第一章

南京の試煉

一九三七年の夏にはじまった日中戦争により、八・九・十月には上海・蘇州・無錫およびその近郊、十一・十二月にかけては杭州・鎮江・蕪湖・南京から、約一八〇〇万の人びとが家を追われた。上海共同租界とフランス租界に、中国人と外国人によって難民収容所が設立され、そこで食と家を与えられた中国人の難民は、最も多いときには約四五万人にものぼった。

華中の会戦だけでも、中国軍の死傷者はすくなくとも三〇万に及び、一般市民の死傷者も同じぐらいあった。農村は人口が減り、荒れはて、日本軍は豊かな財貨をもとめ、また総くずれになっている中国軍を壊滅させようと進軍した。しかし、彼らはそのいずれも見出せなかった。中国軍は撤退し、その後の二、三カ月以内に再編成された。中国の富は主として中国人民の勤勉な性質にあったが、中国人民は、日本人が奥地へ奥地へと追跡していってもつかまらなかったし、また工場といっても、日本軍が念入りに爆撃したためにこっぱみじんとなってしまい、日本軍は何一つ手に入れることができなかった。

この不幸なてんまつを通じて、途方にくれた農民や都市住民のごく一部にとってだけだが、ひとつ平和と安全の保証される希望があった。それは外国人の管理する安全区にたどりつくことだった。十一月にはジャキノ・ドゥ・ブサンジゥ神父が上海の南部地区に、荒廃した地域の住民二五万人を収容するため、安全区を首尾よく設立していた。

一九三七年の十一月中に、南京在住の公共心に富む若干の居留民が集まって、中国人および外国人が避難できる同様地区を南京にも設立できるかどうかを話しあった。爆撃に対して安全をはかるため、この間題ははやくから討論されていた。これという結論には達していなかったものの、日本軍が接近するにおよんで、問題は緊急なものとなり、中国・日本両国の承認は事後に得られるだろうという希望のもとに安全区設立のための委員会が設けられた。

この委員会が核となって、やがて南京安全区国際委員会が成立し、委員長にはドイツ人の実業家ジョン・ラーベ氏が就任した。他のメンバーの名前は一六九頁のリストにあげてある。国際赤十字南京委員会もこの委員会と共同して仕事をするようになった。このメンバーの名前も一七○頁のリストにあげてある。

まずはじめにこれら二十数名の真の英雄たちこそ称賛を捧げらるべきである。これらの人々のことを物語ってゆくうちに、その価値がわかるだろう。中国人も外国人も、とにかく交通手段を見つけたものはすべて、何百何千と南京から避難していったのに、彼らは、その外交代表者の忠告にもかかわらず、南京に留まることを決意したのである。彼らのうち誰一人としてその後におきた事件をあらかじめ予想することはできなかったとしても、男も女も全員が経験と博識をもつ人びとであり、自分たちの立場の危険性を察していた。彼らの勇気・無私無欲・献身、とりわけ南京の征服と従属がいかに悲劇的なものであるかを知っていたので、その悲惨をいくらかでも救おうとする決意は、本書を読む者すべてに、明らかであろう。

南京安全区の面積と位置は、十六頁の地図に示されている。

安全区国際委員会が様々な問題について日本当局にあてた手紙の写しは、その他の公式機関にあてられた手紙の抜粋とともに、附録Dにおさめられている。これらの手紙に対しては、文書による返事をかつて受けとったことがなく、いつもただあいまいな口頭による通知だけがなされた。


十二月十三日、日本軍は上海の中国側防衛線を打ちやぶってからちょうど一ヵ月たって、そこから約二〇〇マイル離れた中国の首都、南京に入城した。この早わざは、現代におけるもっともめざましい軍事的達成の一つとして、歴史に残るにふさわしいであろう。しかし実際には、いかなる賞賛があびせられようと、その後、日本軍が占領した諸都市で行なった非道な行為で、この得点もきわめて減じられることになった。日本軍が南京に接近したとき、飛行機からビラをまいて「日本軍は善良な市民を保護し、安心して生活できるよう、極力努力する」と宣言していた。十二月十日、日本軍総司令官松井石根大将は、唐生智将軍に、南京市の明け渡しを求めたとき、「日本軍は、抵抗するものには過酷かつ無情であるが、一般市民および日本に敵意を抱かない中国軍に対しては、親切かつ寛大である」と宣言していた。日本軍がどの程度まで、このもっともらしい保証に従って行動したかは、以下の事実を見れば明らかである。次の文章には、日本軍の南京突入直後の事件が、簡潔鮮明に描かれているが、これは南京在住の一外国人が上海の友人に送った十二月十五日付の手紙からとったものである。この人は南京の外国人の間でもっとも尊敬されている人であり、その公正な態度で知られている。

「南京では日本軍はすでにかなり評判を落しており、中国市民の尊敬と外国人の評価を得るせっかくの機会さえ無にしてしまいました。中国側当局の不面目な瓦解と南京地区における中国軍の壊滅によって、ここに残った多くの人びとは、日本側が高言している秩序と組織に応じようとしました。日本軍の入城によって戦争の緊張状態と当面の爆撃の危険が終結したかと見えたとき、安心した気持を示した住民も多かったのです。少なくとも住民たちは無秩序な中国軍を恐れることはなくなりましたが、実際には、中国軍は市の大部分にたいした損害も与えずに出ていったのです。

しかし二日すると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女暴行をも含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。市内を見まわった外国人は、このとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告しています。南京の中心部では、昨日は一区画ごとに一個の死体がかぞえられたほどです。死亡した市民の大部分は、十三日午後と夜、つまり日本軍が進入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。恐怖と興奮にかられてかけ出すもの、日が暮れてから路上で巡警につかまったものは、だれでも即座に殺されたようでした。その苛酷さはほとんど弁解の余地のないものでした。南京安全区でも他と同様に、このような蛮行が行なわれており、多くの例が、外国人および立派な中国人によって、はっきりと目撃されています。銃剣による負傷の若干は残虐きわまりないものでした。

元中国兵として日本軍によって引き出された数組の男たちは、数珠つなぎにしばりあげられて射殺されました。これらの兵士たちは武器をすてており、軍服さえぬぎすてていたものもいました。そういうわけで、略奪品や装備の臨時運送人として使役するためにどこかでひろいあげてきた男たちを除けば、実際にあるいは明らかに処刑の途上にある、このような集団以外には、日本軍の手中には捕虜の影さえも見られませんでした。難民区内のある建物から、日本兵に脅迫された地元の警官によって、四〇〇人が引き出され、五〇人ずつ一組に縛られ、小銃をもった兵隊と機関銃をもった兵隊にはさまれて護送されてゆきました。目撃者にどんな説明がされても、これらの人びとの最期は一目瞭然でした。

目抜き通りでは、中国兵が主として食料品店や保護されていないウインドウなどからこまごました略奪を行なっていましたが、それが、日本軍の将校の監視の下で店先から店先へと移る組織的破壊にとって代わられました。日本兵は、大荷物を背負って人を押分けてゆく手助けに運送人を必要としました。まず食料を求めたのですが、やがて、その他の日用品や貴重品もやられました。市内全域の無数の家が、人が住んでいようがいまいが、大小かまわず、中国人の家も外国人の家も、まんべんなく略奪されました。次に述べるものは兵士による強盗の特に恥知らずな例です。集団捜査が行なわれるうちに、収容所や避難所の多数の難民は、わずかな所有物のうちからさえもお金や貴重品を奪われました。大学附属の鼓楼医院職員は直接、現金や時計を奪われ、また看護婦宿舎からもその他の所持品が奪いとられました。(これらの建物はアメリカ人資産で、やはり略奪されたほかの国の建物と同様に、自国旗を掲げており、また大使館の布告がはってあったものです。)日本軍は旗を引きおろしてから自動車や他の財産を強奪しました。

婦女強姦・凌辱の例も数多く報告されていますが、まだそれを細かに調査している時間がありませんでした。しかし次のような例は事態を示すに十分であります。私たちの外国の友人の一人の近くにある一軒の家から、昨日、四人の少女が兵士たちに誘拐されました。外国人たちは、市内の一般住民から実際上放棄されてしまった場所にある、新たに到着した将校の宿舎に八人の若い娘がいるのを見ました。

このような状況下での恐怖状態は筆につくすこともできませんし、もの柔らかな将校たちが口にする〝戦争をする唯一の目的は、中国人民を救うために圧制者である中国政府と戦うことである″という言葉をきくと、まったく吐き気をもよおすほどです。

南京で示されているこの身の毛もよだつような状態は日本帝国の最良の達成を示すものでないことは確かですし、これにたいして責任を負う日本の政治家・軍人・一般市民がいるにはちがいありません。これらの人びとは、ここいく日かが中国における日本の立場におよぼした害悪を、自らの国益のためには即座に矯正することでしょう。職業軍人として日本帝国にふさわしい、紳士としてふるまった兵士や将校も個々にはおりました。しかし、全体の行動はひどいものでした。」

 さらに詳しいことは、南京在住の一外国人による以下のなまなましい説明にあるが、この人は中国でほとんど一生を送った人である。彼の手紙は、個人的なことに及んだ部分を削除したほかは、上海の友人たちがうけとったそのままに残されている。

 「一九三七年、クリスマス・イブ 中国、南京にて

私がこれから述べることは、けっして楽しい話ではありません。事実、それはあまりにも不愉快なものなので、読む気のない人にはおすすめできないほどです。というのは、それは、ほとんど信じられないような犯罪と恐怖の物語、つまり、平和で親切で法律を守っている人々を止まるところなく自らの意志に従わせてきたし、現在も従わせつつある一集団の略奪物語なのです。しかし、それがわずか二、三人の人の目に触れるだけだとしても、私はこのことを語らなければならないと思っています。その話を語るまでは気が休まらないし、それに、おそらく幸いなことに、私はそれを語ることができるきわめて少数の者のひとりであるからです。これがすべてではなく、全体のごく1部にすぎません。そしていつ止むことになるかは神のみが知ることです。私は早く止むよう祈っていますが、こんなことがここだけでなく中国の他の地方でも今後何カ月も続くのではないかと心配しています。これは現代史上類のないものである、と私は信じます。

今日はクリスマス・イブです。まず十二月十日のことからはじめたいと思います。ここわずか二週間で、われわれ南京在住者は包囲を経験しました。中国軍は敗北して撤退してしまい、それから日本軍がはいってきました。その日の南京は、まだ法と秩序が支配し、われわれがかぎりなく誇りとする美しいまちでした。今日の南京のまちは、荒廃し、破壊され、すっかり略奪され、大半が焼き払われてしまっています。一〇日間、完全な無政府状態が支配しており、さながらこの世の地獄です。私の生命がずっと深刻な危険にさらされていたわけではありません。しかし、欲望に狂い、ときには酔っぱらった兵士たちを、彼らが婦女を強姦している家から追い出すことなどは、かならずしも安全な仕事とはいえません。胸に銃剣を突きつけられ、頭にピストルをつきつけられ、それもこれらの武器が邪魔者をしまつしたいと本気で思っているものの手中にあるのがわかっていると、おそらくそれほど身の安全は感じないでしょう。外国人全員が退去勧告を受けた後もわれわれがここにいるということを、日本軍はけっしてこころよく思っていません。彼らは目撃者をのぞまないのです。それにしても、極貧のものたちさえ、もっている最後の銅貨、最後の夜具類まではぎとられており、(しかも厳寒のおりです)、貧しい人力車夫が人力車をうばわれるという光景を傍観せざるをえないのです。その一方、多数の罪もない市民と共にわれわれの庇護を求めてやってきた大勢の武器を捨てた兵士たちが、射殺されたり、銃剣術の練習用につかわれるため、われわれの目の前で拉致され、しかも、彼らが射殺される銃声を耳にしなければならないのです。また大勢の婦人がわれわれの前にひざまずいて、ヒステリックに泣き叫び、彼女らをえじきにしようとねらっている獣どもから救ってくれるようわれわれに懇願するのです。国旗が引きおろされ、一度ならず何度も侮辱され、自分の家が略奪されているのを、何もしないでただ見ているだけという有様です。それから、愛着をもつようになったまちや、精魂をつくそうと考えていた施設が、故意にかつ組織的に焼かれているのを見守っていなければならないのです。これこそ私がまさにかつて見たことのない生地獄なのです。

〝こんなことがいつまで続くのか″と、われわれは自らに問い続けてきました。来る日も来る日も、日本側官憲たちはわれわれに、事態は早急に好転するだろうとか〝われわれは最善を尽す″とかうけあってきましたが、かえって事態は日に日に悪くなっていくばかりでした。そして現在、新たに一個師団二万人が到着すると聞いています。彼らにも略奪・殺人・強姦という犠牲を払わなくてはならないのでしょうか。盗むものなど、もうほとんど残ってはいません。というのは、町はもうすっかりはぎとられてしまったからです。先週中は、兵士たちは商店から欲しいものをトラックに積み、建物に火をつけるのに多忙をきわめていました。そこで気がついてみると、二〇万の難民の三週間分の米と小麦粉、一〇日分の石炭があるだけと知って、胸もはりさけんばかりです。夜、心配のあまり冷や汗をかいて目をさまし、そのままずっと眠れないのも不思議なことではありますまい。たとえ三カ月分の食糧が十分あったとしても、そのあと難民たちはどのように食いつないでゆくでしょうか。家は焼かれ、いったいどこに住むのでしょうか。現在のひどい混雑状況では、これ以上どうにもなりません。もちこたえるとしても、じきに病気や悪疫が発生するにちがいありません。

私たちは毎日、日本大使館を訪れて、われわれの抗議、われわれの訴え、暴行と犯罪に関するわれわれの偽りない報告書を提出しました。その都度、私たちはものごしのやわらかい日本人的礼儀に接するのですが、実際には大使館員は無力なのです。勝利した軍は当然、報酬を受けねばならない。--その報酬というのも、略奪・殺人・強姦を意のままにすることであり、彼らが声を大にして保護し援助すると世界に公言してきたのに、その保護し援助をすることになった当の人たちに、信じられないような残虐かつ野蛮な行為を行なうことなのです。現代史上、南京における暴行ほど暗黒なページのないことは確かです。

過去一〇日間の出来事を全部述べようとすれば、長くなってしまいます。悲劇的なことに、真実が世界中に知られるときには、すでに熱が冷めてしまって、もはや〝ニュース″ではなくなっているでしょう。どちらにしても、すでに略奪され焼きはらわれたまちに日本軍は法と秩序をうちたてたとか、ふみにじられていた住民は両手をひろげ、歓迎の旗を振って、情け深い日本軍をうけ入れたとかと、日本軍が国外に公言していたことは疑いありません。しかし私は、この期間の若干の重要事件を記しておきたいと思います。私はそれらを小さな日記に書き留めておきました。というのは、それらの事件は、少なくとも私の幾人かの友人には関心がある事柄であろうし、私もこの不幸な日々を、永遠に記録することに満足を感じるからです。それはおそらく、この手紙の日付けより先まで続くでしょう。というのは、かなりの期間、この手紙を出せそうにもないと思うからです。日本側の検閲が目を光らせていることでしょう!不運なパネー号や美孚煤油公司の汽船や他の船舶に乗って、陥落直前に南京をはなれた、わが国やほかの国の大使館員たちや実業家たちは、一週間以内には南京に帰れるものと信じていましたが、江上か、もしくはおそらくどこかの港でいまだに待たされています(日本軍の爆撃と機銃掃射による死傷をうけなかった人びとのことですが)。彼らが南京に帰るのを許可されるにはあと二週間はかかるだろうし、われわれのうちの誰かが南京を離れる許可をえるにはもっとかかるだろうと思います。われわれはここでは捕虜同然なのです。

私の前の手紙を読んだ方々は覚えておいででしょうが、わが南京安全区国際委員会は、中国および日本の双方に対し、南京市内に一定の地域を定めて、兵士や軍事機関をいっさいおかず、爆撃も砲盤もされることのない地域とし、南京市民一〇〇万のうち南京に留まっている二〇万の住民が、事態が緊迫したとき、避難できる場所として承認を求めました。それというのも、中国軍が上海であれほど長い間見せてきた、すばらしい抵抗力も今やうちくだかれ、士気がきわめて下がったことが、まったく明白になったからです。中国軍は、日本軍の優秀な大砲・タンク・空軍による猛攻に、最後まで耐えられるものではなかったし、日本軍が杭州湾上陸に成功し、中国軍の側面と後方を攻めたことが、中国軍の壊滅を決定的なものにしました。南京の陥落も目前のように思えました。

十二月一日、南京市長馬氏は、事実上、安全区の行政責任をわれわれにゆずり、同時に警察官四五〇名、米三万担(二〇〇〇トン)小麦粉一万袋と若干の塩を引渡しました。それに現金一〇万フランの支払約束を与えましたが、そのうち八万フランをその後で受けとりました。唐将軍は、最近処刑されたということを聞きましたが、将軍は首都防衛の任を帯び、安全区から軍隊と高射砲を一掃するという非常に困難な仕事に概して非常によく協力してくれました。それで、十二日の日曜日に日本軍が入城を開始する直前までは、称賛すべきほどの秩序が維持されていました。食料を求める兵士たちのちょっとした例外を除いて略奪はありませんでした。全市の外国人の財産は尊重されていました。水道は十日まで、電気はその翌日まできていたし、電話は事実上、日本軍の南京入城当日まで通じていました。われわれはいちども、深刻な危機感を感じませんでした。というのは、日本軍は安全区への爆弾投下や砲撃を避けているように思われたからです。日本軍が来てからの地獄にくらべれば、南京は秩序と安全の天国でした。トラック運送にいくらか困難があったことは事実です。つまり、米は市外に貯えてあったし、運転手のなかには、砲弾が落ちてくる場所へ出ていきたがらないものがいたからです。ひとりは砲弾の破片で片目を失い、われわれのトラック二台が軍に奪われましたが、その後の困難にくらべれば、そんなことは何でもありません。

十二月十日に、難民が安全区に流れこんできました。金陵女子文理学院・陸軍大学、その他の学校など公共の建物はほとんど満員だったので、今や最高法院・法学院・華僑招待所までも収用して、かぎのかかっているところはこじあけ、われわれの方から管理人をおくことにしました。ちょうど紫金山の上空に日本軍砲兵の観測気球が見えましたが、おそらく大砲攻撃を指揮するためのものだったのでしょう。重砲は南門をうち砕き、市内に砲弾が落下していました。翌朝、安全区内のちょうど南端に数発の砲弾が落ち、聖書師資訓練学校と福昌飯店附近で、約四〇人が死にました。われわれの調査員であるドイツ人のスパーリング氏も、後者すなわち彼が住んでいる福昌飯店の近くで、軽いけがをしました。アメリカの砲艦パネー号は上流にむかいましたが、その出航の前に私は大使館のパクストンから電話をもらいました。しかし、市の城門は最後の一つがすでに閉ざされており、私たちは砲艦に乗船する権利を失っていました。彼は南京あての最後の海軍無線電報二通を伝えました。もちろん、彼は市外から電話したわけです。電文はウィルバーとボイントンからのものでした。

私たちの外国人仲間はいまでは二七名で、アメリカ人一八名、ドイツ人五名、イギリス人一名、オーストリア人一名、ロシア人二名からなっています。パネー号は二名の残留大使館員アチソンとパクストンのほか六名をのせて江上にありました。美孚煤油公司と亜細亜火油公司の発動機船にはもっと大ぜいの人びとが乗船していました。船体は水上ホテルのように装備され、ドイツ大使館員ローゼン博士を含めて約二〇名の外国人と約四〇〇名の中国人をのせて、他の船といっしょに上流に引いていかれました。全員が早く南京に帰りたいと思っていました。そのうちの何人ほどが亡くなったかはわかりませんが、今では誰もしばらくの間は南京には帰れないでしょう。それに彼らが目にする南京はどんな姿になっていることでしょう。

十二日の日曜日に、私は安全区の自分の事務所で、終日仕事におわれていました。軍事委員会委員であり、最近外交部部長になった張群将軍の旧公館を、私たちは本部につかっていました。そこはとても居ごこちよくできており、南京市内でも最もすぐれた防空壕を備えていました。

ここ二日間、飛行機がわれわれの上空をほとんどひっきりなしに飛んでいましたが、今はもうそれを気にするものは誰もいません。砲火はすさまじいものでした。城壁は突破され、南京南部の損害たるや大変なものでした。中国人の死傷者がどれほどだったか、誰にもわかりませんが、莫大な数だったに違いありません。日本軍も南京占領に四万人の損失を出したと自ら言っています。総退却はその日の午後早くから始まっていたに違いありません。兵士たちが南方から市内に流れこみ、そのうちの多数が安全区を通過してゆきましたが、彼らのふるまいはりっばで整然としていました。唐将軍は、日本軍と休戦協定を結ぶために、われわれの援助を求めてきました。スパーリング氏が旗と伝言をたずさえてゆくことに同意したが、時すでにおそすぎたのです。彼()はその夜逃亡し、その知らせが広まるとすぐに全市が混乱におちいりました。みんなが下関へ通じる城門や川(揚子江)の方へ行くさいに恐慌状態がおきました。道路には彼らが棄てていったライフル銃・弾薬・ベルト・制服・自動車・トラックなどが何マイルにもわたって散乱していました。それらはすべて軍用品でした。動きのとれなくなったトラックや自動車が転覆し、火に包まれていました。市の城門では、さらに多くの自動車がひしめきあい、焼き払われていました。恐るべき全燔祭(ホロコースト)です。足もとには死体が累々としていました。城門は閉鎖されているので、恐怖に狂った兵士たちは、城壁をよじ登り、綱とか、つなぎあわせたゲートルやベルトとか、衣服をひきさいたものとかを使って、向こう側におりてゆきました。落ちて死んだものも多数いました。揚子江はわけても凄惨な光栄でした。一隊の帆船があるにはあったのですが、北岸に渡ろうと狂気のようになった群集にはそれでは全く役に立ちませんでした。超満員の帆船は転覆し、沈没しました。何千人という人が溺死しました。河岸でいかだを組んで渡ろうとしたものも大ぜいいましたが、同じ運命をたどっただけでした。うまく逃げられたものも多数いたでしょうが、このうちの多くのものも一日か二日後には、おそらく日本軍の飛行機に爆撃されたことでしょう。

以下は中国軍の三つの中隊のちょっとした顛末です。これらの中隊は将校のもとに再結集し、三マイル上流の三汊河を渡り、その方向から入って来る日本軍を攻撃したのですが、敵の数の方が多く、実際には殲滅されてしまいました。どうにか逃げ帰ったのは、ただのひとりだったようです。この人はたまたま私の友人の兄弟で、翌朝、私の事務所にやってきて、その話をしたわけです。もうひとりの将校と二人で、前に筏で渡ったことのある揚子江に向けて小さな支流を泳いでいるうちに、仲間の将校は溺死したのでした。そこで彼は夜が明けないうちに何とか城壁をよじ登り、気づかれないようにそっと逃げこんだのです。

われわれがここ南京でそれを味わってきたし、またその上によりよい日々をめざして希望を託してきた、幸福で平和な、秩序正しい進歩的な体制は、こうして終りを告げました。というのは、日本軍がすでに南京に入城し、彼らと共に恐怖と破壊と死が訪れたからです。十三日の午前二時、安全地区にはじめて日本軍の侵入が知らされました。私は委員会のメンバー二人と一緒に車で彼らに会いにゆきましたが、それは安全地区の南側の入口にいる小さな分遣隊でした。彼らは何の敵意も示しませんでしたが、その直後には、日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民二〇人を殺したのです。一九三二年の上海同様に、ここでも、逃げるものは誰でも射殺あるいは銃剣で突き殺さねほならぬというのが、規則であるかのように思われました。

  
一方、われわれは、逃げることができず保護を求めて安全区にやってきた兵士たちを武装解除するのに本部で忙殺されていました。武装を捨てれば、日本軍から命は救ってもらえるだろうといって、われわれは彼らを安心させました。しかし、それはむなしい約束でした。彼らはそのあと拉致されて、実際に射殺されるか、軍刀で斬殺されるか、あるいは銃剣術の訓練につかわれるかされたのですが、そんなことならむしろ、全員がいさぎよく戦って死んでいきたかったことでしょう。

その日、砲撃がまだ若干ありましたが、安全区に落ちたものはほとんどありませんでした。われわれはその夜、裏庭でりゅう散弾の破片を数個見つけました。ウィルソン医師は、手術中に手術室の窓を貫通してきたりゅう散弾の破片からかろうじてのがれました。砲弾七発が金陵大学の新しい宿舎を貫通しましたが、死傷者はありませんでした。すばらしい大広間があって、南京全市でもっとも美しい建物である交通部のビルが炎に包まれていましたが、砲撃によるものなのか退却のさいに中国軍が放火したものなのか、われわれにはわかりません。

十四日の火曜日に、日本軍、つまり戦車や大砲や歩兵やトラックが、町になだれこんできました。恐怖時代が始まったのです。その後の一〇日間は日に日に烈しさと恐怖が増してゆきました。日本軍は中国の首都、憎い蒋介石政府の所在地の征服者であり、彼らは好きなようにふるまうことができたのです。飛行機から南京上空でビラがまかれ、これには日本軍は中国人の唯一の真の友であって善良な人々は保護するとありましたが、もちろんそれは、彼らの声明の大半と同様で、単なる声明以外の何ものでもありませんでした。それに、彼らの〝誠意〟の見せ方というのは、強姦・略奪・殺人を意のままに行なうことでした。われわれの難民収容所から男たちが群をなして連行されました。そのときは労働に使われるものとばかり思っていましたが、その後彼らからなんの音沙汰もなく、これからも音沙汰はないでしょう。ある陸軍大佐が部下をつれて私の事務所を訪れ、一時間もかかって〝六〇〇〇名の武装をすてた兵士″がどこにいるかを知ろうとしました。その日四回も日本兵がやってきて、われわれの自動車を盗もうとしました。その間に他の兵隊たちが別のところにあったわれわれの自動車三台を盗み出してしまいました。ソーン氏の家では、氏がたった五分間スタンリー教授の家に行っていた留守中に、日本兵が米国旗を引き裂いて地面に放り出し、窓を一つこわして去ってゆきました。彼らはわれわれのトラックを盗もうとして、実際にどうやら二台手に入れました。それ以来、米や石炭を運ぶのに、アメリカ人二人が大半の時間をさいてトラックを運転する必要がありました。彼らが毎日のように日本軍の自動車泥棒たちとやりあった体験は、それだけでもおもしろい話になるでしょう。また日本兵は鼓楼医院でも看護婦の時計と万年筆を奪いました。

『ニューヨーク・タイムズ』のダーディンが、その日、車で上海に向けて出発しました。彼が何とか無事にたどりつくとは、われわれの誰一人として信じていませんでした。私は手紙を走り書きして、彼にもっていってもらったのですが、彼は句容で後戻りをさせられました。何とか河へたどりついた『シカゴ・ディリーニューズ』のスティールは、日本の駆逐艦多数がちょうど到着したところだと報じました。ある大尉が彼にパネー号沈没のニュースを伝えましたが、詳細なことは知らなかったし、沈没した他の船についてもふれなかったのです。彼らはわれわれを乗船させるために全力をつくし、城壁をのりこえて河へ出られるように、ついにはロープを二本用意までしてくれたのでしたが、まったく皮肉なことに、パネー号は爆撃されて、われわれの方は今のところまだ無事なのです。

ジーメンス中国会社の南京支部長をしているわれわれの委員長ラーベ氏と、秘書のスミスは、指揮官に会い、許しがたい混乱を止めさせようと思って、軍司令部を訪れたのですが、指揮官はまだ入城していなかったので、翌日まで待たなければなりませんでした。いずれにしても、彼らの訪問はまったく無駄骨折であったわけです。

 水曜日に私は、安全地区を出たところにある自分の家へ車ででかけて、万事うまくいっているかどうか見て廻りました。昨日、門は無傷でしたが、今日見ると、わきの門はこじあけられ、南側のドアがあいていました。細かくしらべるひまはありませんでしたが、ちょうど道路をはさんで向かい側に引っ越してきた親切そうな陸軍少佐に、私のところに気を配っていてくれるように頼んでみたところ、それを承知してくれました。海軍の参謀将校が一人、私を待っていました。彼はパネー号が失われたことに深い遺憾の意を表明しましたが、彼もまた詳しいことを伝えることはできませんでした。海軍はアメリカ人居住者が上海に行きたいならば喜んで誰でも駆逐艦に乗せて送り届けようし、また単に私的なものなら無線電信を打ってさしあげるというのでした。私が書きつけた〝上海全国委員会、ウィルバーへ。南京の外国人は全員無事。その旨、関係者に伝えられたし〝という簡潔な電文を読み、また私が、一、二名の新聞記者を除いてわれわれ全員が南京に留まりたいというと、彼はいささか失望したようでした。

私は彼を車で船のところまで送ってゆこうと申し出ました。彼はここへくるのに四マイルも歩かされたからです。しかし、途中で私たちは陸軍少佐に呼びとめられ、この人のいうには、中国兵若干を逮捕中でもあり危険だから、一般市民はこれより北に行くことは許されないとのことでした。その時、われわれの居場所はたまたま軍政部のそばであって、私をこれより先へ行かせたがらない本当の理由は、多数の無辜の市民を含む何百という哀れな武器をすてた兵士たちの処刑が行なわれているからだということは、あまりにも明白でした。そこで、大日本帝国軍艦勢多の関口氏はその後ずっと歩かなければなりませんでした。その日の午後、私はつっけんどんな少佐を出しぬいて、裏道を通って下関まで行きました。城門で誰何されましたが、ロイター通信のスミスやスティールと一緒だったので、けっきょく通行を許可されました。両氏は例の駆逐艦で出発することになっていました。城門のありさまについてはすでに述べたとおりです。われわれは文字通り死人の山をこえて車を走らせてゆかねはなりませんでした。その光景はことばでは言いあらわせません。私はこの車で出かけたときのことをけっして忘れないでしょう。

桟橋にはすでに『ニューヨーク・タイムズ』のダーディンとパラマウント映画のアート・メンケンが来ていました。私は彼らと西北・山西・西安へ旅行してきたばかりでした。彼らもここを出発するところだったのです。それに私はダーディンにかわって彼の車でアメリカ大使館にもどることを約束していました。日本大使館の奥村氏もちょうど上海から着いたところで、パネー号と美孚煤油公司船団の死傷者名をわれわれに教えてくれました。私は彼に市内まで車に乗せてあげようと申し出ました。しかし、城門でまた誰何され、今度は守備兵がどうしても私を入れてくれませんでした。外国人は誰も南京に入るのを許されないし、私が南京から出て来たばかりだといっても同じことでした。奥村氏の頼みもむだでした。日本の大使館は軍にたいして何の威力ももたないのです。できることといえば、奥村氏が車で軍司令部に行き、おりかえし特別通行許可書をよこしてくれるのを待つことだけでした。一時間半かかりましたが、私は外部から私に届いた最後の郵便物『リーダーズ・ダイジェスト』の十一月号をもっていたので、またたくまに時間がすぎました。城門では悪臭がものすごく、あちこちで犬が死体を食いあさっていました。  

その夜、職員の会議中に本部の近くにあるわれわれの収容所の一つにいる全部で一三〇〇人の難民を、兵士たちがつれだして銃殺しようとしているという知らせがありました。われわれはその中に多数の元兵士がいることを知っていましたが、この日の午後、ラーベに対して、ある将校が彼らの生命は助けてやると約束したばかりでした。彼らが何をしようとしているか、今となっては明々白々でした。男たちは着剣した兵士たちによって整列させられ、一〇〇人ぐらいずつ一団にして数珠つなぎにされました。帽子をかぶっていたものはそれを荒々しくはぎとられて、地面になげすてられました。それからわれわれはヘッドライトの明りで、彼らが刑場へ行進していくのを見ました。あの群衆のなかからはすすり泣きひとつ聞こえませんでした。われわれ白身の心もしめつけられるようでした。南方からずっととぼとぼ歩いてきた末、昨日不本意ながら私に武器をわたした広東出身の四人の青年もその中にいたのではないでしょうか。それに北部出身の、あの背の高いがっしりした下士官が、あの生死にかかわる決定をしたときに見せた幻滅のまなざしが、いまだにつきまとって、私を悩ますのです。日本軍が命を助けてくれるだろうなどと、彼らにいった私は何と愚かだったのでしょう。われわれが信じこんでいたのは、日本軍が少なくともある程度は約束を守ってくれるだろうということだったし、彼らの到着と共に秩序がうちたてられるだるうということでした。現代においておそらく類のない非道と残虐行為を見ようとは夢にも思わなかったのです。というのは、その後もっと悪い日々が訪れたのでした。

日本軍が依然としてわれわれのトラックや自動車を盗むので、十六日には輸送問題が深刻になりました。私は、中国人職員がこれまでどおり待機しているアメリカ大使館に行き、アチソン氏の車を借りて、ミルズに石炭を運んでもらいました。というのは、ぼう大な数の難民が集まっており、三つの大きな炊飯場は、燃料も米も必要としたからです。われわれのところには今では二五の収容所があり、それらの収容人員は二〇〇人から一万二〇〇〇人に及ぶものでした。金陵大学だけでも三万人近くいました。婦人子供用にあてた金陵女子文理学院では、三〇〇〇人がまたたくまに九〇〇〇人以上にふくれあがりました。そこは渡り廊下まで満員で、足の踏み場もないほどでした。われわれは一人当り一六平方フィートと計算していたのですが、実際には、もっとぎっしりつまっていました。安全な場所はどこにもなかったのですが、われわれは何とかして、金陵女子文理学院では、金陵大学に比べてかなりの安全を保つように努めたのです。ミス・ヴオートリンとトゥイネム夫人と陳夫人は、婦人たちの世話や保護に献身的に働きました。

その日の朝から強姦事件が報告されるようになりました。われわれの知人のなかでも一〇〇人以上の婦人が兵士たちに連行されましたが、そのうち七人は大学の図書館の職員でした。しかし、自宅で強姦されたものはその何倍もいたに違いありません。何百人という婦人が街に出て、安全な場所をさがし求めました。昼食時に、住宅委員補佐のリッグズが、悲嘆にくれてやってきました。日本軍が法学院および最高法院の難民を全員拉致してゆきました。その運命は察するほかありません。われわれの民警も五〇名運行されました。リッグズが抗議したのですが、ただ兵士たちに乱暴に扱われるばかりで、おまけに将校から二回なぐられたのでした。難民は身体検査されて金の有無を調べられ、身につけているものは、何でも時には残る一つの寝具類にいたるまで奪われました。四時の職員たちの会議中に、近くで処刑班の銃声がきこえました。気の毒な難民にとっても、われわれ自身にとっても、言うに言われない恐怖の日でした。

私はバック教授の家へ昼食にゆく途中、他に六人の人と一緒に住んでいる自宅へ車でちょっと立ち寄ってみました。米国旗二枚はまだ掲げたままになっており、大使館の布告も門と正面のドアにはってありましたが、わきの門はこわされ、ドアは開けはなされていました。内部はめちゃくちゃでした。引き出しも押入もトランクもすべてこじあけられ、かぎはこわされていました。屋根裏部屋など足の踏み場もないほど散らかっていました。何がとられたか調べてみることはできませんでしたが、寝具はほとんどなくなっており、若干の衣類や食料までなくなっていました CT・王博士から贈られた彫刻をほどこしたチーク材の衝立は刺繍のしてある羽目板がはぎとられ、ずっしりしたオーク材の食器だなはこわされていました。最後まで残っていた新聞記者、AP通信社のイェイツ・マクダニエルは、午後、別の駆逐艦で上海に向かいました。私は短い手紙を彼にことづけましたが、無事に届けばと思います。」

 



CONTENTS 目次

Chapter

Foreword (Timperley) 

序(ティンパレー)

(洞富雄教授の解説)

Chapter I Nanking's Ordeal (Bates & Magee) 

第一章 南京の試煉(ベイツ博士&マギー牧師)


Chapter II Robbery, Murder and Rape (Magee)  

第二章 略奪・殺人・強姦(マギー牧師)


Chapter III Promise and Performance (Bates)  

第三章 約束と現実(ベイツ博士)


Chapter IV The Nightmare Continues (Bates)  

第四章 悪夢は続く(ベイツ博士)


Chapter V Terror in North China

第五章 華北における暴虐


Chapter VI Cities of Dread  

第六章 恐怖の都市


Chapter VII Death From the Air  

第七章 空襲による死亡


Chapter VIII Organized Destruction   

第八章 組織的な破壊


Conclusion   

結論


Appendix

附 録


A Case Reports Covering Chapters II and III   

A 安全区国際委員会が日本大使館に送った第二・三章にかんする暴行事件の報告


B Case Reports Covering Chapter IV  

B 第四章にかんする暴行事件の報告


C Case Reports Covering Period January 14, 1938, to February 9, 1938 

C 一九三八年一月十四日から一九三八年二月九日にいたる暴行事件の報告


D Correspondence Between Safety Zone Committee and  Japanese Authorities, etc.  

D 安全区国際委員会が日本当局や英・米・独大使館に送った公信


E The Nanking "Murder Race" 

E 南京の殺人競争


F How the Japanese Reported Conditions in Nanking

F 南京の状況にかんする日本側報道