読んでから『空白を満たしなさい』へ向かった。
私は通常、「普通の読書」に関しては休みなく一気に読む方なのだけれど、
この『空白を…』はあえて間を空けて読み終えた。
小説という感じがしなかったから。
登場する風景にも、音楽にも、何より人物達にとりたてて魅力を感じない。
それよりも論の運びを楽しむものだった。
論文でもなく、研究ノートに近いのかもしれない。
ちょうど現在、奇しくも京都ではゴッホの『空白のパリを追う』展が開催中。
どうしてこの機会にちょうど読んでいたのだろう、という驚きの方が強い。
ゴッホの自画像についての小説内での扱い、分析は非常に秀逸だったから。
展覧会ではいくつもの自画像、たくさんのゴッホの「分人」を観ることができるだろう。
さて。。。
人は人生の内でいくつもの「分人」を持つ。平野氏によれば。
個人という「分けられないもの」ではなく、「分人」をいくつも持って生きている。
その中で「消したい分人」を消すために、結果全存在を消してしまう(自ら命を絶つ)。
そこで、その「消したい分人」を消すのではなく、
他の分人たちが「見守る」ことで命を保てないだろうか、というあたりは
平野氏のある程度の結論だ。
「分人」の概念とこの現時点での結論は前の随筆に限らず新鮮だったし、
何かしら生きにくいと感じる際には有効でもあるだろう。
しかし、この分けられる自分(分人)も最後はやはりひとつの「命」であった。
いかに生きるか、自分にとっての幸せとは何かを
「抵抗なく」考えることができる内容だったと言っておこう。
また、この生き返った=復生した主人公にとって
やがて来る消滅(やはり避けられない終焉)を前に、
何をしたかというより、したことのうちで、何が目立ったかで
過ごした相手との質が決定されるという点で
会いたい人に会い、そこで笑顔で過ごし、
最後の好い印象を保存しようとする。
ここで私自身のことに置き換えれば、
実家から離れて暮らすようになって随分と経つ。
親や家族、友人と別れる際に、その都度「またね」と言い、
笑顔であるように心がけた、あのささやかな想いが突出してくる。
これで最後かもしれない、という悲壮感からではなく、
何となくおまじないのような気分で、できれば大切な人との「お別れ」には
笑顔でありたい、好い印象を保存したいと願っていた。
平野氏のいう「分人」で考えれば、
好きな人との間で成立させた自分の「分人」を大切にしたかったということ。
自分のためであるような、好きな人たちのためでもあるようなこの感覚。
前にもこのブログで書いたように「分人構成比率」は
どちらかというと人間関係において苦手意識のある私自身にとって
少なからず役に立つ概念となった。
勿論、以上の感想だけではない。
もっと多くの観点がある。
例えば、今まさに命を絶とうとする人がいて、
それを留めるためにあれこれと「分人」を説明しても無駄だ。
それよりも、
「私にとってあなたが必要だ、死なないで欲しい!」
と伝える方がよいから。
これは私の実感であり、
経験が根拠にすぎないけれども重要だと思っている。
だが、この読書においては「分人」という新たな視点に重きを置いておきたいから、
ひとまずは印象が強かった点を述べるにとどめる。
推敲もなしに、ブログでは書くので
少々乱暴な感想かもしれない。
それでもいい。ここに記しておきたい。
『空白を満たしなさい』
読んでよかった一冊になった。
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