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prologue
 私の母はことばに翻弄された。
 ことばに絶望し、ことばに希望を見出し、ことばに抗い、ことばに打ち勝ち、またことばに絶望した。
 母が私に彼女自身の歩んだ人生を伝えてくれたのは、ことばを用いてだったが、語り終えたきり母はことばを話さなくなった。
 母からことばが返ってこなくとも、私が寂しいと思うことはなかった。
 私が彼女から最も多くの情報を受け取ったのは、彼女のことばからでなく、表情であり、抑揚であり、所作であり、内に秘められたあまたの感情であったからだ。
 けれど、母がことばから解放されたことは、彼女が死ぬまでの間、一度もなかったのだろう。
 彼女の表情も、抑揚も、所作も内に秘められたあまたの感情も、結局のところ、ことばを用いて彼女が頭の中で思考したものが、ことばという手段を使わずにアウトプットされたに過ぎないのだから。
 当時のほとんどの人間がそうであったにも関わらず、母の言語野には一切の障害がなく、彼女の脳内には英語が、中国語が、日本語が、韓国語が、フランス語が、スペイン語が、そして人工言語アルカとヴァンノがほとんど完璧な形で存在していた。
 母はことばと自身を切り離す唯一の方法として、自らの脳を打ち砕くという方法をとったのだろうか。
 だとしたら、母はなんと不幸な生涯を歩んだのだろう。
 ことばの存在しない世界、それが母の望み続けた世界なのだろうか。
 ともすれば、輪廻から取り残されたこの塔の中、私にも母のためにできることがあるのかもしれない。塔の最上階から、私は遠く黄土色の地平線を見据える。
 母の望む世界ができたなら、ここから見下ろす退屈な景色にも、何か変化があるのだろうか。何か変化があるといいな。


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