第四章
悪夢は続く
M. S. Bates博士
日本軍の南京占領一カ月後の実状は一月十日に書かれた次の手紙の中で述べられている。なお、この手紙の筆者は、第一章の冒頭に掲げられている占領初期の報告(二四~二五頁参照)を書いたのと同一の外国人である。
「拝啓
強姦、銃剣による殺傷、無謀な射撃の真っ只中で走り書きしたメモを、日本軍入城以来の事態の進展のなかで利用できることになった最初の外国船-パネー号の引き揚げ作業をしている米国海軍の曳船-に託しておとどけします。上海にいる友人たちが総領事館でこの手紙を手に入れ、何とか検閲なしで外国船に託してくれることでしょう。
元旦以来、満員の安全地区内では事態がかなり緩和されましたが、これは主として、日本軍の主力部隊が出発したからです。〝軍紀の回復″はまったく微々たるものであり、憲兵でさえ強姦・略奪をはたらき、自分の義務を怠っている有様です。新手の軍隊の到着、あるいは作戦に変動があれば、いつでも新たな変化が起りかねません。日本側にははっきりした政策というものがないのです。ようやく、外国人外交官が市にもどることが許可されましたが(今週のこと)、このことは安定をもとめる願望を示しているように見うけられます。
一万人以上の非武装の人間が無残にも殺されました。信頼できる私の友人の多くは、もっと大きな数をあげることでしょう。これらの者は追いつめられた末に武器を放棄し、あるいは投降した中国兵です。さらに一般市民も、別に兵士であったという理由がなくても、かまわずに銃殺されたり、銃剣で刺殺されたりしましたが、そのうちには少なからず婦女子が含まれています。有能なドイツ人の同僚たちは強姦の件数を二万件と見ています。私にも八〇〇〇件以下であるとは思われません。いずれにしても、それを上回る数でしょう。われわれの職員家族の若干と現在アメリカ人が住んでいる住宅を含めて金陵大学構内だけでも、一〇〇件以上の強姦事件の詳細な記録がありますし、三〇〇件ほどの証拠もあります。ここでの苦痛と恐怖は、あなたにはほとんど想像できないでしょう。金陵大学構内だけでも十一歳の少女から五十三歳にもなる老婆までが強姦されています。他の難民のグループでは、酷いことにも、七十二歳と七十六歳になる老婆が犯されているのです。神学院では白昼、一七名の日本兵が一人の女を輪姦しました。実に強姦事件の三分の一は日中に発生したのです。
(1) この数字は初期の見積りをする際の筆者の慎重さを示すものであって、四万を示 している埋葬例からの後の証拠と較べるべきである。第三章、四七頁参照。
市内では事実上すべての建物が日本兵により繰返し略奪を受けました。その中には、アメリカ・イギリス・ドイツの大使館や大使官邸も含まれており、外国人住宅はかなりの割合で被害を蒙っています。略奪の対象になった主なものはあらゆる種類の車輌・食物・衣類・寝具叛・現金・腕時計・絨毯・絵画、その他貴重品です。略奪はいまでも、特に安全区の外では続いています。現在、南京には国際委員会の米店と軍用の売店を除けば、商店は一軒もありません。商店の多くは、立入り御免の破壊とちょろまかしの後で、トラックを使って行動する日本兵の集団による(しかもこれはしばしば将校の監視と指揮の下に行なわれたが)、計画的な略奪が行なわれ、それから放火されたのです。現在でも毎目数件の火事があります。住宅街のほとんどは故意に焼払われました。われわれは日本兵が放火の目的で用いた化学薬品の見本を数種持っていますし、その手ロの一部始終も調査しました。
難民の多くは現金を強奪され、少なくとも、僅かの衣類・夜具・食料の一部を奪われました。まったく無情なやりかたなので、最初の一週間から一〇日は、どの難民の顔にも絶望の色が見られました。商店も道具もなく、銀行や通信もいまだに復旧されておらず、いくつかの主だった区域の建物が焼払われ、あらゆる物が略奪され尽し、寒さは飢えた難民に迫っているということを考えてくだされば、このまちの仕事と生活の見通しを想像していただけましょう。ここには約二五万人がいますが、そのほとんど全部が安全区内に収容されており、優に一〇万の難民が国際委員会にその食と住を頼っています。他の者たちはわずかばかりの残っている米をかき集めてきたり、直接・間接に盗んで来たもので生活しています。日本軍は貯蔵食糧を少なからず焼払いましたが、それにもかかわらず、日本軍は中国政府から接収したかなりの量の補給品のなかから財政上および政治上の理由により、没収米を若干払い下げています。しかし、これから先はどうなるのでしょう。私が日本側に郵便・電報業務について尋ねたところ、彼らは〃計画は無い″と言っていました。
国際委員会は難民にとって大きな助けとなりましたが、これにはほとんど奇跡に近い話があるのです。三人のドイツ人が目ざましく働いてくれたのです。私は彼らの仲間になるにはナチスの徽章でもつけようかと思ったほどです。国際委員会の準備段階ではデンマーク人一人と英国人三人が大いに力になってくれましたが、中国軍が南京を撤退する前に、勤務先の会社や政府の命令で引揚げてしまいました。そんなわけで仕事の大部分はアメリカ人宣教師の肩にかかってきました。宣教師のうち九人だけは、銃創や刺傷を負った人で満員の鼓技楼医院での緊張した仕事には関係ありませんでした。もちろん、われわれのうちの数人は様々な義務をもち、義務に関する考えもさまざまでした。当然のことですが、最初から中国人の援助と協力がかなりありましたし、こまごましたことは大部分中国人に頼り、中国人を介して行なわれました。しかし、ある段階では、必要とあらば進んで銃口の前に立ちふさがるような外国人がいないことには、米を積んだトラック一台でも動かないのです。われわれは大きな危険を幾度かおかしましたし、ひどい打撃も受けました(比喩的な意味でも文字通りの意味でも)が、現状でできると思われること以上をやることを許されました。われわれは、あらゆる出来事に目や鼻を働かせては、難民に食と住を与え、交渉し保護し抗議をするという一般的な仕事をするほかに、多く強奪を阻止したり、強姦中の者あるいは強姦の目的で群れをなしてやって来る日本兵を説得したり、すかしたりして追い払いました。ある日本大使館員の話によれば、軍は中立国人の監視の下で南京占領を完了しなければならなかったことを憤慨しているとのことです。世界史においてこんなことはいまだかつて正しかったためしがないというのです(もちろん何も知らない者のいうことです)。
われわれも時にはうまくいかないことがありましたが、うまくいった割合は、われわれの努力に十分見合うだけ大きいものです。いくつかの点に関して日本側との関係ははなはだ満足できない状態ではありますが、日本大使館が間に入って軍部と外国人の利益を和げようという努力を大いにしてくれたので大変助かったこと、領事館警察も比較的丁重であった(これは少数であり、全部がそうであったわけではない)という点は認めなければならないでしょう。また、この仕事に当った主な人物が三国防共協定加盟国のドイツ人でもあり、またアメリカ人でもあったのですが、アメリカ船舶に野蛮な攻撃が加えられた後で、おとなしくしていなければならないために、仕事がやりやすかったことも認めねばなりません。われわれは二度ほど米国大使館員の入城許可を穏やかに日本側に頼んでみましたが、日本側は、財産問題が多くあり国旗の問題もあることを理由にこれを拒否しました。今週は状況がやや好転してきていますが、われわれはいまだまったくの孤立状態であり、郊外にも揚子江岸にも行くことができず、日本大使館を通じてアメリカ海軍が送信する無線で限られた範囲のものの電文に接する機会があるというくらいのものです。郵便物は十二月二日ころからなく、それもきわめて遅れて配達されたものです。電燈は特別のはからいで昨晩からつくようになりました(これは七人のアメリカ人のうちに、電力会社の職員とつながりを持っている者がいたからです)。日本軍は、電気技術者は国家公務員であるという誤ったいいがかりをつけて、五四人の職員のうち四三人を銃殺してしまいました。それに、爆撃・砲撃・放火をしたのですから、公共事業の復旧が遅々としてはかどらないのは想像していただけるでしょう。しかし、復旧事業の最大の障害は、職工とその家族の安全が保証されていないということです。水道は電気ポンプにたよっていますが、市内の低地ではちょろちょろと水道が流れ出しはじめています。電話やバスの復旧は望めませんし、人力車さえ無理のようです。安全区はおよそ二マイル平方の広さで、家の建っていないところもあります。このように人が集まっているのに、不注意からの目につくような火事はありませんでしたし、日本兵によるものを除けば、事実上ほとんど犯罪も暴力事件も発生していません。今週に入り、安全区外の空屋に略奪、といっても特に燃料の略奪に入る者がありました。武装警官はいません。
金陵大学には、構内の各所に約三万の難民がいます。最低限度の生活を維持するだけでも、管理の問題は大変なことです。金陵大学の正規の職員と使用人は、実際数は非常に少なかったのですが、目ざましい働きをしました。国際委員会がいそいで集めた奉仕員も多数いますが、なかにはかなり不純な動機からやって来た者もいます。密告・脅迫、それに日本側が買収してスパイにすることもあったということは、今となって書き添えなければなりません。この種の事件に関して私はちょうど今、三つもごたごたをかかえているのですが、これらの事件は、私または大学を窮地に追いつめようとして引き起されたのではないだろうかと考えるようになっています。たとえば、ここ三日間に発生した二つの事件には、金陵大学附属中学に関する私の損害報告と食違いがあります(このようにして、私が日本側に嘘をつき欺いたように思わせ、あの大きな難民収容所にいる重要な男と衝突させてしまいました)。日本軍の憲兵が縛りあげて処刑するために拉致していった善良な通訳のことを私が尋ねようとしたら、恐ろしい憲兵の将校に門からぐいと突き出されました(その通訳は、日本軍の申入れを受諾すること、換言すれば日本軍の脅迫に屈服して金陵大学附属中学の収容所を出ることを拒んだので、拉致されたのです)。たまたま昨夜、その憲兵詰所の憲兵は金陵大学の住宅から一人の婦人を連れ出していましたが、まずい時に国際委員会のメンバーのリッグズが入って行ったので、憲兵はリッグズに銃剣を突きつけておいて強姦を遂げました。これらの惨めではあるが驚くべき忍耐の持主であり、また快活でもある人びとのために、われわれが何かをしようと努めている日常の生活の一端を、これで多少はお解りいただけることでしょう。
南京には、五万以上の日本兵が横行していた時、本物の憲兵は一七名を数えるのみで、われわれは何日もの間、憲兵を一人も見かけませんでした。結局、若干の日本兵が特別の腕章を与えられて憲兵と呼ばれていましたが、このことは、彼らが自分自身の悪事に対しては隠蓑をもち、とるにたらないような事件を若干阻止するというだけです。われわれは、強姦中に捕まった日本兵が将校に叱責されただけで処罰もされずに釈放されるのを見ました。略奪をはたらいている将校に敬礼をさせられている日本兵も見たことがあります。ある夜、自動車を使って行なわれた金陵大学襲撃は、まさに将校たちの指揮でなされたものですが、彼らは夜警を壁際に釘付にしておいて、難民の婦人三名を強姦し、うち一名を連れ去りました(強姦された婦人のうち一人は十二歳の少女です)。
私は死んでしまったとか、あるいはパネー号上で負傷したのだろうとか、L女史が考えたのも無理からぬことです。というのは、私が南京にとどまるという伝言は彼女にとどかず、東京では各新聞が外国人は全員乗艦させられたと報じていたからです。しかし、悲嘆にくれて四八時間を過した後、彼女は日本の新聞で、日本軍の南京入城直後に二人のとんまな奴が私に行なったインタビューを読みました。その新聞社は、彼女の友人たちの感謝に応え、十七日に記者とカメラマンをくり出してきました(日本軍の入城は十三日、パネー号沈没は十二日だが、遅れて報道されたもの)。特派員の一人が元旦に、私に写真を一枚と手紙一通を持ってきてくれました。手紙の方はもちろんちゃんと日本大使館の検閲を受けていました。こうして長い間の心配の多くは不要となりました。あらゆるルートやあらゆる手を通じて彼女は何度も手紙を出したり電報を打ったりしたのですが、私は十二月八日以来、先の手紙以外には何の便りも受け取っていません。十二月十七日付の彼女の手紙には一月の第一週中に南京に来たいとありましたが、私はそれ以上のことは何も知らされませんでした。最近到着した砲艦を通じて無線を使えば、たぶん上海からの情報が得られることと思い写す。
ですが、私はいまだ南京城外に出ることを許されていませんし、彼女が交通機関を利用できるようになっていたとしても、上海を発って西に向かうことは許可されないでしょう。こんな状態がいつまで続くかはわれわれには解りません。中国人たちは米国人あるいは外国人全員が南京から追放されてしまうのではないかと恐れています。しかし、彼らはわれわれを留めておくことよりも、引きあげさせることの方をより恐れているように見うけられます。これまでのところはそうです。ところで、私は日本大使館の館員や半官的身分の日本人と、また憲兵や兵隊でも比較的乱暴ではなく割に信頼できそうな少数の人たちとは、努めて仲良くするようにしています。でもなかなかうまくはいっていません。今日で四週間にもなるというのに! 砲撃も爆撃もどんなものか判れば、快適でさえありました。でもこれからは、何が起きるのでしょうか?
*(訳注)「彼ら」と訳したところの原文は、theyとイタリックになっており、これ は「中国人」ではなく、「日本軍」をさすのかもしれない。
追伸
この手紙の乱脈ぶりは外界の無秩序に対応したものです。私ははじめに、中国軍は思いつきの悪い軍事計画から、城外にある村や住宅を多数焼払ったり、食糧調達のため商店や住宅をいくぶん偶発的に略奪したりした事件があった、と書いたと思います。しかし、それ以外には、中国軍はほとんど問題を引起しませんでした—中国軍のすでに目にみえた崩壊、実際には起らなかったが市街戦の準備、一般市民にも負傷者の出る可能性が、大きな不安となっていたのですが。中国軍は高級将校の敵前逃亡、軍の統制・決新を欠いていたといぅ点では不面目でした。しかし、比べてみれば兵士一般は日本軍よりもずっと立派でした。いうまでもないことと思いますが、この手紙は日本人に対する憎しみをかきたてるために書いたのではありません。もし事実が、ある近代的な軍隊、それも虚偽の宣伝を行なって自分の罪悪行為を隠しているような軍隊の、不必要に残忍な行為を語っているのなら、その事実に語らせようではありませんか。私にとって重大なことは、この征服戦争による計り知れない悲惨、放縦と愚行により倍加され、未来にまで暗い影を投げる悲惨です。」
次の手紙は一週間後に書かれたもので、先の報告ほど事実にもとづいてはいないが、それでも雰囲気を伝えているので貴重である。
「一九三八年一月十六日 中国、南京にて
あなたが南京を去って以来、いろいろなことが起りました。われわれの学校は閉鎖され、教員や学生は安全な—あるいは比較的安全な場所に散り散りになり、また南京にとどまった者は、来るるべきものにたいして備えました。われわれは皆、やむをえず撤退してゆく中国軍が引起すある程度の混乱を予想し、また、その間、略奪が行なわれるのではないかと恐れていました。安全区が設置され、全市から市民はそこに引越してきました。安全区の境界は、南側は漢中路、東側は中山路、北側は山西路(実際には山西路のやや北)、西側は西康路(この道路は金陵女子文理学院のやや西の諸道の西側を走る)です。西南は丘を横切り上海路と漢中路の交叉点にいたる直線で区切られ、この線は神学院の男子宿舎にかかっていました。この境界線上の家は境界内と同様に安全であると考えられていました。事実上、南京市民全部がこの区域に移ってきたのです。家という家はどれも超満員でした。聖書師資訓練学校(BTTS)には責任者がいなかったので、估衣廊メソジスト教会の牧師に、女子教職員住宅に移り、その場所を受持ってくれるよう頼みました。彼がその住宅の責任をとってくれたので、きっとうまくいくだろうとわれわれは思っています。聖書師資訓練学校の構内には約四〇〇〇人が収容されています。われわれの神学院にも三一〇〇人以上います。この二個所では、もちろん何百人という難民が構内に建てたムシロ張りの小屋に住んでいます。難民区全体がムシロ小屋の町です。公共の建物も個人の住宅もすべて収容能力ぎりぎりまで詰込まれています。
(1) Bible Teachers Training School(for women)
*(訳注)The Ku I Loh Methodidt Churchとあり、これは美以美会の估衣廊(Gu Yi Lang)に所在する城中会堂であろう(中華民国二十四年十一月刊『首都志』下、一二一頁)。
日本軍が入城すれば秩序が早急に回復されて、平和になり、市民は自宅に帰り、再び平常の生活に戻れるものと、われわれは思っていました。ところが、われわれ全員は言いようもない驚きにうたれたのです。強盗・略奪・拷問・殺人・強姦・放火と、想像がつく罪悪行為はなんでも、日本軍の入城当初から、際限なく行なわれたのです。近代にはこれをしのぐようなものはありません。南京は生地獄だったと言ってもよいでしょぅ。安全なものは何ひとつなく、誰ひとり無事な人はありませんでした。日本兵は、欲しいものは手当り次第に奪い、欲しくないものは破壊し、数十人・数百人の婦女を公衆の面前で公然と強姦しました。日本兵に反抗した者は即座に銃剣で刺殺されるか銃殺されてしまいました。強姦を拒んだ婦人も銃剣で突き殺されました。また、邪魔になった子供たちも突き殺されました。フラン(Fran)の家(彼の家には一五〇人の人がいました)で強姦されたある婦人には生後四、五カ月の赤ん坊がいましたが、この赤ん坊が泣き出したところ、彼女を強姦していた日本兵は赤ん坊を窒息死させてしまいました。聖書師資訓練学校にいた難民の娘一人は一七回も強姦されました。とうとうわれわれは、大きい収容所の入口には、日本側の衛兵を配置させることにしたのですが、この衛兵そのものが収容所に入り込み、婦人を強姦したりするのです。毎日毎夜、同じような事件が起きています。こんな事件が何百件となく発生し、ほとんど筆につくせないような恐ろしい話となっています。
しかしわれわれは希望—良い日が間もなくやってくるかもしれないという希望—をもって生きています。でも、それがいつになるかは、今のところわれわれにはわかりません。たくさんの人びとの家が焼かれてしまい、商店や倉庫は、いまだに燃え続けています。毎日毎夜、市内では何件かの火事が見られます。太平路と中華路は、ほとんどが焼払われてしまいました。主だった事務所街や商店街もほとんど焼かれました。講堂街の教会とYMCAも全焼しました。ですから、難民は家に帰れるようになったとしても、全員に帰る家があるわけではないのです。南京市外の村も多数焼払われました。われわれの聞くところでは、新華村は焼かれてしまったが、農村師資訓練学校は大丈夫だということです。
*(訳注1)水西門講堂街の福音堂(美以美会)。
*(訳注2)府東街の男青年会。
こんなに多数の難民がいるので(おそらくこの難民地区内の総数は一五万以上、われわれの収容所では六万ぐらいです)、われわれは現在重大な問題を抱えています。多くの難民には給食してやらなければならないのです。われわれの食糧補給はきわめて乏しく、なんとかして、もっと補給をうる手を打たなければ、難民は深刻な飢餓状態に直面します。わが国際委員会には、まだ三週間分位の貯蔵米はありますが、その後はどうすればいいのかわれわれにはわかりません。われわれは日本側に米を売ってくれるよう交渉してみましたが (日本軍が中国側から徴発した米のこと)、日本側は明らかに長期戦を予想して米を管理し、自分たちが使うために保有しています。私は毎日、各収容所へ米を配給するのに忙殺されています。リッグズは各炊飯場への石炭と薪の配分を監督しており、他の人たちも別の仕事をしており、全員が頑張って、できる限り現状を改善しょうと努めています。しかし、われわれの仕事はなまやさしいものではありません。われわれは神を信じ、仕事に全力を尽しています。神が最後までお助け下さることをわれわれは切に信じています。
聖書師資訓練学校の雇人と学校の雇人三人とあなたご自身の雇人が、給金が必要であるからといってミス・スミスの居所を尋ねて来ました。あなたと連絡をとるようには努めるが、賃金の方は私がきちんと支払うから心配しないでもいいと彼らに話しておきました。
-この清算は後日致しましょう。もちろん私は神学院の経費の面倒もみていますが、これには各寄宿舎の管理人の経費もすべて含まれています。それでも、経費の問題はわれわれの主要な困難ではありません。この苦しい時にもわれわれの使用人はみな非常に忠実で助けになってくれたことを嬉しく思っています。
私はこの手紙を、今日上海に行く英国大使館員に託します。彼らは砲艦で直ちに南京に戻る予定ですので、私に一言お伝え下さるのでしたら、上海の英国領事館を通じて送って下さればよいのです。
追伸
言うまでもなく、われわれの家はすべて、中国人のであれ、外国人のであれ、略奪をうけました。しかし、家そのものはほんの少ししか損害を受けていません。既婚学生宿舎は、日本軍入城の直前、約五〇フィート離れた所に爆弾が落ちたので、かなりひどく破壊されました。本とか重い家具はあまり被害がありませんが、小さな貴重品・防寒着・食料・貴重品・寝具・自転車・自動車・牛・馬・豚・鶏などは残らず略奪されてしまいました。でもこの話は続ければきりがありませんし、あまりにもうんざりすることです。」
一月一日から二月九日の間に報告された日本兵による暴行事件の記録は附録B・Cに掲げてある。
CONTENTS 目次
Chapter
Foreword (Timperley)
序(ティンパレー)
Chapter I Nanking's Ordeal (Bates & Magee)
第一章 南京の試煉(ベイツ博士&マギー牧師)
Chapter II Robbery, Murder and Rape (Magee)
第二章 略奪・殺人・強姦(マギー牧師)
Chapter III Promise and Performance (Bates)
第三章 約束と現実(ベイツ博士)
Chapter IV The Nightmare Continues (Bates)
第四章 悪夢は続く(ベイツ博士)
Chapter V Terror in North China
第五章 華北における暴虐
Chapter VI Cities of Dread
第六章 恐怖の都市
Chapter VII Death From the Air
第七章 空襲による死亡
Chapter VIII Organized Destruction
第八章 組織的な破壊
Appendix
附 録
A Case Reports Covering Chapters II and III
A 安全区国際委員会が日本大使館に送った第二・三章にかんする暴行事件の報告
B Case Reports Covering Chapter IV
B 第四章にかんする暴行事件の報告
C Case Reports Covering
Period January 14, 1938, to February 9, 1938
C 一九三八年一月十四日から一九三八年二月九日にいたる暴行事件の報告
D Correspondence Between
Safety Zone Committee and Japanese Authorities, etc.
D 安全区国際委員会が日本当局や英・米・独大使館に送った公信
E The Nanking "Murder Race"
E 南京の殺人競争
F How the Japanese Reported Conditions in Nanking
F 南京の状況にかんする日本側報道