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皇室全般画像掲示板
本文なし
うれしかったのね。足で分かるわ。
この娘の両目を見てよ、、、気取って吊り上げちゃって。笑っちゃいそうだよ。それに、後方の母も面白いね。まるで、小和田親子と同じじゃん。
ウキウキしてますよねえ。そんなに皇室入りが嬉しかったんですね。小和田家と一緒。
それから30年を経た87年に、私は『週刊女性自身』の「浩宮様への手紙」と題した 連載で、このエピソードに触れたのだが、意外な方から真実を知らされることになった。 編集部に電話をかけてこられたのは美智子妃のお母様、正田富美子さんである。 「浩宮様に間違ったことが伝えられてはいけないと思いまして」と、真相を明かす 決心をしたとのことだった。
富美子さんの話によると、両陛下に拝謁する1週間前に、当日予定している装いを写真に撮り、 「この装いでよろしいでしょうか。長い手袋が手に入りませんが、どちらかで 求められませんでしょうか」と書き添えて、東宮侍従に届けたという。 いくつものデパートで長い手袋を探したが、どこにも売られていなかったからだ。 東宮侍従は長い手袋を手配して正田家に届けたので、当日はマナーに従った 装いで皇居に伺うことができた。ところが、どういうわけか事前に撮影して 届けた写真の方が新聞社に回ってしまい、騒ぎになったというのである。 >東宮侍従は長い手袋を手配して正田家に届けたので、当日はマナーに従った >装いで皇居に伺うことができた。 http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20091005-01/4.htm ↑長年美智子妃特番では「どうしてもみつからずこの手袋しかなかった」 論調でした。
畳敷いてるじゃんwwなーにが正田家は洋館で家の中は靴。とかいってたんだか。 畳の上を靴であるいていたんかいwww
>どういうわけか事前に撮影して届けた写真の方が新聞社に回ってしまい自分で回したんだろ。バッシングのマッチポンプでいじめられる美智子さんオキャワイソー世論を最初に一発かましたんだろ!
ID:qDHSmtOs No.703943 ↑こいつをはじめとする美智子皇后叩きの婆様連中は言うことが貧乏くさくて貧乏くさくて。イチャモンつけるところが、せこくてせこくて、みずからの貧しい生活がにじみでちゃってる。
正田美智子さんのベール姿 ttp://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1301668908086.jpg 無題 Name 名無し 11/04/02(土)01:38 ID:LR7HT.E1 No.286751 報道発表前日、未来のお妃を泣かせたある写真(AERA2008.05.12) 皇太子のお妃候補となった正田美智子の存在を最初につかみ、池田山の正田邸で 英三郎と富美子夫妻から話を聞き、美智子本人にもインタビューを許された朝日新聞 元社会部記者の佐伯晋には、忘れられない思い出がある。 この結婚の実質的プロデューサーとなった東宮(皇太子)教育掛参与の小泉信三の 懇請による報道協定が解禁される数日前、佐伯は通い慣れた正田邸を訪れ、使用人 の手伝いで洋装の花嫁衣装を着付けしていた美智子にポーズをとってもらって写真を撮った。
いよいよ皇室との婚約が正式に整い、各社への報道協定も解禁される前日、佐伯が 翌日の号外用に使うその写真をもって美智子に挨拶に行くと、彼女はそれを見るなり、 わっといって泣き出した。 無題 Name 名無し 11/04/02(土)01:39 ID:LR7HT.E1 No.286752 「頭に被布をかぶるのは、カトリックだけだというんです。彼女はカトリックに入信してい ませんでしたが、当時から聖心卒というのでカトリックではないかとの噂が立ち、それを 相当気に病んでいた節がありました。
カトリックだったら、そもそも皇室との縁談はありませんからね。 だったら、カトリックの格好をして僕に写真を撮らせることもなかったのにと思うんですが、 やっぱりうきうきしていたんでしょうね。彼女は百パーセント型の人間と思われていますが、 やはり結婚前は24歳の娘さんだったんです」 その写真は昭和33年11月27日発行の朝日新聞号外にそのまま使われた。幸い懸念さ れたような反応はなく、佐伯は安堵の胸をなでおろした。
無題 Name 名無し 11/04/02(土)04:13 ID:nNiHIoI0 No.286777 だから 自分が撮らせた写真だから 輪転機止めるわけにもいかず (とめると大損害)泣くしかなかった。 写真撮りますね、といって咄嗟にとったポーズがクリスチャンのポーズ (頭の布はそこらにあったハンカチだそう)だったということは やっぱこの人の本質はクリスチャンなんでしょう。 隠していたのに ばれてしまう、と泣いた(でもばれなかった よかったね)という落ち。 あとこの記者は正田家を自由に出入りしていた。 美智子番にするため長身池面記者を選んで付けたんだよ。 美智子さんはこの記者にほれていた、と三宅の爺がなにかに書いてた。 本当はもっといろいろ知ってんだろうね。
好きな人のもとに嫁ぐのにうれしさを隠せないのがそんなにいけないことなのか。好きでもない男に地位と待遇目当てで嫁いで勝ち誇ったような笑顔をしていた誰かさんとはまったく別の微笑みだよ。
>イチャモンつけるところが、せこくてせこくて、みずからの貧しい生活がにじみでちゃってる正田家は洋館ってことになっていたのに畳の上でハイヒール履いてることを指摘されたのがよほど腹たったらしいwww畳の部屋があったら、そりゃ急いでぶっ壊さないとこまるよなあw
>好きな人のもとに嫁ぐのにうれしさを隠せないのがそんなにいけないことなのか。のわりにはぐちぐちぐちぐち何十年間も愚痴垂れ流しっぱなしですね。還暦近くなってから「ほかの男と結婚してりゃよかった」とか堂々と歌にしたり。恥知らずとはこの整形ババアのこと。
334:本当にあった怖い名無し:2011/04/09(土) 16:07:58.45 ID:plX6kN5m0 >>333 前に職場にいた人から、 自分の親戚が美智子皇后と交際してたっていう話を聞いた事ある。 結構有名な話らしいけど。 335:本当にあった怖い名無し:2011/04/09(土) 16:12:30.11 ID:plX6kN5m0 自分が聞いたのは、某大企業の息子だけど、朝日の記者と同じ人?
363:本当にあった怖い名無し:2011/04/09(土) 23:31:04.10 ID:JeWYZUBm0 >>348 皇后が婚約していたか婚約寸前だったというのは自分も知っている。 誰も信用してくれないし、自分も信用していなかったんだけど…。 今期限りで引退を発表した自民党某衆議院議員の親戚が婚約者?で、皇后が入内した後か 今上との婚約の儀が整った時に自殺したと。 だから今でもその一族は今上や皇后のことを良く思っていないらしい。 自分の家の近所にその国会議員と弟一家が住んでいて、その人達から 直接聞かされた。
正田家も胡散臭い家ですねえ。清廉潔白を絵に描いたような川嶋家とか如何にも武家という風情の華子様の実家とは初めから違う。無理だったんですよね。
当然嘘で固めなければならなかったのはわかりますが造らなくてもいい嘘を振り回したのは家の格が低いことをさらけ出していた。苛められたと言ういじけた心を中心に手袋事件の捏造。実家には全く帰られませんでした捏造。母とはあれっきりなかなか会えません捏造。失声症の捏造。ナルの必要以上のご優秀捏造。沖縄での手りゅう弾事件で今上置いての遁走を誤魔化すためのナンチャッテ発煙筒事件捏造。ま、沢山あって、、、嘘つきは本当に嫌いです。
虐められていた話が本当なら「可哀想な美智子様」記事を否定するはずです。もっと虐めが酷くなるだけなんですから。
もう行く気満々ですね。でも当日はアサピーの記者が何故か家から見てたんだって?とんでもない女ね。腕の辺りの顔みたいなの何?
畳の上に土足?どういう家なんですか。
そのまんま象徴してるよね>畳にヒール京都御所でも「どうして靴を脱がなくてはいけないのか。脱ぎたくない」と言っただけのことはある。
カーペット
中国人は家の中でも靴はいてますよね。
>当日はアサピーの記者が何故か家から見てたんだって?この写真をとっている人物です。鏡に移りこまない程度には頭はキレル。
一度畳なことに気づくと「何故いままで気づかなかったんだろう、この写真何回も見てるのに」と不思議になる。 皇室問題と似ているね。畳が薄汚いことにもげんなり。 いくら新品の靴でもなにか敷物をいちまい敷けばすむことなのに。そんなことも正田家のなにか普通の日本人とはかけ離れた常識のなさを感じる。小和田家と似ている。
34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/17(木) 22:34:00 ID:YOzXX/Mc0 噂の眞相 二○○四年 三月号 陰湿な差別の中でカムアウトできない『噂真』最後のタブー『部落出身芸能人』 ●レポーター 上原善広 何県かということもここでは控えたい。そこは、今は廃れてしまったが、元 は有名な城下町。その人の住んでいた場所の裏にひっそりと、忘れさられたよ うに白山神社が建っている。その周囲は見事にボロボロのバラック様の建物ば かりで、N・Aの出身地N地区よりも田舎だけに、そのみすぼらしさはよく目立 つ。もちろん未指定地区になっている。ここの出身者が皇族に嫁いだというこ とで、指定地区を見送られたのだ。そのため、行政による環境改善はほとんど 入っていない。かつてMと呼ばれたこの地区は、その昔は湿地帯で住みにくい ところだったと、明治以前の記録に残されている。
この地域の城跡はここから数キロ離れたところにあるのだが、実際に城があっ た頃は、この部落の近くまで勢力があった。城の追手門跡は、実にこの部落の至近 に設置されている。長吏や牢番を代々担当してきたのは部落民だったため、昔の城 の近くには被差別部落が置かれることが多かったのだ。
67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/26(土) 11:16:48 ID:VXfuKw2w0 館林の正田邸は小頭半左衛門邸のあった場所に立っている。 つまり、かつてのB地区のあったその場所に建っている。 これは群馬県の部落史問題の研究家から聞いた話。 噂の真相で記事になる10年も前のことです。 80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/10(土) 23:30:08 ID:fsfnFdil0 小頭の末裔は維新後群馬県の水平社の中心メンバーになった。 その中の正田熊次郎は館林の正田家の親戚にあたる。