kaldia(2)
僕たちはレイズという名の移動民族だ。だけど、じいちゃんやそのさらに先代がこの土地を気に入って、数十年はここオルマンスに腰を据えているらしい。ここは実りが多く、街は遠すぎず近すぎず、よその部族との諍いも少ない。
つまりテントは何年もここに建てっぱなし。それでも未だガタがきていないのは、オルマンスの穏やかな気候とテントの構造ゆえだろう。
テントは円形で、中心の二本の柱に支えられた骨組みを持ち、屋根部分は中央から放射線状に梁が渡されている。耐久性をあげるために、繋ぎの部分には動物の骨が使われているそうだ。中は直径六メートルほどの空洞で、西側と東側で男女の住む空間が分けられている。
僕が住むテントには僕とお母さんの二人しか住んでおらず、じいちゃんが一緒に住んでいた頃のように男女で住む空間は分けられていなかった。マルトセルを終えていない子どもは、男として扱われないのだ。
でもそれも仕方がないことなのだろうと、僕は思う。
椅子に座り、隣の椅子に座った母さんに頭を撫でられながら泣いている僕を、誰が青年と認めてくれるだろう。
「私はあなたに強い人になってほしいとは思わないわ。ただ優しくあってほしい。あなたは今のままでもいいのよ」
母さんの言葉はいつものように優しく僕の鼓膜に届いた。僕はもう泣いていなかったけど、まだ母さんのそばを離れることはできそうになかった。一人になると自分がばらばらになってしまいそうだった。
「僕はどうして、じいちゃんみたいに強くなれないんだろう」
僕が涙声でつぶやくと、母さんは何も言わずにちょっとだけ笑った。
僕は僕とベゼットとじいちゃんの違いについて考えるけど、頭にたくさん浮かびすぎてどれが一番の違いかさっぱり分からなかった。
ただひとつだけ確実に違っているのは、じいちゃんは大人で、僕は子どもだってことだ。
集落中の人間から頼りにされ、ときに他の部族と勇敢に戦ったじいちゃんは、きっと青年になるために必要な儀式、マルトセルなんて僕やカポックよりずっと早く終わらせたことだろう。
「マルトセルが早いから偉いっていうわけじゃないさ」じいちゃんはよくそう言っていたけど、マルトセルは勇気の証明だ。誰だって早く終わらせたいし、いつまでも終わらない人間は、誰からも尊敬されないんだ。
マルトセルの内容は子どもには知らされず、マルトセルを無事終えた青年だけが知っている。例外としてマルトセルに挑戦して失敗した子どもも知っているけど、それはとても不名誉なことだった。
誰かと闘うのかもしれないし、体を叩かれる痛みに耐えなきゃいけないのかもしれない。ひょっとして紐を巻いて高い場所から飛び降りたりするのだろうか。ベゼットじいちゃんはきっとそのどれに対峙しても、ひるむことなく挑戦しただろう。それに比べて僕は……。
「僕だって本当はカポックみたいにマルトセルに挑戦したいんだ。でも……やっぱり怖いよ。失敗して、きっと皆から笑われる」
「タファは十二だから、まだマルトセルには挑まなくていいのよ。マルトセルの日は年に一度しか来ないけど、十五までに終わらせればいいんだから。今年がダメでもまだ来年があるわ」
「でも、今年やらないとまたカポックからバカにされる。カポックの子分のヒップだって今年挑戦するらしいし。あいつ、僕と同い年なんだ。オルマンスで僕と同い年なのはヒップだけだから、皆が僕とヒップを比べるよ」
「そんなの気にしなければいいのよ」母さんは僕の頭に手のひらを乗せてくれる。「あなたはあなたのペースでやればいいんだから。誰がなんと言っても、タファに勇気があるのは私が知ってるし、いつか皆も分かってくれるわ」
「でも」ベゼットじいちゃんだって……と、僕が言おうとした瞬間だった。
テントの戸が乱暴に開かれ、僕と母さんはハッとしてそちらを向いた。
体が大きく、険しい目つきの、見るからに乱暴そうな大男が立っていた。
じいちゃんが死んでからオルマンスの長になった、バイエットだった。
「ハル、今すぐ来い」
バイエットは母さんの名を呼び、乱暴に腕をつかんだ。
「痛ッ」
母さんが引き摺られるようにして連れて行かれるのを、僕はいつものように睨みつけることしかできない。
僕は息子として母さんを守り、バイエットを家から追い出すべきなんだろうけど、残念ながらバイエットはオルマンスの長なだけでなく、母さんの夫なのだ。
母さんの夫だからといって、バイエットは僕の父親じゃない。彼の息子はいじめっこのカポックだ。この複雑な関係には、オルマンスにあるしきたりが関係している。夫を亡くした妻は、夫の兄弟の妻となるというしきたりが。
僕の本当の父さんが死んでから、母さんは父さんの弟だったバイエットの第三夫人となった。つまり僕とカポックは、従兄弟であり兄弟ということになる。
こうしてたまにバイエットがやってきて、母さんを連れて行き、何をしているのかも、僕はもう知ってしまっていた。
母さんはいつものように軽く抵抗するけど、バイエットの腕力には敵わない。バイエットの家から帰ってくると、母さんは顔や体に痣をつけてくることがあった。その傷がどうやってついたのか、僕は母さんに聞くことができなかった。
「何か文句あるのか?」
バイエットが僕の視線に気づき、吐き捨てるように言った。
「別に」僕は答える。
次の瞬間、バイエットが手を振るったかと思うと右の頬に衝撃が走り、僕は地面に倒れこんだ。
「やめて、何をするの!」
遠くで母さんの叫び声が聞こえる。僕はバイエットに頬を打たれたのだ。悔しさで顔がかっとなるけど、恐怖が勝っていた。それでも僕はバイエットの足元を睨みつけることで、小さな反抗を示し続けた。
「お前、またカポックと喧嘩したらしいな」
「喧嘩じゃない」涙声で僕は答える。
「じゃあ何だよ。それにカポックにマルトセルを早く終えるのが偉くない、なんてことも言ったみたいだな」
バイエットの言葉に怒気が込められているのを、僕は察する。
バイエットはカポックを溺愛しているのだ。カポックがマルトセルに異例の早さで挑み、難なく終わらせたのには、バイエットの力が働いたからだ、なんて噂も出たほどだ。ちなみに噂の出所はすぐにバイエットにバレ、噂を流した男が制裁を受けたことですぐに立ち消えになった。事実かどうかは誰も知らない。
「だ、だったら何だ」
「そんなのはマルトセルを終わらせた奴の言えることだろ。お前はまだ母ちゃんも守れないガキでしかないんだ。分かったら偉そうなことを言ったり、カポックに突っかかったりするのはやめろ」
突っかかってくるのはカポックの方だ、それに僕だってマルトセルくらい――ムキになってそう口に出そうとして、僕は一瞬躊躇する。バイエットの言葉にある、ある種の不自然さに気がついたからだ。
まるでバイエットは、僕にその言葉を言わせようとしているみたいな……だけど何のために? 簡単だ、僕に恥をかかせようとしているんだ。
まだ小さな子どもの頃から、僕はバイエットに嫌われていることに気づいていた。
「突っかかってくるのはバイエットの方だ」だけど、僕はあえて彼の挑発に乗ることにする。僕が成長すれば、バイエットもカポックも今までのように僕のことをバカにできない。僕は母さんを守ることだってできるはずだ。「それに、僕だってマルトセルを乗り越えることくらいできる」
バイエットがにやりと笑う。
「タファ!」心配そうな顔をして母さんが叫ぶ。
僕はバイエットの顔を見ながらもう一度言う。
「僕もヒップと一緒に次のマルトセルに参加するよ。バイエット叔父さんにもカポックにも、もう僕のことをバカにさせない。僕は大人になるんだ」
「マルトセルを通過してなれるのは『大人』じゃなく『青年』だけどな。だがいいだろう。オルマンスの長として、次のマルトセルへの参加を許可する」
バイエットはそう言うと母さんの腕を離し、笑いながらテントを出て行った。
僕と母さんはその背中を半ば呆然とするようにして見送った。いつからだろう、気づけば足が震えていて、心臓の鼓動はテントの外までも響いていそうだった。
母さんは僕のことを抱きしめてくれる。母さんの肩が上下していることから、僕は母さんが泣いていることを知る。
「大丈夫だよ、母さんは僕が守るから」なんてことはもちろん言えず、弱虫な僕は母さんと一緒に泣いた。
生まれて初めて、僕は自分より明らかに強大な相手に立ち向かったのだ。その喜びと恐ろしさに、僕の涙は尽きることはなかった。必死に抑えていた感情が流れ落ちるようだった。先に泣き止んだ母さんが心配そうな顔で僕を見るので、マルトセルのことを思い出し僕はさらに泣いた。
結局、僕が泣き止んだのは夕方になってからで、その頃にはすでにいつも通りの様子の母さんが夕食を作り終えてしまっていた。僕だけがいつまでも泣いていたのだ。
「ありがとうね、タファ」
違うといえば食事の前に母さんがそう言って僕の頭を撫でてくれたことくらいだった。
食事はいつもより少し豪勢で、お腹いっぱいになると僕はすぐに眠った。母さんが一度僕の寝床まで様子を見に来ていたのに気づいたけど、僕は眠たくて目を開けることはできなかった。
次の日、僕は朝一番にテントを抜け出してナルミのテントへと向かった。
ナルミの父さんは優しいけど、母さんは少し気難しい人だ。僕はナルミの母さんを起こさないように気遣いながら、ナルミの住むテントの中に小さく声をかけたり、小鳥や小動物の鳴き声を真似てナルミを呼び出そうとした。
今度のマルトセルに参加すると、本当は昨日のうちに伝えたかったけど、昨日は外に出ると母さんを心配させそうだったし……というより、僕が母さんのそばを離れたくなかったのだ。
だからこうして朝一番に伝えに来たんだけど、少し早すぎたみたいだ。周囲には鶏が何羽か歩き回るだけで、人の姿はまだない。
最後に鶏の鳴き真似をしたところで、目を赤く腫らしたナルミがテントから出てきた。
眠くて目を赤くしているのかと思ったら、実はずいぶん前から起きていて、僕の鳴き真似なんかを聞いて笑いをこらえていたらしい。
「ひどいよ、気づいてたなら早く起きてきてくれたら良かったのに」
「ごめんなさい。だっておかしくて」
と、ナルミはまた噴き出して、しばらく一人で笑い続ける。
僕は仕方なく、ナルミが落ち着くのを待たずに本題に入ることにした。
「今度のマルトセルにさ、僕もヒップと一緒に参加することになったから」
「え……」ナルミは笑顔のまま、表情を硬直させた。「嘘でしょ?」
「本当だよ。マルトセルを成功させて、もう誰からも馬鹿にされないようにするんだ。母さんだって、これからは死んだじいちゃんの代わりに僕が守るんだ」
「そんなの駄目よ! タファだって知ってるでしょ、マルトセルに参加して、そのまま帰らなかった子が何人もいるんだよ。タファはまだ十二なんだから、もう少し大人になってから参加すればいいじゃない。ハルおばさんだって、タファの安全を一番に考えてくれているはずよ」
僕は首を振る。マルトセルに参加したきり戻らない子がいるという話は本当だ。その中には僕の知っている子もいたし、他にもマルトセルに関して怖い噂をいくつも聞いたことがある。だからといって、ここで逃げ出せば、いくつになってもマルトセルには参加できない。僕はそんな気がしていた。
「僕はマルトセルに参加して、立派な青年になるんだ」
ナルミはどうにかして僕のことを説得して、マルトセルを諦めさせようとしたけど、僕の意思は固かった。
僕はとうとう涙目になったナルミを置いていく形でその場を去った。
その足でカポックとヒップにマルトセルに参加することを伝え(二人には失敗するに決まっていると散々笑われた)、家に帰りつくと母さんから、なぜか僕がマルトセルに参加することが集落中の噂になっていると聞かされた。
集落ができてから一番無謀な挑戦だとか、成功したら顔の刺青を全部そり落としてやるだとか、好き勝手に言っているらしい。自慢じゃないが、僕の弱虫はオルマンスの中でも有名なのだ。
意識したこともなかったけど、聞けば今年のマルトセルまであと十日だそうだ。
怖いのは確かだけど、僕はなんだかやれそな気がしていた。あのバイエットを家から追い払ったんだ。僕にはきっとやれる。うん。
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