日経サイエンス  2005年9月号

生命の時計を止める 仮死状態の医療応用

M.B. ロス(フレッド・ハッチンソン・ガン研究センター) T. ニスタル(カーネギー研究所)

 人体を仮死状態で休眠させたまま,数世紀にわたる宇宙旅行をする──SFではおなじみの場面だが,仮死をもたらす技術は近い将来もっと身近なところに登場するかもしれない。仮死の研究者たちがいま取り組んでいるのは「生命を一時停止させることで,生命を救う」方法の開発だ。たとえ短時間でも失血や虚血による酸素欠乏は死に直結する。重傷者や血管閉塞を起こした患者を酸素消費のない仮死状態に置くことができれば,治療のための“時間稼ぎ”が可能になるはずだ。また移植用臓器の保存時間を延ばすのにも役立つだろう。

 

 自然界には生命活動を減速させたり止めたりできる生きものがたくさんいる。冬眠する動物や胚のまま成長を止めて休眠する生物は,仮死に近い状態に自らを導くことで,低温や酸素欠乏など過酷な環境条件から体を保護しているのだ。著者らのグループは,こうした動物の観察や実験から,細胞や組織を安全に無酸素状態に導く方法を検討している。具体的には,体内の血液あるいは酸素を別の物質で置き換える方法だ。そのひとつは,食塩水を入れて血液を抜き取る方法で,すでにイヌやブタの実験で有効性が確かめられている。しかしこの方法は合併症などの危険をともなうため,医療には応用しにくい。

 

 そこで著者らが注目しているのは,硫化水素を使って酸素を置き換える方法だ。マウスを使った実験では,硫化水素を含む大気にさらすことで細胞の酸素消費を止め,仮死状態を誘導することが確かめられた。硫化水素は人体にとって有害だが,人間の体内でも作られており,エネルギー生産速度を調節する物質として働いている可能性がある。

 

 こうした方法は人間でも有効かもしれない。だが,そもそも人間は仮死状態に入れるのだろうか。雪山で遭難し,呼吸や脈拍のない低体温状態で発見された人が無事生還した例はいくつもある。仮死の医療応用には,こうした事例を分析し,安全に仮死状態に導く条件を明らかにすることが不可欠だろう。

著者

Mark B. Roth / Todd Nystul

フレッド・ハッチンソンガン研究センターのロスの研究室にニスタルが大学院生として在籍していた当時,仮死状態の細胞メカニズムと保護作用の解明に取り組んだのが共同研究の始まりだった。ロスは,細胞のサイズ調節機能や遺伝子発現,特殊な機構など細胞の基礎的現象を研究している。ニスタルは2004年にワシントン大学(シアトル)で博士号を取得。現在,ボルティモアのカーネギー研究所のポスドクで,ショウジョウバエの幹細胞の調節機構を研究している。仮死状態のメカニズムの解明は,移植用臓器の保存や重傷者の治療に役立つほか,幹細胞の能力を維持したり,低酸素・低エネルギー状態にあるガン細胞がなぜ放射線治療に反応しないかを明らかにするためにも有効だと彼らは考えている。

原題名

Buying Time in Suspended Animation(SCIENTIFIC AMERICAN June 2005)

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