-->
2008年5月31日発行号
許せない!学校と教育の戦前への逆流 ◆改悪教基法を具体化した新学習指導要領
文部科学省は、08年3月末に改訂学習指導要領を官報「告示」しました。来年度から、小中学校では移行実施され、小学校は2011年度、中学校は12年度から全面実施されます。わずかとはいえ学校教育のあり方への反省と改善への手がかりを含んでいた、これまで(現行)の指導要領と比べると、今回の改訂は明らかに「改悪」と言うべきもので、まさに改悪教育基本法の具体化です。
ある元小学校長は、「子どもの視点がまったく欠如している。学校での子どもたちの生活が窮屈になることは目に見えている」と言い、不登校・校内暴力・いじめ・学級崩壊などが増える心配がある、と憤っていました。教員など学校現場に、そしてなかんずく子どもたちに、きわめて大きな負担を強いるものであり、「統治の教育」をむき出しにしてきたと、強く感じさせる改悪です。 ◆すべての教育活動の「要」に道徳
新指導要領はまず、愛国心を総則の道徳に盛り込み、「君が代」は「歌えるように」指導するとし、日本の伝統・文化についても武道を必修化(中学1、2年)するなど、従来よりも一層踏み込んで規定しています。道徳も位置づけを強めて全教科で指導するようにして、学校教育全体の道徳主義化を明確にしました。この愛国心や「君が代」の記述は、パブリックコメント募集の後に付け加えたものです。特に重要なのは、学校の教育活動全体の「要として」道徳を学校教育の中心に位置付けたこと。
これは、修身科が「首位教科」として教育活動の中心におかれ、軍国主義教育を主導した、戦前の学校教育への復古そのもの。つまり、新装版の少国民づくりへの逆流の危険が大の改悪です。 道徳に関しては、あの『心のノート』路線をしゃあしゃあと指導要領のど真ん中に持ち込んだ、と言える内容です。心のノートを教育課程の全体で使えという、あの路線です。国語や社会科や生活科などで「隠されたカリキュラム」として行われてきた道徳教育を堂々と明示したとも言えます。T地ならしは済んだ、やってももう大丈夫Uという居直りと言うべきもの。許すわけにはいきません。 ◆「権利としての教育」否定の教え込み路線
その道徳を含めて、ということは社会的な規範や善悪の基準はもとより、そして愛国心や天皇への敬愛ももちろん、文部行政が国家支配者の意を挺して宛がう教育内容を、上から教え込む教育を強めようとしています。それは、総則から「自ら学び考える力の育成」がなくなったことにも表れています。また、総合的な学習の時間は「教える内容を上(文部行政)から指図しない授業」の登場として画期的だったのですが、その時間が削減され位置づけが低下させられたことにも示されています。
これらは、自ら学んだりしなくてよい(するな!)、与えられ教えられたことを素直に受け取りなさい(子どもは、教えられる立場だ!)ということです。だから、「先生や学校の人を敬愛する」ことも要求されます。その一方で、子どもの権利はもちろん、子どもの立場や都合や生活リズムなどへの配慮は、相変わらずゼロ。子どもは、学校の仕組みやリズムや時間管理などの、いわば「奴隷」です。 これは、権利としての教育という戦後教育の基本の否定の方向を明確に打ち出したもの、と言えます。子どもを教育への権利(学習権)の主人公と見ず、教育サービスの受益者としてさえきちんと扱わず、もっぱら与えられた教育を受け取る義務がある者、統治行為としての教育の対象者とするような、被支配者でしかない子ども像が浮かび上がります。だから、人権教育など無視されているのです。 ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○ しかし、たとえ「告示」しようとも、指導要領は「大綱的な基準」であり、学校を設置する地域とその市民、そして教育課程を編成する学校や教育をつかさどる教員が、子どもの立場や視点に立ち、その都合や願いを踏まえて、どこに重点を置きどのように読み取るかが問われます。また、もし指導要領の内容が学校や教員、そして子どもに強制されるなら、「教育への権利」を保障した憲法や子どもの権利条約に違反するのです。こうしたことを踏まえて、学校をだれのものにするのか、という地域での闘いに、しっかりと取り組まなければいけないように思います。 文責・長谷川 孝 ◆杉並区立和田中の『夜スペ』って?
問われる学校の役割 ▲このページのTOPに戻る
3月22日に行われた集会報告
当日のパネラー:藤田英典さん(国際基督教大学教授・教育社会学) 菅原明之さん(全国学習塾協会常任理事) 長谷川和男さん(現職教員)
3.22集会は会場いっぱいの125名の参加で熱気に溢れた。若い方々の参加も見られ、「和田中夜スペ」がタイムリーで関心が高い問題であることを感じさせた。
3人のパネリストを迎えて、以下のように公教育の意味を問う議論が展開された。 ◆【長谷川和男さん】(杉並区現職教員)
「吹きこぼれ対策」として受験指導を行なうと言って公然とスタートした「夜スペ」を放置すれば公教育の根幹が崩されると危惧を表明。学級崩壊の中心にいるのが成績優秀、塾のトップクラス、有名中学に進学していった子どもたちであるという現状。子どもたちが一元的にテスト学力で競わされている中でストレスを溜め込んでいる、という厳しい状況の中で、「夜スペ」は他の中学校、小学校にまで波及しつつある。杉並区長が言っている私学化が進めば、公教育を解体し、教育の機会均等を奪い、自分の金でじぶんの子の面倒は見ろ、という新自由主義の考え方が席巻するのを認めてしまうことになる。
◆【菅原明之さん】(全国学習塾協会常任理事)
地域の補習塾を経営しながら、江戸川区、江東区などの小中学校の要請で習熟度別の少人数授業を担当。教員との話合いや相互理解の中で徐々に成果を上げている。学校は「問題解決型」で家族的であり、塾は「演習型、詰め込み型」であるという違いに直面して工夫してきた。ある区の学校はみんなが体育教師のようで、子どもたちには自由がないような形だが、いっぽうで少しでもハメを外すと、大変な状態になるという子どもたちの日常もある。また地域間学力格差、中学での低学力の実態は驚くべき状況にあると、学力面で困難な状況の報告もあった。
◆【藤田英典さん】(国際基督教大学教授)
藤原校長は常に「うちが初めて」「他校はやろうとしない」と宣伝する、本当にいいことなら粛々と行なえば必ず情報は伝わる。藤原氏は公立学校で吹きこぼれ対策や受験準備教育が出来ていないことが弱点だと公言し、ついにやってはいけないことをやってしまった。そもそも「吹きこぼれ」は学校が作り出したことなのだろうか?勉強の価値が受験にしか置かれなくなっていることの方が問題で、それに拍車をかけようとするのが「夜スペ」。なぜ昼間の授業でやらないのかということになってきて、公教育や学力の考え方がゆがんだものになっていく。また塾に行く子が学校でモラルハザードを起こすのが「吹きこぼれ」であり「夜スペ」が「吹きこぼれ」対策になるというのは論理の矛盾である。もうひとつ誤解されているのだが、高校受験は地域の公立相互間での競争だから、(中高一貫の)私立並みの学力を、という宣伝は意味を成さない。公立は望ましい教育とはどういうものなのかを考えて自信を持ってやっていくべき。塾講師の導入を否定はしないが「夜スペ」が公教育の枠を大きく崩していることが問題である。
●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
次に司会者からのパネリストへの質問に答えて、次のような点も明らかになった。 藤原校長は成績上位の子が不平等の被害者だとして、「夜スペ」は平等であると言っているが、実は教育者として失格としか思えないやり方で生徒を集めており、その時に地域支援センターが学力不足の子に辞退するよう説得に動いたこと。また、親が意見表明出来ない状況や、校長の人事権の大きさから教員からは声が上げられなくなっている実態が報告された。塾の団体としても平等でないことには反対しているということも分った。 公教育の中で何らかの外部からの連携については、否定はしないが限定的であるべきということ。習熟度別の問題として、いろいろな子ども同士の係わり合いが必要である。 会場参加者からは、和田中で起きている突然の校長からのP連脱退宣言など独断的なやり方についての事実が報告され、文科省が和田中をモデルに地域本部を全国に広げようとしていることへの深刻な不安の訴えがあった。子どもたちの間にも不満がいっぱいになっている状況、事故を隠す体質、「地域本部」が藤原校長を支えている背景など、華々しいマスコミの報道の裏にある現実が浮き彫りになり、どこでもいつでも均等な教育が受けられるはずの「公教育」の役割を改めて問い直す集会となった。 <3・22集会 アンケートから> ◆ 夜スペは、特権意識を持たせたり、学びあう関係をこわすこと。子どもは知りたいことたくさんあるし、目的があったら一生懸命学ぼうとするものだと思う。できる子の学力を伸ばすための「塾」というのは、ちよっと違う気がします(30歳) ◆ 問われる学校の役割について考える、良い機会でした。さまざまな視点での意見を聞くことができたので、自分の意見を考える上で、参考になりました(26歳) ◆ 子どもが変革するのは、集団の中で変革していくと思う。差別の助長ではなく、子どもどうしで助け合える関係つくられるような環境こそが必要と、感じる。(40歳代) ◆ 「子どもはお国のためにあるんじゃない!」という市民運動を始めて知りました。(60歳) 少年法『改正』ちょっと待って!
▲このページのTOPに戻る
原則非公開の少年審判について被害者や遺族の傍聴ができるようにする少年法「改正」案が、5月22日、衆院本会議で鳩山法務大臣が趣旨説明と質疑を実施し、本格審議入りをした。政府・与党は今国会での成立を目指している。 被害者や遺族の方々が事実を知りたいという気持ちは当たり前のことだろうし、尊重されなければならないものである。しかしこれについては、2000年の改正によって、記録の閲覧・謄写、意見の聴取、審判結果の通知という制度が新設されたことにより、かなりの事実を把握できるようになっているし、少年や保護者の面前で意見を述べることができる制度もある。これらの制度を有効に利用し、裁判所等が事件に関する情報を丁寧に伝えるといった制度拡充をまず先に検討すべきではないか。 少年審判の場は、裁判官が少年の話に耳を傾け、少年を受け入れることによって(甘やかすということではなく)、少年が自らの罪と向き合うことができる場である。 その審判において、被害者等が傍聴していれば、少年が萎縮し、心を開いて語ることができるか大いに不安である。裁判官や家庭裁判所調査官もまた、被害者等を意識して、少年を受け入れるような発言ができなくなるのではないだろうか。加えて、少年審判は事件から間もない時点で開かれることが大半であり、そのような時期に少年が被害者等と十分に向き合えるかどうかも疑問である。 加害少年の多くが、その成長過程に大きな問題を抱えており、自己肯定感がなく、自分が認められた経験が少ないという。そうした彼らと審判に出席する大人が向き合い、一緒になって少年の今後を考え、責任追及のみならず、再び非行に走ることのないように考えていくのが少年審判である。この少年法の理念が、今回の「改正」で大きく変わってしまうのではないか。それが、少年に、被害者に、そして私たちにとって、どういう結果をもたらすのか、慎重に考えて答えを出さねばならない問題だと私は思う。(08年5月26日) 中村元彦 集会やります!
▲このページのTOPに戻る
くわしくは、別にアップした集会チラシをご覧ください。 この集会は、「 子どもはお国のためにあるんじゃない!」市民連絡会と全国PTA問題研究会の共催で開催します。チラシはコチラ 会計報告
▲このページのTOPに戻る |