貴族のいる国〜階級社会の英国〜 京都産業大学文化学部 国際文化学科 杉本 恵 T.はじめに イギリス、英国と聞いて多くの人がイメージするのは紅茶や城など優雅なものではないだろうか。事実、私がイギリスという国に魅力を感じた中学2年の時のイメージは紅茶などの優雅で華やかなイメージであった。しかしイギリス留学を経験し、今なお続いている貴族議会やそこに席を有する貴族の存在、またパブリックスクールなど階級制度が根強く残っていることを知った。この留学からイギリス独特の階級社会や制度に興味を持ち、ヨーロッパ文化演習Uで研究してきた。今回、卒業論文では貴族と呼ばれる人々とはどのような人なのか。また、こうした階級社会が今も存続する文化、歴史を追及し、将来どうなっていくのかを明らかにしたい。 U.貴族とは 貴族とは、辞書的には、「身分や家柄が高く社会的な特権や社交界での権利を有した支配階級に属する人。また、特権を持つ者や優雅な生活をする者のたとえ」とされている。 日本では古く、平安時代の藤原一族や公卿の家柄などがこれに相当し、明治維新後は明治憲法では華族といったが、第2次大戦後から現在の日本には貴族と呼ばれる人は存在していない。 V.イギリス貴族 欧米でも階級社会が顕著に表れる国は少なくなってきている。イギリスはその数少ない階級社会が今なお続く国の1つであり、イギリスで貴族と呼ばれるのは社交界での権力を有するだけでなく、政治力、財力に恵まれた人々である。 政治力とは、イギリス議会の一方をなす上院を「貴族院」と言い、貴族院にはカンタベリーの大主教をはじめとする聖職貴族、大法官を含む法服貴族、一代貴族などのほか、世襲貴族よって構成されており、席を持っている全議員が何らかの形で爵位を持っているためである。しかし民主主義の発展とともに公選制の下院(庶民院)に政治の実権が移り「貴族院」は名目的存在としての意味が大きくなった。1911年には議会法で日本の衆議院やアメリカの下院と同じように下院の優越が定められ、法案の最終的な決議権などは完全に下院に移った。けれども現在もその審議水準の高さで尊敬を集め、下院に再考を促す議院としての存在価値は高いと言われている。 しかし近年のブレア政権による貴族院改革は、92名を除いて残りの世襲貴族から議席を剥奪し、現在の議席は700名ほどとなっており、縮小の一途をたどっているのが現状である。 V.4つの貴族と称号 貴族制度がヨーロッパで確立したのは、近世に入って君主制の中央集権国家が誕生し、王室とそれを支える臣下という強力で巨大なピラミッド形の支配階層が構築されたことによる。国によってその成立に違いはあるが、イギリスでは公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の5段階の爵位が一度に制定されたのではなく、ノルマン征服以前のアングロサクソン時代に伯爵は国王の領土の管理人、中世には州の長官の役職名で、男爵は領主を指す言葉であった。公爵が初めて授与されたのは1370年、侯爵は1376年に王の係累で、宮廷内での序列を表したものである。 ・世襲貴族 世襲貴族とは身分・財産などを、嫡系の子孫が代々受け継いでいっている貴族を指す。爵位は制度上、公爵(Duke)侯爵(Marquess)伯爵(Earl)子爵(Viscount)男爵(Baron)の5段階あり、爵位は終身で爵位を持っていた者が亡くなると持っていた者に1番近い血縁の男子が爵位を継承することになっている。そのため長男をHeir(=継承者)、次男を俗にSpare(=予備)と呼んでいたこともある。そして爵位を長男が継承した場合、次男以下の男子は爵位を持てない者も多く、自ら生計をたてなければならなかった。しかし次男や三男といえ貴族の子ということでつける仕事も限られていた。それはジェイ・オースティンの小説「マンスフィールド・パーク」に出てくる準男爵の次男エドマンドは牧師になることが決まっており「私は何らかの職業に就かなければなりませんが、法律にも、陸軍にも、海軍にも向いていませんから」と、自分が聖職に就く理由を説明していることからもわかる。貴族の子である次男以下の男子は軍人、聖職者、法律家、実業家以外の仕事に就くことはほとんどできなかったのである。また世界大戦以降は長男、次男など男子が戦死したため相続人を欠いて絶家する場合も珍しくなかった。 現在のイギリスの世襲貴族の数は現女王の夫君エディンバラ公や、次男ヨーク公のような王室公爵が5名、公爵26名、侯爵36名、伯爵192名、女性伯爵5名、男爵482名、女性男爵13名となっている。そして、ブレア政権の改革で世襲貴族の貴族院の定員が90名の議員と2名の主要閣僚である式部長官と紋章院総裁と定められたため667名が議員としての名誉を失った。 ・一代貴族 一代貴族とは、イギリス貴族のうち、世襲ではなく、爵位を受爵した者一代限りで貴族に任じられる者である。そのため世襲貴族のように子孫に爵位が継承されることはない。一代貴族は全て男爵位であり、貴族院議員となる。また、一代貴族は世襲貴族より下と考えられがちだが、男爵同士なら全く同格である。1999年の貴族院法改正により、世襲貴族の議席数が約90人に限定されたため、今では一代貴族のほうが特権が多いと考えられる。そして男爵と名付けられているが、マーガレット・サッチャー元首相のように、男性だけではなく女性も一代貴族の女男爵になれ、男性ならばBaron、女性ならばBaronessと呼ばれる。一代貴族としての男爵位の授爵者は、主に首相、国会議長、重要閣僚、最高裁判事、政党幹部経験者などが引退後に与えられることが多くなっている。 ・法服貴族 法服貴族とは一代貴族であり、法律家である司法権の頂点に立つ上院として組み込まれていた最高裁判所を構成していた12名の貴族をさしている。昔は爵位を継承できなかった貴族の次男以下が貴族になれた狭き門であった。しかし2009年10月にイギリス最高裁判所が設置されたためこの法服貴族で構成されてきた最高裁判所は機能しなくなった。現在は法服貴族が貴族院から最高裁判所へ移動になることで分離し、三権分立が確立した形で構成されている。 ・聖職貴族 聖職貴族とはカンタベリー大主教、ヨーク大主教および24名の上級主教の人々を指す。カンタベリー大主教とヨーク大主教はその役職に就くことで爵位を授与でき、そのほかの爵位はロンドン主教、ダーハム主教、ウェストミンスター主教の3名と教区主教から在任期間の長い21名の主教が選ばれる。そして現在の序列でも聖職者であるカンタベリー大主教が第1位とされ、首相よりも上位の席次にある。また彼らは貴族院議員として議席を有している。 その他、準男爵やナイト爵などが存在する。 ・準男爵(baronet) 準男爵は、イギリスの世襲称号である準男爵位を持つ者であり、世襲のためその称号は子孫へ継承される。準男爵は世襲称号の中では最下位でイギリスの法の爵位には含まれず、上院に議席も持たない。このように準男爵は、厳密に言えば貴族ではなく、ジェントリと呼ばれる中流階級に属するものの、社会的には実質的貴族としてみなされることが多く、貴族名鑑には準男爵も含まれることが多い。女性準男爵はbaronetessと呼ばれる。準男爵という称号は1611年にジェームズ1世が多大な王室の借金を返済するために爵位売買を始めたことから新しく創設されたものである。そのため他のヨーロッパ諸国には同等の爵位は存在していない。しかしこの爵位も近年は受爵されることはまれであり、1965年から2005年までに新たに準男爵が授爵されたのは、前首相マーガレット・サッチャーの夫であるデニス・サッチャーの1件のみである。 ・ナイト爵 ナイトは、主に文化・学術・芸能・スポーツ面で著しい功績があった者に対しイギリス人であれば首相の助言によって、外国籍の者に対しては外相が推薦し、君主が授与する栄典である。そのため爵位ではなくナイトとはあくまで称号のことを指す。ナイト爵は年に2度、新年と女王(王)の誕生日に叙勲者として発表され、中世の騎士の叙任に対して主君が行っていたのと同じように、女王が自分の前に跪いた叙勲者の両肩を儀礼用の剣の平で触れる騎士叙任の儀式が行われる。ナイトの称号は一代限りで、世襲することはできない。また、貴族議員としての席も有していない。 ナイト爵を叙勲しているのはイギリス人では有名なジョン・レノンやエルトン・ジョン、デヴィット・ベッカム、アーサー・コナン・ドイル、ヴィヴィアン・ウエストウッドなどであり、アメリカ人ではルドルフ・ジュリアーニーやブラジル人ではペレなど様々な人がいる。日本人での受勲者は大会社の上役が多く豊田章一郎などの名が上げられる。 W.ノブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige)→高貴なる者の責務 世界で民主主義が一般的となっている現在でもイギリスに階級制度が残っている理由の1つがイギリスに根付いているノブレス・オブリージュ(ノーブル・オブリゲーション)であると考える。ノブレス・オブリージュとは身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における道徳観のことであり、もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意味。 貴族制度や階級社会が残るイギリスでは、上流階級にはノブレス・オブリージュの不文律があり、国家に災害や戦争など危急存亡の事態が発生した場合、まずわが身の危険を顧みず先頭に立って解決にあたるのが貴族として当然だという考えが浸透している。20世紀前半に起きた2度の世界大戦においても、上流階級の戦死者の比率は庶民のそれをはるかに超えるものであった。その結果多くの貴族の家が爵位を継承するべき長男や次男が戦死したため、爵位の継承権が叔父や従兄弟に移った例も少なくない。さらに、爵位を持つ当主は広大な領地に立つカントリーハウスと呼ばれる豪華な家で安閑としているわけではなく、その地域の振興のために会長や総裁として無料奉仕にさく時間は多く、また広大な敷地の整備と家の維持、補修に費やす巨額の経費は、すべて自らの事業収入で賄わなければならない。そのため現在では莫大な相続税や家の維持費を払うことができず多くの家が物納され、その中で国家的に重要なカントリーハウスは民間の文化財保護財団ナショナル・トラストに維持・管理が委託されているのが現状である。 X.階級での違い また貴族制度が今なお残るイギリスでは階級による違いが日常生活からわかる。特に階級がはっきりと表れるのが、話し言葉である話し方や発音のちがいである。労働者階級の人々は住んでいる地域の方言を話し、中産階級下層の人々は労働者階級ほど訛りが強くないが、その地域の訛りを彼らの話し言葉に聞くことができる。それに対して中産下級上層や上流階級の人々は「Received Pronunciation」と呼ばれる標準英語で話す。そして階級を表すのは発音だけでなく使う言葉や表現が違う。 貴族 lunch
riding
looking-glass 市民 dinner
horse-riding
mirror 上記の例から見てもわかるように同じイギリス人によっても階級で言葉が異なるのである。なぜならば貴族にとって「riding」といえば馬に乗ることときまっており、わざわざ「horse」という言葉をつける必要がなく、また「mirror」といったフランス系の言葉をわざわざ使うことは気取っていると見られ非上級階級とみなされる。そして階級意識は話し方や言葉だけでなく、食事の時間や好むスポーツ、子供につける名前にいたるまで、生活のあらゆる場面にみられるのである。このことからもイギリスの中に階級社会の文化が根強かかったことがうかがえる。 Y.貴族になるためには イギリスでは前章で述べたように話し方から階級の違いがわかる。 階級が言葉でわかる原因の1つとしてはイギリスの教育が大きなカギを握っている。イギリス貴族の子息の多くは幼いころから全寮制のパブリックスクールに入り、勉学と共に集団生活や競争意識などを学び、思春期の大部分を、年3回の休暇と学期半ばに設けられたハーフタイムと呼ばれる数日の休みを除いて、家庭から離れて過ごすのが主流であった。そしてパブリックスクールには様々な地方の学生が集まるので言葉や表現を学校ごとに1つにまとめてあるため生徒達は皆同じ発音と言葉で話すようになるのである。 パブリックスクールなしではイギリス貴族は存在しえない。そのためイギリスの階級社会と教育制度は切り離せない関係であり、階級社会の文化が残っている理由の1つであると言える。 ・イギリスの教育体制
図1 イギリスでは1870年の初等教育法によって公教育が開始した。日本の公教育が始まったのは1872年のため、だいたい同時期に始まったと言える。しかしイギリスではこの初等教育法ができる以前から各地の教会などで広範囲にわたって初等教育が実施されていたので、1870年の教育法は各地で実施されていた教育機関が公的に整備され、制度として確立したにすぎなかった。現在の教育体制になったのは1944年バトラー法という教育法がはじまりになる。しかしこの時の義務教育は5歳〜15歳の10年間で、今の5歳〜16歳の11年間が義務教育となったのは1964年ボイル文相の時からである。 イギリスにも日本と同じで私立の学校と公立の学校があり、普通、私立校はインデペンデントスクール、公立校はステイトスクール、またはメインテンドスクールと呼ばれている。イギリスの教育は幼児教育から始まり、一般的には公立や私立の保育園・ナーサリースクールに預けることが多く3歳から4歳、場合によっては2歳から預かってくれるところもある。またこのナーサリースクールを併設している小学校もある。 そして初等教育は11年間の義務教育のなかの6年間になる。公立では5歳6歳が通うインファントスクール、7歳から10歳までが通うジュニアスクールをまとめてプライマリースクールと呼んでおり、これが日本の小学校にあたる。私立の初等教育の場はプリプレパラトリースクールになり3年間通う。中等教育は義務教育の中の5年間になり公立ではコンプリヘイシブスクール、グラマースクール、テクニカルスクール、モダンスクールの4種類があり、これらが中学校にあたる。私立では4年間通うプレパラトリースクールの1つだけになる。そして中等教育は義務教育にならず、イギリスには日本のような高校は存在しない。中等教育を学ぶ場は公立ならばシックスフォームや選抜高になり、私立ではパブリックスクールとなり5年間学ぶ。中等教育卒業後は社会にでるか進学を選ぶのなら大学かカレッジとなる。大学は日本と違い通常は3年制である。 ・パブリックスクールとは パブリックスクールとはもともと寄宿舎のあるハウス形式の奨学金を除く国家の援助を受けていない社会的名門校を指す。ハウスというのは寄宿舎のことでいわゆる寮とにたようなものである。寄宿制をとっている学校の生徒はすべてハウスに所属しそこを生活の拠点とする。大きな学校だと20以上のハウスを有しているが、普通は10程度のハウスによって分かれて生活している。ハウスを持つ学校などではハウス対抗スポーツ試合などが催されて、強い団結力や協力することなどを生徒が学べるようになっている。また、私立学校なのにパブリックという呼び名をつけられた理由はいくつかの説があるが最も有力なのが14世紀〜15世紀にかけて、生徒をイングランドの一定地域だけに限定せずイギリス全土から集めたことから、ノン・ローカルすなわちパブリックの名称にされたという説である。 パブリックスクールは元来は男子にのみ入学が許可されていた学校であったが、ヴィクトリア女王時代に女子校のパブリックスクールができたことによって現在では男子校や女子校のみならず共学のパブリックスクールも存在している。しかし現在も女子に門戸を開かないパブリックスクールがあるのも事実であり、そのうちのひとつが最古のパブリックスクールとされるウィンチェスター校である。 ウィンチェスター校は1382年にウィンチェスター寺院主教のウィリアム・ウィンカムがロンドン南西のハンプシャー・カウンティの町であったウィンチェスターに設立した。軍事訓練の盛んな学校として知られているが、教師の4人に1人が博士号を取得しているという優秀な教師陣がいる学力優秀校である。そしてウィンチェスター校のライバルとされ、パブリックスクールの中で1番有名なイートン校も未だ男子校である。イートン校はウィンチェスター校の後、つまり、イギリスで2番目に設立されたパブリックスクールである。イートン校の正式名称はイートンカレッジと言い、時の国王ヘンリー6世によって1440年に国家と教会に貢献する青年を育成する目的で、ロンドンの西バークシャカウンティのウィンザー城の城下にあったイートンの町に設立された。制服は白い蝶ネクタイに燕尾服と昔ながらの伝統を今も守っている。イートン校は現在最大の生徒数を持つ人気校のため24ものハウスがあり、そしてイギリスの首相を19人も輩出しているトップをゆく名門校でもある。その他にもハロウ校や共学となったセントポール校、ウエストミンスター校、ラクビー校などの名門パブリックスクールが存在いる。 女子の名門私立学校は5歳から10歳がプレパラトリースクール、11歳から18歳までがパブリックスクールと男子とは教育体制が異なってくる。女子の名門として名高いのがチェルトナムレディスカレッジやローディンスクールである。 上記に記したようにパブリスクールには様々な地域から生徒が来るが卒業する時にはすべての生徒がパブリック・スクール・アクセントでもあり「Received
Pronunciation」である標準英語で話すようになっている。そのためパブリックスクールに通う子供と通わない子供の間で階級意識が強くなることが考えられる。また貴族には未だに何代にもわたって同じ名門パブリックスクールに通うこと当たり前としている人々が多数をしめていることからも、貴族にとってパブリックスクールでの教育は貴族としての教育でのあることがうかがえる。事実イートン校では「イートンの諸君 君たちは 命令するために 生まれてきた」いう言葉が残されているほど現在でも伝統を受け継ぎ守りながら、「バランスがとれ、広く教養のある、自律した、自信のある、社会の貴重な一員」を基調に、時代とともに、あるいは時代に先駆けて、世界中の指導者を輩出し続けるのである。 Z.おわりに 現代のイギリスには階級意識や階級制度はないと主張する人も少なくない。2000年に「一流のものーイギリスの階級制度に打ち勝つ方法」という階級に関する本が出版された時にも、階級というテーマ自体が時代錯誤だという反応が多かったという。しかしそれでも階級に関する本は毎年のように出版され、テレビやラジオ、新聞では常に階級に関する何らかの言及が見られる。小説、戯曲、映画、ドラマ、音楽、美術などのイギリス文化のあらゆるものに階級の要素を無視して語ることはできない。 現在のイギリスは不平等ながらも自由であり、昔に比べ貧富の差は縮まり、言葉、教育に対する熱意の違い以外に顕著な違いは見当たらなくなったとも言える。また、政治の面といえる貴族院でもまだまだ改革がなされていくことが予想され、ますます貴族と呼ばれる人々や彼らが持っている特権が縮小されていくことは間違いないと思われる。しかし私は今回、イギリスの貴族そして階級制度を調べ彼らがこれからもイギリスのために存続することを願いたい。なぜなら彼らこそがイギリスの文化、歴史の象徴でると思ったからである。 イギリスに興味を持ってから9年、イギリスから帰ってきて来てから6年。イギリスという国はまだまだ私を魅了してならない。これからも知識を広げ、理解を深めていきたいと思う。 〜参考文献〜 山田 勝『イギリス貴族』創元社,1994 海保 眞夫『イギリスの大貴族』平凡社,1999 田中 亮三『英国貴族の暮らし』河出書房新社,2009 森 護『英国の貴族』大修館書店,1987 小池 滋『イギリス』新潮社 伊村元道著『英国パブリック・スクール物語』 丸善、1993 江藤恭二/木下法也/渡辺晶編著『西洋近代教育史』 学文社、1979 小林章夫著『教育とはーイギリスの学校からまなぶ』 NTT出版、2005 下條美智彦『ヨーロッパの教育現場から』 春風社、2003 R.オルドリッチ著(松塚俊三/安原義仁監訳)『イギリスの教育』 玉川大学出版部、2001 ※図1 イギリス義務教育体系図 『ヨーロッパの教育現場から』p21 |