日本のいわゆる戦後史を二分する瞬間があるとすれば、1951年9月8日午前11時55分(米太平洋時間。日本時間9日午前3時55分)がそれだろう。サンフランシスコ講和会議で対日講和条約に49カ国が署名し、会議が終わった時刻である。
■日米関係も新時代に
第2次大戦の敗戦国日本は連合国による占領時代を終える。条約の発効とともに日本は独立国となる。日米関係も新しい段階に入った。それは基本的には21世紀の今日も続いている。
対日講和条約の署名式がサンフランシスコのオペラハウスで始まったのは、現地時間の8日午前10時12分だった。日本時間では9日午前2時12分である。終わったのは日本時間3時55分だから、明け方近い。
しかし、このニュースは9日付朝刊の紙面を飾っている。通常の締め切り時間を大幅に繰り下げてたたき込んだのだろう。戦後史の分水嶺となる瞬間を伝えるのだから、当然である。
1951年 12月24日 | 吉田首相がダレスに台湾の国民政府との講和を確約(「吉田書簡」) |
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1952年 1月18日 | 韓国、李承晩ラインを設定 |
2月15日 | 第1次日韓正式会談始まる |
2月28日 | 日米行政協定に署名 |
4月28日 | 対日講和条約、日米安全保障条約発効、日華平和条約署名(8月5日発効) |
1953年 1月20日 | アイゼンハワーが米大統領に就任。ダレスが国務長官に |
10月2日 | 池田勇人自由党政調会長が訪米。池田・ロバートソン会談 |
12月24日 | 奄美群島返還の日米協定署名(25日発効) |
オペラハウス周辺は8日朝から混乱状態だった。1000人を超える人々が集まり、署名式の入場券を求めて列をつくっていたからだ。
一方、内部では会議中に使った演壇に代わり、署名用の黄色いテーブルが用意された。議長席の後ろには各国国旗が林立していたが、なかほどの日の丸が特に目を引いた。
色とりどりの各国旗のなかにあってそれはひときわ鮮やかにみえた。日本からの記者団の目にはそう映った。ただし感慨にとらわれてばかりもいられない。刻々と進行する壇上の出来事を時計をみながら、メモ帳に書いた。
だから驚くほど正確に時系列に沿った動きが記録されている。
それによると、アチソン米首席全権は午前10時きっかりに入場した。それよりやや遅れ、日本の吉田茂首席全権がモーニング姿で登場し、10時2分に着席した。他の各国代表も姿を見せたが、ソ連、チェコスロバキア、ポーランド3カ国の席はぽっかりと空いたままだった。
アチソンが開会の辞を述べ、モリソン英首席全権が10時15分から29分まで演説した。モリソンは会議に途中から参加したため、署名式に先立って演説の機会が与えられたらしい。
それが終わるのを待って議長の指名により、各国全権がアルファベット順に署名した。1国が署名を終えるたびに会場は拍手に包まれた。
吉田首席全権ら日本全権団は最後に登壇した。午前11時30分だった。池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の全権団全員が吉田の筆先の動きを見守った。条約本文、議定書、日本政府宣言に対する署名が終わり、アチソン議長が閉会の辞を述べたのが午前11時55分だった。
サンフランシスコ講和会議に集まったのは51カ国。署名したのは当事者である日本を含む49カ国だった。ソ連、チェコスロバキア、ポーランドの3カ国は署名式を欠席した。インドや中華人民共和国はサンフランシスコに現れなかった。
9月4日以来、5日間にわたった会議は、当時の国際政治の現実をさらけ出す場だった。が、ともかくも対日講和条約は多数をもって成立した。
日本は1945年8月15日の終戦から6年におよぶ占領時代を終えた。ただし、条約が発効するには各国がこれを批准する手続きが残っていた。当時の見通しではそれは1952年2月には出そろうとみられていた。
<次ページ以降にサンフランシスコ講和条約の全文を掲載>
サンフランシスコ講和会議
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