介護保険に係る事務や利用者への対応事例、介護保険法改正や制度改正に関するニュース、最新情報を語る場
某掲示板やブログにて言葉づかいに関して議論されています。
そこの主は言葉づかいに関して砕けた表現は絶対にダメだと言っています。
私も丁寧な言葉でないといけないと思います。
しかし、そこの主は他者に対してヒドイ言葉を日々投げかけています。
反対意見を書こうものならなおさら汚くて人権侵害のような言葉を発します。
愛情を持って叱っているとおっしゃっていますが、受け取り手はそのように感じないでしょう。
これはどうなのでしょうか?
コミュニケーションとは相手がどう感じるかが一番重要だと私は考えています。
皆様は理論と実践はともなっていると思いますか?
その掲示板では書き込みをすると削除、アク禁にされるようなので話にならないと思ってここに書かせて頂きました。
※なお、自由な議論をする場ですが、個人を誹謗・中傷する場ではないことをご了承ください。
率直なご意見が聞かせていただけないでしょうか?
>皆様は理論と実践はともなっていると思いますか?
不愉快になるので最近は見てないですが、全く伴っているとは思いません。
運営基準やQ&Aが大好きみたいなんでついでにこちらも勉強してもらいたいですね。
敬語の指針
http://www.bunka.go.jp/bunkashingikai/soukai/pdf/keigo_tousin.pdf
ちなみに私が学生の頃には敬語は三種類と習いましたが、今は5種類(尊敬語、謙譲語I、謙譲語II、丁寧語、美化語)に分類するそうです。
私もミキさんと全く同感です。
以前、私もコメントを書いたことがありますが、
それに対して、非常にショックな言葉を返されました。
文章の推敲も重ね、内容的にも決して失礼でも、間違った
ものでもなかったにもかかわらず、
ご自身の勝手な解釈から、ひどい言い様でした。
違っている意見に対して、何を言うのも自由だと思いますが、
その表現によると思います。
自分自身の経験はさておいて、
他の方の書き込みを見ていると、
確かにきわめてお粗末だったり、投稿規定も読まずに
投稿しているものもあり、掲示板オーナーとしては
そられを排除するのも、批判するのも当然とは
思います。しかしとても不愉快な汚い表現です。
どんな表現をしようと、どんな言葉を使って
罵ろうが勝手だとは思いますが、
かたや、ミキさんのおっしゃる通り、
ご自身の行動とは別の主義主張をなさる。
明らかに頭にきて、切れて書いているなあと
感じる、汚い表現もしばしばあるので、
苦笑しています。
書き込みをする人たちが、みな
主を絶賛しているのも、宗教じみているなあと
苦笑しています。
あなただけではありません、ミキさん。
言ってることと自分がやっていることに矛盾があります。その時その時のコメントでも違うことを言っています。
多分多くの人が気づいてるのではないでしょうか。
ただ、矛盾点を本人に突きつけても認めることもないでしょうし姿勢を変えることはないですよ。私も不快なので掲示板には全く訪問していません。たまに酷い所業が噂で伝わってきますが支持する人たちもいます。
まあ放っておいてもいいですがあの人の口汚さが業界の質を下げていることは問題かもしれません。
ぼくも同感です。
なんであんな人に信者がつくんでしょうか?
お花畑理論にすがりつきたい人が福祉業界には多いんでしょうかね?
ボランティア色が強かった福祉業界で
厳しめの発言をすると簡単に着目されやすいんでしょうが、
あの人の発言は憂さ晴らしや個人いじめにしか見えない時があります。
サイト運営ってのはなかなか簡単でないのもわかりますが…
人の振り見て我が振りなおせで、
悪い見本として傍観するのが良いと思われます。
言葉遣いに対しては、
言葉遣いは大切ですが、この「言葉遣い」に対しての議論は一概に一つの答えがあるわけでないので難しいとは思います。
顧客にしても意思表示ができる人の中に、丁寧語を本気で嫌う方もいます。だからといって丁寧語を出さないというのは・・・ここではおいとき、「顧客は我慢している」と言い切るというのも違うかなと思いました。
そして、人格否定と介護失格的な発言に対してはミキさんと同意見です。
あの書き方では、コメント投稿者に対し否定しているように思えました。
「強い言葉でないとわからない人が多いからである」とありますが、その前に、コメント投稿者も頑張って介護を良い方向にと考えているのに、その方の強い言葉によって挫折させてしまう書き方ですね。
「強い言葉」というのと、「人格否定、介護失格という中傷の言葉」は本来違うものです。
文章能力がないからと、相手を否定してはならないと思います、
ネットは、文字だけであり顔色などの非言語的なものが伝わりません。
自分は、かの方の伝えたい熱い思いはとても良いことだと思います。
その件に関しては、今の世の中にとって大切なことであり
今も応援はしていますが、
だからこそ、非常に残念な思いもしております。
利用者と同じように見る必要はないけれども、利用者に関わる方々たちの全ての人を「認め・・・」から始まると思います
件の方は現場経験が少ないのでしょう。
現場の経験が豊富な方は気づいていると思いますが、100人いれば100通りの対応が必要です。
敬語を望む方がいれば、敬語をよそよそしく感じて、自らフランクに接してほしいと望む利用者の方もいらっしゃいます。
また、土地柄によっても対応が変わってくるのは当然です。
わたしは都市部と僻地を往復する生活を送っていますが、僻地の方が世間が狭く、自分の価値観に固執する傾向が強いように思います。
花が何とかおっしゃいますが、言葉遣い以上に相手に寄り添い、思いやる気持ちが大切であるにも関わらず、あの方からはそのような気持ちが伝わってきません。
自分も皆さんと同意見です。
うめこさんの様に、言葉遣いも丁寧にし、わざとしたてに出て、あの人の機嫌を損ねないように質問をしたのですが、自分の読解力の無さを棚に上げ、ズレた解答をされ、それについて反論したところ削除&アク禁・・・
それでも我慢がならなかったので、裏のブログにコメントすると、お得意の『IP晒すぞ!コノヤロウ!!』と脅されました。
また、以前、自分のフェイスブックの記事で瀕死の鹿を見て、助けるところか『写メればよかった』と記事にするような、血も涙も無い偽善者です。
そんな人が福祉に携わるべきではないと思います。
その人は、『嫌なら繋がなければいい!』と言いますが、あのようなズレた人を放っておくべきではないと思い、『それは偏った意見だろ!』と思う時には、コメントするようにしています。
今回の『言葉遣い』の件にしても、コメントしてきた人をダシにして、回りくどく業界内の言葉遣いの悪さを正そうとせず、自施設で行っている言葉遣いの正し方の実践など紹介して、もっと解り易く業界内の言葉遣いを正していけばよいと思います。
まぁ、そんなものは存在せず、1人でブログの中で吠えてるだけだと思いますが
いずれにせよ、取り巻きと呼ばれている人は、早く目を覚ました方がよいと思います。
例外の事例があることを、基本をないがしろにする行為と怒っている部分がありますが、それこそが論外。100人には100通りのいや、10000通りの接し方があって良い。認知症で、帰宅願望が強い方に、敬語でよそよそしく接しても、不安を煽るだけ。その土地の言葉で、その方のこと、家の人のこととか、場所のこととかをよく知っているふうを装って、「あなたは私のことを知らないかもしれないけど、私はよく知っているよ。」的な関わり方をすると、「じぶんのことを知っている人がいる!」と、落ち着かなかった心が、安心して、落ち着くなんてことはよくあることです。もちろんそれが通用しない人もいる。その人には、また別の対応を考えるだけ。
「基本は敬語」は、あいつが言うからではなく、世間的にはそれがスタンダード。それを基本に時と場合で言葉遣いを変えたりすることは、まったくもって普通のこと。
やつは、自分のことがちょっとでも、部分的にでも否定されると、防衛的姿勢に入り、自分の言っていることは何も間違っていない!と、自分が当初言った事柄に固執してしまう。防衛的ならまだ良いが、それがえすカレートすると、相手を攻撃に入る。これほど典型的な分かりやすい防衛行動をとる奴はいない。防衛機制のデパートのような方ですね。
福祉をを語るならば、このくらいの心理学の知識を持ち合わせて欲しいし、それを元に自己分析して自己覚知を勧めて欲しい。
ジョハリの窓ってやつですな。
自分はいつも、理想に基づいた素晴らしい実践をしている!
かのように語っていますが、奴のブログとかには、理論ばかりで、実践論がほとんどない。せっかく施設という福祉実践ができる最先端の場所にいるのに、実践論がなく、理想論ばかり。これって、理想を語ることはできるけど、自分の施設ではその実践が全然出来ていないってことだよね。講演とか、出版とかで忙しくしているようだけど、そんなことする前に、自分の施設の改善活動を勧めて欲しいね。それが施設長の仕事でしょ。
現場にいるのに理想論だけで、実践論が語れないそんな人物像です。
ブログとかを見ていて、感じるのは、ちょっとした反論にすぐにムキになったり、冷静な気持ちになるまで時間をおいたりして、考え直すとかの作業を出来る人間ではないということ。一時の感情で、平気で人を貶めるようなことや、傷付ける言動ができる人ということ。ブログと、実生活は違う、っていうのは、詭弁。人との関わり方とか、コミュニケーションスキルって、何かにつけてその人の癖が見えかくれするもの。普段冷静な対応ができる人は、ネット上でもそれができる。普段汚い言葉を使っているから、ブログでもその言葉を疑問にも思わずに使えてしまう。それだけのこと。自分でブログに書いてるじゃん。文章には癖があるって。この文章の癖は、文章にその人の「普段の言葉の使い方や、コミュニケーションの取り方、思考回路のの傾向、癖が文章に滲み出るってことだよ。
人の話を受け入れて、謙虚になる姿勢があれば、
やつももうちょっと受け入れてもらえる人物になれるのに、
それができない。下手なプライドがそれをさせないでいる。
もったいないね。
新たにコメントありがとうございます。
これだけ多くコメントいただけるとは思っていませんでした。
想像以上に様々なことを感じている方々がおられたのですね。
意見・対応方法など人によって様々。
真っ向から否定せずに受容、検証する必要があると私も思います。
罵声・罵倒・人権侵害発言を受けた方々はお気の毒だと思います。
福祉は安月給で大変な仕事ですが、そのような仕打ちを受けても腐らず前に進んでいただきたいと思います。
書き込みの感想で申し訳ないのですが
双方または人それぞれ論があり、それは自分自身の世界観であると推測します、他者の論や考えを認めるとか、その考え方に改めるためには、受容~共感があってはじめて自分自身に変化が生まれるのだと思います
自分の世界観の中では、個々の論は正論と思います。受容がなければ決裂も高確率で発生すると思います。
ゆえに、初めの出発点は、受容と思います(他者の論が正しいと認めることではありません、あくまで受容です)
なんで受容するのか?ANS.…は????
私的になりますが、ANS.がわからないのならば、すべてはある種個々の世界観の中の論のままで、正論であると思います、いつまでも双方または他者の関係は、平行線であり、建設的な意見がうまれるわけもないと思います~決別と思います。
また、個人対不特定多数の比率とするならば、双方が受容する立場という図式は、成り立たないと思います。
気分を変えて、全然話が異なりますが、専門職の皆様にお聞きしてもよろしいでしょうか?(理論と実践として)
ある、仲のいいまじめな親子がいました、今は介護者と要介護者という関係でもあります、介護者は要介護者に言葉や身体的暴力を日常的にふるっています、皆様ならどのように接しますか?特に受容しますか?教えていただけると幸いです
ある、仲のいいまじめな親子がいました、今は介護者と要介護者という関係でもあります、介護者は要介護者に言葉や身体的暴力を日常的にふるっています、皆様ならどのように接しますか?
↑距離を置くことができるようにサポートします。
さすが、めじなシライさんだと感心しています。(信者ではありませんが:笑)
専門職としては、暴力を振るう介護者に対しても、暴力を受ける要介護者に対しても受容した上でサポートすべきでしょうね。
つまり、某掲示板での管理者の姿勢と、それに対する批判もこれにそのままあてはまるわけで。
理論と実践を伴わせるのは難しいものですね。
多くの専門職は受容すると返答するでしょう。もし支援者自身の過去などから虐待に対し陰性感情を抱く逆転移を起こす場合には他の支援職に担当を変わってもらうことが適切でしょう。
違っていてはごめんなさい。多くの専門職は虐待事例に受容するという姿勢を持てるなら件の方にも受容することが出来るのではないかということをお考えでしょうか。
件の方は利用者と他の支援者とは接し方が違うのだという意見です。ただ、私達も件の方に「目には目を」で攻撃的に接してしまっては対立は深まるばかりでしょう。
ですが、支援者はいつも支援者であれというのは難しいです。
掲示板に書き込む方の先には利用者がいます。福祉サービスを必要とする方の為に皆さん働かれそのためにわからないことを尋ねています。人に物を尋ねて思いもよらない暴力的な言葉を受ければ皆傷つきます。普段支援を行なっている支援者と言えども傷つきます。
また、皆さん福祉現場で働いている方たちですので他の方(同じ福祉をやっている仲間)が掲示板上で例えばあまり知識がないことで厳しく叱責されているのを見て可哀想だと思いますし、助けたいと手を差し伸べたいとも思うでしょう。中には「人権侵害」「他者尊厳の著しい軽視」が生じている場所と考え専門職として改善する責務があると考える方もいるでしょう。
専門職として大事なことの一つに「連携・協働」があります。「連携・協働」を各専門職間で行うには相手の専門性を尊重することが必要です。きっとお互い尊重しあって質問・回答・討議を行なっていければいいのです。果たして件の管理人以外の我々が「受容」を行うことで「連携・協働」が行えよりよい質問・回答・討議が行えるでしょうか?
どう思いますかリッちゃん。いや、めじなシライさん。
視点がズレますが・・・。
私は利用者の立場から始まったのでどうしても専門職に期待してしまいます。
「受容」するとは、非難をしないであるがままを受け入れる状況と思っています。
私にとっては「障害の受容」が始まりで、どうしても我が子が他と同じでないことが負い目と感じていたとき、過剰な防衛が働くのを感じました。
攻撃だったり、非難だったり、服従だったり、・・・。この状態を続けても、なんら精神的に満たされず、自分がどんどん追い込まれていくような感覚でした。
本当に強く穏やかな支援者は、そんな私でも受け入れてくれました。それが今、苦しんでいる、悲しんでいる、怒っている貴方自身の姿だよと。
そのままの(醜い)私に共感して寄り添ってくれました。
自分が支援者として働くようになって、利用者側の要望に接しながら「受容」は本人との信頼関係の入り口でしかなく、「受容」が前提で支援(改善)が始まると感じています。
実際、完璧な人間など以内と思います。信頼関係ができていると不都合な状況になってもお互いをフォローし合えると私は考えます。
話を聴くとき、なぜこの人はこう表現するのか?と考えます。非難されたり中傷されるとど~っと落ち込みます。
が、自分を再度確認する機会を与えてくれていることが多く、検証が終わると感謝する気持ちにもなります。
検証する間はとても不安ですが、その繰り返しが自分を鍛えてくれたと感じる為です。
「受容」は受けとめ方によって、毒にも薬にもなると思っています。
全く違う場所、今回の関係のない人々での話ですが、同じようなことがありました。
ある方(A)がCやDに対し謗中傷をしたのが始まりでトラブルを起こし、それに対してAは受容すべきとBが指摘をすると誹謗中傷だとAは騒ぐ、そこに無関係な人々が入ってきてBが悪いと騒ぐ。
皆は受容が必要だとBにいう。
Bは説明をしたら、Aの信望者以外は理解を示した。
元々の要因がどこにあるのかを把握しなければならない。
つまり、見えないところで件の方が誰かと何かあったことも知れないと、ただ単に批判をするだけでなく想像はしたいです。
ただ、もしそれが本当にあれば件の方はそれを説明するべきであり、また、コメント者とは別の人である認識は必要です。
理想を嫌う人間は凄く理想を言う人間に対し反発が凄くある。
ただ、今回の件は良い介護をしたい人間に対し、中傷があった。
いっしょくたにしてしまったのが(気持ちはわかる受容はあれど)失敗であり残念だなと思う部分。
受容とは、全てに対しあるがままに受け止め、ハイハイではないですよね。
その人を受け止めた上でどう対応するかということ。皆さんも色々な意見もあるから、こういう意見の場は大切だと思います。
追記として
加持リョウジ様
>どう思いますかリッちゃん。
本当の加持君なら、ちょっと違うな~。
「どう思う?・・・・・・リッちゃん・・・。」
ってかんじかな。
思いっきり余談ですみませ~ん。
持論ですが、世の中で本気で腹を立てないといけない事ってどれくらいだろうって思うと、なんかすごくごくわずかなのかもしれないって思うんですよね。
そう思ったほうが楽なのでそうしているだけですが・・・。
そう思ったほうが楽じゃない?ですか?
人は他人を完全に理解することはできない。
100%理解し合うのは不可能なんだよ。
だからこそ人は他人を知ろうと努力する。
皆さんのコメントは学びになります。怒らない・受容するなどなどいろんな方法があります。家族療法に通じた援助者がいればなぜ衝突が起こるのか?どうすれば皆、うまくやっていけるのか?支援してくれそうですけど。
件の人が問題と認識しなけれな問題はそこにないわけで。
私たちがなんとかするしかないのでしょう。
件の掲示板に書き込まれて不快な思いをされた方傷つかれた方には深く同情いたします。わたしたちで利用しやすい場を作っていけばいいのではないでしょうか。
ウェルがあるじゃない。迷わず進みましょう。
>加持さん、
「私にはここでスイカに水を撒く事しか出来ない。だが加持さんや皆さんには、皆さんしか出来ない、みなさんになら出来る事があるはずです。
誰も皆さんに強要はしない、自分で考え、自分で決めろ!自分が今、何をすべきなのか。ま、後悔の無いように!」
「だから面白いんだな、人生は!」
お互いを知るとか認めること、信頼関係が必要なことは重要であると思います、私たちの仕事も、他の仕事も学校生活も教育も同じことが言えると思います
信頼関係を築くには受容が必要です、受容はその人の良悪、正誤、その正負の考えを受け入れるということだと思います。いいところばかり受け入れるのではなく、悪いところを受け入れることで信頼関係はさらに増強します
個人対不特定多数の関係で上記が成り立つのかというと、実際には難しいと思います、時間と労力の問題もあります~信頼関係まではいけないと思います、しかしながら、どのような構図であれ、受容の姿勢は続けたいものです
皆様の書き込み非常に勉強になります、書き込みして良かったです
なぜ受容が必要か?
Ans.ひとつに自分のためと思います、(私個人の考えです)
自分を受け入れてくれた人は、人間受け入れるものです、好きになってくれた人は好きになるんです、これが信頼関係です、いい関係です、仕事場、家庭、学校でも同じです、子供の世界でも同じです
受容というものは自分に優しくなければできません、つまり、自分を大切にしているから、相手も大切にできるのだと思います。
信頼関係が強に達するとそれは威厳となり、それを持っている人の周りには、いろいろな人が好いて集まってきます、なかなかできる人がいないのが現状かもしれません
個人対不特定多数、掲示板等は双方の受容、信頼関係、威厳の構図は難しいと思います(実際は1対1でも難しいです)
相手を受け入れない人は、他者から好かれることはありません、時に蔭口になります、どちらも見苦しいと思います~双方信頼関係が築けない間柄なのだと思います(掲示板ではその比率というか構図を理解し、応対しないとちぐはぐになりやすいと感じます、公明寛大な気持ち様)
例:「よかれと思い、要介護者を叱責する、殴る、介護のため、自立のため」という考えの介護者を受容しなければならいとします。
暴力を受け入れられるわけありませんが…要介護者自身、迷惑をかけているからしようがないと、おれのために一生懸命だなと思っている場合もあります
たとえばかかわった時に、暴力をいけないことと諭してしまえば否定することになりますから「息子さんはお父さんのことが好きなんですね、一生懸命なんですね」というように暴力は受け入れられないが、愛している、一生懸命である、側にいたいという気持ちは受け入れるべきです。
介護者の暴力行為または暴力せずには居られなかった介護者の本質的な問題を受容すべきと思います。今回のやり取りも同じことが言えるような気がします(当事者でないので何ともいえません~推測ではなしをしています)
信頼関係があって初めて成立すると思います。信頼関係がある意見や書き込みは、その関係から許容範囲が広いのは当然で、そうでないものは狭い、だから負の感情が湧くと思います。
本質的な問題を受容する、しないもあなた次第と思います
>ミキさんや他の方々、いいご意見ありがとうございました、再度自分で考える時間を持ちたいと思います。また、特にミキさん、横道によれたことをご容赦ください。
めじなシライさん。
私も一つお聞きしていいでしょうか?
立場的なものを視野にいれてはどうでしょうか?
様々な立場を客観的に見たとき。
受容の一言ではすまないと思います。
そして世の中には、受容を我が身の保身のために使用する方もいらっしゃいます。
私達介護職としての受容というのは、あるがままにその人を受け入れ、それに対して支援や対策をすることであり「良いところも悪いところも全て受け入れる」という単純完結は出来ません。
めじなシライさんは、冒頭において
>ゆえに、初めの出発点は、受容と思います(他者の論が正しいと認めることではありません、あくまで受容です)
と仰ってます。
これは、あくまでも人間関係、信頼関係を築く際の起点としての言葉であると、わたくしは捉えました。
その例として、仲のよかったご家族が介護を通じ、虐待にまで進んでしまった場合、介護サービス職として、どのように対処していくのか?という疑問を投げかけられたのだと考えます。
虐待をしてしまうご家族側、虐待を受けるご利用者様側、両者の心を中を読み取るためには、両者の言い分をまず、「受容」しなければならないのではないか?それを出発点としてサービスを考えていかなければならないのではないか?ということを、我々が考えていかなければならない。という問題提起をされたものと考えます。これは、現場で必ず直面する問題だと思います。
どちらの言い分を優先すれば、暴力的発言や、虐待を防ぐことができるのか。
それは根本的に今回の件とはズレが大きいです。
ズレが大きいから当てはめることはできません。
根本的な要因部分も、他の人とのズレがあります。
視野を広げ他方向から見るのは良いことですが、見きれていない部分にまで考えを及ぼして言葉を発しなければ、偏りやズレが出てしまいます。
さえさん、ありがとうございます
再度自分で考える時間を持ちたいと思います
現時点では私は、全分野(掲示板も含)で、日常で受容は、理解と信頼関係に有用と考えました、しかしながら100%理解することは困難と思います、ですから理解する態度であって努力が必要であると思います
居宅介護支援ならばその先には、理解と信頼関係及び共感、共通認識が生まれ、結果効果的な支援や対策が導きやすいのだと思います
決して自分の考えを偽る必要はないと思います、前出の書き込みのとおり「暴力」は悪で受け入れることはできませんが、受容は可能で、相手を否定しない、負も受け入れることで、今まで以上に相手を知る、よさを知ることになると思います。
単純には自分では
受容→理解→信頼関係~居宅介護支援と考えています
~の先は目的(シュチュエーション)により様々と思います。友情とか結婚とか…
私自身も言葉足らずで、細くだけ最後にさせてくださいませ。
多分ですが、その基本的なことはここにいる皆さんは熟知されているのではないでしょうか
私はそのつもりではじめから投稿をしてきました。
ただ、危惧をしているのは「介護業界の有名な方が、一生懸命に理想を目指して頑張ってらっしゃる無名介護士を潰す可能性」です。
件の方は前述に書いた通り応援しています。
ただ、今回の件では私だけではなく皆さんも感じる部分があったでしょう。
そこに両者の相手の感情を受け止め、両者の相手を知るという「受容」は出来ます。それに対するここでの意見は醜くはなく貴重だと思います。
失礼いたしました。
皆さんのコメントを読んでいて、少し自分の感じている事が整理できてきたように思います。(ですので独り言です、スミマセン)
過去にお会いしたことありますが、シャイな方で掲示板でのキャラクターとのギャップが大きく驚きました。(これもまた余談)
私の上司も結構キツイこと言います。「替わりはいくらでもいる」、「どういった取り組みをしてきたら知らんけど、これくらいで満足してるのか?」、「できませんという選択肢はない」とか。
でも、嫌な気にはなりません。(決してエムだからではありません:笑)
そのうらの部下を思う気持ちや励ましを感じるからだろうと思います。(上司も、コイツにはこれくらい言っても大丈夫と思っていることでしょう)
でもそう受け取れなければツライだろうなと思いますし、また同時にそう受け取って自分を高めるような強さも持てるようになりたいものです。
受け止め方は千差万別
上司は部下の狭い範囲であり、かの方の場合は、広く知れ渡る立場。ネットでの広範囲であり・・・・・・
文字だけしか伝わらないネット世界と、非言語も伝わるリアル世界絵の違いもあり・・・・・・
さえさんが言う、「強い発言と人格否定・介護士失格発言は本来違う」にも同意。
以前、政治家のTVでの発言ミス、差別発言等が取り沙汰されていましたね・・・・・・・
悲しいです・・・・・
介護士は人手不足。仕方がなく仕事に就き、高齢者に虐待や誹謗中傷をする人は介護の世界から退いて欲しいと思うけど、
それと同様に、理想に向かって走って仕事で悩んでストレス溜めて、それでも頑張っている人たちを、そのような輩と同一視されたら、やはりがっくりきます
その言葉の使い方の理論も間違いとは言えないけれど、正しいことではない。意見は出てくるだろう的なブログ内容ですし。
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