2013年04月23日 23時04分13秒 posted by uruseiblog

私が失いかけている想い

テーマ:ブログ



脳の機能が低下しています


それを促進する人間と助けようとしてくれる人間がいるようです。

血糖値が下がっているのでしょうね。


他にも書いてあったコメントがあるのですが
自分も心が荒みそうなので詳細は取り上げないでおきます。


下の部屋の住人にトラブルを仕掛けられた気配です。


その事も記事でコメントを書いたのですが今日は触れません。


まるでこの世の皆が、私がいなければ
すべてが上手くいくと言っているようで寂しい限りです。



短い内容ですが今日の記事です。


私の主張したい事の趣旨を汲んでください。


以前の私が満ちていた、しかし今は持てなくなりかけている
私達にとって大切な想いの話です。


今日のような事ばかりが続く被害者にとって
一番欠けることになるであろう想いです。

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パウロが肉の想いと表現したのが私達の心の想い。


それはエゴと欲と煩悩で満ちていました。


その想いを発する時に私達が持つ動機は、
自らそれを実践する事で自分が心地良くなる事であり
私達はそれを自らの心の価値観によって実践しています。


一方御霊の想いと表現した創造主の想いは
父なる創造主がこの宇宙を作り上げるときに
想念としてそしてエネルギーとして四次元空間に満たした想いです。


その中で私達が一番感じやすいのは
おそらくは慈愛という事になると思います。


単に創造主が慈愛に満ちた存在であるという意味ではなくて、
創造主の残留思念である四次元空間のそのエネルギーの中には
創造主が被造物に対する溢れんばかりの愛が存在しているだろうからです。


自分が何かを創り上げた時にその被造物に対して
執着や慈しみを持つのは私達人間であればだれもが体験しています。


自分が想いをこめて作り上げた存在だからこそ
それに対して強い想いを寄せる事になる。


陶芸家や芸術家が自分の作品に想いを寄せるように
創造主も私達に対して強い想いを感じていたのではないでしょうか。


そんなエネルギーで満ちているその空間から感じる事になる
創造主の想いは、きっとそんな被造物である私達への
慈しみと哀れみと同情で満ちている。


そしてそんな想いを一言で表現すれば
それは愛だと言う事になるのだと思います。


イエスキリストは創造主のそんな想いを
「私は同情は好むが(原文:誠実は好むが)生贄は好まない」


と表現してもいましたし、


それによってイエスが私達に理解させたかったのは


創造主が求めているのは、私達が創造主の想いに誠実である事、
創造主の予定通りの想いを持てる存在である事を期待しているのであって
自らを奉り祭壇に供え物や生贄を捧げる事ではないと認識できます。


そしてイエスキリストが私達に対して
「自らを愛するように隣人を愛せよ」と表現したのは


私達がそんな創造主の意識と同調する事が、
私達が創造主の意識を受け止めやすい状態である事を
伝えたものなのかもしれません。


そして私達が現実にそんな想いを持つ事が出来れば
私達の社会は調和と慈しみの溢れる明るい社会へと
変貌する事になるのだと思います。


しかし現実問題この社会の中では
そんな意識を強く持っている人間は限りなく少数です。


”愛”と表現してもそれは口先だけの偽善であり行動が伴うものではなくて、
更にに”愛している”というその言葉の裏には
自らが心地良い想いをするという前提が存在してもいます。


私達は”愛”と語りそれを他人に与えているように表現しながら
実は他人を愛している自分が一番可愛くて仕方がないからです。


他人を愛するその感情を持つ事とが心地良い。。


そして他人に愛を実践する事で
自分に対してその見返りがくる事を求めているとも言えます。


しかもその愛は当たり前のように
”特定の対象”に対してばかり向けられる物です。


しかし創造主の愛は、万物に対して分け隔てなく与えられるものであり、
しかもその見返りを意識したものではありません。


イエスキリストが言っていたように
父なる神は罪人の上にもそうでない人の上にも
お日様を昇らせてくれて、雨を降らせてもくれます。


この表現(例え話)は、
創造主の法は、ありとあらゆる人間に対して共通に働くものであり


特定の人間に対して好意的に働いたり
特定の人間には悪意的に働くものではない事を意味しています。


私達はそんな創造主の分身であり
そんな想いをもって生きているのですから
本来であればその想いを自分でも感じて実践出来るのが望ましいはずです。


しかしこの社会環境は、小さな私達が
万物に慈しみを持つにはあまりにも過酷です。


只でさえ、心に囚われるような環境が出来上がっているその中で
しかも自分のその心の不安定を揺り動かされてばかりいるそんな状況で


他人に対して、そして万物に対して慈しみを持てと言われても
それは容易に実践出来る物ではないと思います。


悪く言えば、私達はまず自分が幸せであって、
自分が安定して、初めて他人に対して思いやりを持つ
余裕ができる存在だからです。


でも、もしも私達がそんな自分だけに囚われるのをやめて
他人に対して万物に対して意識を向ける事ができる存在になれば


そして、そこでエゴの価値観を意識するのではなくて
私達が父の分身としてその想いを実践できるのであれば、


それを受け止める他人も
そして自らも僅かながら救われる事になると思います。


イエスキリストの言っていた最大の戒律の一方は


父なる神の想いを、
この宇宙の創造主の想いを実践するためにも
私達が持つべき意識に繋がるものであるという事を


私や兄弟姉妹そして理解者は認識し
それを心がける事が出来ればと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

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