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©烏賀陽弘道
Hiro Ugaya

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  • 「アエラ」などで発表した烏賀陽の記事のスクラップブックです。

被災地にゃうたがある ソウル・フラワー・ユニオン、神戸被災地巡りの3年

ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」は阪神大震災の被災地への慰問活動を3年以上続けている。彼らをそこまで駆り立てるものは何か?リーダーの中川敬の人物像を通して探る

 


阪神大震災からちょうど三年目の一月十七日、「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」の一行は、古ぼけたワゴン車を運転して神戸市長田区に来た。

全家屋の約三分の二が壊れ、九百十七人が死んだ地区である。十三万人の人口のうち四万人が仮設住宅などに離散、未だ戻らない。空き地とプレハブだらけの街を、読経の声と焼香の匂いが満たしている。  

「ソウル・フラワー」は中川敬ら四人を核とするロックバンドである。震災以来三年間、避難所や仮設住宅を訪ねては演奏を聞かせるずっと活動を続けている。その数は百回以上。本人たちも正確には数えていない。  

今日の演奏場所は、長田区にある「鷹取教会」の礼拝堂である。

「どーも!ソウル・フラワー・モノケ・サミットです!」

 闘犬のような目をした中川がまず一声上げると、ロックバンドにしては変テコな音楽が始まった。  

チンドンリズムに、コンチキチキンと鐘や太鼓が鳴る。アーイヤイヤと女声の合いの手が入る。楽器といえば三線(沖縄の三味線)にチンドン太鼓、アコーディオンにクラリネット。  

「アリラン」(朝鮮民謡)「聞け万国の労働者」「デモクラシー節」「インターナショナル」「がんばろう」(三池炭坑闘争歌)「貝殻節」「竹田の子守歌」「水平歌」。どうやって探したのか不思議なほど、古い流行歌ばかりだ。  

客席には、家を失い仮設住宅に移ったお年寄りが大勢いた。この日、住み慣れた長田を再訪していたのだ。ちんまりと座っていた彼らが、演奏が始まるや身を揺すって手を打ち、歌を口ずさみ始めた。  

一曲だけ、自作曲を歌った。あの年の二月に神戸でできた曲です、と中川が告げる。震災直後の被災地の夜を歌った「満月の夕」だ。

「風が吹く港の方から 焼け跡を包むようにおどす風/悲しくてすべてを笑う 乾く冬の夕(略)ヤサホーヤ うたがきこえる 眠らずに朝まで踊る/ヤサホーヤ 焚火を囲む 吐く息の白さが踊る」  

やわらかな歌が礼拝堂を包むと、お年寄りたちがぼろぼろと涙をこぼし始めた。

「元気が出ました。楽しゅうございました」  

演奏が終わると、傍らにいた六十八歳だという女性がつぶやいた。おおきに。また来てくださいね。お年寄りたちがあちこちでメンバーに頭を下げている。  

いい演奏でしたね。そう声を掛けても、中川の表情は緩まない。

「最近、年寄りが涙もろくなってる。三年も仮設暮らしが続いて精神的にきつくなってきたのかもしれん。もっと仮設回らなあかんな、て言うてるんや」  

テレビ局のクルーが中川たちを追っている。カメラの前で、彼はひたすら被災地の窮状を語った。

「おととい行った仮設(住宅)なんか、山奥の不便な場所にお年寄りばかり住んでる。人間とは思えないほど被災者を粗末にしてる」

「(被災地に公的援助をせず)勝手に倒産した銀行に俺の税金を使うなんて許せんよ。あ、俺あんまり税金払ってないけど(笑)」  

が、テレビカメラが去ると、今度はニヤリと笑って言うのだ。

「こんな活動してるから正義の味方みたいに思うらしいけど、気持ち悪い。だって、主役は俺らやないもん。俺らが媒介になってたくさんの人が被災地の事を知ってくれたら、それでええ」

 非難所になった学校階段の踊り場。校庭。テントが並ぶ公園。道端。プレハブが並ぶ仮設住宅の水飲み場の傍ら。舞台はビールケース。三年間、中川たちが演奏してきたのは、そんな場所ばかりだ。  

終始一貫変わらないことがある。出演料を取らず、出費は全部自腹。自分で車を運転し、楽器を降ろす。震災救援の看板を掲げていても労組や政党主催のイベントには出ない。スローガンを叫ぶのでも、演説をぶつのでもない。淡々と演奏しては去っていく。  

昨年秋、芦屋市の仮設住宅の秋祭りで演奏した時の話だ。プレハブ住宅の間の広場で中川たちが演奏を始めると、オジさん・オバさんたちは憑かれたように踊り、若い連中はブレイクダンスを始め、老人たちも手を打ち体を揺するという狂喜乱舞状態になった。筆者は彼らの被災地回りを数カ所で取材したが、どこへ行ってもこんな調子なのである。

「チャリティコンサートとか開く音楽家は多いけど、会場はみんな遠いホールですから私たちは行けへんでしょ。そうしてお金をよこすだけ。彼らは向こうからこっちへ歩み寄って来てくれる」  

ある会場で出会った被災者の女性24はそう言っていた。  

が、こうして被災地をいくら回っても、収入源であるレコードが売れるわけではない。金がなくなり、千二百円の高速道路料が払えなくて料金所で立ち往生したことがあるそうだ。  

今回、震災三周年に合わせて三日連続で被災地を回った時には、汁粉や豚汁二千食分を携えてきた。震災の翌月に口座を開いた「ソウル・フラワー基金」から被災者への「炊き出し」である。自分たちのコンサートの収益を元手に、これまでの寄付はのべ約千人、五百万円。バンドというよりは「音楽ボランティア団体」と呼んだ方がいいかもしれない。

 実際、ファンからボランティアになった若者に何人も出会った。  

東京に住む濱田恵子さん24は、フリーターだった。震災一年後に東京で彼らのコンサートへ行き、ボランティアを募っていることを知る。そのまま神戸へ行き、公園で一カ月テント生活をしながらコンサートの設営やチラシ配りを手伝った。以来、仮設住宅のお祭やバザーの準備にと、貯金をはたいては神戸に通っている。

「中川さんは私の人生を変えた。立ち上がるきっかけをくれた」

彼らはそうとまで言うのだ。  

阪神地区を激震が襲った朝、中川は京都府に近い大阪府の自宅でバンド仲間とくつろいでいた。暗闇のなか、滅茶苦茶になった部屋を片づけながらテレビをつけると、神戸の惨状が映し出されている。  

家や肉親を失い悲嘆に暮れる人々がすぐそばにいる。何かしたい。しなくていけない。が、そんな修羅場で音楽なんてやっていいのか。石を投げられ罵声を浴びせられるのではないか。中川は悶々と逡巡していた。  

大震災が起きる前、ソウル・フラワーは「ソニー」から二枚のCDを出している。六〇年代サイケロックを基本に、民謡や沖縄、アイヌ民謡など世界の民族音楽をミックスさせた楽曲。音楽は確かに個性的だったが、公演をやってCDを出してという活動をこなす普通の中堅バンドにすぎなかった。

「行って爺ちゃん婆ちゃんと一緒に歌でも歌ったらええやん」

 最後に背中を押したのは、中川のパートナーであり、バンドのギタリストでもある伊丹英子35だった。  

ファンでもない被災者を前に自作曲を演奏しても意味がない。じゃあ老人でも分かる曲を、と民謡や古い流行歌を選んだ。停電している現場にエレキギターで乗り込んでも無駄。そこでギターは三線に、シンセはアコーディオンに、ドラムはチンドン太鼓になった。若いファンが押し寄せると老人が遠慮するだろう、と「ソウル・フラワー・ユニオン」というバンド名は冒頭の「モノノケ・サミット」に変えた。  

「丸裸で人前に立つみたいな気持ち」で、被災地に足を踏み入れたのは二月になってから。充満する焦土の匂い。倒壊した家やビル。言葉も出なかった。  

非難所になった学校を訪れた時の話だ。難民キャンプのように殺気立った校庭の片隅で、本番前の練習をしていると、彼の腕をつかむ者がいる。振り向くと、家を失ったらしい中年の男が立っていた。

「兄ちゃん、ええなあ、楽団て。やっぱりええなあ、楽団て」  

別の公園では、集まった被災者たちが沖縄民謡に合わせて大合唱を始めた。驚きとともに躊躇は自信に代わった。  

なぜ被災地の人々は中川たちを受け入れたのだろう。  

長田区にあった料理店を震災で失い、地域復興のボランティアを始めた金田真須美38には、こんな体験がある。家を失い公園のテントで生活する夜。誰かしらギターやアコーディオンを弾き始める。 いつしか、焚き火を囲んで、歌謡曲やフォークソングをみんなで歌っていた。  

「満月の夕」そのものの光景が、被災地のあちこちにあったのだ。

「人間が受け入れられる以上に悲惨な現実が目の前にあると、精神的に押しつぶされそうな瞬間がある。音楽は、バランスを保つ方法だったような気がする」  

それに、と金田は付け加えた。

「中川君たちは、被災者が何を欲しているのか、一生懸命知ろうとしていた。その気持ちはじーんと伝わってきた」  

被災地訪問を始めて五カ月後。関東大震災の直後に流行した「復興節」を「ソニー」から出そうとした時の話だ。「東京の永田にゃ金がある 神戸の長田にゃ唄がある」と歌詞の一部を変えた中川流「阪神バージョン復興節」の発売を、同社は見送った。

「曲が一人歩きして震災をネタに浮かれていると取られかねない」  

そんな理由だった。

「被災地のみんながすごく楽しみにしとったんやで」  

中川は交渉のすえ専属契約を解除して自主発売する許可を取り付ける。こうして世に出たCD「アジール・チンドン」は、大手レコード会社の卸ルートに乗らなかったにもかかわらずソニー発売の作品とほぼ同数の三万枚を売った。  

ここまで中川を駆り立てるものは、一体何なのだろう。  

中川の父・徹(65)は、毎日新聞大阪本社社会部で事件や行政取材を担当する硬派の記者だった。父と争って新聞を読み、連合赤軍・浅間山荘事件のテレビ中継を見る。そんな少年時代だった。  

が一方、父の転勤のため中川家は大阪周辺の街を引っ越すことを強いられる。中川は、幼稚園から中学校までそれぞれ二つずつ転校している。  転校先で一年間同級生に無視され続けるいじめ。はっきりした理由もなく殴る教師。髪が耳にかかるとバリカンで刈られる不可解な校則。家や学校という日本的集団への疑問が、中川少年の心に芽生え始めていた。  

一方、やっとできた友達と転校のたびに引き裂かれることが中川少年には苦痛だった。自分だけでも残りたい、と親の前で泣いたことさえあった。深い孤独感を癒してくれたのが、そのころちょうど出会ったローリング・ストーンズでありジョン・レノンだった。

 高校卒業を待ちかねて家を出ると、大阪でバイトしながらのバンド活動に精を出す。ちょうどプロデビューしたころに、昭和天皇の死、ベルリンの壁崩壊と変革の嵐が吹き荒れた。中川はアイヌ、天皇制、部落差別、沖縄などの文献を読み漁った。  

理不尽な力によって苦痛を強いられる人々への同情。人間を粗末にするものへの怒り。後に中川を被災地へと駆り立てたものは、ずっと彼の中にあったのだ。  

今も、中川は徒党を組むことを好まない。若いファンから人生の指針を問う手紙や電話が来ても、答えは決まって「自分で考えろ」だ。

「インター」「万国の労働者」といった労働歌がレパートリーに多いせいか、ファンを自称する全共闘世代は多いのに、同じに扱われることを嫌う。

「オッサン、お前ら化石やで」 「俺の頭にはマルクスもレーニンもおらん。俺はそこらへんのおっさんやおばはんのために演っとるんや」  

そんな不敵な科白を面と向かって言ったりするのだ。  

学校も音楽業界も、中川の目には個人の自立を押さえ付けたがる同じようなムラ社会に見える。それが我慢できない。  

昨年の話だ。十年来のメンバーだったボーカリストがバンドから抜けた。その前にはドラマーも辞めた。中川がソロアルバムを作ろうと、これも古くからのメンバー二人に声を掛けたら「お前とはソウルフラワー以外では嫌だ」と断られ、愕然とした。

「しばらく落ち込んだ。俺のやってきたことは何だったんだって」  

突っ走れば走るほど、ついていけない仲間も出る。だんだん自分が孤独になっていくことに気づく。  

最近中川は、被災地で出会ったボランティアの石丸健作23の家に一人ふらりとやって来ることがある。夜、酔って寝床に入ると「寒い」とか言ってはゴソゴソと石丸の布団に潜り込んでくる。

「もっと自分を理解してほしい。俺はそんなに強い人間じゃないんだから。そんなことをポロッと言う。寂しいんじゃないかな」  

そんな思いを抱えながら、いつまで中川は被災地訪問を続けるつもりなのだろう。そう問うても、彼は相変わらず不敵な笑いを浮かべてこう言うだけだ。

「もうあんたら来んでもええわ、て被災地の人に言われるまで」  

それは、被災地の人々の心の傷が癒えるまで、言っているようにも聞こえる。 (文中敬称略)

(AERA 98.3.16)