東京新聞(駐日新聞)夕刊一面の下には、「この道」という連載が載っています。著名人が来し方を振り返る、という趣向で、今は歌舞伎役者でミュージカル俳優の九代目松本幸四郎さんが執筆されています。

時どき目を通すたび、安定感と奥行きのある日本語を使われる方だなあ、と感じ入ります。錦升という、先々代から受け継ぐ俳号をもつだけあって、最後にはかならず一句が添えられており、その日のエッセイとどう付くのか、離れるのか、間合いを計るのも楽しみです。11月4日の句はこうでした。

日輪にむかひて秋の道はるか

この日の書き出しは、「生涯で1600回弁慶を勤めた七代目幸四郎の祖父が、沖縄の地を踏むことはなかった」でした。弁慶なら八代目も演じてはいますが、当たり役としては何と言っても伝説の七代目なので、一代飛ばして祖父に連想が行ったのだろうと思います。というのは、エッセイは九代目が沖縄で「勧進帳」を演じたことを取り上げているのです。それは、6年前のことでした。

九代目 勧進帳「昭和47(1972)年、沖縄は日本に返還されたが、さらに32年の歳月を経、ようやく孫の僕の代になって、『勧進帳』を上演することが叶った。沖縄の女子大生から、病で東京へ行かれぬ父親に『勧進帳』を見せたいと手紙が届いたのがきっかけで、那覇巡業が実現したのである。」

芝居を呼ぶのは、現代物でもたいへんなお金がかかります。一人芝居でも。それが、豪華絢爛と伝統しきたりが売り物の歌舞伎の地方興行が実現するとは、しかも若い女性のごく私的な願いが発端とは。その思いを重く受けとめ、実現に奔走した多くの人びとの努力のたまものでしょう。世の中は、時として思いもよらないすてきなことが起きるようです。

それから九代目は、地方巡業は戦中の軍隊の慰問に始まった、奢侈が禁止されて劇場が休場に追い込まれ、歌舞伎を演じる場がそれしかなかった、と往事を回想します。戦後は、焼け残ったわずかな劇場での上演でも、GHQによる演目の制限に苦労したことも。「忠臣蔵」が舞台でも映画でも禁止されたことはよく知られていますが、「勧進帳」もそうだったとは知りませんでした。

結びはこうです。平和「の上で、僕らの舞台が成り立っていることを考えれば、自分の『勧進帳』が、いくらかでも世の中の平和に役だってほしいと思う。人を傷つけることは誰にでもできるが、人に感動を与えることはなかなかできない。その、なかなかできないことを自分は仕事にしている。いつの日か、基地のない沖縄で、もう一度『勧進帳』を勤めたいと思っている。」

歌舞伎の役者さんは、前進座は違うかも知れませんが、結婚式に政治家がずらりと並んだりして、みなさん体制を批判しないのかと思い込んでいました。でも、そうでもないのですね。失礼しました。九代目は新聞という公器をもちいて、ということは、徒(あだ)や疎(おろそ)かな気持ちではなく、米軍基地は沖縄からなくなるべきだと発言したのです。芸能人は政治的な立場を表明しないのがこのくにの習わしのようですが、もっとも伝統的な分野の方がここまではっきりと発言したことに、すがすがしいものを感じます。さらに言えば、「人を傷つける」軍事施設と「人に感動を与える」演劇は相容れない、というご自身の演劇観をさりげなく、しかしはっきりと表明しています。すばらしい。いよっ、高麗屋!

しかも、68歳の九代目は、沖縄の米軍基地は自分が現役の間になくなるべ組踊 鐘入きだ、と言うのです。です。ぜひ、九代目の「勧進帳」が沖縄で見られますように。その時は、憲法九条が実現する時でしょうか。ウヨクさんから「お花畑」と言われようが、私たちに夢を与えてくれる舞台人がせっかく夢を語ったのだから、それに乗じて、私も今この時ばかりは夢を見たいと思います。先日は、沖縄の組踊がユネスコの無形文化遺産に登録されました。九代目の「勧進帳」と組踊の「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」なんていうプログラムが那覇の舞台にかけられたら、すてきだと思います。

ところで、最後の句は本文とどう響きあうのでしょうか。「道はるか」からは、今すぐとはいかないだろうとの思いが伝わってきますし、またこれは夕日だろうと思うのですが、「秋の」ですから、つるべ落としという不吉な連想も働きます。けれど、「日輪」という語には力強さがあり、「むかひて」には意志が感じられます。しろうと読みですが、まあそんなところではないでしょうか。

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