天蓬がぼんやり目を開けると、上下逆さまに捲簾の顔があった。といっても真っ黒で影しか見えないが。
「…捲簾?」
「…ああ、おまえか」
 自分が目を覚ます前から覗き込んでいたくせに「おまえか」とは何事だ。
「風邪ひくぞ」
「え?」
「何でこんなとこで寝てんのよ。夜中だぜ」
 手をそろそろと動かすと、指先がいつもと違う床に触れた。
 首をまわすと、馴染みのない背表紙が並んだ一面の本棚に、天井の梁。
 ということは、ここは書庫で、今は夜で、自分は仰向けに床に寝っ転がっている訳だ。なるほど。
 …なんで?
 捲簾が目の前に手を差し出してきたので、何も考えずに握り返した。
 冷えたせいか頭痛が酷いし手足も痺れて感覚が鈍い。立ちあがった途端ふらついた。
「…低血圧」
 捲簾のからかう声に言い返す気力もない。
 ようやく余裕が戻ってきたのは、捲簾がもう大丈夫と思ったのか牽いていた天蓬の手を離し、煙草を吸おうと懐を探った時だった。
「…捲簾」
 思わず階段の途中で立ち止まった。館内の照明はとっくに落ちて、踊り場の窓から入る月明かりで見上げた捲簾の全身が青色に染まっている。
「……何事です」
「は?何が?」
「何で僕、あんなとこで寝てたんです」
 捲簾はガラス玉のように妙に冴え冴えとした目で天蓬を見た。
「俺が知るかよ」
 書庫は天蓬の部屋の真下だ。部屋でなければ書庫にいる自分がいてもおかしくはない場所だが、行った記憶がまったくない。
「貴方は何であそこに来たんです」
「おめーさんを探しに行ったに決まってんじゃん」
「何で探してたんです」
「部屋にいなかったから」
「いつ」
 唇に挟んだだけの煙草に、捲簾は少し俯いて火をつけた。
 不自然な間が気勢を削ぐようで、いちいちひっかかる。
「…1,2時間前かな。おまえが起きてたら酒でもどーかなーと思って誘いに行ったらいねえから、じゃあ書庫かなって」
 天蓬は自分が壁にでもなったような気がした。なんだ、この抑揚のない喋り方は。
 ちょっと待て。…ちょっと待て。
 何か変だ。
 確か夕食のあと部屋に戻って、読みかけの本を片づけようと思って…ページを繰った。それ以降の記憶がない。それを伝えると捲簾はどうでも良さそうに頭を掻いた。
「寝惚けただけじゃねえの?危なっかしーな。どんな夢見たんだよ」
 捲簾が冷静すぎる。
 当然居るべくして居たものを迎えにきた感じだった。驚いた様子も慌てた様子もまるでない。夜中に部下が床にぶっ倒れていたら、この男なら心配ついでに拳でも飛ばしそうなものだ。 
「…捲簾、何したんです」
 口に出した途端寒気が来た。
「貴方、もしかして何か」
「部屋に戻れ」
 途中で切り落とされた言葉が、切られた箇所から崩れて落ちた。命令だ。
「鍵掛けてベッドでもソファーでもいいから横になって朝まで何も考えず寝ろ。いいな」
 珍しく軍服の前をきっちり留めた捲簾はその場で踵を返し、天蓬の脇をすり抜けた。 コロンの香り。
 …コロン?
 扉を開けると、部屋中をどうしようもない違和感が漂っていた。微妙に、少しずつ、物の位置が違う。天蓬は窓を開けて外の空気を肺まで吸い込むと、煙草にゆっくり炎を近づけた。
 このだるさ、尋常じゃない。 体と一緒に頭の中味も鉛色の渦がまいている。間違いなく薬だ。
 天蓬は火をつけたばかりの煙草を灰皿に押しつけると、部屋中を丹念に点検し始めた。床には何もない。溜息をついて立ち上がりかけた天蓬の目が、壁の1点に吸い寄せられた。膝立ちのままにじり寄り、3センチの距離まで近づいてそっと指でなぞった。まだ湿り気のある新しい染み。
 血だ。
 あのコロンは捲簾が戦場でよく使う、血の匂いを消すための。
 天蓬はそのまま床にひっくり返った。
 順番としてはこうだ。
 誰かが天蓬に一服盛った。
 誰かがこの部屋で出血した。
 誰かが天蓬を書庫に放り込んだ。
 誰かが部屋を片づけた。
 書庫に自分を迎えにきたのは、捲簾。
 あの男は何をかくしてる?



 翌日、捲簾が定例の挨拶に来なかった。天蓬は聞き込みと追跡を繰り返し、逃げ回ってるとしか思えない我が大将をようやく中庭で捕獲した。
「何で逃げるんです!」
「逃げてねえよ!おまえこそ何を部下どもを脅してまわってる!」
 あの人の居場所を隠すと貴方のためになりませんよ(にっこり)が脅しかどうかの議論は後にして、天蓬は捲簾を空き部屋に引っ張り込むと、軍服の前を引き破った。
「やだ〜こんなとこで」
「冗談につきあってる余裕ないんです。この傷は何です」
 胸から腹に真っ白な包帯。捲簾の返答は実に白々しかった。
「酔っぱらいにからまれて」
「へえ。どこで、いつ、何時頃、相手は、凶器はなんです」
「おまえに関係ねえよ」
「あります。昨日、僕の部屋で誰かとやりあったでしょう。部屋の壁に血がとんでました。あれ、貴方のですか。それとも」
「蚊でもつぶしたんだろ」
「捲簾!」
「怒るぞマジで」
 怒ってるのはこっちだ。まだ服を握ったままだった天蓬の手首が、凄い力で捻られた。
「おまえには関係ねえ」
 終わりだ。
 これ以上何をどう言おうと、この男は口を割らない。
「…もう少し貴方に信用されてるかと思ってました」
 とても見ていられなかったから表情は知らない。が、数秒おいて捲簾は無言で出ていった。
 酷すぎる。
 なんて卑屈な言い草だ。



 ほんっと、酷ぇ話。
 捲簾は、天蓬の部屋のすぐ外の廊下で時計を睨んでいた。
 午前3時。そろそろ「あいつ」が出てくる。
 大きく息を吸い込むと、捲簾は部屋の扉をノックした。
「どうぞ」
「お邪魔します」
 天蓬は開け放った窓に凭れて外をぼんやり眺めていた。
「…そっか。あんた煙草吸わないんだっけ?」
「また来るとは思いませんでしたよ。昨日あんな目にあったのに」
「たいしたことねーよ、あんなの。もう勘弁して欲しいけど」
 捲簾は足で扉を閉め、天蓬の真横に並んで立った。
「薬じゃ僕は消せませんよ」
「みたいだなぁ」
 こんな無茶苦茶な話、他の誰にもできない。意を決して観音に相談したところ「これでも呑ませろ」と放って寄越されたのだ。薬一粒で片がつくとは思っていなかったが、それがこいつの逆鱗に触れて、昨日は危うく殺されかけた。もう人には頼まない。
「なぁ。もう天蓬返してよ」
 目の前の天蓬は焦点の微妙に合わない視線をこちらに向けた。
 煙草を吸わない。本にも興味がない。行動が唐突で一貫性がない。機嫌がコロコロ変わる。何より違うのは、捲簾に対するこの態度。
「僕も天蓬ですが」
 指が、捲簾の頬に触れ、髪に滑り込む。
「そりゃそうなんだろーけど、俺が言ってんのは」
 言葉の途中で唇を塞がれた。背筋を快とも不快ともつかないまったく未経験の感覚が走り抜ける。天蓬が自分にそういう意味での好意を持っているであろうことは気付いてたし、プライドの高い天蓬が自分から仕掛けてはこないだろうことも分かってた。多分、このまま、お互い意地をはりながら、嘘をつきながら、ずっと一緒にいるもんだとばかり思ってた。
 そこに現れたのがこいつだ。
 欲望に忠実な、ガキみたいに分かりやすい天蓬。間違いなく、天蓬の一部だ。
 長いキスのあとで、ようやく解放された唇から吐き出した息をまた吸われ、何度もそれを繰り返されるうちに眩暈がしてきた。
「ちょ、なあ、話しよ」
「僕を悪者かなんかと勘違いしないでくださいね。僕だって迷惑なんですから」
 想像したことはあったが、そうか。天蓬はこんな顔でキスするのか。喋るたびに天蓬の唇が唇を撫でる感触にゾクゾクする。床が柔らかくうねる錯覚。
 認めたくないが、正直に声が掠れた。
「…迷惑?」
「自分にできないことだけ人に押しつけられてもね。もう全部僕に譲ってくれりゃいいんですよ鬱陶しい」
 耳朶を噛まれただけで息が上がる。天蓬だと思うからだ。未来永劫こんなことする予定のない天蓬としてると思うから。それにしてもお互いのために誂えたように隙間無く密着するこの体は何だ。
 膝が崩れた。
 本棚を背にペタンと座り込んだ捲簾を満足そうに眺めると、天蓬は目の前に膝をついて捲簾の頬を両手で挟んだ。
「…日頃プライドばかり大事にしてストレス溜めてるから、こういうことになるんです」
「あいつ…天蓬も…ほんとはこーゆーことしてぇの?」
「頭ん中それしかないですよ?知らなかったんですか?」
 凄い事を聞いてしまった。昼間あいつに会ったら顔見れないかも。
「…好きですよ捲簾」

 …もう少し貴方に信用されてるかと思ってました。

 泣いたかと思った。表情はいつもと変わらなかったけど、分かった。
 あれが天蓬の精一杯。

「…あんたのこと嫌いじゃねえけど、つか大好きだけど、昼間の方がほんのちょっと余計に好きだな」
 この体の状態で天蓬の腕を振り解けるのは、昼間の天蓬の顔が頭を過ぎったおかげだ。こうしてくれないかと夢見ていたことを軽々としでかす、夜中の天蓬。天蓬はじりじり後退する捲簾を、四つん這いのまま真っ直ぐ見た。また昨日のようにぶち切れるかと身構えたが、意外にも天蓬は微笑んだ。
「あの人とはこんな事できませんよ?」
 それは正直残念至極だ。
「…分かんねーじゃん」
「賭けますか」
「分が悪ぃ賭けはしない主義なんだよな…」
 天蓬が押し隠してきたものを自分が引っ張り出せたら、もうこいつの役目は済む。
 永遠に眠っていられる。
「…やっぱ賭ける」
「負けたら、あなたがほんのちょっと余計に好きな方の天蓬消してくださいね」
 天蓬の体が、ずるっともたれ掛かってきた。一度寝たら、こいつはもう今日は出てこない。
「おい、まだ寝るな!消すってどうやって」
「…魔法の呪文で」
 魔法。天蓬の口癖だ。捲簾や悟空をはぐらかす時、こいつはいつも魔法のせいにする。
「天蓬!呪文って何!」
「……てめぇなんか、いらない。」
 健やかに寝息をたてだした天蓬を抱えて、捲簾は漸く明るくなってきた窓の外に目をやった。
 こいつは馬鹿か。
 そんなことで。
 俺なんかのことで。
「…よいしょっと」
 一瞬腹に痺れるような痛みがきたが、構わず天蓬を引きずってソファーの上に投げ出した。

 早く起きろ。

 起きて、何で貴方こんなことにいるんですか黙って部屋に入ってこないでくださいよとか何とか言え。
 恥も外聞も振り捨てて死んだ気で口説いてやるから、俺に会え。



fin


緋神翼矢様に個人的御礼…サイト再開お祝い…
ごめんなさい、ちょっと最後変えちゃいました。
どっちでもたいしてアレだ!もういい!すいません!変な話ー!
リクエストいただいたのは捲浄でした。か、夫婦な天捲でした。
それがあなた、ちょっと今の読んだ?日本語分からないらしいわよ加藤さんとこの娘さん!
翼矢さんを御存知の方には一層なんでやねんという代物に無事仕上がりました!
ごめーんー。これに至るまで5,6本没にし1ヶ月もお待たせしました(努力を主張)。
翼矢さんの天コスがもっかい見たいです。可愛いのです。
ロゴ作るの楽しいです。

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