珠玉の駄文集 その六十四
イソノ武威 a.k.a. ITOMARU
| ■Marvel
コミックスとLGBT 22/10/12 |

Astonishing X-Men #51 バリアントカバー
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そういえば、前回バーナビー・ブルックスJr.について、アメコミ側の価値観からすると単なる「オカマ野郎」で片付けられるようなキャラであるという趣旨の文を書きましたが、一応補足しておくと、この場合「オカマ野郎」は「男性同性愛者」を指した罵り文句ではありません。「このヘナチョコ野郎、てめぇキンタマついてんのか?」的なニュアンスです。
未熟な人間の未熟さを「可愛い萌える」と言って愛でるのはオタクの特性だし、その事自体をとやかく言うつもりもないけど、それをバットマンモチーフを散りばめたキャラでやられるとグロテスクだよなーという話。別に「ホモくさいから駄目」と言ってる訳じゃない。
仮に彼の抱える問題がホモセクシュアルであった場合、ヒーローコミック側の価値観を分かり易く言うと、こうなります。
「バーナビー君。キミの父性に対する依存癖の強い幼稚で不安定な人格が、己の潜在的性指向が同性を対象としている事を自ら許容できていない点に原因があるのなら、即刻セラピーに予約の電話を入れるなり街へ出て男と寝てくるなりして解決してきたまえ」
「自警活動というのは、一個の独立した大人として判断・行動し、その結果について責任をとれるだけの成熟した人間のみが参加を許される社会活動なのだよ。自分のセクシャリティすら把握できていない未熟な人間は『ヤングなんとか』とか『ティーンなんとか』のようなジュニアチームからやりなおしたまえ」
で、めでたく自分のセクシャリティを把握した上で対人・対社会行動が可能になったら、今度はその事から発生するドラマが展開されると。そんだけの話。
性的指向がホモかヘテロかというのは、単に性別や人種や信仰のようなキャラクター属性に過ぎませんから。
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マチズモが基調になっているヒーローコミックではありますが、ポリティカル・コレクトネスに配慮して、同性愛者のキャラクターは以前からいるし、特にこの二年ばかり、マーヴェルはLGBT系にはずいぶん気をつかってます。
こないだゲイ・ウェディング・イベントが話題になったノーススターなんかはわりと有名どころですが、90年代後半あたりから既成キャラの異次元バージョンを唐突に同性愛者設定にしてみたり(Ultimate版コロッサスはまだしも、Exiles版のマリコさんがサンファイアになって、しかもレズビアン設定、でも設定を生かす間もなく速攻死亡とかの謎展開は、当時の編集も何考えてたんだか。あと、ちょっと目を離した隙にシャッタースターがゲイキャラになってたのはマジびっくりだ)、近年の新キャラ、特にヤング系はかなり「政治的に正しい」メンバー構成を心がけているように見受けられます。

2013年1月発売予定の YOUNG AVENGERS #1バリアントカバー
イラストは『スコット・ピルグリム』のブライアン・リー・オマリー
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たとえば来年早々に新チーム編成でリスタートするヤングアベンジャーズ。
今年のストーリーアークで子供に戻っちゃったキッド・ロキやミズ・アメリカがチーム入りするらしいので話題になってますが、この(→)表紙イラストの後ろのほうでイチャついてる男の子2人はゲイカップルです。
ウィカン(黒髪の子)のオリジン話として、スクールカーストの中でゲイとして陰湿ないじめを受けたのがきっかけでミュータントパワーに目覚めた顛末が描写され、ヒーローチームに入ってからハルクリング(緑の子)と出会いロマンスに発展するまでの人間関係描写も、かなり丁寧にされてたような(飛び飛びに読んでたからあんまし断言できんが)。
…でも、この2人の場合、性的指向の件なんか埋もれる程、それ以外の背景設定が盛り沢山なんだけどな!
ハルクリングはキャプテン・マーヴェルとスクラル帝国のプリンセスの間の隠し子らしいし。ウィカンの方は死んだはずのスカーレットウィッチの息子らしいし。設定盛り過ぎでしょッ!スクラル関連のイベントちゃんと読んでないから、もう、何がなんだか。
まぁとにかく、新生ヤンアベはそういうメンバー構成で、しかも1号はScott
Pilgrimが若者に爆売れしたBryan Lee O'Malleyのバリアントカバーを用意して話題づくりをしてる。マチズモではなく「クィア」なムードをウリにして新規の若い読者を獲得する気満々だなと。
ウィカンの描写については、今のところスカーレットウィッチとの母-息子関係のドラマが強調されているあたりも新時代な感じだけど、ヤングチームからアダルト組入りするまでには「父親的存在」と対峙する展開は確実にあるだろう。
付記)じいさんがマグニートーという時点で、巨大なコンフリクトが運命付けられたキャラなわけだが。結局ファザコンとシスコンを克服できなかったクイックシルバーの代わりに、ウィカン君には頑張ってほしいもんである。
そういえば、ノーススターの結婚イベントの回の担当ライターって、パラノーマルロマンス小説も書いてる女性作家のマージョリー
・M ・リュウなんだよな。パラノーマルロマンスと女性向けm/mロマンスって隣接ジャンルだしね。
同性婚ウンヌンは置いといても、個人的にこの展開で評価しているのは、ノーススターのお相手が市井の一般人として彼のヒーロー活動をサポートしてきた男性だってとこ。
イメージ組大量離脱前のクレアモント脚本時代、ミュータントヒーロー達の恋人の大半は非ヒーローの一般人で、彼等の存在が人間社会と折り合いを付ける為の絆になっているという設定だった。
なのに、その後「人気ヒーロー同士の恋愛ネタの方が読者ウケすんべ」という編集判断からか、次々といい加減な理由で既成カップル破局、ミュータントカップル誕生…あれはヒドかった。まじヒドかった。
女性作家を積極的に起用して繊細な人間関係描写を心がけた作品作りをするのは、00年代から悪戦苦闘してきたショージョマンガ読者取り込み大作戦のひとつの成果でもあるのかな。
マーヴェルのLGBTフレンドリーアピールは「ウチはボンクラ男ばかりの閉鎖的なクラブじゃありませんよ〜女性もゲイも楽しめる作品作りを目指しておりますですよ〜」というメッセージであり、女性&若年読者獲得作戦の一環なのか。
付記)「人間の集団の内1割はかならず同性愛者が含まれる以上、集団劇の構成キャラに同性愛者という属性を付加するのは当然」という判断によるキャラクターメイキングと、「幻想としての男性キャラとその同性愛関係」に女のナルシシズムを投影する「やおい/BL」とは全く性質が異なるのであるが。
| ■タイバニファンとアメコミファン 11/10/12 |
す…すんません。7月頃から『うみねこのなく頃に』にどハマリして、ブログの方に常軌を逸した量のテキストを書きまくる日々を送っておりまして…お陰で諸事滞りまくりでございました。
本サイトのほうにも考察まとめページを作りましたので、同好の士は宜しければドゾ(ネタバレ満載につき未プレイ者は閲覧禁止!あと、私は手品END派なので、身も蓋も無い考察で夢を壊されたくない人にも閲覧はお勧めいたしませんです)。
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アストロシティ:コンフェッション
バットマンの再話、古典アメコミの総括と再構築、父と息子のイニシエーションの神話、「アメリカン・ヒーローコミックの精神性とはいかなるものか」を知るにはこの一冊を読めばOKなんだが、ただ今版切れ中
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戻り新参高齢腐女の大暴れに辟易して「もう、タイバニとは一切関わりたくねぇ」と思っていたのですが、先日、よそさまのブログの北米におけるVIZのタイバニ売り込みに関するエントリに刺激されて、コメ欄で腹にたまっていた事の一端を書き込んでしまいました。
お陰で忘れかけてたアレヤコレヤが吹き返してしまったものの、よそさまのブログに長文連投するのも美しくないので、自分のとこで処理しとこうかと。
アメコミ者で横山光輝信者で、海外でのアニメビジネス展開に興味のある私は当然のように『THE
ビッグオー』のファンで、さとうけいいち監督に対しては以前から相当な好意を持っていました。
そして、桂正和先生のヒーロー系作品については、長らく机の前に『ウィングマン』の森本桃子ちゃんの自作セル画を飾っていたくらいの大ファンでもありました。
ですから 、このお二人が組んでアメコミオマージュもののオリジナル作品を制作すると耳にしてからは、ずっと放映を楽しみにしていたのですよ。
で、キャラや世界設定を見て「なるほど90年代イメージコミックス系を踏まえつつ、『アストロシティ』的な名作アメコミ再解釈・再構築をやるつもりなんだな」と非常に好感と期待を持って視聴を始めたわけですよ。
本編が放映開始されてからも、キャラクター造形や配置は先の展開が楽しみになる要素が満載であるし、セットアップ時は非常にわくわくしながら視聴していました。物語の折り返し地点(過去のNEXT差別時代、Mr.レジェンドの過去話)、後半へ向けてのセットアップ(虎鉄の能力減退)も、いくつか不満はあったものの、期待しながら見守っていたんですよ。
参考:タイバニと'90年代アメコミの話 23/07/11
参考:タイバニと俺ユニバースの話 21/09/11
アメコミ者として、タイバニ前半から展開部までのようなものを見せられたら、当然クライマックスから結末までは、
幼児期のトラウマと生育環境の影響により成人後も潜在的に強度のファザーコンプレックスをかかえるバニーと、「大人になりきれない中年男」である虎鉄が擬似父息子関係を結び、双方が父親として男として精神的に成長する。
バニーは「己の成長と自立を妨げる悪しき父」であるマーベリックを、虎鉄は「失敗した旧世代の理想像としての父」であるレジェンドを乗り越えるイニシエーションを経て自立し、対等のパートナーとなる。
更にバニーは虎鉄をも乗り越えて、レジェンドも虎鉄も届くことのかなわなかった、本物の「ヒーロー」が誕生する。
…というカタルシスを期待して当然。
それがまさか、単にバニーが依存先をマーベリックから虎鉄に乗り換えて心の傷を慰撫されるだけの話になるとは。
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アメリカン・ヒーローコミックというのは、良くも悪くも「男らしさという神話」をめぐる物語なんですよ。
父殺し、父越えというイニシエーションを経て、男の子が男として自立し、社会的存在になるという話。
無論、アンチテーゼや古典パターンの批評的再話、パロディというアプローチもありますし、アラン・ムーアが神格化されて以降は「解体・再構築」方向がもてはやされる傾向になったりもしてますが、アンチやパロディは本道が厳然としてなきゃ成り立たん訳で(マーク・ミラーやベンディスは嫌いじゃないけど、センターにいて欲しくはないんだよなー)。
「傷ついた孤独な少年が父性によって癒され、『ファミリー』に回収される物語」ってのは、少なくともヒーローアメコミの主題にはならない。そんなん過去エピソードとして本編開始前に済ませとけよ、って話。
だから、(国籍を問わず)ヒーローアメコミを好んで読む人間にタイバニを見せても、「なんだこのバニーとかいうオカマ野郎は」にしかならない。…「バニーというヒーロー」に憧れる小学三年生男子(国籍問わず)はリアルに存在するか?と考えると分かりやすいかも。
素であの展開が「良い着地点」と信じてやってるのか、「日米精神文化批評」としてやってるのか、第二期が決まったせいで「自立という結末」を先送りせざるを得なかったのか、腐女子人気のせいで日和ったのか…少なくともアメコミマニアのさとう監督の本意とは思えないんだけど、なんでああなったのか。
外形は非常に良くできたヒーローコミックオマージュなのに、その精神性は「去勢されたヒーローコミック」というのは、アメコミ好きとしては、ぶっちゃけものすごく気色悪いシロモノなんですよ。
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だから、VIZが当節めずらしく吹き替え版を用意して英語圏に売り込みをかけても、ヒーローコミック方面からはスルー、OTAKU方面にしろ男性ファンはつかず、寄ってくるのは腐女子ばかり…という戦績は、そりゃそーだろーとしか思えませんがな。
私も向こうでの評判はそれなりに気にしていたのですが、腐方面以外ではフェミニズム系の論者がヒーローコミックのマチズモ・女性排除を批判する際に比較対象として持ち上げていたケースを何度か見たくらい。…てか、こういう取り上げ方をされるってこと自体、タイバニがド真ん中なヒーローコミックファンの愛するイズムと大きく外れてる証拠でしょう。
私もねぇ、放映前〜初期には、「クレイバン・ムーアが原型担当したような怖い顔のフィギュア(当然パッケはブリスター型)を出して欲しいな〜。そんで『全然キャラ表と似てない!』って怒る奴らをわき目にニヤニヤしたい♪」とか思ってたんですけどねぇ…。
まー、私みたいなのはタイバニの客じゃないってことなんでしょうな。
そんな訳で、後は腐の皆さんで存分にお楽しみ下さい。
付記1)つーか、萌えだカップリングだ以前に、キャンベルの式に当てはめると「共同体から一旦放逐され、死と再生を経験し、悪竜を倒すorその父の課した試練を乗り越えて姫をめとる英雄」は虎鉄、「英雄に救済され、獲得される姫君」はバニーという事になるのだが。制作者側は初めからバニーを「ヒーロー」として描く意図はなかったという事?
付記2)「マチズモは自分も世界も幸福にしない」とか「家父長制的価値観が社会のあり方を歪めている」とかいう思想の許に、アンチテーゼとしてアメコミネタをこういう風に料理して世に問うているというなら話は別。でも、どう見ても社会性ゼロの「無邪気という名の野蛮」の結果としか思えないんだよね。劇場版のサブタイトルを「ライジング」とかつけて平気でいる神経に至っては、不快度MAX。
そんな訳で、『ダークナイト ライジング』。ナチュラルにネタバレ込みです。
巷では賛否両論で脚本の穴が問題視されているようですが…何を今更。おまいら、ノーラン版バットマンがまともな脚本だった例があったとでもいうのか? くっそ真面目な演出で穴だらけの脚本にもったいつけて、一見内容のある大人映画に見せかけるのがノーラン映画だと分かった上で観てきたんじゃねーのかよ?
ちなみにビギンズ公開当時に書いたレビュー。新シリーズスタートだから極力仲人口をきこうと努力しつつも、不満がダダ漏れな文章。更にその後、TFの記事内で「バットモビルがカッコ悪いというその一点だけでノーランバットマンは全否定」と腹をくくりましたよ。
今回のあらすじをネタバレすると、
ベイン「色々もっともらしい社会派テーマを投げかけたりしてみたけど、それ、みんなフェイクだから!オレのモチベはタリア激ラヴ!だけだからっっ///」
ウン。我ながら見事なまとめだねっ!いやぁ、実に美しい愛の物語だよ!165分もかけて仰々しい大作映画を装ってなけりゃ〜許容できてたかもしれないねっ!
だから社会格差がどうの市民革命がこうのいう問題について議論しても無駄っ!
まぁ、すげー大風呂敷広げといて解決はトンデモ力技、というのはアメコミにはありがちなので、そこいらへんをアメコミ映画らしさと受け取ればニコやかに鑑賞できる…わけねーだろがぁ〜〜。
どんだけラーズやベインの格をダダ下げたら気が済むんだよ。てか、ラーズ死亡確定かよ! 「不死身」が売りの魔人なのに、ビギンズのアレで死んじゃったの???
てか、映画版設定にはラザルスピットは存在しないの??(バッツの背骨や足もラザルスピットで治せばいいじゃん)
今回のキャットウーマン、 あの「一見猫耳にも見えるゴーグル」を「粋」といって褒めている方たちもいるようですが。…フザケルナ。自ら「キャットウーマン」と名乗って猫耳ボンデージコスを身に着け「ミャオウ♪」とか言っちゃうような女を映画内におけるリアリティを持たせて描写してこそ監督の手腕だろが。あんなん、小賢しい逃げだ、逃げ。
後半の人民裁判場面でも、傍聴人や判事&検事役がカラフルなコスチュームを着たヴィラン達で、悪夢のカーニバル的な演出がされてたら良かったのに。
タリアはわりと良かったけど、あれは生死不明にしてマン・オブ・スティールでレックス・ルーサーの秘書としてシレっと再登場したら粋だったのに。
てか、最後の爆発どっかん救われたよバンザイの後、雲間からのぞく青空からスーパーマンが降りてきて「バットマン、宇宙の危機だ。今すぐウォッチタワーに来てくれ!」って言ってりゃ、誰もリアリティラインがどうのこうのと文句をつけたりしなかったと思うよ!(核の描写については、「まんがダイヤ」や「まんがゴム」と同類項の「ハリウッド核」としてヌルい笑顔でスルーしようや。ドクター・オクトパスもNY郊外で核融合の公開実験してたし…2012年にしてアレかよとは思うけど)
しっかし、三部作を通じて、とうとう一度もバットマンに対して畏怖や憧れ、腹の底から突き上げてくるようなヒロイズムの陶酔を感じられなかったな〜。
付記1)でもアズラエルが登場してくれていたら、個人的には全てを許せていたかもしれないw アズ(ラエル)にゃんぺろぺろ
付記2)でもロッククライミングシーンは何をどうやってもフォローしようがないな!
付記3)ライジング関係の紹介文を読むと、「ビギンズで渡辺謙が演じたラーズ・アル・グール」って書いてあるんだよなー。まだ日本ではそういう事になってるのん?
付記4)町山智浩さんの「ベイン≒蔵王権太、ほぼ同一人物説」。つながった!両作が太い一本の線でつながった!!
そんな訳で、三池崇史版『愛と誠』。
あくまで『愛と誠』をネタにした映画であって、人物配置等は同じでも梶原一騎先生の『愛と誠』とは全く違ったテーマや存在意義を持つ作品だなーというのが結論。
一番端的なのが岩清水の告白場面。
原作の岩清水のセリフ(愛に送った手紙)は
>夏休みのあいだ、きみのことばかりを考えていたあげく、
>このことだけ、きみにつたえておく決心をしました。
>おたがい、まだ中三では勉強が先決であり、
>恋だの愛だのという感情には慎重でなければならぬと、
>よくわかっています。
>だから一つだけ、ぼくの心からなる誓いだけ、
>つたえておきます――
>早乙女愛よ、岩清水弘は、きみのためなら死ねる――
そして
>「わたしは……早乙女愛は……」
>愛のつぶやき、じっと虚空の一点をみつめる視線のゆくてに、
>幼児キリストを抱いて金色の輪にくるまれた聖母マリアの画像。
>「太賀誠のために死ねるだろうか?」
>と、ひたむきな瞳の色で自問自答。
>「いいえ、そのまえに……わたしは彼を愛しているのだろうか?」
(『愛と誠―梶原一騎直筆原稿集』より)
…と続く訳ですが。
岩清水は「秀才」であり、社会規範に則って奮励努力しひとかどの人物になろうとしており、よって今は学生の本分に則った生活をし、恋愛にウツツを抜かような事はすまいと心に決めている。
それでも尚、そんな自制心を凌駕しかねない情熱を愛に対して抱いており、それ故に噴出したのが上記のセリフ。
一方、映画版の岩清水が愛に面と向かってとうとうと述べ、「空に太陽があるかぎり」を歌い踊る際のセリフは、原作の表現を借りてはいるものの、煎じ詰めれば
「僕は貴女を偶像として崇拝します」「貴女との間で何かを分かち合い関係を深めるつもりはありません」「貴女にも性欲が存在する事は無視します」
と言ってるようなものであり、自分の都合を一方的に押し付けてるだけ。相手の実像なぞ見るつもりもない、完全なるエゴだ。
*
『巨人の星』が野球を題材にした求道物語であって「野球漫画」ではないのと同様に、梶原一騎先生の『愛と誠』も恋愛を題材にした求道物語であり、原作の展開パターンは、
1. 愛の「よかれと思ってした行動」を受けて誠が剣呑な騒ぎをおこす。
↓
2. 愛、傷つく。岩清水、義憤にかられる。
↓
3. 誠の真意が判明する。
↓
4. 愛、己の浅い考えを反省。誠を愛し続ける事を再度心に誓う。岩清水、敗北感。
前半は大体このローテーション。中盤以降は愛や岩清水の勇気ある行動に誠が心を揺さぶられ(が、周囲にはそれを隠す)、彼等を助ける行動をとるようになる。
映画版だと、愛は「よかれと思って」無神経極まりない迷惑な言動をし、誠がイラつく。「コミュニケーション不可能な狂人」である愛は、自分が誠をイラつかせている事にすら気付かない。岩清水はウロチョロしてるだけ。
花園学園の不良連中も、誠の周囲の人間関係について勝手に斟酌して行動し、なりゆきで面倒な事態に巻き込まれた誠はひたすらイラつく。
凄まじいまでの徹底したディスコミュニケーション。
(実際、作中で誠は何度も他の登場人物に向かって「我々の間では会話が成立していない」という意味の事を言っている)
ちなみに一般に映画のミュージカルシーンでは、作中人物が歌いだすとその場はまるごとミュージカル空間になるのが普通だが、愛や岩清水が歌いだしても他の登場人物は所在なげにそれを見守るか、無視する。愛の「あの素晴しい愛をもう一度」の場面でも岩清水の「空に太陽があるかぎり」でも、歌い踊るのは当人だけ、他の登場人物はフルコーラスの間、唖然として見つめているか、無関心に通り過ぎる。
歌い踊る程の強烈なエモーションを、愛も岩清水も他者とは共有しない。強烈なエゴを発散しているだけ。
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>なぜなのか?
>なぜ、あの徹底的に残忍で、好戦的なケンカ・ガッツが、おのれからさったのか
>誠自身、わからぬらしく……
>で、彼は、ただ、びっくりしたような目の色をしていた。
>あえていえば、これは母にすてられ、しかし、あの死の踏み切りで
>母に名を呼んでもらった誠の相手が、
>父にすてられ自分をもすてた砂土谷峻であった結果か
原作のラストは、愛の感化をうけた誠は自分を捨てた母と一瞬だけ心が通い合い、母を赦し愛と同化した誠は「かつての自分」である砂土谷に哀れみをおぼえた結果、その刃を受け(愛に感化されていなければあっさりと倒していたはず)、愛に抱かれて死ぬ。
他者との共感、赦し、浄化としての死。
愛と誠の武器を持たぬ戦いにおいて、勝ったのは愛。
かつて早乙女愛が岩清水からの手紙を思いだしながら誠への愛を意識し、「愛」の象徴として見つめたのが「幼子キリストを抱くマリア像」。そして二人の関係の結末は、キリストの人としての生の終焉であるピエタ、「死せるキリストを抱くマリア像」なんですよ。
しかし映画のラストでは、愛や不良達のエゴに振り回された誠は自分を捨てた母のエゴを諦観と共に許容し、それまでは完全に眼中外だった「さる人物」からの不意打ちの刃を受け、心の通わぬままの身勝手な愛をも受容して死んでゆく。
原作の誠は聖母の元に還る為に刺されたが、映画の世界には聖母などいない。聖母ではない実母を、聖母にはなりえない愛を誠は諦念と共に受容する。
付記)愛誠のラスト近くの展開を「話の収集がつかなくなって放り出した」と言う人は多いけれど、あれをキリスト教モチーフのドラマとして読めば、全てが必然的展開だったのだと納得できます。
聖女と出遭いスティグマ(聖痕)を負った少年が、生家を出奔し、汚辱に満ちた俗世を彷徨する。やがて無償の愛と自己犠牲を学び、強大な権力者と戦い、無責任で残酷な大衆に追い詰められながらも、自分の敵にすら情けを抱くまでになる。赦し赦される事を知った彼は、聖母に抱かれながら人としての生を終える。
権太や岩清水ならまだしも、砂土谷に情けをかけて刺されるのは何だか納得できない…と長年思っていたのですが、誠=キリストなら、親しい者の為ではなく赤の他人に対する愛によって死ぬのは、テーマ的に必然だったのだと納得できます。そこに考えを至らせるきっかけになったという一点だけでも、今回の映画化は自分にとっては意義のある事でした。
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映画のラストシーンの地球と月の場面を見ながらボンヤリ思い出したのが、ライムスター宇多丸さんの「私の優しくない先輩」評。
私はこの映画を実際に観ていないのでこの評が的を射たものであるのかは分かりませんが、
恋に恋する夢見る少女がヒロイン。あえてチープなハリボテ表現。誇張されたポップでキッチュなテイスト。挿入されるミュージカル場面。…と構成要素は似ている。
で、この評で言われている、 監督の自意識の過剰。アイドル映画の枠を逸脱した怪作を撮った先人達の異形クリエイターっぷりと比べるとこれ見よがしで小賢しい作家性主張。ヒロインをいっそ完全な狂人として描くような思い切りもない、頭でっかちな作家気取りの監督が拘泥する「何がリアルか」は果たしてそれ程までに重要なテーマか?…を裏返すと、今回の愛誠になるなーと。
あらゆる意味で大人な百戦錬磨の豪腕職人監督による、意識せずともダダ漏れてしまう強烈な作家性、アイドル女優演じるヒロインを完全に異形の怪物として描く思いきりの良さ、小賢しい「生のリアル問題」なぞ軽々と置き去りにする堂々たる虚構。
ならば、濃密な自意識にとらわれたエゴイストたちがひしめく狂気じみた世界の中で苛立つ誠が、やがて諦念と共に決して分かり合えぬ人の現実を受容し、それと同時に今まで眼中外だった人物が初めて質量を持った個人として襲い掛かってくる…という展開は、ある種セカイ系的な見方も可能だろう。
刺された誠はあの濃密な自意識の世界から開放されて「その外側にある世界」に行ったのかも知れない。自閉した孤独から開かれた孤独へ。
変な映画だけど、嫌いではない。嫌いではないが、どう転んでもこれは梶原一騎の『愛と誠』ではないな。
まぁ、シェイクスピア劇が様々な解釈演出のもとに演じられるように、こういうバリエーションも否定はしませんが。
次はアニメで西洋風ファンタジーに翻案したバージョンとかを観てみたい。
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ちなみに本作の脚本家・宅間孝行(aka サタケミキオ)は、本邦においては、かの『バットマン ダークナイト』をはるかに超える興行収入を叩きだしたという女子向け最凶エクスプロイテーションムービー『花より男子F』の脚本家なのですな。
それを考えると、女の身勝手な妄想に振り回される男、という構図は納得できるような気もしないでもない………か? |