普代水門
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概要
普代川の河口から約300mに位置し、高さ15.5メートル・幅205メートルのコンクリート製の水門である。水門南側を岩手県道44号岩泉平井賀普代線が、北側を普代村立普代小学校、普代村立普代中学校からつながる道路がともに専用の通用門で水門内側を通過している。
過去の大震災・大津波で多数の被害者(普代村では、1896年の明治三陸地震で302名、1933年の昭和三陸地震で137名の犠牲者)を出した苦い経験から、村は津波から住民を守る防壁設置を検討、このうち普代水門は1984年に完成した。建設費は35億6000万円[1]で、太田名部防潮堤と合わせて県の事業として行われ、総工費計約36億円のうち一割程度を村が負担した[2]。
水門建設の検討時には集落の集団移転も検討されたものの、土地の有効活用や生活環境の計画的整備などの観点から水門の建設が決定された[1]。また15.5メートルという高さは計画時に高すぎると非難を浴びたが、当時の和村幸得村長が「2度あることは3度あってはならない[3]」「15メートル以上」と譲らなかった。明治に15メートルの波が来たという言い伝えが、村長の頭から離れなかったからである[4]という。
東日本大震災
2011年の東日本大震災発生後、遠隔操作により閉門を行っていたが途中で停電したため、一部を久慈消防署普代分署の立臼勝副分署長ら3人の消防士[5]が手動で操作して津波の到達前に水門を閉鎖した[6]。その後津波が到達し、水門を2メートルほど乗り越えたものの水門自体は決壊せず、津波は水門から数百メートル上流付近で停止した[7]。乗り越えた津波により水門の上流側に設けた管理用の橋が破損したが、付近の小中学校や住宅などに浸水の被害はなかった[4]。
普代村においてはこの普代水門と太田名部防潮堤が住宅地や集落中心部への津波到達を防いだため、2011年4月下旬現在で普代村における震災の人的被害は船の様子を見るため防潮堤の外に出た行方不明者1人のみで、死者はゼロ、被災民家も無かった[8]。今回の震災において、宮古市田老地区(旧田老町)の高さ10メートルの大型防潮堤をはじめとする各地の水防施設が越水・破損により機能不全に陥る中、沿岸部で機能した数少ない堤防であった[1][9]。ただし津波がより長い時間水門を越えていたり、より高い津波が来襲していたりした場合には、耐えきれず決壊した可能性もあったという[7]。
深渡宏村長は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った[2]」と述べている。想定をやや上回ったとはいえ、防災のための公共事業の重要性を示すこととなった。
脚注
- ^ a b c 『広報ふだい』23年03月号 2011年4月24日閲覧
- ^ a b 『巨大防潮堤/石碑「ここより下に家建てるな」 先人の知恵 住民守る 岩手の2地域 津波 集落に届かず』 北海道新聞 2011年4月7日 2011年4月24日閲覧
- ^ 普代守った巨大水門 被害を最小限に 岩手日報 2011年4月24日
- ^ a b 「明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手」 読売新聞 2011年4月3日 2011年4月24日閲覧
- ^ 『巨大防波堤で死者ゼロ 岩手県普代村 村長の信念と消防士の献身が結実』 産経新聞 2011年4月26日 2011年4月30日閲覧
- ^ 『岩手県普代村は浸水被害ゼロ、水門が効果を発揮』 日本経済新聞 2011年4月1日 2011年4月24日閲覧
- ^ a b 『集落守った水門、一時危険な状態…長岡技科大・犬飼助教ら調査』 読売新聞 2011年4月21日 2011年4月24日閲覧
- ^ 『普代守った巨大水門 被害を最小限に』 岩手日報 2011年4月24日 2011年4月24日閲覧
- ^ 『津波で5割超の防潮堤損壊 岩手県が効果検証へ』 共同通信 2011年4月12日 2011年4月24日閲覧
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最終更新 2012年12月28日 (金) 10:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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