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本当の包容力とは何か—あるいは「余計なお世話」について

2013/04/21


5日前に書いた「たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」という記事に対する反応はなかなか面白くて、ぼくに対して「もっと生きやすくなるよう」実に親身なアドバイスをくれる方もいらっしゃいました。わざわざぼくに対してアドバイスのブログ記事を書いてくれる人まで…笑


包容力とは

そうした意見を簡単に要約すると、「イケダさんの言い分もよーく分かるけど、それは若い人はみんな通る道だよ。わたしもそうだった。あなたも乗り越えられるはず。もっと生きやすくなるために、こうした方がいいですよ」みたいな感じです。


この手の人が厄介なのは、ぼくのことを「ある程度」認めてくれていることです。その上で、アドバイスを提供してくれています。あぁ、なんて善い人なのでしょう。


が、ぼくはこの手の「教導」に嫌悪感を抱きます。なぜなら、彼・彼女は婉曲的に、自分の正しさをぼくに対して押しつけているからです。少なくとも、アドバイスを提供する自分が間違っているとは、微塵も思っていません。


たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」と語るぼくに対して、「若者はみんな通る道だよ」風の善意のアドバイスを提供する彼らは、基本的にぼくのことを「未熟な」人間だと考えているわけです。

言い換えれば、彼らは「乗り越えた者」として、絶対的な上位に立って、アドバイスを提供しているということです。その傲慢さに、彼らは気づいているのでしょうか。


子育てをしていて、また大学で授業をしていて、ぼくは自分が「乗り越えた者」としての正しさを、彼らに押しつけないようにしたいと考えています。

自分の正しさは絶対ではありません。どれだけ正論に即していても、常識的でも、必ずしもそれが当人にとって正しいわけではありません。現に、「挨拶はできるべきだ」という正しさは、ぼくにとっては正しくありません。「たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない?」という考えは、まぁ死ぬまで変わらないでしょう。

生徒や子どもが「未熟」に見えたときは、自分の傲慢さに気づくべき瞬間でもあります。善意のアドバイスであれ、固有の正義を押しつけることは、その人の創造性や自律性の発達を、阻害することにもなりますから。何が正しいかは、自分の体をもって学んでいくべきです。


世間的には、ぼくのような人間を「ある程度」理解し、それでいて善意のアドバイスを提供するような人を、「包容力がある人間」と呼ぶ傾向があるように感じます。

逆なんです。頼まれていもいないのに「善意のアドバイス」を提供する時点で、その人は包容力のかけらもありません。

だって、ありのままの姿を認めてくれていないわけですから。むしろ「お、イケダハヤトがなんかまたやってるなぁ…知らんけど」と横目でスルーしてくれる人の方が、包容力に長けています。


本当に包容力のある人というのは、その人の存在を、ありのまま受け入れられる人です。どれだけ自分の価値観や正義感に反しようが、その人を「変えることなく」、共存の道を模索できる人たちです。


かなりの理想論であることは承知していますが、ぼくはこの道を実践していくつもりです。ゼミに集まってくれた生徒たちには、ぼくの正しさは一切押しつけません。難しいですが、もちろん自分の娘にも。

求められればアドバイスも、彼らのために意見も言いますが、ぼくは誰かを、自分が望むように変えようとはしたくありません。


もっともっと噛み砕いてわかりやすくいえば、「善意のアドバイス」なるものは、基本的に「余計なお世話」なのです。

その根底にあるのは、「相手より自分が優れている」という傲慢であり、相手を変えようとするコントロール欲求です。それに気づかず、いけしゃあしゃあと「愛のムチ」を振りかざす人に、ぼくは心底辟易します。ご理解いただけましたでしょうか。



★この記事を読んだ人にはこの本がおすすめ。

本当の包容力について説かれた名著です。めちゃくちゃ価値観揺さぶられました。


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