黒田総裁、日銀大転換「1カ月がすべてだ」 (ルポ迫真)
●乾龍の『漂流日本の羅針盤』・【最新ニュースから見え隠れする闇】:黒田総裁、日銀大転換「1カ月がすべてだ」 (ルポ迫真)
「古い日銀をぶっ壊す」と宣言したのと同じだった。3月21日、東京・日本橋本石町の日銀本店。総裁に着任して早々、黒田東彦(68)は「日銀は物価の安定という主たる使命を果たしてこなかった。こんな中央銀行は日銀だけだ」と訓示し、職員らは凍りついた。
直後には企画局長の内田真一(50)らを総裁室に呼び、こう告げた。「2年で2%の物価上昇率は達成できる。まず職員自身が信じろ。政策を総動員してほしい」
黒田は財務官時代から日銀を公然と批判してきた。英国留学で経済学を修めたが、東大法学部の在学中に司法試験に合格した法律家の顔も持つ。日銀法は理念に「物価の安定」を掲げる。長引くデフレに「日銀は法律違反」との信念は固い。
「新体制の評価は出足で決まる。最初の1カ月がすべてだ」。就任前、黒田は腹を固めた。勝手の知らぬ組織での最初の関門は、正副総裁のもとで政策をお膳立てする「チーム黒田」の結成。周到に布石は打っていた。
大阪支店長だった理事の雨宮正佳(57)を企画担当に呼び寄せた人事だ。発令は3月18日付で黒田の就任前。周囲には前総裁の白川方明(63)が最後に決めた人事だと受け止められたが、黒田が副総裁に内定していた理事の中曽宏(59)を通じて要望していた。
2001年の量的緩和、10年の包括緩和――。日銀の政策転換には常に雨宮の存在があった。白川との間に微妙な距離が生まれ、昨年5月に企画担当から大阪に転じていた。白川体制からの転換にはうってつけだった。
人脈も広い。かつて日銀側と対立して絶縁状態にあった副総裁の岩田規久男(70)とも「意思疎通できる数少ない人材」(日銀OB)。早々にチーム黒田の要となった。
能吏として鳴らし、40代で企画局長という中核ポストを得た内田も、トップの強い指示で政策転換に進んだ。「かつて担当外だったのに上層部に緩和を直談判した」(中堅幹部)というエピソードも語られる行動派、同局政策企画課長の神山一成(46)らも加わった。
4月3、4日の最初の金融政策決定会合で成果を出さないと大きくつまずく。黒田の脳裏には過去の総裁の姿があった。
03年、福井俊彦(77)は着任5日目に臨時の会合を開いて追加緩和を決め、波に乗った。次の白川は在任中15回も緩和を重ねたが、08年のリーマン・ショック直後の世界同時緩和に加わらず「緩和に慎重」との世評を最後まで覆せなかった。迷わず福井型を選んだ。
会合まで2週間。黒田がチームに出した宿題は「どれだけマネーを増やせば、2%の物価上昇を実現できるか」。マネー量の増大は岩田が長年、唱え続けてきた主張。組織運営は不慣れで、ともすると孤立のおそれもある岩田にも配慮した。
チームは国会対応の合間をぬって計量経済モデルで推計を重ねた。答えは「マネーを2年で1.8倍程度に増やせば可能性はある」。黒田は「わかりにくい。2倍でいこう」と引き取った。マネーの量を2年で2倍に。有名になったフレーズはこうして生まれた。
その後は6人の審議委員の意向聴取にかけ回り財務省や内閣府にも根回しを急いだ。記者会見用の説明ボードも用意し、4日の大転換を迎えた。
黒田はもともと組織を引っ張るタイプではなかった。旧大蔵省で同じ時期に働いていた自民党の衆院議員の山本幸三(64)は「わかりやすさの追求と強いリーダーシップはアジア開発銀行(ADB)の総裁時代に培った」と評する。
19日昼すぎのワシントン。総裁就任からちょうど1カ月たった黒田は20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議後の写真撮影で、満面の笑みを浮かべていた。
政策転換は急速な円安をもたらしたが、黒田は会議で「デフレ脱却による内需の刺激が狙い」と主張。メキシコ財務相のビデガライは「クロダの説明に異論は出なかった」と証言する。知った顔が並ぶG20。休憩時間には精力的に各国を説得しに歩く姿があった。
円安、株高、国際的な理解。「経済財政諮問会議で黒田さんがとった金融政策への評価を伝えたい」。首相の安倍晋三(58)は周辺にこう指示し、黒田に直接感謝する意向を示した。もくろみ通りとなった1カ月。だが長期金利の動きが不安定になるなど暗い影も差す。黒田は破壊者か創造者か。まだ評価を下すには早い。(敬称略)
※(写真):G20会議後、黒田総裁(左奥)は満面の笑みを見せた=ロイター
元稿:日本経済新聞社 朝刊 主要ニュース 経済 【金融・財政】 2013年04月23日 02:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
●乾龍の『漂流日本の羅針盤』・【最新ニュースから見え隠れする闇】:黒田総裁、日銀大転換「1カ月がすべてだ」 (ルポ迫真)
「古い日銀をぶっ壊す」と宣言したのと同じだった。3月21日、東京・日本橋本石町の日銀本店。総裁に着任して早々、黒田東彦(68)は「日銀は物価の安定という主たる使命を果たしてこなかった。こんな中央銀行は日銀だけだ」と訓示し、職員らは凍りついた。
直後には企画局長の内田真一(50)らを総裁室に呼び、こう告げた。「2年で2%の物価上昇率は達成できる。まず職員自身が信じろ。政策を総動員してほしい」
黒田は財務官時代から日銀を公然と批判してきた。英国留学で経済学を修めたが、東大法学部の在学中に司法試験に合格した法律家の顔も持つ。日銀法は理念に「物価の安定」を掲げる。長引くデフレに「日銀は法律違反」との信念は固い。
「新体制の評価は出足で決まる。最初の1カ月がすべてだ」。就任前、黒田は腹を固めた。勝手の知らぬ組織での最初の関門は、正副総裁のもとで政策をお膳立てする「チーム黒田」の結成。周到に布石は打っていた。
大阪支店長だった理事の雨宮正佳(57)を企画担当に呼び寄せた人事だ。発令は3月18日付で黒田の就任前。周囲には前総裁の白川方明(63)が最後に決めた人事だと受け止められたが、黒田が副総裁に内定していた理事の中曽宏(59)を通じて要望していた。
2001年の量的緩和、10年の包括緩和――。日銀の政策転換には常に雨宮の存在があった。白川との間に微妙な距離が生まれ、昨年5月に企画担当から大阪に転じていた。白川体制からの転換にはうってつけだった。
人脈も広い。かつて日銀側と対立して絶縁状態にあった副総裁の岩田規久男(70)とも「意思疎通できる数少ない人材」(日銀OB)。早々にチーム黒田の要となった。
能吏として鳴らし、40代で企画局長という中核ポストを得た内田も、トップの強い指示で政策転換に進んだ。「かつて担当外だったのに上層部に緩和を直談判した」(中堅幹部)というエピソードも語られる行動派、同局政策企画課長の神山一成(46)らも加わった。
4月3、4日の最初の金融政策決定会合で成果を出さないと大きくつまずく。黒田の脳裏には過去の総裁の姿があった。
03年、福井俊彦(77)は着任5日目に臨時の会合を開いて追加緩和を決め、波に乗った。次の白川は在任中15回も緩和を重ねたが、08年のリーマン・ショック直後の世界同時緩和に加わらず「緩和に慎重」との世評を最後まで覆せなかった。迷わず福井型を選んだ。
会合まで2週間。黒田がチームに出した宿題は「どれだけマネーを増やせば、2%の物価上昇を実現できるか」。マネー量の増大は岩田が長年、唱え続けてきた主張。組織運営は不慣れで、ともすると孤立のおそれもある岩田にも配慮した。
チームは国会対応の合間をぬって計量経済モデルで推計を重ねた。答えは「マネーを2年で1.8倍程度に増やせば可能性はある」。黒田は「わかりにくい。2倍でいこう」と引き取った。マネーの量を2年で2倍に。有名になったフレーズはこうして生まれた。
その後は6人の審議委員の意向聴取にかけ回り財務省や内閣府にも根回しを急いだ。記者会見用の説明ボードも用意し、4日の大転換を迎えた。
黒田はもともと組織を引っ張るタイプではなかった。旧大蔵省で同じ時期に働いていた自民党の衆院議員の山本幸三(64)は「わかりやすさの追求と強いリーダーシップはアジア開発銀行(ADB)の総裁時代に培った」と評する。
19日昼すぎのワシントン。総裁就任からちょうど1カ月たった黒田は20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議後の写真撮影で、満面の笑みを浮かべていた。
政策転換は急速な円安をもたらしたが、黒田は会議で「デフレ脱却による内需の刺激が狙い」と主張。メキシコ財務相のビデガライは「クロダの説明に異論は出なかった」と証言する。知った顔が並ぶG20。休憩時間には精力的に各国を説得しに歩く姿があった。
円安、株高、国際的な理解。「経済財政諮問会議で黒田さんがとった金融政策への評価を伝えたい」。首相の安倍晋三(58)は周辺にこう指示し、黒田に直接感謝する意向を示した。もくろみ通りとなった1カ月。だが長期金利の動きが不安定になるなど暗い影も差す。黒田は破壊者か創造者か。まだ評価を下すには早い。(敬称略)
※(写真):G20会議後、黒田総裁(左奥)は満面の笑みを見せた=ロイター
元稿:日本経済新聞社 朝刊 主要ニュース 経済 【金融・財政】 2013年04月23日 02:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。