「アベノミクスへの懸念」のつづき。
自覚なき強者たち
格差意識の低い日本だと、「社会的な強者」とはどういう属性の人間か、また、強者たちが何をすべきか、という議論が隅に追いやられています。
どこをラインにするかは価値観が分かれるでしょうけれど、ぼくは自分のことを「社会的強者」だと思っています。納税額はそんなに多くありませんが、五体満足で、とりあえずお金に困ることなく、幸せに毎日を過ごしています。こうしてネットを使って情報にアクセスもできていますしね。オンラインの影響力も比較的高いので、その意味でも強者でしょう。
「自分のことを強者と名乗るなんて傲慢だ!」とdisられそうですが、ごくまじめに、これは現実に即した理解です。どう客観的にみても、ぼくは少なくとも社会的弱者ではありません。
むしろ相当恵まれているので、何度考えても、やはり「強者」に分類されます。ぼくがそう思い込んでいるので、これはもう仕方ありません(…ただし、一時的な強者にすぎない、とも思います。今日事故や病気に遭って仕事ができなくなる可能性は、誰もが拭えません)。
みなさんは自分のことを、社会的に強者だと思いますか?むしろ、弱者だと思いますか?その理由はなんですか?
日本では「平等」「みんな一緒」という価値基準が浸透しているので、こういった問いと向き合う機会はほとんどないように感じます。
実際には格差が存在しているわけですので、それに目をつぶるように「みんな平等だ」というお題目を唱えるのは、嘘っぱちでしかありません。
「わたしは恵まれている」という事実を、社会的強者たちが自覚することは、日本社会の成熟に必要なことでしょう。それによって、社会問題の解決が一歩進みます。
ちょっと話が逸れますが、ハーバードやスタンフォードでは「あなたたちは”違う”人間だ」というメッセージが、入学式から徹底的に叩き込まれるそうです。こういうことばを浴びせられれば、強者としての自覚も自然と形成されていくでしょう。強者としての自覚があるから、彼らは社会を変えられるのです。
ハーバードの学生たちは、ポジティブな言葉のシャワーを徹底的に浴びる。「将来、リーダーになる君たちは…」「この分野の改革者になるであろう君たちに…」「それぞれの国や地域から選び抜かれた諸君は…」「社会の問題を解決する任務を背負ったあなたたちは…」などなど、自分のみの一回りも2回りも、いや、それ以上に大きな言葉をかけられるのだ。
「生活保護は恥」というケチ臭い価値観
で、挑戦的なタイトルに話を持っていくと、「生活保護は恥だ」と語る時点で、その人には強者の自覚がないといえると思うのです。本当の強者であれば、そんな偏狭で「ケチ臭い」ことは言い出せません。
「生活保護は恥」という批判の裏にあるのは、「”自分も弱者”なのに、あいつらだけ楽をしてずるい」という嫉妬です。自分と相手が「平等」だという意識が根底にあるわけですね。
こういうことばを吐く人は、「自分は恵まれている強者だ」という自覚は微塵もありません。あくまで、自分もあいつらも、弱者として平等だ、ということです。ゆえに、「恥」ということばが出てくるのです。
しかし、本当に、生活保護を受けている人と、ぼくらは「平等」なのでしょうか?無論、その答えはノーです。
少なくとも、幼少期から虐待を受けて、家を追い出されるようにして就職し、製造業派遣を転々し、職を失いホームレスになった同世代の若者と、こうしてブログを書いて生きているぼくが「平等」なわけがありません。
参考:若者ホームレス白書 | BIG ISSUE ONLINE
ぼくは恵まれている自覚があるので、恵まれなかった人たちが生活保護を頼ることに対して、「恥」だなんてことは決して言えません。それは鈍感と傲慢の最たるものでしょう。よくもまぁ、「生活保護は恥」だなんていえるものです。
社会的強者は不平等を甘受する
強者は強者ゆえに、責任を負います。これは他人から強要されるものではなく、自分は恵まれた強者であることに気づいた時点で、責任に気づくことになります。いわゆるノブレス・オブリージュというやつです。
責任を負うということは、理不尽を甘受するということです。この世は平等ではなく、不平等であることを、自ら認めるということです。中島義道氏を引用。
コミュニケーション的強者とは、「ノブレス・オブリージュ」を身に引き受けるほどの覚悟がなければならない。これは、人間は平等だという真っ赤な嘘をかなぐり捨て、自分の強さを実感するところから始まる。自分はより強いがゆえに、どこまでも困難な課題と過酷な試練を要求する。他人はより弱いがゆえに、それほどの課題も試練も要求しない。
極端にいえば、弱者が「ずるく」見えるのは、当たり前なんです。だって、強者と弱者は不平等なんですから。もちろん「ずるく」見えた時点で、その人は十分に強者とはいえません。ゆえに「生活保護は恥」という価値観をもって、弱者を断罪する人は、強者ではないわけです。
というわけで、ぼくは次のような問いを投げます。
みなさんは自分のことを、社会的に強者だと思いますか?むしろ、弱者だと思いますか?その理由はなんですか?
社会的な強者だと思うのなら、不平等を受け入れましょう。そして、できれば問題解決のための行動をとりましょう。
ご自身を社会的弱者(たとえばうつ病で長らく休職している、など)だと思うのなら、決して卑屈になることなく生きて(これは本当に難しいと思いますが…)、必要があれば社会を頼るべきです。
とても難しい立場ですが、今の境遇を「自分のせい」だと思い込みすぎるのは、とても危険です。みなさんにあったコミュニティやサービスをご提案できるかもしれないので、お気軽にご連絡ください(nubonba@gmail.com)。
そして、できることなら、同じ弱者に対して、彼らがどれだけ「ずるく」見えようが、過度に攻撃的になるのも避けるべきです。呪いのことばは、自分にもはね返ってきますので…。
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