米国では大リーグの観戦に、かばんは持ちこめない。化粧ポーチなどを除き、球場は手ぶらが原則だ。場外の預かり所は試合後ごったがえすが、野球ファンは神妙にルールを守る。多くの[記事全文]
政治に振り回されない理念を守りつつ、市民の声を聞く「働く教育委員会」をどう作るか。そんな視点で考えたい。政府の教育再生実行会議が改革案を示した。近く中央教育審議会で議論[記事全文]
米国では大リーグの観戦に、かばんは持ちこめない。化粧ポーチなどを除き、球場は手ぶらが原則だ。場外の預かり所は試合後ごったがえすが、野球ファンは神妙にルールを守る。
多くのテロ事件をくぐった米国は長い年月をかけ、公共の場での保安対策を強めてきた。空港や政府機関の検査場の長い列も、日常の見なれた光景だ。
自由を何より尊ぶ国でありながら、生活の利便を少しずつ削ってでも安全の向上をめざす。そんな国民意識は、9・11同時多発テロ以降、いっそう強く米国社会に根づいてきた。
あれから12年。それでもなお惨劇を防げなかった衝撃は大きい。3人が死亡し、170人以上が負傷したボストン・マラソンの爆弾テロは、警戒の網の目をくぐる無差別暴力の脅威を改めて世界に知らしめた。
この事件は重苦しい難題を突きつけている。圧力鍋を使った簡素なつくりの爆弾は、インターネットで得られる知識でだれにでも作れる。
しかもマラソンのような広い市街地で行われる行事では、沿道すべてで持ち物の検査をすることはむずかしい。
自由に立ち入れる場所を限ったり、多くの人々が楽しむ催しを縮小したりすれば、それだけ社会が安全と引きかえに払う代償を高めることを意味する。テロリストの思惑通りだろう。
米国も世界も、市民の自由をできるだけ狭めずに、少数の人間が犯す暴力を防ぐ工夫を尽くさねばならない。
これまでインターネットはテロ組織のネットワーク強化に利用されたとの指摘もあったが、今回はその逆を印象づけた。
事件後、多くの現場映像が捜査当局にもたらされ、有力な情報になっている。だれもが記録の目と情報発信能力を持つ携帯ネット社会の効能だ。
米国のような多文化社会であれ、日本のような比較的均質な社会であれ、無差別暴力を防ぐためのカギは、市民一人一人の意識にある。
日々の暮らしの中で不審な物や異常に気づけば声を上げる。いったん混乱がおきれば助けあう。自然災害への取りくみと同じように、テロ対策を高めるうえでも、市民と市民の連帯感が果たす役割は大きい。
オバマ大統領は追悼集会で、「来年もボストン・マラソンのために、世界はこのすばらしい都市に戻り、より強く走り、より大きな声援を送るだろう」と語り、不屈を誓った。
街の安全をめざす米国市民の模索を日本もともにしたい。
政治に振り回されない理念を守りつつ、市民の声を聞く「働く教育委員会」をどう作るか。そんな視点で考えたい。
政府の教育再生実行会議が改革案を示した。近く中央教育審議会で議論が本格化する。
教育行政の責任者を、今の合議制の委員会から、首長が任免する教育長に変える。それが提言の柱だ。委員会は大まかな方針を話しあい、教育長をチェックする役割に変わる。
今より判断が速くなり、責任のありかが明確になる利点がある。一方で、首長がかわるたび方針が大きく変わる、首長や教育長が暴走したら止めにくい、といった心配がある。
今の制度は戦前への反省から生まれた。住民を代表する委員らが、首長の顔色をうかがわずに独立して教育をつかさどる。
理念は間違っていない。
一方、制度疲労があるのも事実だ。「判断が遅い」「市民の声からかけ離れている」。相次ぐいじめ事件への対応で浴びた批判が、それを物語る。
非常勤で原則5人の委員が、月1、2回の会合ですべてを決めるのは無理がある。
多くの委員会は、事務方が出す案を追認するのが精いっぱいだ。実態としては、今も教育長が全体を仕切っている。委員の公選制はとっくになくなり、住民代表の性格もうすれた。
理念と現実への対応を両立できる制度が求められる。
教育長を責任者にするとしても、歯止めを置く。たとえば、教科書採択や学校統廃合など、大切なことは委員会の同意をえる。委員全員が一致すれば、教育長に異議を申し立てられる。そんな制度はどうだろう。
さらに大切なのは、首長への歯止めだ。いいように教育長をかえられては困る。任免の基準を明確にすべきだ。チェックする議会の責任も重い。
民意の反映のため、首長の関与を強める。提言をはじめ多くの改革論の考え方だ。たしかに首長は民意を代表する。ただ、選挙は教育だけが争点ではない。首長がかかわるだけで住民の声が常に届くわけでもない。
民意の回路は複数ほしい。委員に住民からの公募や推薦を増やし、住民代表の性格を強めるのも一つの手だ。どんな制度も住民の関心と参加がなくては、魂が入らない。
提言には、国から教委への指示をしやすくする提案もある。
しかし、現行法でも、子どもの命や体を守る必要があるときなどは指示ができる。地方の自主性を尊重し、これ以上口出しを強めるべきではない。