのはわかっていた。
だが残念なことに、仕送りで生活している身からすれば、バスの運賃さえ捻出するのに苦労したのだ。
同じ額をもう一度出すのは難しかった。
徹は金銭面に関しても煩い性格だったが、いつも食事代などを私の分まで払ってくれる男らしさも有る。
今回も甘えるしかないと腹をくくった。
だが、彼の答えは予想に反していた。
「ダメだ、これは全部お前が悪い。だからここで払えないって言うなら、そのまま東京に残れ」
とんでもない話だった。
これが徹という人間だ。別に金額がどうというケチな問題では無く、私の行動に対しての怒りなのだ。
良い表現をすれば「しっかり者」で、悪い表現をすれば「口うるさい」という性格。
そういう彼だから、好きだったのだけれど。
しかし、呆気に取られていた。もうすぐバスが出てしまう状況で、ケジメを付けろと言われるなど、思いもしなかったのだから。
「あ、お客様! もちろん後々、先に購入した乗車券を持ってきて頂ければ、その分の代金は戻って来るので――」
険悪な私達を見かねて、係員が上手く仲裁に入ろうとする。
ここで私が泣きそうになりながら頼めば、彼はきっと折れてくれる。
高校時代からの付き合いだから、どうすれば良いのかはわかっていた。
わかっていたにも関わらず、私の口からは買い言葉が出てしまった。
「じゃあ徹は、別に私と一緒に帰れなくてもいいの?」
重複するが、私も虫の居所が悪かったのだ。彼は案の定激怒した。
「そういう言い方するのか!」
気が付くとその場を走り去っていた。彼が追ってきてくれたら良い、という期待と、このまま喧嘩別れするのだろうか、という不安が混ざり合う。
ターミナルから少し離れたところで後ろを振り返る。しばらくそこで立ち尽くして居たけれど、やはり彼は追って来なかった。
期待していたのに、裏切られたという気分じゃない。不安だった割に、悲しいとも思わなかった。
というか、ショックのあまり冷めてしまったと言うのが正直な気持ちだ。
ここでカノジョを追ってこないダーリン、私はなんてかわいそうな子なんだろう?
とぼとぼ歩きだす。
もう発車予定時刻を過ぎた頃、彼からメールが来た。
「一人で頭を冷やせ」と、絵文字の無い短い文章。案の定、徹は一人でバスに乗ってしまったのだ。
更に足取りが重くなって、目の前の段差によろける様にして腰かけた。
動くことを止めると、余計に寒さを感じる。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
とにかく携帯電話を再度開くと、時刻は二十二時を過ぎていた。
泣きたい気分だったが、実家に居たところで、半分以上を親に甘えてダラダラ過ごすだけだったろうから、「東京に置いてきぼりにされたのも大して差がない」と思い込むことにした。
夏休みに一度帰ったのだから、ノスタルジーな気分では無かったし。
どうにか気分も落ち着いてきたので、私は立ち上がった。
そしてどっちへ行こうかと考えるために周りを見回し、衝撃を受けた。
私から数メートル離れたところで、私の様に俯いて座っている男性が居たのだ。
しかも見覚えがある。
季節外れのラフな格好、寝起きのように暴れた髪。さっき駅前でプラカードを掲げていた人だ。
だが例の怪しいプラカードは持っていなかった。おまけに草履を履いておらず、素足の状態でより一層怪しさが――いや妖しさが増していた。
普段なら、やはり関わることはない。この人が例え、物凄く困っている状態だとしても、私はそれ以上踏み込もうとしなかっただろう。
しかし、今は心も体も普段の状態では無く、何かを考える前に、私は口を開いていた。
「あの、大丈夫ですか? あなたさっきまで、南口の所で『お金を恵んでください』っていう看板持って、立ってた人ですよね」
答えは無い。
馬鹿な事をした、と自分で思った。顔を上げてくれる気配も無かったので、私はそのまま彼の前を横切って去ろうとする。
「こんな怪しい奴に声をかけるなんて、風変りな人ですね」
一歩通り過ぎたところで、予想外に答えが返ってきた。振り向くと、彼はいつのまにか顔をあげている。
「風変りって……貴方に言われると変な感じがします」
私の言葉に、彼は少しだけ微笑んで立ち上がった。間近で見ると思いのほか身長が高い。
おまけによくよく顔を見ると、随分と若そうだ。
「じゃあ、お互い変人という事にしましょう」
「一緒にしないでください。っていうか何で裸足なんですか? さっき駅前で見かけた時は、立派な草履を履いてたと思うんですけど」
「えっと、ね」
彼は、一度気持ちよさそうに伸びをして、考えるような仕草をしてみせた。
「知っての通り、さっきまであそこに立ってたんだけど。お巡りさんが来ちゃって、『そういうことは他所でやってくれ』みたいな事を言われたんだよ。
それで場所を変えて、歌舞伎町の手前で同じ様に立ってたら、今度は怖いお兄さん達に囲まれちゃって」
突然言葉使いが変わったから、独り言かと勘違いした。
「とりあえず逃げなきゃ、と思って、全力で走ってきたら途中で草履脱げちゃったみたい」
「あの看板は?」
「あー、あれは一度追いつかれそうになって、ソイツらに思いっきり投げつけてやった」
なんて破天荒な!
私は無意識に笑っていた。腹の底から突っつかれる様な笑いが、自然と込み上げてきたのだ。
「ちょっと! 笑いごとじゃないって。俺は本気で焦ったからね」
「ハハ、ごめんなさい! だってそんな軽い感じで話すから、笑い話みたいに聞こえちゃって!」
実際には、そこまで可笑しい話でもなかったけれど、しばらく笑いが止まらなかった。
[二]
「え? じゃあ私よりも年下なの!」
立ち話のついでに、簡単な自己紹介をされた。このボサボサ頭に無精髭の男は、私より一つ年下、十九歳だった。
若いという認識はあったけれど、未成年だとは思ってもいなかった。
彼――梓という可愛い名前なのだが、梓はT美大の一年生で、ホームレスとかそういった類の人では無かった。
だが変人である事に間違いは無い。
あれほど怪しい行為をしていたのも、本当にお金に困っているという事情では無くて、単に「こんな人間に興味を示す人がいるかどうか知りたかった」という私には理解できない狙いがあったのだ。
そのために半年近く、髪も髭も手入れはしていないらしい。
「そういうこと。だからアンタが俺に声をかけてくれた時点で、俺としては大満足。やった甲斐があったよ」
「良くわからないなあ、なんの意味があるの?」
「意味なんて別に求めてないんだ。そうだ、記念に名前を教えてよ」
記念に。
私は一瞬躊躇った。もしかして新手のナンパなのかしら、と考えたりした。しかし汚れた素足を見返して、やっぱりただの変人だと確信する。
「私は、増川祈瑠。心やさしい人が居たってことを忘れないでね」
「イノルか。こんなに苦労して出会ったんだから、忘れないと思うよ。でも、くれぐれも気をつけてね。
たまたま俺みたいにマトモな奴だったから良かったけど、頭がおかしい奴だって世の中沢山いるから」
自身をまともだと言ってのける辺りが、やはり変人なのだ。
その数時間程度の出来事が、柄にもなく私に「運命」という言葉を使わせてしまった。
それ以外に良い言葉が思い浮かばないのだ。
あの場で何故、赤の他人に声を掛けたのかと問われても、捨て置かれた私の微妙な心境は、本人でさえ上手く表現が出来ないから。
その後、互いに家へ帰ろうという話になって、暗黙の了解で新宿駅まで一緒に行く事となった。
途中、住まいは何処かと尋ねると、なんと東武東上線のK駅だと言う。私の住むT駅の隣だった。
結局、私達はそこから池袋まで行き、一緒に東武東上線の各駅停車に乗り込んだ。
たまたまの巡り合わせでこんな事があるのか、と二人で無意味にはしゃいでいた上、梓は車中も素足のままだったから、奇異の眼差しで見られていただろう。
電車での移動中も、梓の話が面白くて仕方なかった。
彼が例の行動を起こしたのは、この日が初めてではなかったらしい。最初は池袋の西口公園で試してみたところ、やはり警察から注意された。
後日、再度池袋で試してみたが、たまたま友人と遭遇してしまい、不本意ながらそのまま友人達に連れられ、遊びに出てしまった。
そこで、普段はあまり赴くことのない新宿駅へ拠点を移したのが、今日。
合計すると三日間も費やしている。
「池袋だと、結構知ってる人に会っちゃうんだ」
「へえー。東京出身なの?」
「そう、実家暮らし」
私の個人的な印象は、東京出身の人ほど堅実に生きている、という偏見にも似たものがあったけれど、間違いだった。
美大生らしさ、なのだろうか。
私も絵を描くことが好きで、通っている学校もデザインの専門学校だ。しかし美術の話ではあまり盛り上がらなかった。
彼は環境デザインを学んでいたのだ。同じデザインでも、カテゴリーが異なっている。
「祈瑠の出身は?」
「私は石川県」
「石川県……ってネッシーの頭みたいなところだっけ?」
所々で彼の言動が理解できないのも・私を躊躇なく下の名前で呼ぶ事も、会話の弾む香辛料となる。
「それ形の事を言ってるの? 確かにそういう感じだけど、どうしてそこでネッシーが出てくるかな」
「まるで『外科医の写真』みたいじゃないか。日本地図で見ると、秋田から富山まで曲線になってるのに、能登半島がポッと顔を出してる」
一体その外科医の写真とはなんだろうか?
聞いてみたかったのだが、電車はもうT駅へ着いてしまった。もっと話をしていたかったのに、私は降りなければならない。
「じゃあ――」
駅に停車すると、梓が別れの挨拶を言おうとする。
それを遮ったのは「一緒に降りて!」という私の声と、彼の手を無理やり引っ張る強引な行動力だった。
彼は引かれるがまま降車して、閉まるドアを振り返りながら「あーあ」と小さな声で呟いた。
私は私で、茫然としていた。なぜ彼の手を引いてしまったのだろう、と自身の行動が不可思議でしょうがない。
もちろん酔っている訳ではない。
確信を持って言えるのは、「ここで終わりにしたくない」という気持ちがあった事。
徹と喧嘩したから、新しい彼氏候補に、という不埒な考えではない。
ただ、梓に惹かれていたことは本心であり、また明日から他人になってしまうのが嫌だっただけだ。
「急にどうしたの?」
私はしばらく考えた。思い切って彼を連れて降りたものの、その先は考えていなかったのだ。
「でも、丁度良かった」
沈黙の中で察してくれたのか、先に口を開いたのは梓の方だった。
「どうせなら連絡先を交換しよう、このまま別れちゃうのはもったいないし」
「……うん」
結局彼に助けてもらった形で、私達のそれから先は約束された。
次の電車に乗り込むまで彼を見送って、家路に着いてからも、アドレス帳の「橘 梓」という名前を見ては、顔がニヤける自分がいた。
自宅に着いて最初に目に入ったのは、冷蔵庫にマグネットで貼り付けてある乗車券だった。
前日に「忘れないように」と、私が自分でした事だ。自業自得。
この日、私は専門学校が終わった後、すぐに帰宅して新宿駅に向かう予定だった。
しかし学校を出ようとする寸前、すでに内定していた就職先の件で、先生に捕まってしまった。
長々と話し込んでいるうちに、気が付くと時間が無くなっていた。
家に戻る時間も、着替えや準備の時間も相当削ったが、努力虚しく駅まで走っても間に合わないほどだった。
そんなにバタバタしていたのだから、わざわざ冷蔵庫に張り付けた乗車券も、全く役に立たなかった訳だ。
「もう!」
私は荷物を投げ出すと、そのままベッドに寝転がった。さっきまでは忘れていたのに、急に徹の事が腹立たしくなってくる。
最近は倦怠期というか、お互いが慣れ切った付き合いになっていたところだ。
徹がどう考えていようと、私はもう終わりにしようと決心していた。
もちろん別れるのは惜しいし、同じ地元出身の相手であるから、余計に心残りはある。
でもこれ以上は耐えきれない。
もともとが、それほどの始まりじゃないのだ。同じ高校に居て、若者らしく男女交際自体が目的で、付き合い始めた様なものだ。
馴れ合いで続けられるほど、信頼性がある関係ではない。
悶々としていると、メールが来た。さっきまで徹の事を考えていたのに、最初に「梓からだ」と思ってしまう私。
だがメールは母からだった。
しまった。
母にはまだ、帰れなくなった事実を伝えていない。無事バスに乗れたかどうか、確認する内容のメールだった。
私は急いで母に電話をかける。
「あ、もしもしお母さん? ごめん、言うの忘れてたんだけど、私帰れなくなっちゃったんだよね」
「え? そうなの? 何で早めに連絡しないのよお、てっきりもう向かってると思ってたわ」
「ごめんごめん、急に用事が入っちゃってさ。どうしても外せなかったから、今回はあきらめようと思って」
私と徹が交際していることを、両親は知らない。
まさか「切符を忘れたうえに、彼氏と喧嘩になって」と本当の事は言えないので、適当な方便で納得してもらった。
ついでに近況も報告した後、当たり障りの無い会話をして電話を切る。そして今更、何てもったいない事をしたんだろうと反省した。
親から貰ったお金を、ドブに捨てるような真似をして、更に嘘まで付いてしまった。
最低な娘だと反省しつつ、それもこれも徹のせいだと腹が立つ。
もちろん悪いのは間違いなく私で、八つ当たりは承知の上だ。
一言、「バカ」と書かれたメールを彼に送り、私は携帯の電源を切って、さっさと寝る支度をした。
[三]
翌日、目を覚ますと正午を過ぎていた。
寝ぼけたまま携帯を手に取ると、電源が付いていない。昨夜自身で電源を切った事も忘れて、疑問に思いながら電源を付ける。
そして徹からの着信が五件も入っているのを見て、昨夜の出来事(もちろん梓の事も含めて)を思い出した。
寝覚めと言う事もあり、冷めた気分で徹に電話をかける。
しばらくコール音を聞いていたが、取る気配は無かった。もう切ろうかと耳から話した瞬間に、彼は電話を取る。
「もしもし」
やはり不機嫌な声。
「私だけど……」
「こんな時間まで寝てたのか? それとも俺の電話を無視してたのか、どっちだ?」
「ごめん、寝てた」
長い溜め息が聞こえた。
「あのな、俺も悪い事したと思ってるよ、ちょっと厳し過ぎたかなって。
でもな、お前は昔からこういう事が多すぎるんだよ。何度も注意だってしてるし、その度に口論になったり別れ話になったり」
「そんなこと――ないでしょ」
「何言ってんだよ。例えばほら、東京に出てくる時だって、卒業アルバム失くしたって大騒ぎしただろうが」
「あれは結局、荷造りした段ボールの中にあったし」
「それ見つけたのはお前のお母さんだろ、偉そうに言うな。それから最近だと、俺がお前の家に行った時」
「ああ、それもだから、散々謝ったじゃない」
二、三ヶ月前だったか。徹が我が家に遊びに来た日、運悪くインターホンが壊れていたうえ、私は爆睡していた。
不運は重なり、携帯電話もマナーモードに設定したままだったので、彼を図らずも門前払いしてしまった事があったのだ。
「とにかく、色々とうんざりしてるんだよ」
それは私も同じだ。そんな細かい事、可愛い失敗だと思って、さっさと忘れてくれればいいものの。
「そんな細かい事で、とか思ってるのかもしれないけど」
不意に心を読まれて「思ってないよ」と嘘を付く。
「思ってないとしても。そういう所を許せなくなってきてるのって、俺たちの関係がその程度になってきたせいかと、思ったんだ」
「うん」
「思ったというより、昨日、お前が走って行ったので確信した。
きっと『慣れ』の関係が続いてるだけで、お互いがお互いを想い合う気持ちみたいなのは、完全に無くなったんじゃないかな」
あれ?
鈍い私は、そこで初めて理解した。今、別れ話をされている。まだ半分寝ていた頭は、ここで急に回転数が上がってきた。
「付き合い始めた頃に言っただろ。
俺は、馴れ合いみたいな恋愛がしたいんじゃなくて、それぞれが相手を高め合う様な、そういう健全な交際がしたいって」
「うん……覚えてるよ」
「でも、今は違うだろ」
しばらく沈黙が流れる。ああ、別れるのか、と考えると急に悲しくなってきた。
昨晩は、私の方こそ別れたいと思っていたのに、相手から切り出されると、全く違う。
二年以上続いていた関係が、終わろうとしているのだ。悲しいと表現するより、切ないと言った方が合っている。
「電話で言うのは不本意だけど、別れよう。俺のためでもあるし、お前のためでもある」
終わった。
そこから先は何を話していたか良く覚えてないけれど、大した会話では無かっただろう。
いざその瞬間が来たというのに、私は泣かなかった。自分ではきっと泣くだろうと思っていたし、実際泣きたかったのは本当だ。
私にとって、徹は特別だったと言っていい。キスをしたのもセックスをしたのも、徹が初めてだった。私は男という存在を徹以外知らない。
中学生の頃、手を繋ぐだけで精一杯だった男女交際とは異なり、「愛している」という言葉を使っても違和感が無かった。
それなのに――。
「悲しい……」
言葉にしてみたけれど、やはり涙が自然と出てくるには至らなかった。これが彼の言うところの「慣れ」というやつだろうか?
すでに気持ちは冷め切っている状態、悲しいのは、日常から徹が居なくなってしまう事だけ。
しかし、何処か納得がいかなかった。
しばらくベッドの上でごろごろしていると、その歯がゆい感情の原因に思い当たった。
私のせいで別れた、という結論にされたのが許せないのだ!
上手く言いくるめられた気がしてくる。
別れた方がお互いのためになる、とか綺麗事で騙されそうになったけれど、要するに別れたいと思ったのは徹の方であって、私はそれに応じただけじゃないか。
その日は三連休の初日、きっと池袋や新宿は大賑わいだろうし、旅行に出たり帰省したりと、私以外の人間は予定があるに違いない。
専門学校で仲良くなった友達は、遊びに行く計画をたてていたっけ。私はそれを横目で見ながら、実家に帰るからと断った。
同じ高校の出身で、大学進学で上京して来た莉衣奈という親友が居る。
彼女もまた、この三連休は大学の友達と旅行に行くと言っていた。
つまり、取り残された。
それを自覚するほど、外に出ることさえ億劫に感じてくる。
さっとシャワーを浴びて、髪をドライヤーで乾かしている間に、この三連休は最高に無駄な時間を過ごそう、と決心した。
今から遊び相手を探すのは面倒だったし、就活で疲れも溜まっていたところだ。
テレビを付けると、ワイドショー番組が連休特集をしていた。人で溢れかえった行楽地を見ると、勝った気分になるのが余計悔しかった。