在日コリアン問題入門
第1章 朝鮮と日本のつながり
第2章 日本の朝鮮植民地支配
第3章 在日韓国・朝鮮人の歴史
第4章 放置された戦後補償
第5章 在日韓国・朝鮮人の教育
第6章 社会保障からの在日韓国・朝鮮人の排除
第7章 今も続く就職差別
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第1章 朝鮮と日本のつながり
東アジアの中で最もつながりが深い地域の一つとして、朝鮮と日本があげられます。日本独自のものと考えられていた前方後円墳や方形周溝墓(資料参照)が朝鮮でも発見されたように、古代より玄界灘を渡って人々の交流が活発にあり、言語、史跡など現在に至るまでそのつながりを見ることができます。
◎朝鮮の統一と日本への影響
中国による侵略・混乱を経て、紀元前1世紀頃に朝鮮半島北部に、5つの部族の連合体として高句麗が建国します。その後南部では、百済、新羅の国家形成が進み、やがて朝鮮の三国時代を迎えました。三国の中で新羅が中国の介入する複雑な統一戦争を勝ち抜き、朝鮮の統一を達成します(7世紀後半)。統一をめぐる朝鮮の戦乱は、日本列島にも大きな影響を与えました。戦火を逃れ、政争に敗れた多くの人々が海をこえて日本に渡り、また逆に日本からも朝鮮の政治に介入したりして多くの人々が海を渡ったのです。朝鮮からの人の流入は、ウマ、文字、芸術、陶器、鉄製農具などを日本列島に持ち込みました。
◎前近代の朝鮮と日本
1231年に開始された元(蒙古)の朝鮮侵略は、高麗(936−1392年)の激しい抵抗を受けますが、1270年ついに元の圧カに高麗が屈することとなり、元の日本侵略が開始されます。元は、1274年には高麗軍を徴発し、1281年には、中国・高麗と連合軍を組み、日本侵略を行ないますが、日本の反撃と暴風雨によって阻止されることとなりました。従来、これら二度にわたる元の侵略が失敗した理由としては、日本の勢カと天災によるものとの記述が多いのですが、高麗・中国・ベトナムの元の支配に対する抵抗が背景にあったことを考えなければいけないでしょう。
◎神奈川と朝鮮のつながり
神奈川県の秦野市などは、農業・養蚕・機械の技術をもって朝鮮からやってきた秦氏が開いた里という説が有力です。ほかにも神奈川県大磯の高麗山、高麗神社のように高句麗王若光一族の移住の足跡が残されています。これら神奈川におけるような朝鮮との繁がりは、全国的にも見られ、古代の日本と朝鮮の密接な関係を明らかにしています。
◎秀吉の朝鮮侵略から交流の時代へ
織田信長の大陸侵略の野望は、豊臣秀吉に引き継がれ、1592年、1597年、朝鮮では「壬辰倭乱」と呼ばれる日本軍の朝鮮侵略が起こります。日本軍の侵略は苛烈をきわめ、戦果の報告として朝鮮人の耳や鼻を削いで日本へ送りました。現在も当時の耳や鼻を埋めた所が、京都市東山区の豊国神社のそばの小高い丘に、耳塚という形で残っています。
日本の侵略に対して朝鮮では「義兵」が組織され、日本軍の物資補給路を分断しました。また日本軍は、朝鮮の李舜臣に率いられた朝鮮水軍の亀甲船によって破滅的な打撃を受け、秀吉の野望は打ち砕かれることとなったのです。秀吉によって朝鮮の歴史的遺産の破壊と文化の担い手の連行が行なわれ、絵師、書士、陶芸師(1)、織物師、細工師といった技術者が日本へ送られました。
秀吉の後、日本を統一した徳川家康は、朝鮮との友好を求め、1601年、対馬の宗氏を通じ、秀吉の罪悪を詫び、250名の捕虜を還して日朝関係修復を行ないます。
当初、回礼兼刷還使(2)として始まった朝鮮からの使節団は、朝鮮通信使となり、その後江戸時代の200年の間に12回日本を訪れ、長い善隣友好の関係が築かれることとなりました。
<注 釈>
(1)朝鮮の陶磁器技術の広がり
陶工が日本に連行され、有田焼、高取焼、萩焼、薩摩焼といった焼物がつくられ、九谷焼、会津焼、瀬戸焼、さらに京焼(清水焼)へと朝鮮の陶磁器技術は広まっていきました。
(2)回礼兼刷還使
回礼は家康の国書に対する返礼の意。還遺とは壬辰倭乱で日本に強制連行された人々を帰国させる意。
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第2章 日本の朝鮮植民地支配
19世紀にイギリスに始まった産業革命は、世界中に広がり、資本主義の拡大をもたらすことになりました。大量に作られる物の売り先とその原料の調達をめざした欧米列強のアジア侵略は、激しさを増し、東アジアの国々も大きな動乱を迎えます。
◎日清・日露戦争と韓国併合
欧米列強によって開国を強いられた日本は、その後、後発の帝国主義国家として朝鮮への侵略を始めます。日本の朝鮮への侵略は、同じく朝鮮への侵略をねらっていた清との利害対立を生み、日清戦争をひき起こしました。(1894−95年)日清戦争におけるの日本の勝利は、次に同じく帝国主義国家として南への覇権を求めたロシアとの対立を生み、日露戦争(1904−05年)をひき起こし、ロシアに日本が勝利します。日清・日露戦争に勝った日本はその後、朝鮮への露骨な侵略を始め、1905年、朝鮮に「乙巳保護条約」を強要し、朝鮮を日本の実質的な植民地とします。
各地での日本の植民地化に対する抗日の義兵闘争は日本の強カな軍事力によって押さえ込まれ、1910年、武力によって強制された「韓国併合条約」によって、朝鮮は日本の完全な植民地となります。
◎日本の植民地政策と皇民化政策
朝鮮の植民地化を進める日本は、朝鮮の農民から土地を取り上げる「土地調査事業」(1910−18年)を実施し、まず、植民地からの土地の収奪を強めていきます。
日本の支配に対して朝鮮では独立を求める声が日増しに強まり、1919年3月1日、パゴダ公園にて「3・1独立運動」が始まり、その運動はまたたく間に朝鮮全土に拡がりますが、日本軍の武力弾圧によって踏みにじられます。その結果、朝鮮では貧農層の離村が進み、生活の糧を求めて日本や「満州」ヘの移住が始まります。
土地を追われ日本に移民した朝鮮人は、日本社会の底辺におかれ、さまざまな差別、抑圧をうけることになりますが、1923年、関東大震災時には、「朝鮮人が暴動を起こした」という官憲のデマによって6000名を超える在日朝鮮人が虐殺されるという事件もおきます。神奈川県下でも、4,000名余の犠牲者がでたという推定もあります。
柳条湖における武力衝突を機に始まる15年戦争期に入ると、日本は軍事力の増強をはかるために、植民地支配下の民衆の戦争動員を目的として,朝鮮民衆を天皇の下に一体化するための皇民化政策を植民地に実施していきます。日本政府は朝鮮語便用の禁止、神社参拝の強制、「皇国臣民の誓詞」の唱和といった皇民化政策を実施し、ついには朝鮮民衆の名前を日本風に変えさせる「創氏改名」制度を強要しました。日本の植民地支配は、朝鮮大衆の民族性の抹殺によって朝鮮大衆を日本の底層に組み入れ、他のアジア諸国の侵略に加担させていくこととなったのです。
<注 釈>
※征韓論
吉田松陰(1830〜59年)らが列強の勢力に対抗するために「日本は西洋式の軍備を取り入れて,軍事国家となり、自ら侵略者の立場に立つ」ことを主張しました。このような中で「征韓論」は台頭し、朝鮮などの他のアジア民衆を侵略することで、日本の発展をめざそうとした考えで、日本の帝国主義の基礎となりました。
※江華島事件(1875年)
当時、強烈な鎖国政策をとっていた朝鮮に対して、日本の軍艦雲揚号が、首都ソウル(漢城)の要塞地帯である江華島付近に無断で接近し、民家を焼き払い、朝鮮兵35名を殺害しました。日本側は、黒田清隆を全権大使として朝鮮に派遣し、武力を背景に開国を迫まりました。
※民衆たちの反乱と福沢諭吉の朝鮮論
1882年には、官吏の不正に怒った兵士たちによる壬午の軍乱が、1884年には、富強な近代国家の建設をめざそうとする開化派の金玉均らによって甲申政変と呼ばれるクーデターが起きました。しかし、日本や清国の介入によって政変は失敗、逆に清国と日本の介入を許す結果となりました。
福沢諭吉はこの間、日本、清、朝鮮の関係に関心を持ち、当初は、朝鮮の「開化派」と連帯しつつ、日本の指揮下に朝鮮を「文明化」させようという「朝鮮改造論」を提唱しました。これは、日本国内の政府批判を外に向け、日本の国権拡張をめざすものでした。そして甲申政変によって「開化派」の勢力が低下すると、朝鮮や清との連帯をはっきりと否定し、日本は欧米諸国同様、帝国主義国家としてアジア大陸への進攻すべきだと説く、「脱亜論」ヘと変わっていきました。
※閔妃殺害
日清戦争に勝利した日本は朝鮮での勢力拡大を進めようとした一方、朝鮮は日本からの干渉を弱めるため、ロシアに接近していきました。日本は朝鮮での日本への根強い抵抗は当時の朝鮮王の皇后であり、反日派の中心人物である閔妃が妨害しているとして1895年に日本公使三浦の指揮の下、閔妃を殺害しました。この事件は目撃者がいて発覚しましたが、責件関係者は無罪となりました。
※植民地政策
日本の植民地統治の初期10年は、憲兵政治または武断政治と呼ばれました。郡ごとに常駐した憲兵が警察官を兼ね、軍事力によって治安を維持する体制でした。その後、「3・l独立運動」への武力弾圧に対する民衆の反感が植民地支配にとって不利益と考えた日本は、「文化政治」を新施政としますが本質は変りませんでした。
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第3章 在日韓国・朝鮮人の歴史
朝鮮人が故郷を追われ、多数の朝鮮民衆が日本に住むようになるのは、1910年の「韓国併合」以後になります。
第1次世界大戦(1914〜18年)で莫大な利益を得た日本は、日本国内の労働力不足解消とより多くの利益の獲得のため、安い労働力を求めて積極的に朝鮮人労働者の移住を促進していきました。(3)
1911年には2527人しかいなかった在日朝鮮人は、1917年以後、急速な増加を見せ、わずか10年以内でその数は10倍以上に増えます。(4)
◎在日朝鮮人の生活
日本に渡航した在日朝鮮人の職業は、その大部分が土方や雑役人夫、日雇い人夫といった過激な肉体労働であり、日本人労働者の嫌う、汚く、きつい、低賃金の3K労働でした。また職に就いても、賃金において厳しい差別を受けます。同一労働において賃金は、日本人労働者の60%から70%、ひどい所では50%しかもらえませんでした。しかも、中間搾取によって実際の手取りはもっと僅かなものでした。また、日本人家主は、朝鮮人に借家を貸すことをいやがり、在日朝鮮人は住居に適さない水掃けの悪い土地に「バラック」を建て、6畳に普通6−7名、多いときには十数名も雑居するという生活におかれていました。
◎朝鮮人の強制連行、強制労働
1931年、柳条湖における衝突をはじめに中国への本格的な侵略を始めた日本は、「大陸兵站基地」と化した朝鮮で、労働カ不足を補うため、朝鮮人の動員方針をすすめます。
1938年、中国への侵略戦争の深化とともに「国家総動員法」が公布され、ついで翌年1939年には「国民徴用令」が発表され、朝鮮人強制連行が開始されます。当初動員は「募集」形式でしたが、1942年になると、「官斡旋」形式に変わり、より強制的な連行政策に変わります。大部分が行き先も知らされずに日本に連行されます。1944年に入ると労働者の不足はより切実な間題となり、「徴用」として、朝鮮人の強権的な日本への「強制連行」が始まりました。
朝鮮人は日本各地の炭鉱、鉱山、軍需工場、港湾、飛行場建設、道路工事、ダム建設の現場などに送られます。そして1日14〜15時問も酷使され、落盤、ガス爆発やさまざまな事故で多くの死者や障害を負った人々を生み出しました。また、苛酷な労働に耐えられず逃亡すると、見せしめにリンチを加えられ、死亡した例も多く、また、給与末払いも多かったといわれています。例えば、当時、国の最高の作戦指揮機関であり、宮中にあった大本営を移転するために長野県松代に巨大な地下要塞の建設工事をしましたが、この工事のために敗戦までの10ケ月の間に連行された朝鮮人労働者総数は8千〜1万人とも推定されています(5)。
また、神奈川県内でも横須賀海軍工場や横浜市日吉の旧連合艦隊司令部のための地下壕、日本鋼管川崎工場、相模湖ダム建設工事などに多数の朝鮮人が連行されています。
1944年には徴兵令が発せられ、それ以前に志願制度によって集められた者とともに多くの朝鮮青年が日本の軍人として戦線に駆り立てられました。同時に軍属として、日本の植民地下での飛行場建設、港湾施設工事、捕虜監視員などにつかされます。この結果、日本の敗戦後、23人の死刑を含め、多数の朝鮮人が日本のBC級戦犯として罪を問われています。
また、朝鮮人女性を「女子挺身隊」の名の下に、「従軍慰安婦」として戦場に連れていき、その数は10万人とも20万人とも言われています(6)。
原爆が投下された広島・長崎にも当時強制連行された朝鮮人が多くいました。そして、広島で5万人、長崎では2万人が被爆をしました。うち、広島では3万人、長崎でも1万人以上が亡くなりました(7)。
日本に連行された人々は、朝鮮人だけでなく中国人捕虜や連合国の捕虜もおり、秋田県の花岡鉱山では中国人の虐殺事件も起こっています(8)。
朝鮮人動員の数は、労働者として国内外あわせて300万人、軍事力として36万人を超える数に達し、終戦時には200万人を超える朝鮮人が日本で生活することとなったのです。
/注釈/
(3)日本産業の調整弁
1920年代の不況期には、社会的矛盾は朝鮮人労働者に集中しました。日本は当初、安い朝鮮人労働者の導入をはかって日本への渡航制限を廃止しましたが、失業対策や日本人労働者への圧迫などを理由に、1925年には「渡航阻止制度」ができました。
(4)止まらない日本への流入
1919年の「3・l独立運動」後、日本は、朝鮮人の日本への渡航を届出許可制にして制限しましたが、故郷での生活基盤をなくした民衆の流れを止めることはできませんでした。
(5)(6)「朝鮮人の強制連行の記録」朴慶植著(未来社)より
(7)
数は推定。広島の平和公園内には未だに韓国・朝鮮人慰霊碑がありません。「被爆国日本」という表現がよく使われますが、その中に当時強制連行等の経緯で被爆した韓国・朝鮮人が多くいた事実を私達は忘れてはいけません。今も後遺症に苦しむ被爆者は日本人だけではありません。
(8)花岡事件
1942年から中国人の日本への強制連行が始まります。全国35の企業、135の事業所に約4万人が連行され、約7千人が死亡したといわれています。秋田県の花岡炭鉱では、44年8月〜45年5月まで986人の中国人が鹿島組花岡出張所に強制連行され、「中山寮」に収容されました。この寮の中国人たちは苛酷な労働と職員による虐待で次々と死亡しました。これに対し中国人たちは1945年、一斉峰起し、寮を脱出しましたが、数日の内に全員が捕らえられました。そして蜂起した中国人に対し、残酷な拷問・暴行が加えられ、100人を超える中国人が虐殺されました。結局、986人のうち418人が亡くなりました。数少ない中国人生存者と遺族らが鹿島建設に対して謝罪、補償金支払い、記念館建設を要求し、1990年、鹿島建設は花岡における強制連行・強制労働について正式に謝罪しました。しかし、補償等の具体的な解決には応しず、1995年6月、生存者等によって鹿島建設に対して損害賠償を求める裁判が東京地方裁判所に提訴されました。
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第4章 放置された戦後補償
◎戦後の在日韓国・朝鮮人政策
日本の敗戦後、強制連行等によって在日していた多くの旧植民地出身者(韓国・朝鮮人、台湾人)は帰国しましたが、米ソの分割統治下に入った朝鮮半島は、長い植民地支配の疲弊も重なって、混乱を極めていました。そのため、約60万人が日本に留まることとなりました。
日本占領下での在日韓国・朝鮮人の地位は、参政権などの諸権利の停止、「外国人登録令」の施行による外国人登録証の常時携帯・退去強制の対象、民族的教育の否定による日本人学校への就学義務の強制など、日本を占領したGHQも含め、在日コリアン、台湾人といった日本の旧植民地出身者をあるときは「日本人」として、あるときは「外国人」として恣意的な取り扱いをしました。日本政府は戦後、「外国人登録令」(現在、外国人登録法)、「出入国管理令」(現在、出入国管理法)を制定し、在日韓国・朝鮮人、台湾人の治安管理を目的とした法体系をつくりました。そして、1952年「サンフランシスコ講和条約」の発効に伴い、日本政府は法務省民事局長通達によって在日韓国・朝鮮人の国籍を剥奪しました。日本政府は朝鮮半島等への侵略、強制連行といった自らの行ってきたことを深く反省することなく、在日韓国・朝鮮人を治安管理の対象とし、国籍の違いを理由に差別するシステム作りを戦後復興の陰で行いました。公務員の国籍条項(「当然の法埋」)はこういった背景でつくられたものです。法律の制定経緯から国籍で在日コリアンを除外できない戦傷病者戦没者遺族等援護法にいたっては、「戸籍」を利用し、排除しました。
このようにして、在日韓国・朝鮮人は権利から一切排除され、助長された民族差別意識も加わり、生活の苦悶を強いられたまま現在に至っています。
◎戦争は終わってない
侵略の過去の反省と清算をすることなく経済成長をとげた日本は、戦後50年を前後して、国内外の戦争被害者から謝罪と補償を求められています。戦後補償の課題は、戦争中、日本軍の性的処理のため朝鮮やアジア各地から集められた「従軍慰安婦」の問題、日本の捕虜収容所の監視員として戦犯に問われた韓国・朝鮮人戦犯問題、戦争にかり出され傷ついた傷痍軍人・軍属の補償問題など、未解決のまま残されています。そして、加害の歴史を無視した日本政府の対応は、自国民優遇で、戦後補償問題は各国間の「賠償」請求で解決済みとしており、個人補償を行おうとしません。
現在、日本がアジア各国から問われている問題は、戦争中の「国際人道法」等の社会的倫理に反する行為の犯罪性で、そして、今ひとつは自国民しか補償しない排外性です。
◎問われる歴史認識
旧西ドイツのワイツゼッカー氏は「過去に眼を閉ざす者は、現在にも眼を閉ざす」と歴史認識のありようを述べています。先の大戦でのドイツの戦後補償・賠償は、官民ともに日本と比べものになりません。ドイツは植民地にしていた人たちに自国の国籍を付与したり、戦争被害者には自国民と同等に補償を行っています。また、アメリカ、カナダでは日系人の強制収容を謝罪し、生存する日系人に補償を行っています。
しかし、現在の日本の世論は、こういった問題に無関心であり、その上、最近では、侵略の歴史を教えることは自虐的だとし、過去の史実すらも否定する世論があります。特に「従軍慰安婦」問題は、政府の公式見解がでているのにかかわらず(10)、「歴史事実と相違し、信頼性の極めて低い」とする偏った民族主義を背景にする論調がはびこっています。教科書記述に疑義を表明したり、「『慰安婦』は商行為」等、一部保守系の国会議員からも暴言ととれる発言(11)が繰り返されています。
こういった論調に惑わされることなく、正しい歴史認識をもつことが必要です。日本は過去の侵略史を検証し、後世に伝えることが必要です。また、過去の清算をする意味で、早期に戦争被害者の個人救済や戦後補償を行うことが必要です。さらに敗戦後の在日韓国・朝鮮人など旧植民地出身者等の戦後処埋の問題性を反省し、それらの人たちに歴史性を考慮した人権施策を行うことも必要です。それまで戦争は終わりません。
ちなみにサミットの主要国で戦後補償が一番遅れている国は日本ということをみなさんはご存じでしょうか。
/注釈/
(10)「慰安婦」の問題の対応
・1993年8月4日に政府は調査報告書を公表し、官房長官談話を発表し、「慰安婦」問顕の日本軍の参与を認めている。
・国際法律家委員会が報告書を発表。「慰安婦」被害者には個人補償請求権があると結論。日本政府に行政機関の設置・立法措置・仲裁裁判に応ずぺきと勧告。
・l995年l月日本弁護土連合会、「従軍慰安婦問題に関する提言」を発表。立法等による解決を提言。
・1996年2月国連人権委員会で特別報告、国際的論議の中でも周知の事実であり、「個人補償、資料公開、被害者への謝罪、歴史教育等」の勧告を日本は受けている。
・1996年8月に橋本首相が被害者へ「軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く犠つけた問題」と「お詫ぴの手紙」を出し、「おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに」と表明している。
*繰り返される暴言
戦後約半世紀が経過しましたが、いまだに朝鮮半島と日本の植民地支配に対する認識は共有されず、過去の問顕が解決されないまま残っています。現在まで、閣僚が相次いで侵略戦争否定や植民地支配を肯定する発言を続けています。
・桜井新(当時環境庁長官)1994.8.12
“日本も侵略略戦争をしようと思って戦ったのではなかった。むしろアジアはそのおかげでヨーロッバの植民地支配の中からぼとんどの国が独立した。”
・渡辺美智雄(元副総理)1995.6.3
“日本は韓国を統治していたことはあるが、植民地という言葉は公の文章にはどこにも書いていない。日韓併合条約は円満に結ばれたもの。”
・江藤隆美(当時総務庁長官)1995.l0.l
“植民地時代、日本は韓国によいこともした。”
教科書記述問題に関して
・1996年5月 97年度中学校歴史教科書に「従軍慰安婦」問題が記述。自民党総務会で板垣議員が「慰安婦」問顕の教科書記述に疑義を表明。
・1996年6月 「明るい日本」国会議員連盟結成され、奥野議員が「慰安婦は商行為」と発言。
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第5章 在日在日韓国・朝鮮人の教育
◎同化教育の強要
日本の敗戦時、約20万人を数えた在日韓国・朝鮮人の就学児童の大部分は日本の学校ではなく、各地で朝鮮人団体が中心となって開設していった寺小屋式の朝鮮語講習所に通っていきます。日本を占領したGHQは、在日韓国・朝鮮人に対して、GHQの意向にそわなければ敵国人として処遇するという姿勢を打ち出します。それを受けた文部省は、1948年に当時行なわれていた民族学校の閉鎖を意味する通達を出します(11)。
これに 対して、在日韓国・朝鮮人らは各地で反対運動を起こしますが、GHQと日本政府は戦車や警察力をもって弾圧し、大阪においては16歳の少年が射殺されるという事態に至ります。このような弾圧の中で、在日韓国・朝鮮人側は文部省と3回の交渉を行ない、覚え書き(12)を交わしますが、その後覚え書きは反故にされ、民族学校の改組、閉鎖は強カに推し進められます。その結果、大部分の民族学校は閉鎖され、多くの在日韓国・朝鮮人生徒が日本の学校に通うことになりました。
在日韓国・朝鮮人の民族教育は否定され、同化教育が朝鮮人に強要されたのでした。
◎日韓条約と在日韓国・朝鮮人教育
1965年6月、日韓条約が締結され、法的地位協定において在日韓国人の「教育に適当な考慮を払う」ことがうたわれます。
しかし、分断された国家の一方と締結した条約からは、1950年代に入ってから朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持する朝鮮総連を中心に再建が進んだ民族学校の問題はほとんど除外されています。
また「考慮」の中味も、公立の小・中学校への入学を認めること、および中学校を卒業した場合に上級学校への入学資格を認めるという、「当然」のことを認めたにすぎませんでした。
また教育内容においても、「教育課程に関する事項」として、「日本人子弟と同様に取扱うものとし、教育課程の編成・実施について特別の取扱いをすべきではない」として、日本の学校で在日韓国・朝鮮人が民族として自覚していく教育を否定したのでした。
1970年代に入ると、在日韓国・朝鮮人差別の実態や背景を見据え、在日韓国・朝鮮人として堂々と生きていけるような教育実践が徐々に各地の教員や地域の子ども会活動の担い手たちにより取り組みはじめられました。
そういった実践の蓄積として、1980年、全国ではじめて大阪府豊中市教育委員会が「豊中市在日外国人教育方針一主として在日する韓国・朝鮮人児童・生徒の教育」を制定しました。
その後、こういった在日韓国・朝鮮人の教育方針が各地の教育委員会で制定され、その取り組みが教育行政の課題として取り組みはじめられました。神奈川県の川崎において、本名で受けとめられない学校現場に対し、在日韓国・朝鮮人のオモニ(母親)、アボジ(父親)が川崎市教育委員会との交渉をはじめ、約3年の歳月を経て、神奈川県下においてはじめて「在日外国人教育方針(主として韓国・朝鮮人)」が1986年に制定されました(14)。そんな中で、学校現場においても、教員個人の取り組みでなく、学校全体の総合的な取り組みとして展開されていく学校がでてきました。
民族差別の実態や背景、歴史認識をきっちり見据え、在日韓国・朝鮮人として堂々と生きていけるような教育実践を行う中で「本名を呼び、名乗る」環境を学校現場でつくることが急務の課題です。そのために、・教育方針の周知徹底、在日韓国・朝鮮人教育の研究、実践の深まり、・在日韓国・朝鮮人教貞、または民族講師としての積極採用等による環境整備、・地域での取り組み、当事者との連携、などが必要です。また、近年増えている他の国籍・民族、歴史的背景をもつ在日外国人とリンクさせることの必要性もあります。
しかし、在日韓国・朝鮮人の子ども達の環境は未だに厳しいものがあります。本名でのイジメはたえず耳にしますし、就職差別が現存し、進路保障もままならぬ環境です。他方、いまだに当たり前に続けられている差別として、民族学校をめぐる問題もあります。国体などの参加問題(15)、国公立大学等の受験資格問題(16)などです。こういった不平等を一日も早くなくすことも望まれます。
最近日本が批准した「こどもの権利条約」においても、差別の禁止やマイノリティーの民族文化の保持がうたわれており、在日韓国・朝鮮人の民族教育、取り組みもあたりまえのこととして認知されなければなりません。しかし、昨今、史観論争に関わる過去の歴史事実の教科書記述を差し止めようとする動きなどがあり、歴史教育のありようが間われいます。人権教育の取り組みが国連をはじめ国際的に叫ばれているなか、ちがいをちがいとして認め、差別のない平等な社会、国籍・民族が壁にならない共生社会、だれもが力いっぱい生きられる社会の創造が早急に求められています。
/注釈/
(12)文部省通達
1.現在日本に在留する朝鮮人は、昭和20年ll月20日付総司令部発表により日本の法令に服さなければならない。
2.朝鮮人子弟であっても、学齢に該当するものは、日本人同様、市町村立または私立の小学校または中学校に就学させなければならない。
3.私立の小学校または中学校の設置は、学校教育法の定めるところによって都道府県監督庁の認可をうけねぱならない。
4.学齢児童または学齢生徒の教育については、各種学校の設置はみとめられない。
5.朝鮮語等の教育を課外に行なうことは差し支えない。
(13)交渉による覚書
1.朝鮮人の教育に関しては、教育基本法及び学校教育法に従うこと。
2.朝鮮人学校問題については、私立学校として自主性が認められる範囲において、朝鮮人独自の教育を行なうことを前提として、私立学校としての認可を申請すること。
(上記の(12)、(13)は、吉岡増雄「在日朝鮮人の生活と人権」社会評論社より)
(1))県下の外国人教育方針策定状況は以下のようです.(1995年末現在)
1986年 3月 川崎市在日外国人教育方針(主として在日韓国・朝鮮人教育)
1990年 3月 神奈川県在日外国人(主として韓国・朝鮮人)にかかわる教育の方針
1990年 3月 県立川崎高校在日外国人(主として韓国・朝鮮人)生徒教育基本方針
1991年 6月 横浜市在日外国人教育の教育方針
(15)国体参加問題
朝鮮学校は学校教育法第1条校ではなく、各種学校とされています。国体では特別措置による競技参加で、加盟は認められていません。一般の部でも朝鮮学校の卒業者には参加の道が閉ざされています。
(16)民族学校卒業者大学受験資格
学校教育法や施行規則は大学に入学できるのは日本の高校卒業者と帰国子女、留学生、大検合格者などと定めており、文部省は学校教育法上、民族学校のような各種学校扱いにされている卒業者には大学入学資格はないとの立場をとっています。受験を認めている大学は、「高校卒業と同等の学力がある者にも入学資格がある」という立場からで、国立大学等は一切認めていません。
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第6章 社会保障からの在日韓国・朝鮮人の排除
◎在日韓国・朝鮮人の権利剥奪
1952年のサンフランシスコ講和条約締結時の在日韓国・朝鮮人の日本国籍剥奪は、その後つくられていく日本の社会保障制度からの排除の手段とされていきます。1954年に厚生省は、社会局長通達によって、在日韓国・朝鮮人の生活保護の適用について「その対象を日本国民に限定しているので外国人はこの法律による保護を受けることはできない」と実施機関に指示しました。しかし、生活に困窮する外国人に対しては「外国人保護に関する法的措置が確立されるまでの間、暫定的に法を準用すること」としました。
このように「権利」としてではなく、「恩恵」として実施されている生活保護は、在日韓国・朝鮮人に異議申し立ての権利を保障していません。したがって行政による一方的な打ち切り、支給減額に対しては受け入れるしかないという状況です。
◎社会保障と国籍条項
さかのぼれば、被用者保険(社会保障)(17)には国籍条項はありませんが、職業差別によって在日韓国・朝鮮人の加入率はきわめて低く、その結果、在日韓国・朝鮮人の医療保険は地域保険(国保制度)(18)に頼らざるを得ない状況でした。一方、国保は被保険者の「適用除外」者として、「日本の国籍を有しない者及びその者の世帯に属する者。ただし日本人に内国民待遇をあたえる国の国民、条例で定める国の国籍を有する者は除く」と規定し、外国人とその配偶者や子どもたちを除外していました。
その後1965年に調印された日韓条約の法的地位協定により、在日韓国人に「協定永住」が与えられ、その権益として国保適用の保障がなされました。年金制度も医療保険と同様に、国籍条項がない被用者(厚生等)年金には就職差別により加入が少ない(19)一方で、国民年金は日本国民の年金だからと在日韓国・朝鮮人等を適用から除外した構造でした。 このような国籍条項は、児童手当、住宅金融公庫、公営住宅の入居といったさまざまな制度に持ち込まれ、在日韓国・朝鮮人の生活権を踏みにじってきました。
1982年に日本政府は、国際的な圧力もあって「難民条約」を批准しました。難民受け入れにともない、国内法の整備がされ、条約の「内外人平等」の精神により、国籍条項はやっとはずされました。
しかし、この「内外人平等」は、長年日本に定住している韓国・朝鮮人などを視野に入れた法改正ではなかったので、年金制度においては無年金の在日外国人を生み出すなどの問題を残しました。そして、未だに問題を解消する実効的な施策がとられていないのが現状です。(20)
昨今、この年金制度の不備により、無年金におかれている在日外国人の「福祉の向上」という位置づけで「福祉給付金」(21)等の施策が各自治体で行われています。地方自治体が自らの責任で在日外国人無年金者の救済制度を実施しているのです。しかし、根本の間題は国の年金制度の改正による解決であることは明らかで、各自治体の救済制度の実施と並行して、福祉年金制度の改正が必要です。
◎在日韓国・朝鮮人の背景に応じた施策を
今後、行政においては、在日韓国・朝鮮人の歴史性、かかえる背景に応じた施策の展開が必要です。
在日韓国・朝鮮人の社会保障制度において、現在は国籍条項もなく、なんら制度的に問題はないとされているようですが、上述した国民年金法、援護諸法等で制度の狭間に置かれ、無権利状態の在日韓国・朝鮮人は少なくありません。このことを行政がどう捉え、どのような施策を展開していくかが一つの課題です。
また、現在、国籍に関係なく、平等に行われているとされている福祉サービスについてもそうです。国籍(民族)に関係なく行われているので在日韓国・朝鮮人には配慮不足になることもあります。例えば、和食メニューしかない高齢者の給食サービスを在日韓国・朝鮮人の高齢者が喜ぶでしょうか。韓国・朝鮮語に「言語帰り」した高齢者とのコミュニケーションが可能でしょうか。(言葉の問題は今後増える「滞日」外国人が抱える問題でもあります。)平等の福祉サービスは何もかも同じ内容ではありません。行政がもっと在日韓国・朝鮮人の抱える背景・状況を把握し、担い手の育成も含め、ニ−ズにそった福祉施策の展開が必要です。
注釈
(17)被用者保険(職業保険)
一定の事業所に雇用されている人が対象。健康保険、船員保険、日雇労働者健康保険、各種の共済組合など、日本の医療保険の対象所の大半が加入。
(18)地域保険(国民健康保険)
1930年につくられました。市町村の義務として規定されていません。1958年の全面改訂によって国籍条項が入れられました。
(19)年金加入率
1984年県調査=無作為拠出、抽出率1/11の調査で、厚生年金加入率16.1%。国民年金加入率3.2%。
(20)国民年金の受給資格
国民年金制度受給資格は、加入時から収入に応じた月額の加入の年数の要件となります。算定された金額を25年間納入しなければ受給対象年齢になってももらえない制度です。したがって、発足時より制度の谷間に日本人たちは様々な救済的な経過措置を設けてきました。例えば、制度発足時の無拠出による福祉年金など、また先の大戦の敗戦によって占領されていた小笠原、沖縄の返還時、最近では中国からの帰国者に対しての国庫負担による「みなし免除制度」などがそうです。
82年時には在日韓国・朝鮮人に対してのそういった経過措置は一切とられませんでした。86年になり、年数制限を緩和する「カラ期間」の導入が行われましたが、1926年4月1日以前生まれの高齢者、1982年時に20歳以上の障害者人たちには、何の救済もなく切り捨てにされたのです。
また、その後の「カラ期間」を利用して年金をもらっても納入金額に応じて払われる年金額は25年間払った人たちの5分の1程度です。上述した「みなし免除制度」が月額納入金額の3分の1を国庫負担するということを考えれば、あきらかな不平等があります。
(21)定住外国人無年金者に対する神奈川県下の自治体給付
1994年度から川崎市が実施。翌年横浜市。その翌年相模原市。1997年度から県が「神奈川県外国籍県民等福祉給付金助成金事業」(県下実施自治体に半額補助)を開始。これにより、県下の福祉給付金は月額高齢者1.8万円。障害者重度は3.6万円、中度は2.4万円(川崎市だけが障害者4.0万円、2.8万円)。また、横須賀市などが給付開始しました。
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第7章 今も続く就職差別
◎在日韓国・朝鮮人の就労実態
1984年の神奈川県の県内在住外国人実態調査(22)によると、自営業者が26.4%に対して被雇用者が36.8%で、県内一般の1:8.5と比較してわかるように、在日韓国・朝鮮人の自営率は大変高い数字でした。その内訳は約7割が個人経営で、業種に関しては飲食(焼き肉、焼き鳥、中華料理など)、建設、廃品回収で半数以上を占めます。また、調査対象の62.4%が国民健康保険加入者で正式雇用者でないと予想できます。これらから在日韓国・朝鮮人が就職差別の結果、いかに不安定な条件で働いているのかがわかります。
◎就職差別への取り組み
就職差別が表面化することは、大変少ないのが実態です。その理由は、差別した側はあたりまえのこととして重大性に気付かず、差別される側も「ほかを探せばいい」とあきらめてしまうからです。また、差別を是正する行政、関係機関の力不足などもあげられます。
就職差別解消の取り組みが本格化したのは、在日韓国・朝鮮人青年を韓国籍を理由に解雇した日立製作所が、当事者の抗議を受けた1970年代に始まります。これを機に、各地で就職差別撤廃の取り組みが拡がっていきました。最近、神奈川県内でも、川崎市内の金融機関が在日韓国・朝鮮人女生徒の会社訪問後、人事担当者がわざわざ学校に出向き、不採用の意思を伝え、採用試験を辞退するように申し入れるという差別事件を起こしました。(23)その2年後、川崎の同じ地域の薬局でも発生し、就職差別が頻発に行われている状況が明らかになりました。就職差別解消の取り組みは、民間だけでなく、旧公社の電電公社(現NTT)、郵便外務職、弁護士資格にともなう司法修習生、国公立大学教員などの国籍条項にも及び、取り組みの結果、撤廃されるようになりました。
就職差別解消の取り組みは、一つひとつの就職差別事件に当事者が立ち上がり、差別をした企業と話し合いをもち、在日韓国・朝鮮人の生活実態と抱える問題を企業に学んでもらうことが必要です。そこで明らかになるのは、差別をした企業がいかにこの問題に対する認識がなく、また研修する機会が少ないかということです。
今後、行政も参画し、差別を許さないシステム作り、研修の充実等を行い、就職差別が一日も早く根絶されることが望まれます。
◎残されている課題
地方自治体の職員採用に関しては、国の見解の「当然の法理」(24)により国籍条項が存在し、外国人には全面開放されていません。神奈川県下においては、91〜92年、96〜97年に撤廃の気運が高まり、多
くの市町村で国穎条項が撤廃されました。しかし、神奈川県、横浜
市、川崎市の一般事務職等の国籍条項撤廃は、採用後に任用制限を
設け、国の見解の「公権力行使」と「公の意思形成への参画」を理
由に外国人公務員採用の全面開放とはなっていません。任用制限は
労基法にも抵触する可能性もあり、新たな問題となっています。ま
た、関連して、教職員採用問題(25)などを引き起こしています。
国籍条項の存在は、民間の就職差別を助長する結果ともなってい
ます。国際化が叫ばれ、21世紀まであと数年、戦後50年たった現在
でもこういった問題が積み残されています。「当然の法理」にみる公
務員等の就職の制限は、在日韓国・朝鮮人の就職差別がいかに日本
人の「心の壁」にあるかを意味しています。
注釈
(22)1984年県内在住の外国人に対して行った面接調査。有効回答1,028票。
(23)川崎市内の金融機関での差別事件
就職差別に抗議する教師や市民団体との話し合いの中で金融機関の理事たちは、「昔、朝鮮人が関東大震災の時、暴れたという話を聞いて悪い人間たちだと思っていた。」「おかねを扱う仕事だから、身元のしっかりしている人を採用したい」「組合員の意識を考えると外国人は採用しにくい」と予断と偏見に満ちた発言を採用拒否の理由として発言しました。
(24)「公務員に関する当然の法理として、公権力の行使、国家の意思形成への参画に携わる者については日本国籍を有するべきであり、地方においてそれ以外の公務員となるためには日本国籍を必要としない」との任用基準があり、これは1953年に出された内閣法制局見解から導き出されています。その後、自治省は「国家の意思形成」を「公の意思形成」と巧みにかえ、1973年には行政実例を出しました。〜「地方公務員の任用にかかる職の職務内容を検討して当該地方公共団体において具体的に判断されるべきものと考える。」とし、結局は地方自治体で独自に判断しろということになっています。神奈川県逗子市では、公権力の行使又は公の意思形成への参画に携わるのは市長だけであとの職員はその補助機関として、機能しているのでなんら問題なしと国籍条項撤廃に踏み切りまた。
(25)公立学校教員にも任用の制限があります。1991年の日韓覚書(*)以降、文部省の指導があり、「教諭」から管理職になれない「常勤講師」採用になってしまいました。1997年から神奈川県と横浜市でも外国人教員を常勤講師で採用するとし、各団体から批判を受けています。
*「日韓覚書」
1991年1月10日、日本と韓国の外務大臣の間でとり交わされた、在日韓国人の法的地位・待遇についての合意文書。この中で、今後日本で生まれる子どもの永住を認めること、指紋押捺制度を廃止することなどが入れられました。しかし、参政権、公務員採用や社会保障、また、公立学校での民族教育などは触れられていません。
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