第三章

約束と現実

M. S. Bates 博士

 

十二月の末にかけて、日本軍当局は金陵大学(五十年前に設立されたアメリカ系伝道施設)に集められていた三万人あまりの難民全員の登録を行なおうという意図を明らかにした。市の住民全員の登録が行なわれた。何が起こったかについての以下の記述は、同大学の一外国人教授によって一月二十五日に書かれたが、それは十二月三十一日に作製された報告の草稿と一月三日のメモをもとにしたものである。

  *(訳注)この記録は、第一章の前半に引かれている手紙とおなじく、金陵大学教授で南京安全区国際委員会の委員をしていたベイツ博士(Dr. M. S. Bates)によって記されたものであると推測される。徐淑希氏編纂の Documents of the Nanking Safety Zone(『南京安全区档案』)に第五十号文書として収録されている「金陵大学における難民登録の結果にかんする覚書」(本巻、一八六頁参照)は、これと同一記録であるが、その末尾には、M. S. B.という著名があるなお、この『南京安全区案』所収文書の表題には、一九三七年十二月二十六日の日付が付されているが、ティパーリーが本の冒頭に記しているとおり、この記録は、十二月三十一日に作成された報告の草稿と翌一月三日のメモをもとにして、一九三八年一月二十五日に書かれたものであり、このことは『南京安全区档案』所収文書の末尾にも注記されているので、表題に付されている十二月二十六日という日付は、誤記であると思われる。

 

「十二月二十日に、登録は主として婦人たちがいた主収容所において開始された。軍当局はそこにいた比較的少数の男性に図書館新館にいた二〇〇〇人以上の男を加えた。スワジイ記念堂(Swazey Hall)の下の庭球場に集まっていた全部でほぼ三〇〇〇人の男の中から二、三〇〇人が三〇分に及ぶ大演説に応えて進み出た。この演説の趣旨は、〝以前に兵隊だった者、または強制労働をやっていたものはみな後尾に移れ。もしお前たちが進んで自首するなら、生命は助けてやるし、仕事を与えてやる。そうしなくて、検査でみつかったならば、銃殺される″というのだった。日本軍将校の指揮下にある中国人によって短い演説が何度も何度も繰返された。彼らは、すでに同胞が元兵隊として、あるいは、不運にも誤って元兵隊であるとされた結果、処刑されるという運命からできるだけ多くの同胞を救うことを望んでいる中国人だった。それらの演説は、大学の多くの中国人職員にも、HL・ソーン氏、チャールズ・H・リッグズ氏にも、私自身にもはっきりと完全に聞きとれるものであった。何人かの中国人の考えでは、自首した男たちのあるものは、恐怖にかられてしたものか、あるいは強制労働という言葉を誤解したものであった。彼らの多くがかつて一度も兵隊になったことのない者であることは確実だ。

 *(訳注)徐氏調書『南京安全区档案(英文)収録のものには、このOn December 20を欠く。

登録の実際の指揮は将校たちにまかされていたが、われわれが後に知ったところでは、彼らは比較的慎重で分別のある人びとであった。といっても、白昼おおっぴらに公衆の面前で、しかも将校たちの立会いのもとで登録がおこなわれている最中でさえも行なわれた部下の行為をほめたたえることにもならないし、それにたいして彼らが負うべき責任を免れることにもならないのである。その朝早く、指揮官がアメリカ人の所有地で登録を行なうことについて私の許可を求めに来たが、その丁重なやり方たるや、日本軍の占領下で経験したことのうちで極めて驚くべきことであった。その上、指揮官その他は、登録開始にあたって不必要な恐怖をひき起こすことを避けようと極力骨を折った。それで、私は彼らには誠意があると信じたい気特がする。またも、名のりでなかった者も含めて残りの男たちの中から、兵隊たちが一〇〇〇人近くを取調べのために選び出したにもかかわらず、その行列が個別検査のために前へ進んでいった時、中国人が各々に思いつきの〝保証″をすると、将校たちはこの一〇〇〇人のうち一人を除いて全員を釈放して登録することを許可した。そしてその一人もソーン氏と私の二人のとりなしによって釈放された。さらに正午前に、将校たちは、軍の貯蔵米から返済するといって、われわれが二、三〇〇人の〝自首者″に対して、一人につき二食分の米を用意するようにと要求した。警備にあたっていた一般の兵隊でさえかなり親切で、拳骨をくらわすよりはむしろ煙草を与えていた。午後に男たちが一人一人、名前と職業を報告すると、それが記録された。

ところで、そこへ他の要素が導入されてきた。少なくとも特にこの役目からいえば階級の上である二人の将校がやってきた。そのうちの一人はそこで行なわれていることについて極めて不満であった。この男は昨日、金陵大学を訪問した際、すでにひどく粗暴で愚純な態度を示したが、われわれは、この地区の憲兵隊長である彼の悪事と粗野なやり方にしばしば出くわすことになった。午後五時頃、自首して出た二、三〇〇人の人びとは二つのグループにわけられて、憲兵に拉致された。そのうちの一人が思い出して言ったのであるが、親切な警備兵の例のない丁重な態度に疑いを抱きはじめたとのことである。

翌朝、五カ所を銃剣で突かれて負傷した男が鼓楼医院へやってきた。この男は、以前に二度、難民として大学の図書館に入っていたと極めてはっきりと断言した。彼の話では路上で日本軍に捕えられ、先に述べた庭球場から来たグループに加えられたのである。被が言うには、その日の夕方、市の西部のどこかで一三〇名ばかりの日本兵が彼の仲間の捕虜五〇〇人ばかりの大部分を刺殺したとのことである。彼が息をふきかえした時、日本兵はすでに立ち去ったあとだったので、夜の間になんとかそこから這って逃げてきたのだった。彼は南京のその地域をよく知らなかったし、場所に関しては曖昧だつた。

二十七日の朝、別の男が私のところへ運ばれてきた。彼のいうには、昨夜連行された二、三〇〇人のうち、仲間がほとんど殺された中で死をまぬがれた三、四〇名のうちの一人だとのことである。その男は彼自身と仲間の一人、二人を続行中であった登録で助けてくれるように私に頼んだが、その時、私は憲兵に取り囲まれていたので、彼に、その日の登録は婦人に限られており、今はそれ以上何も言わないでいるのが最善だと言わざるをえなかった。その後、三回にわたって私はこのグループのことをたずねてみたが、彼らについてはもはやそれ以上何も耳にすることはなかった。

その日と翌日(二十七・二十八日)のうちに、私ははっきりした情況報告を聞いて確かめたが、それによると、男たちは五人ないし一〇人のグループに縛り上げられて、大きな家の最初の部屋から第二の部屋、または大きなたき火のある中庭へと、順にまわされた。各グループが順に前に進むと、残った者の耳にうめき声、叫び声が聞こえてきたが、銃声はなかった。最初の六〇人のうち残った約二〇人は、必死に後ろの壁に穴をあけて、そこから逃げ出した。大学から拉致された男たちのある者は近所に住む僧侶(このグループに関する間接報告には、全部に五台山だとはっきりいわれている。一部は仏教徒からの報告である)の嘆願によって救われたとのことだ。同様の物語をはやくも二十六日の宵の口にリッグズ氏が聞いているが、同じ事件にしては報告の来るのが早すぎると思う。報告がこのように混乱したり重複したりしているのにがっかりさせられたし、何回もそれ以上の調査を行なってみても、他の仕事や問題で毎日責めたてられていたこともあって、何の成果も得られなかった。

三十一日に、体験談を語る二人の男が、図書館にある難民収容所の信頼できる助手のところへ助けを求めてやって来たので、その助手は、私がもし望むならば、確認のため彼らを私のところへ連れてこようといってきた。そのうちの一人は率直に、自分が兵隊であったと言うので、彼の言うことは真実であると考えられる根拠が生じたのである。彼らの言によれば、大学から拉致された二、三〇〇人は数グループに分けられた。彼ら自身はまず五台山へ連れていかれ、次に漢西門外の運河の堤防へ連れていかれ、そこで機銃掃射をうけた。彼らは死体の間に倒れていて(一人は負傷)、その血で身体が染まった。

一月三日に、図書館にいた五人の知り合いのうち二人に面接をしたが、彼らは十二月二十六日の事件の生存者であった。そのうちの一人は大学から拉致された最初のグループに居て、二十七・二十八日の日付のところで述べた五台山の最後の審判をつまびらかに確認した。彼の計算したところでは、彼のグループのうち八〇人が殺され、四〇人から五〇人が脱走した。そのうちの一人で、銃剣で負傷して図書館にいたものを連れてきたところが、同じことを報告することができた。

二番目の男はめずらしく知的な男で、叙述も質疑応答においてもはっきりして的を射ていた。この人は第二のグループにまじって五台山の一寺院の真向かいにある大きな家に連れていかれた(これは、アメリカン・スクールの向かい少し南よりのところで、上海路かまたはそこからの小路にある二つの建物のうちの一つであると、ほぼ確信をもって、言うことができる)。そこの路上で彼は大ぜいの中国人僧侶と一日本人僧侶が悲しそうにお経をあげ、寺院の入口には細長い紙をはっているのを見て驚いた。(南京にいる日本人僧侶に関する報告は大変めずらしいものであったので、私はどうして彼がその僧侶を日本人であると知ったか不審に思って訊ねてみた。報告者は僧侶の履物がつま先で大きく二つに分かれていたからだと答えた。そして後に私の知ったところでは、報告者は以前、天津に住んでいたことがあり、そこで自然にその見分け方を身につけたのだ。二、三日たって、私自身も上海路でそのような僧侶を見かけた。)その男は雰囲気に不吉なものを感じて、親切にしてくれていた警備兵に話しかけ不安な気持を述べた。その警備兵は黙って棒で地面に〝大人命令″と書いた。

私の報告者のすぐ近くにいた男たち(彼はその他の人びとについては話さなかった)は、電線で二人一組ずつ手首と手首を縛られていた。三〇人余りの人が漢中門へ連れて行かれ運河を渡ったが、そこで四、五人は必死で列をぬけ出して、防壁を利用しながら夕闇にまぎれて逃げのび、隠れ場所を見つけた。報告者が月の位置によって推測したところ、およそ一時頃、北方の遠くない所で絶望的な叫び声のあがるのを聞いた。夜が明けてから、彼がその方向へ少し進むと、刺殺された死体が列をなして横たわっているのを見た。彼は非常に恐しかったが、無事に城門を通り抜け、ひそかに安全地区へ戻ってきた。

この男の報告と証言になお次の二つの事項をつけ加えなければならない。中国赤十字の責任者の一人は、われわれが漢中門外に行って、多数の死体があるのを視察するよう要請した。国際委員会のクレーガー氏は城門の外へ早朝に出て見たところ、その途中でこれらの死体を自分の目で見たと私にいった。しかし、城壁の上からは死体は見えなかったそうである。その門は今は封鎖されている。埋葬隊はその地点には三〇〇〇の遺体があったと報告しているが、それらは大量死刑執行の後、そのままに列をなして、あるいは積みかさねたまま放置されていた。この中国人の報告者は、登録のさいに面倒なことになるという予感をもっていたためか、私に遠慮なく話した。彼は登録を受けようとしていた。一月七日に大学の構内で再開された公開登録の最中、憲兵たちの前を進んでいく男たちの中から憲兵が選び出し拉致していった一〇人ばかりの中に彼がいた、と私は思う。その週のうちに実際に仕事をしていた将校たちは毎日多くの男を拉致するようにとの命令をうけているように見えたし、また、彼らはそうしなければ上官を満足させられないと考えているようでもあった。(先に行なわれた元兵士を自首させるやり方が実際に中止されたのは当然のことで、登録のやり方も最初の頃とはずい分変わっていた。)いつものように、私は登録の様子を近くから見ていて、軍人個人の気性が許す範囲で、交替時にはいつもちょっとした救援の手をさしのべようと努めた。選び出された一〇人の中に先程の中国人が含まれていたのに気づいてから、それとなく努力をしてみたが失敗に帰したので、機をうかがって、そこに私と居あわせた将校の中で態度の一番良いのをつかまえて(いささかさし出がましいことをする失礼を詫びながら)、例の中国人と、残りのうち一番見込みのありそうな一人の男をさして、彼らの身元を私に保証させていただきたいと要求した。二番目の男は釈放されたが、私の知っている中国人の方は釈放されずじまいだった。その理由はわからない。それ以上の努力はかえって逆効果をもたらしたので、私は他の人びとを傷つけることを恐れて思いとどまらねばならなかった。彼の死は確実とはいえないにしても大いにありうることである。

大学図書館から拉致された別の二人の男が間接に報告するところによると、彼らは三汊河附近の運河の北側の壁にそって並ばされて刺殺された数百人の一団から逃れてきたそうである。

最後に、忘れてならないことは、この事件はここ二週間にわたって続けられた一連の同様の行為のうちの一つにすぎないが、ただその主題が変じて、元兵隊であろうがなかろうが、とにかく元兵隊と認定されたものの集団虐殺となったということだ。ここは、捕虜の生命はさしせまった軍事上の必要以外においては保障されるという国際法の条文を語る場所ではないし、日本軍もまた、国際法などは眼中になく、いま南京を占領している部隊の戦友を戦闘で殺したと告発した人間に対しては復讐をすると公然と言明したのである。他の諸事件はこの事件よりも多数の人をまきこんだ。埋葬による証拠の示すところでは、四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の附近で殺され、そのうちの約三〇パーセントはかつて兵隊になったことのない人びとである。こうした状況に私が特に関心を抱くのは次の二つのことが原因である。つまり第一には、約束しながらそれをみすみす破るというはなはだしい背信の故に、多数の人間が自ら死地におもむく破目になってしまったことである。第二には、われわれの資産・職員・女性の被保護者(難民)の運命が、この恐ろしい犯罪のさまざまな段階にきわめて密接に結びついていたことである。また、殺害の方法・場所・時間に関する全体的な証拠は、男が大きな集団で拉致され、二度と帰ってこなかった若干の他の事例よりもむしろ多い。しかし、こうした例については、われわれは断片的情報しかもっていないのである。他の場所から集められたグループと一緒にされた若干のものを含めて、大学から連行された男たちの大多数はその夜のうちに殺された、とはっきり断言できると思う。

ここ数週間、あらゆる残虐行為を見せつけられた私でも、やはりあの庭球場のところを通るにしのびない気持である。登録のため大学へ連れてこられた何万人もの避難民の安全のためを思って、何日もこのドラマで様々な役を演じた将校や兵隊たちを相手にして笑顔と恭しい態度を見せていなければならないということは、拷問にひとしかった。誰しもが、二〇〇人の虐殺で自らのキリスト教団体の片棒をかついだように感じ、また彼らの扶養家族が悲惨きわまる状況のなかで見いだされるとすれば、その不運な家族たちに責任を負わなければならないという気拝になるのである。

将校や兵隊たちはどうであろうか? 彼らのある者は、われわれが接した悪党どもに比べれば人間的であるし、彼らの多くのものには妻子があり、その妻子に対しては優しいにちがいない。」



CONTENTS 目次

Chapter

Foreword (Timperley) 

序(ティンパレー)

(洞富雄教授の解説)

Chapter I Nanking's Ordeal (Bates & Magee) 

第一章 南京の試煉(ベイツ博士&マギー牧師)


Chapter II Robbery, Murder and Rape (Magee)  

第二章 略奪・殺人・強姦(マギー牧師)


Chapter III Promise and Performance (Bates)  

第三章 約束と現実(ベイツ博士)


Chapter IV The Nightmare Continues (Bates)  

第四章 悪夢は続く(ベイツ博士)


Chapter V Terror in North China

第五章 華北における暴虐


Chapter VI Cities of Dread  

第六章 恐怖の都市


Chapter VII Death From the Air  

第七章 空襲による死亡


Chapter VIII Organized Destruction   

第八章 組織的な破壊


Conclusion   

結論


Appendix

附 録


A Case Reports Covering Chapters II and III   

A 安全区国際委員会が日本大使館に送った第二・三章にかんする暴行事件の報告


B Case Reports Covering Chapter IV  

B 第四章にかんする暴行事件の報告


C Case Reports Covering Period January 14, 1938, to February 9, 1938 

C 一九三八年一月十四日から一九三八年二月九日にいたる暴行事件の報告


D Correspondence Between Safety Zone Committee and  Japanese Authorities, etc.  

D 安全区国際委員会が日本当局や英・米・独大使館に送った公信


E The Nanking "Murder Race" 

E 南京の殺人競争


F How the Japanese Reported Conditions in Nanking

F 南京の状況にかんする日本側報道