朝鮮民主主義人民共和国の思い出
― PART1〜3 ―

 1989年,朝鮮民主主義人民共和国(以下,共和国)では,前年に大韓民国で行われたソウルオリンピックに対抗して,第13回世界青年学生祝典を開催しました。私(金明秀)はその訪問団に同行したわけですが,3週間弱ほどの滞在中に観光などの恩恵にあずかりました。以下の写真は,その時に撮影したものの一部です。
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 新潟港から行きのフェリー。共和国行きのフェリーは全部で3隻だったかな。マンギョンボン,サムジヨン,……忘れた。これはサムジヨン号。


 共和国東岸の港町,元山(ウォンサン)。祝典の参加者と訪問団が到着するということで,町をあげて歓待してくれた。ただ,自発的なものだったわけではないということを聞いて,後でとても申訳ない気持ちになった。
 元山に到着直後の歓迎会での食卓。韓国料理とはひと味違ったおいしさ。そういえば板門店で昼食をとったとき,給仕のお姉さんに「サンチ(サニーレタスのようなヤツ)もう少しください」と頼んだら,「サンチ? センチュのことですか?」と問いかえされた。南北でのちょっとした言葉の違い。あと「チョーッスムニダ(いいです)」という在日版朝鮮語もあるが,おかわりの申し出を断ろうとしてそんなことを言えば,逆に大盛りご飯が出てくることになる。
 元山からピョンヤンまでは高速道路を延々とバスですっとばす。高速道路はアスファルトではなく,コンクリート板を敷き詰めるタイプのもの。バスを降りてじかに道路を見てみると,さほどでこぼこというわけではないのだが,乗っているとすさまじい揺れ具合に感じる。この風景は,途中にある休憩所からの景観。
 祝典にあわせて?造成された光復通りの夜景。在日朝鮮人のアジュモニ(おばちゃん)たちが出店を開いているので,街灯以外にも方々に明かりがともっている。共和国は社会主義国なので,国家も人民も商売がとにかく下手。せっかく祝典を開いても収益はほとんどなく,赤字が超過していたはず。出店は,そのへんの事情をよく知っているアジュモニ達の創意工夫によって開かれた。出店の収益は共和国に寄付したらしい。

 有名な像。故金日成主席の死後,この像のもとに泣き伏せる人民の姿が世界中に報じられた。ピョンヤンに到着した在外同胞は,まずここを参拝する。非常に荘厳な場所で,人民にとってはこうして写真をとるなどもってのほか。

 故金日成主席の生家。ドイツ語で説明するおばちゃん。その場では不思議に思わなかったが,ドイツ語で話を聞いているのはどこの国の人だろうか。

 ピョンヤンの遊園地。僕はとにかくジェットコースターのような絶叫マシンが大の苦手で,ここばかりはちょっとマイッタ。人民が建設したということだったが,デザインが日本的なので,おそらく在日朝鮮人の資本が入っているのだと思う。



 かの有名な主体思想(チュチェ・ササン)塔。ピョンヤンでもっとも高くなければならないということで,2度建て増しされて現在は124mだったかな。建て増しするぐらいなら,ほかに主体思想塔より高い建物を立てなければいいのに。今もミラミッド型の新しいホテル(140m以上)を建設しているわけで(現在は建築中断),また建て増しするのだろうか。


 主体思想塔上部の展望台よりパノラマ9連発。さて,前を流れている河の名前は何でしょう?



 ちょっと見づらいかもしれないが,正面の遠方に見える三角形の建物が,建築中のホテル。


 同じく見づらいかもしれないが,正面の建物が金日成総合大学。







 ピョンヤンの中央郵便局。


 郵便局前の電話ボックス。


 これはたしか金日成総合大学の内部かな。


 ピョンヤン駅外観。


 ピョンヤン駅構内。


 列車の内部。かなりきれいなものだが,人民用の車両ではないという話。


 座席にはいつもお茶とおかしが付いていた。


 へへ,これは珍しいでしょう(^_^)v。もちろん,列車のトイレです。


 彼女たちが正規の車掌かどうか,聞くのを忘れた。他の乗員の中には,祝典で増便された車両のために駆り出された大学生もいた。


 妙香山(ミョヒャンサン)という観光地にある施設で,各国からの贈答品を納めてある。


 これはスターニンから。何年のものかは見なかった。(当初レーニンからと書いていましたが,間違いだったようです。ご指摘どうも!>屋代氏)


 これは当時の福岡県知事である奥田八二氏から。何年のものかは見なかった。


 妙香山の古寺院にて。


 こういう車両もあった。


 古都,開城(ケソン)駅の外観。ケソンは38度軍事境界線にもっとも近い駅。

 この室内が朝鮮半島で唯一38度線をまたげる場所。中央テーブル上のマイクコードが38度線のしるし。現在ではコードをまたいで韓国側に行ってもいいことになっているが,なかなか大胆に入っていける雰囲気ではない。
 足元にみえるコンクリートブロックが38度線のしるし。向こう側では米軍(国連)兵がこちらの訪問者の写真をとっている。この場の説明では,韓国人の軍人はこの場の勤務には就かないという話だった。たしかに,韓国側に韓国人らしき軍人が映っている写真や映像はいまだかつて見たことない。あ,でも一度だけサピオの写真はそれっぽかったかな。

 訪問者が去った後の情景。兵士の数に注目。
 38度線からピョンヤンまで201kmという標識。振りかえると,ソウルまで70kmの標識がある。その標識の写真もとったのだが,駐留している将軍と並んでオノボリさんみたいに映っているから,とてもじゃないけど見せられない。

 ケソンの町並み。共和国で古都の建物が残っている(つまり朝鮮戦争で壊れなかった)のはケソンだけという。



 高麗ホテル(円柱形の2連ビル)最上階にある回転展望台のトイレ。すさまじく豪華なもの。ちなみに,便器は3つある。



 祝典の警備についている警官隊。フラッシュの到達範囲ぎりぎりだったのでちょっと暗いかな。

 本場のピョンヤン冷麺。もっとも有名なお店が混んでいるということだったので,2番目に有名なお店で。ところが,僕はこの冷麺がどうしても苦手でねぇ,残してしまいました。ラーメンの街,博多でうまれ育った在日三世の悲しさよ。


 光復通りの昼下がり。上下全12車線だったかな。もちろん,有事には滑走路にもなります。


 横断歩道はありません。地下をわたります。ソウルも基本的に似たようなものだけど,この道に横断歩道はいっさいありません。


 繁華街にはこういう電話ボックスもありました。中央郵便局の横のものよりも新しいですね。


 私たち一行が宿泊していたのは,ホテルではなく,新しく建築された高級マンションの一室だった。


 元山にかえるバスの車中から。集団登下校か集団移動中の小学生。歌を歌いながら行進するおなじみの風景。ピョンヤンからやや外れているせいか,あまりそろっていない。


 元山にかえるバスの車中から。穀倉地帯の風景。あぜ道にもいろいろ植えてある。単位面積辺りの収穫高が世界一の田畑。耕作地が小さいので,とにかく効率よくつくる。


 元山にかえるバスの車中から。田園風景。


 元山の小学生たち。おそらく授業で海水浴に向かっているところだと思う。ピョンヤンの行進より足並みや歌声がそろっておらず奔放なかんじ。なぜかちょっとホッとした。
 共和国の道路に信号機は存在しない。こうして交通整理のお兄さんやお姉さんが一日たって忙しくしている。3交代制だったかな。真夏でも休みなしでやっている。日射病にならないのだろうか。すさまじい激務のはず。もちろんこの写真,交通整理のお姉さんは背景の金日成主席を真似しているわけではない。


 元山で海水浴風景。平日の日中なので,授業中(だと思う)の小学生しかいない。


 いちおう海水浴は有料。人民の平均月収が7000ウォンで,入場料が10チョンだからタダのようなものだけど。


 元山からまたフェリーで出発。人民たちは見送りに駆り出されていると思うとなんだか申し訳ないが,さすがにこれでお別れとおもうと,やはり嬉しい。

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