第二章
略奪・殺人・強姦
ジョン・マギー牧師
筆者は日記体の叙述を続けながら次のようにいう。
「十二月十七日、金曜日。略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は三七回も強姦されたのです。別の婦人は五カ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強姦する間、赤ん坊が泣くのを止めさせようとしたのです。抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。たちまちのうちに病院は日本軍の残虐と蛮行の犠牲者たちで満員となりましたが、ボブ・ウィルソンは、われわれのところではたった一人の外科医だったので、手いっぱいどころではなく夜半まで働かねばなりませんでした。人力車・家畜・豚・ロバなど、しばしば人々の唯一の生計のもとであったものが奪われています。われわれの炊飯場や米屋も干渉を受けました。われわれは米屋を閉店しなくてはなりませんでした。
夕食後、私はベイツを大学に、またマッカラムを病院につれてゆきましたが、彼らはそちらで泊ることになるでしょう。それから、ミルズとスミスを金陵女子文理学院へ連れてゆきました。というのは、われわれのグループのうち一人が交代で毎晩そこで寝とまりしていたからです。金陵女子文理学院の門のところでわれわれは探索隊と覚しきものに誰何されました。われわれは銃剣を突きつけられて乱暴に車からひきずり出され、私の車のかぎは取りあげられました。一列に並ばせられて武器の有無を調べるために身体をなでまわされ'帽子はもぎとられ、顔には懐中電灯をつきつけられ、パスポートと来訪の目的を訊ねられました。われわれの正面には、ミス・ヴォートリン、トゥイネム夫人、陳夫人とともに、何十人もの難民の婦人がひざまずいておりました。下士官は少し仏語を話す男でした (私と同じ位のものです)が、ここには兵隊がかくまわれていると主張するのでした。私は約五〇人の使用人とその他の職員以外にその場所には男はいないと主張しました。彼はそんなことは信じられないといい、その数をこえるものを見つけたら全員射殺するつもりだといいました。それから彼は、女性たちも含めて、われわれ全員がその場を去ることを要求したのです。ミス・ヴォートリンが拒絶すると、乱暴に車の方へひったてられました。それから彼の気が変わって、女性たちはとどまってもよいが、われわれは退去するようにというのです。われわれはわれわれのうち一人が残ることを主張しましたが、彼はそれを許可しようとしませんでした。われわれは釈放されるまで一時間以上も立たされておりました。翌日、われわれはこの悪党が学院から一二人の少女を誘拐したことを知りました。
十二月十八日、土曜日。安全区内で一ブロック離れたところに住んでいるがわれわれと一緒に食事をとるリッグズが、朝食時に報告したところでは、二人の婦人(そのうちの一人はYMCAの秘書の従妹)が彼の家で強姦されたというのです。その時、彼はこちらへ昼食にきていたのです。ウィルソンの話では、五歳の男の子が来院したが、銃剣で五回も突き刺されており、一回は腹部を貫通していたとのことです。一八カ所に銃剣の傷をうけた男、顔に一七カ所の切り傷と足に数カ所の傷をうけた婦人もいました。午後に四、五〇〇人の恐怖にかられた婦人がわれわれの本部構内になだれこんできて、露天で一夜を過ごしました。
十二月十九日、日曜日。完全に無秩序の一日。兵士たちの放火によって大火事がいくつか発生し、今後さらに起る様子です。米国旗が多くの場所でひきずりおろされました。アメリカン・スクールでは国旗が踏みにじられ、管理人はもし国旗をまた掲揚するなら殺すぞといわれました。日本大使館によって公布され、アメリカ人およびその他の外国人の資産の建物にはってありました布告は、兵士たちによって侮辱され、しばしば故意に破りとられています。一日のうちに五回から一〇回も強盗に押し入られた家もあって、気の毒な人びとは略奪され、強盗をうけ、婦人たちは強姦されたのです。数名のものは、全然理由もないのに残酷に殺害されました。われわれの衛生班員七名のうち六名が一つの地区で虐殺されました。生き残った七人が逃げのびてこの話をしたのであります。今日の夕方にかけて、われわれのうち二人がブラディ博士の家にかけつけ(彼は留守でした)強姦を行なおうとした四人の者を追い出して、そこにいた婦人たちを全員大学へ連れてゆきました。スパーリングはこの追いかけっこで一日中忙殺されています。私はまたわが大使館のダグラス、ジェンキンズの家へゆきました。国旗はまだ無事でした。しかし、彼の家のガレージにはボーイが死んで横たわっており、別の召使の死体が、ベッドの下にありました。双方とも残酷に殺害されております。家は混乱をきわめておりました。通りにはまだ多くの死体があります。われわれの見たところでは全部が一般市民です。紅卍字会が彼らを埋葬するでしょうが、トラックは盗まれ、棺桶は焚火に使われてしまい、会の標識をつけた労務者の何人かが拉致されました。
スマイスと私は、五五件の暴行事件の追加リスト(全部に確証があります)をもって、再び日本大使館を訪れ、田中氏と福井氏に今日の状態はきわめて悪いと告げました。両氏はわれわれに、「最善をつくす」とか、事態が「すぐに」よくなることを希望するとかと保証してくれましたが、彼らが軍にたいしてほとんど、あるいはまったく影響力をもたないことはきわめてあきらかであります。軍は兵士にたいし何ら統制力をもっていないのです。また、われわれのきいたところでは、最近、憲兵が一七名到着したので、彼らは秩序を回復するのを助けるだろうとのことでした。五万余もの軍隊にたいしてたったの十七人!といっても、われわれは大使館の三人の人にたいしてむしろ好意をもっております。たぶん彼らはそれなりに最善をつくしているのでしょう。それでも、彼らが車と機械工一人を獲得するのに私の援助をもとめた時には、苦笑せざるをえませんでした。というのは、われわれ自身の車ですらどれだけ盗まれたか知れないのですから。私は彼らにあなた方の軍のところへいったらと言いたいところでしたが、それでも、彼らをアメリカ大使館へ連れていって、大使の車とその他二人の館員の車を借りてやり、あとからわれわれのところにいるロシア人の修理工を彼らのところへゆかせました。
十二月二十日、月曜日。蛮行と暴力はとどまるところなく続いています。市の全域が組織的に焼き払われているのです。午後五時にスミスと私は車ででかけました。市内でもっとも繁華な商店街である太平路一帯は炎上しておりました。われわれは火の粉が雨のように降るなかを燃えがらの上を車で走ってゆきました。もっと南方では、兵士たちが商店に入っていって放火するさまを見ることができましたし、さらに、さきでは兵士たちは略奪品をトラックに積みこんでいました。次にYMCAにゆくと、そこも炎上中でしたが、これはほんの一時間か二時間前に放火されたことはあきらかです。まわりの建物はまだ無傷でした。私はこうしたものを見ているにしのびなかったので、いそいで通り過ぎました。その夜、私が窓ごしに数えてみますと、火の手が一四カ所に上っておりましたが、そのいくつかのものはかなりの範囲におよんでいた。
ここにいるわれわれグループは、上海のアメリカ総領事館あてに、状況が緊迫しているのですぐにこちらへ外交官を派遣するようにと要請する電文を起草し、それから海軍無線によってこれを送信してくれるように日本大使館にたのみました。いうまでもなく電報は発信されませんでした。
十二月二十一日、火曜日。われわれ一四人は二時半に田中氏を訪ねて、市の焼打ちと無秩序の連続に抗議する二二名の外国人の署名入りの手紙を提出しました。またも約束がなされたのです!ラーべは自分の家のことを心配しています。というのは、通りをへだてて向かいの建物が燃えているからです。彼のところでは庭にあるよしずばりの小屋に四〇〇人の難民が暮らしています。食糧問題が深刻になりつつあるのです。飢えた難民のうちには大学で騒ぎを起すものも出ました。石炭の貯えはじきになくなるでしょうがリッグズは新たな貯えをさがしています。日本軍は石炭と米の補給をすっかり封鎖してしまいました。今日、兵隊が塀を乗り越えてわれわれの家へ押し入り、われわれ全員が留守のうちに車を奪いさろうとしました。そしてまた、別の時のことですが、彼らはソーンのトラックを奪いとるところでした。今日、ラーべはドイツ大使館のローゼン博士からの手紙を田中氏をつうじて受けとりましたが、その手紙によれば、ローゼン博士は下関にいる英国軍艦ビー号に乗船中であるが上陸を許可されないとのことでした。なお、ローゼン博士はドイツ資産についてたずねていました。二軒の家、つまり大使の家とラーベ自身の家は略奪に遭わず、車も二台まだ無事で残っていることをしらせるのは嬉しいことだ、とラーべは返事をかきました(南京にはドイツ人の住宅が五〇軒以上もあります)。
十二月二十二日、水曜日。今日午前五時に射撃隊がすぐ近所で仕事をしていて、一○○発以上も銃声が数えられました。大学は夜間、二度も押し入られて、門にいた民警は銃剣を突きつけられ、ドアはこわされました。先頃、部署についたばかりの日本憲兵隊は寝すごしていたのです。新任の日本憲兵隊の代表たちが訪れて、一月一日までに秩序を回復すると約束しました。彼らはまた自動車とトラックの貸与をもとめました。私はスパーリングと一緒に本部の東側、四分の一マイルのところのいくつかの池にある五〇体の死体を見にゆきました。全員が一般市民であることはあきらかで、後手に締りあげられ、一人は頭の上半分をすっかり切り落されていたのです。彼らは軍刀の試し斬りに使われたのでしょうか?昼食に帰宅する途中、車を停めてYMCAの書記の父親が酔っぱらった兵隊に銃剣で脅かされるのを助けてやりました。気の毒な母親は恐怖で半狂乱でした。帰って落ちつく前に、ジーとダニエルの家から兵隊を追い出すため、二人の同僚と駈付けなくてはなりませんでした。兵隊たちはそこで婦人を強姦しようとしていたところだったのです。あの勇敢な兵隊がわれわれに追いかけられて有刺鉄線をのりこえようとするさまをみると、笑いをおさえきれませんでした!
ベイツとリッグズは昼食もそこそこに出ていって、金陵大学の養蚕所から兵隊を追い出さなくてはなりませんでした。兵隊の何人かは泥酔していました。私が事務所に着くとすぐに、スパーリングとクレーガーからS・O・Sの呼び出しがあって、ラーベと私がそれに答えました。彼らは銃剣をもった酔っ払いにひどく脅かされていたのです。運よく大使館の田中が将軍の誰かと一緒にちょうどその時来あわせ、兵隊は将軍から数度顔に平手打ちをくわされましたが、それ以上の罰をくったとは私には思えません。われわれは軍紀などというものについては、きいたこともありませんでした。兵隊が将校か憲兵につかまっても、そんなことを二度としてはいけないと、きわめて丁重に命令されるのです。夕方、私は夕食後リッグズと歩いて家に帰るところでした。リッグズの家ではわれわれが帰るちょっと前に五十四歳の婦人が強姦されました。婦人たちを運命のなすがままにまかせておくのは残酷なことですが、といって、われわれがかかりっきりになって彼女らをまもってやることもできないのです。下関にある電気会社の技師の呉氏がおかしいニュースを伝えてくれました。彼によれば、五四人の労働者は南京陥落の日まであれほど健気に職場をまもり続けたのですが、とうとう揚子江岸のイギリス系の国際輸出会社に避難する破目になり、そのうち四三人は、発電所が政府機関だという理由で(実際にはそうではありませんが)拉致されて銃殺されたとのことです。日本側官憲は、これら労働者の一人一人をつかまえて発電機を始動させ、送電しようとして、毎日私の事務所にやってきたのであります。あなた方の軍隊が労働者の大半を虐殺してしまったのだと、彼らにいってやることはせめてもの慰めでした。
十二月二十三日、木曜日。今日はソーンが虐待をうけた。彼がスタンリー・スミスの家に行ったところ、一人の士官と兵士がアメリカ国旗を引きおろし、日本側の布告をひきはがし、そこに住んでいる難民を追い出してしまったところでした。彼らは日本軍がその場所を登記所にするというのでした。ソーンはかなり不愉快な目に遭ったに違いありません。というのは、その場所を二週間使用する権利を日本軍に与えるという書類にとうとう署名せざるをえなかったからです。それにソーンという男は、ものごとをそのままですませてしまう人間ではありません!大使館にたいする抗議のすえに、兵隊をその場所から追い出すことができたのです。農村師資訓練学校にあるわれわれの収容所から七〇人が拉致されて銃殺されました。まったくデタラメです。兵隊たちは怪しいと思ったものは誰でもひっつかまえます。手にタコがあるとその人が兵隊だったという証拠になり、確実にあの世行きです。人力車夫・大工、その他の労務者がひんぱんに拉致されます。正午に一人の男が本部につれてこられたのですが、頭は黒こげで、目も耳もなくなっており、鼻も欠けてしまっていて、ものすごい有様でした。私は彼を自分の車にのせて病院につれてゆきましたが二、三時間後に死んでしまいました。彼の身の上話というのは、何百人かの仲間といっしょに縛られて、ガソリンをかけて火をつけられた一人だということでした。彼はたまたま外側にいたので、ガソリンが頭にかからなかっただけのことなのです。その後、同じょうな患者が病院にかつぎこまれましたが、火傷はもっとひどいものでした。この男もまた死亡しました。おそらく彼らは最初に機銃掃射をあびせられたが全部が死んだわけではなかったと思われます。最初の男には全然外傷がありませんでしたが、二番目の男にはありました。その後さらに私は、鼓楼の反対側にある私の家へゆく道の角で、また別の男が同じように頭と腕を火傷して横たわっているのを見ました。彼がようやくのことで、もがき出てここまで来て死んだことは一目瞭然です。信じがたい暴虐!
十二月二十四日、金曜日。アメリカ大使館にいる一人の中国人が伝えるところでは、大使館に居住している中国人職員とその身よりの者全員が、部下をつれた一人の将校によって昨晩、略奪をうけたということです。パストンの事務室のドアには銃剣が突き通され、大使館の構内から三台の車が盗まれ、今朝もまた二台が盗まれたのです。その後、私は田中氏にメンケンの車は盗まれてしまったといってやりました。昨日私は彼にこの車を使わせてあげようと約束したのに、盗まれた車のうちにそれが入っていたからです。中国人の登録は今日はじまりました。軍部の言によれば、まだ安全区には二万人の兵士がおり、これらの〝化物ども〟を一掃しなくてはならないというのです。一〇〇人残っているかどうか私は疑問に思います。とにかく、さらに多くの罪もない人びとが危害をこうむるに違いないし、全員がおびえて神経質になっているのです。中国人の自治委員会が日中氏のすすめで一昨日結成されましたが、これが助けになるでしょう。しかしすでにスパイどもが仕事をはじめています。われわれはここでその一人を捕えました。私は彼がひどく打たれるところを助けてやり、地下室に監禁しておいて、あとで中国側の警察に引きわたしました。彼をどうするつもりでしょうか?彼は絞首刑にされるのではないかと思いますが、それでもうかつなことはするなとはいっておきました。今日も日本軍からの不断の干渉です。われわれの衛生班からさらに多くの者が拉致され、また金陵大学の門にいた民警も連れてゆかれました。彼らはたえずわれわれのトラックを手に入れたがっているのです。日本軍はまたわれわれの石炭置場の一つを封鎖したのですが、リッグズが話をつけて、とうとうそれを解除させました。
クリスマス・イブ。クレーガーとスパーリングとトリマー博士がわれわれと夕食をともにしましたがロースト・ビーフにさつまいもをつけあわせた、おいしい夕食でした。日本兵が家の塀を乗り越えて一日に何度もやってくるので、ラーべは家を離れようとはしませんでした。彼は門から兵隊を出してやることをせず、いつでも入って来たところ、つまり塀ごしに帰らせています。誰でも異議を唱える者がいれば、ラーベは彼の国では最高の勲章であるナチスの腕章を面前につきつけ、これが何かわかるかと、彼らに訊ねるのです。これはいつでも効果覿面でした!夕方に彼はわれわれのところへ加わり、各々にきれいな革表紙のジーメンスの日記帳をくれました。われわれはウィルソンのピアノ伴奏でクリスマスの歌を歌いました。
クリスマス・デー。天気についていえば申し分のない一日でした。そして事態もやや改善したように見えます。街路には住民が群がり、もの売りの露店もかなり沢山出ていました。しかし、昼食時に、われわれがミス・ヴォートリン、ミス・ボーアー、ミス・ブランシュ・呉(訳音)とミス・パール・ ブロムリー・呉をお客に迎えて、がちょう肉の焼肉を食べている間にも、三度も助けを求める叫びに応じて、兵隊どもをフェンの家、中国人教職員宿舎・養蚕所から順に追い出さなければなりませんでした。この日、アメリカ国旗が農村師資訓練学校から引下されました。七人の兵隊が昨夜とその前夜を聖書師資訓練学校で過し、婦人たちを強姦したのです。われわれの隣家といってもいいところで十二歳の少女が三人の兵士に強姦され、他の十三歳の少女も強姦されました。われわれの助けも手遅れだったのです。銃剣でやられた患者もさらに多数出ました。ウィルソンの伝えるところでは、病院の患者二四〇人のうち四分の三は占領以来の日本軍の暴行によるものだそうです。大学で登録がはじまりました。住民は、お前たちのうちに誰か兵士出身のものがいないかどうか、もしいたら労務班に使役して、生命を助けてやるから、前に出よといわれました。およそ二四〇人が進み出たのですが、彼らは一団にされて拉致されました。二、三人の生き残りが語るところでは、彼らは傷を負ってから死んだふりをして逃亡し、病院へ来たのだそうであります。一団のものは機銃掃射をうけ、別の一団は兵隊に取り囲まれて銃剣刺殺の練習に使われたのです。われわれの診た患者のなかで、処刑隊に逢いながらも、一つ二つ傷を負っただけで逃れたものも多かったのであります。おそらく彼らは昼のうちも、夜になっても、発見をおそれて、仲間の死体におおわれたまま横になっており、それから病院や友人のところへやってきたのでありましょう。日本軍側はいささか不注意だったわけです!
十二月二十七日、月曜日。日本軍占領下での三週目がはじまり、上海から日清汽船会社の船の到着した祝賀が行なわれています。会社の代表が四人、私の事務所を訪ねて、まもなく定期航路が揚子江に開設されることを約束しました。一行の中には多数の婦人がおり、市内見物に連れてゆかれたのです。彼らはキャンデーを一つ二つ子供たちにわけてやり、日本軍のえた驚くべき勝利のせいもあって、極めて気をよくしているように見えました。しかし、彼女らは何ら真相をきかされたわけでもなく、世界にも真相が知らされていないのではないかと私は思います。兵隊は依然としてまったく統制がとれず、軍と大使館の間には何らの協力もありません。軍は、大使館が発足させた自治委員会の承認さえも拒否し、委員会のメンバーは故意に無視されています。中国人は被征服民族であり、何らお情けを期待してはならないと彼らはいわれているのです。われわれの作製している混乱と残虐行為の例証のリストはうなぎのぼりになっており、報告され、あるいは目撃された例よりも、われわれの関知しない事件のほうが何倍も多いに違いありません。今日の事件を二、三挙げましょう。十三歳の少年がもう二週間近くも前に日本人に拉致されたのですが、仕事を満足にしなかったとかで、鉄棒で打たれ銃剣で刺殺されてしまいました。昨夜は、将校一人と兵二人をのせた車が金陵大学にやって来て、構内で三人の婦人を強姦し、一人を拉致しました。聖書師資訓練学校も何度も侵入をうけまして、ミス・バウアーの抗議にもかかわらず、病院の夜間管理員が兵隊によって連れ去られたのです。市の焼き打ちは続いています。今日、市の南部にあるキリスト教ミッション・スクールの二つの建物が放火され、キスリング・ベイダー菓子店(ドイツ系)もやられました。ところが、大使館警察署長のタカタマはわれわれを訪問し、外国人の建物全部を保護すると現に約束し、スパーリングと一緒にドイツ人資産を検分に出かけました。私個人の考えでは、氏は分以上のことを約束していると思います。日本はなんという請求リストを提示したことでしょう(そんなことをするのは、みなまったく余計なことのように思えます)。というのは、南京にある何百もの外国人資産のほとんどすべてが日本軍によって略奪をうけているからです。それに彼らが盗んだ自動車のこともあります。私は、スミスと私が昨日、安全区の外で市の西北のはずれにある英国大使館を訪問したことを書くのを忘れたと思います。一一台あった車が全部と、それにトラック二、三台が兵隊に奪い去られましたが、運のよいことに召使いたちは何とか無事でした。各区画に乗りすてられた車が見られます。バッテリーやその他は使えるものですが、車は大ていひっくりかえされて、おきすてられております。
それでも今日は一つよいことがありました。それは日清汽船の船で日本大使館をつうじて鄺富灼(訳音)博士から私に手紙がとどいたことです。ここ三、四週間のうちにわれわれのところへ来た最初の手紙であり、また唯一の手紙です。博士はわれわれの救援の仕事に資金が要るのではないかということを知りたがっており、さらにロータリー・インタナショナルをつうじてのわれわれの訴えに応えて入ってくる金をいくらか保管することを申し出ました。まったく鄺らしいやり方です!われわれはまさに追加資金を、それも何千ポンドも必要としています。私はまもなくわれわれが必要とする金のことを思う度に悪夢にうなされるのです。というのは、いったいどこでそれを手に入れたらよいでしょうか?
十二月二十八日、火曜日。われわれが恐れていたもの--悪天候がきました。降りつづく氷雨が雪になったのです。小屋といっても多くは犬小屋同然のものに住んでいる気の毒な難民たちは悲惨な目にあうことでしょう。というのは、こうした小屋の多くは雨を防げないからです。それにぬかるみとなります。これまで快晴が続いたことは確かにわれわれにとって幸せでした。今日、私は収容所のいくつかを検分しました。収容所の多くのものの混雑状態はひどいもので、もちろん清潔にしておくことなど不可能です。収容所の管理人と助手たち(全員奉仕員)は規律の維持に概してすばらしい仕事ぶりをみせ、人びとに食事を与え、あたりをかなり清潔にしています。しかし、どれほどの期間われわれはこうした収容所を置いておかなくてはならないのでしょうか?いつ人びとは(といっても帰る家のあるものですが)、自宅にもどることを許されるのでしょうか?いつ秩序が確立されるのでしょうか?
私は今日はじめて学校へいってみました。それは私のすまいから大して離れていないところにあるのです。いっさいがごちゃごちゃになっていて、物理実験室の器具の多くが故意に破壊されていました。運動場には牝牛の死体が半ば犬に食い荒されており、大使館の布告は門からはがされていました。
十二月二十九日、水曜日。今日は昨日より天気のよいのが幸いです。登録は極めて非能率に続きます。人びとはどこに、いつ出頭すればよいか何ら知らされないのです。さらに多くの難民が敗残兵として拉致されます。婦人や老人がやってきて、ひざまずいて泣きながら、夫や息子を取りかえすのに手をかしてくれとわれわれに頼むのです。二、三の場合にはうまくいきましたが、軍はわれわれが口出ししようものなら憤慨するのです。河岸におよそ二万人の難民がいるという下関からの伝言が中国赤十字社の代表をつうじてとどきました。日本軍の到着前にわれわれが彼らにもたせた米の配給はもうつきはてようとしており、大変な苦難です。彼らは安全区に入りたいというのですが、われわれの方はすでに超満員の状態です。とにかく日本側はそれを許可しないし、われわれが出かけていって彼らを助けることも許さないでしょう。さしあたり彼らとしては、どうにかしてやって行かなければならないだろうと思います。
とうとう外国大使館にそれぞれ警備員が配置されました。しかし、なぜこれが二週間前になされなかったのでしょうか?われわれの家はまだ無防備のままです。われわれの収容所の若干のものに配備された数人の警備員は、助けになるどころか、しばしば面倒の種となっています。彼らは焚火や食物・寝床、しばしば他のものまで人びとに要求するのです。
十二月三十日、木曜日。私は今日、召使一八人をよび集めて、来月の十五日までの給料を払ってやり、今後、別の仕事を探さなくてはならないと彼らにいいわたしました。これはむずかしいことでした。召使いのあるものは何年もわれわれのところで働いてきており、上品で忠実な人たちであります。W氏と私の希望は、もし秩序が回復されたなら、できれば元の学校の校舎でほそぼそと何かをはじめようということです。しかし、われわれの同僚のうち数人は去ったし、現在の南京の経済状態からして新しい集団をつくり出すのは難しいことです。W氏は住宅委員の助手としてすぐれた仕事をしましたし、C氏も収容所の管理人の一人としてすぐれた仕事をしたのですが、われわれの召使いたちもあれこれと手助けをしてくれていたのであります。
今日の午後、私が日本大使館を訪れた時、大使館員たちは新年の祝賀について約六〇人の中国人(多くがわれわれの収容所の幹事)に指示を与えるのに忙殺されていました。旧来の五色旗が国民党の青天白日旗にとって代わることになり、彼らは五色旗約一〇〇〇枚と日本の国旗約一〇〇〇枚を、新年の祝賀用につくるように命じられました。一〇〇〇人以上を収容している収容所は代表を二〇人出すことになり、小さい収容所は代表一〇人を出すことになりました。元旦の午後一時に五色旗が鼓楼に掲揚されるとともに、(プログラムによれば)〝適当な″演説と〝音楽″がおこなわれる予定です。もちろんこの旗を振って新体制を歓迎する幸せな人々がニュース映画に撮影されるのです。ところで、市内の焼き討ちはつづき、十二歳と十三歳の少女の強姦と誘拐が三件発生したとの報告が入りました。スパーリングは本部のすぐ近くの家から兵隊を追い出すのに忙しく、養蚕所(金陵大学の一部でアメリカ人資産)では、兵隊たちが人狩りなどをする間、そのまわりに歩哨線をはっていました。
十二月三十一日、金曜日。比較的平穏な一日。夜間に暴行事件の報告がなかったのははじめてのことです。日本側は新年の準備でいそがしがっています。二日間休日となることが発表されました。われわれはそれが心配です。というのは、酔っぱらった兵隊がさらに多数出るということだからです。避難民は屋外に泊まらないようにと注意をうけました。夕食後にラーべはわれわれ一家を彼の家に招いて、クリスマス・ツリーに灯をともしてくれました。われわれ一人一人が安全区の徽章が入った年賀状をもらったのです。それには南京居留外国人の二二人の署名が入っていました。彼はまた南アフリカの体験談をしてもてなしてくれました。部屋の壁には狩のすばらしい獲物のいくつかがかかっていました。大晦日です。家や愛する人びとに対する思いがどっと押しよせてきます。〝家郷″からの一通の手紙のためなら何を惜しみましょう。われわれは今しばらく辛抱しなければならないことは明らかです。というのは、日本大使館の話では、当地で郵便が回復するにはまだ何週もかかるとのことです。また、彼らは、少なくとも一カ月しなければわれわれのうちの誰かがこの町を出て上海を訪ねることはできないといっています。われわれは実際ここに監禁されているようなものです!
この物語をこれ以上続けて、その後に犯された暴行の数々を語っても、おそらく何の役にも立たないことでしょう。すでに一月十一日となって、事態は非常に改善されているとはいえ、暴行のなかった日は一日としてありませんでしたし、また暴行のうちのあるものはきわめて忌わしいものでありました。アメリカ大使館の三人の代表が六日に到着し、九日には英国大使館とドイツ大使館の三人の代表も到着しましたので、事態がさらに改善されるという保証をわずかながら感じています。しかし、つい昨夜、私が自動車で通ったところ、放火されたばかりのところが四カ所もあり、また兵隊たちが一軒の商店に入って五つ目の放火をはじめるところを見ました。十二月十九日以来、日本兵によって放火がおこなわれなかった日は一日もありませんでした。ところで、クレーガーは先日、東門からどうにか脱出したのですが、彼が二〇マイルばかり行く間というもの全村が焼き払われ、中国人も家畜も生きているものは何一つ見られなかったそうです。
われわれはとうとうラジオで外界と接することができるようになりました。これは大変喜ばしいことです。というのは、先週の日曜日に私は電気を家に接続し今ではこれが使えるからです。委員会の本部には二、三日早く電気がきていました。それでも日本軍だけに電気がつくということになっているので、このことを吹聴することはしません。それからわれわれは上海の日本語新聞を二、三部と東京日日を二部読みました。これらの新聞によれば、十二月二十八日以来、商店が速やかに開店しつつあり、業務は平常に戻りつつあり、日本軍はわれわれと協力して哀れな難民に食物を与えており、南京から〝中国人″匪賊が一掃され、今や平和と秩序が支配しているというのです。もし事態がこれほどにまで悲劇的なものでなければと、苦笑を押えることができないところです。
私は以上の説明を何ら復讐の気持をもって書いてきたわけではありません。戦争は残虐なものであり、征服のための戦争はことに残虐なものであります。このなかで私が経験したこと、また一九三二年の上海の戦争でも経験したことからみると、キリスト教的理想主義をまったくもたない日本軍は、今日非道な侵略軍となっており、東洋ばかりでなく、他日は西洋をも脅かすことになろうということがうかがわれ、また世界はこの現実の真相を知るべきであると思われるのであります。この状況にどのように対処すべきかについては、私は私よりも賢明な人のびと考慮にまかせるべきでしょう。
この物語の中にももちろん明るい一面があります。それは、中国人の友人、および外国人の友人たちが一様に示したすばらしい奉仕の精神であり、また共通の大義のなかでわれわれが感じた親密な友情であります。われわれがしようとしたことにたいして難民たちが感謝を表明した時に、幾度となくわれわれは心あたたまる思いをしました。彼らの苦しみに比べれば、われわれ自身の損失や不便はとるに足らないものに思われます。そして、委員会の三人のドイツ人の友人たちはわれわれの尊敬と愛情をかちとりました。彼らは強力な砦であります。彼らがいなければどうして切りぬけてきたか私にはわかりません。
将来はどうなるでしょうか?ごく近い将来はけっして明るいものではないが、中国人は多くの長所に加えて、苦難に耐える卓越した能力をもっております。最後には正義が勝つに違いありません。とにかく、私は彼らと運命をともにしたことをつねに嬉しく思うでありましょう。」
この時期についての事件の報告の一部は附録Aにみられる。
CONTENTS 目次
Chapter
Foreword (Timperley)
序(ティンパレー)
Chapter I Nanking's Ordeal (Bates & Magee)
第一章 南京の試煉(ベイツ博士&マギー牧師)
Chapter II Robbery, Murder and Rape (Magee)
第二章 略奪・殺人・強姦(マギー牧師)
Chapter III Promise and Performance (Bates)
第三章 約束と現実(ベイツ博士)
Chapter IV The Nightmare Continues (Bates)
第四章 悪夢は続く(ベイツ博士)
Chapter V Terror in North China
第五章 華北における暴虐
Chapter VI Cities of Dread
第六章 恐怖の都市
Chapter VII Death From the Air
第七章 空襲による死亡
Chapter VIII Organized Destruction
第八章 組織的な破壊
Appendix
附 録
A Case Reports Covering Chapters II and III
A 安全区国際委員会が日本大使館に送った第二・三章にかんする暴行事件の報告
B Case Reports Covering Chapter IV
B 第四章にかんする暴行事件の報告
C Case Reports Covering
Period January 14, 1938, to February 9, 1938
C 一九三八年一月十四日から一九三八年二月九日にいたる暴行事件の報告
D Correspondence Between
Safety Zone Committee and Japanese Authorities, etc.
D 安全区国際委員会が日本当局や英・米・独大使館に送った公信
E The Nanking "Murder Race"
E 南京の殺人競争
F How the Japanese Reported Conditions in Nanking
F 南京の状況にかんする日本側報道