先日の対談で「書き手に責任はない」という話をしました。ここがどうにも突っかかる人がいるようなので、書いてみたいと思います。ぼくも整理できてない感じがするので。
みなさんの人生の選択の責任は、ぼくには取れません
特に先日の対談では、「イケダがノマドを煽ることによって、会社を辞めて人生に失敗して、自殺する人がでたらどうするんだ」という、倫理的な責任が問題になっていました。
これについてのぼくの書き手としての答えは、「そんなのは読者の責任だろう」というものです。
と、これで分かっていただけるかと思いきや、流石に不親切であることに気づきました。もうちょっと噛み砕きますと、
「著者として最大限被害者(自殺者)が出ないように配慮するけど、読者の人生の選択は読者自身の問題なので、著者であるぼくはあなたの選択ミスの責任を引き受けることはできない。場合によってはなんらかのケアをするが、その約束はできない」。
なんてことばで表現できます。どうですか、これなら分かっていただけるでしょうか。
ぼくに対する分かりやすい批判のひとつは「プロなんだから責任感を持つべきだ、責任を取るべきだ」というものです。
そんなものは、実効性に欠ける「正論」です。極論ですが、読者が自殺してしまったら、責任の取りようなんてありません。命だけは、取り返しがつきませんから。
それなのに、のうのうの「ぼくはプロなので責任感をもって文章を書いています。被害が出たら責任を取ってみせます(キリッ」と語ることはできません。だってそれ、嘘じゃないですか。著者が読者の人生に対して、無限に責任を負うことなんて不可能です。
もう少し違う観点では、ぼくら個人ブロガーが、他人の人生の選択に大きな影響を与えうると考えることそれ自体が、かなり傲慢な態度です。そんなにぼくらは「正しく」ないですから。
ぼくは対談のなかで次のような発言をしました。
「個人のブロガーの意見なんて(人生の重要な選択に際して)参考にすべきレベルのものじゃないでしょうし、それを前提としないと僕ら情報発信できないと思うんですよね。」
これをもって「イケダは無責任だ」と罵る向きがあるようですが、では逆に「個人のブロガーの意見は、読者の人生の選択に重要な影響を与える」と考えるべきなのでしょうか。
それは傲慢です。そんな力はぼくらにはありませんし、そう思い込むのは危険ですらあります。自分のことばで読者をコントロールできる、と思い込んでいる、ないし、そう試みようとしているということですから。
むしろ正しいのは、「ぼくらのことばは所詮個人の見解だから、参考程度にとどめておいてくれ。何かあっても、実際に責任は取れない。その意味でぼくは無責任だ。もちろん、何かあったらできるだけ助けにはなるけれど」と書き手が誠実に語ることでしょう。聞こえのいい正論ではありませんが、こちらの方が現実に即しています。
ぼくはそういうつもりで、「書き手として責任は取らない」と語っているのです。著者の無責任性を強調するのは、「逃げ」「予防線」というよりは、より「正しい」態度だと確信しているからです。
正論に逃げる方が得であることは分かっていますが、それはぼく個人の道徳的感覚が許してくれません。無責任といわれようが、自他に嘘を付くよりマシです。
というわけで、賢明な読者の方々は誰もが分かっていることではありますが、「みなさんの人生の選択の責任は、ぼくには取れません」。
これは国営放送でもなんでもなく、ただの個人のブログです。情報は参考程度にとどめておいてください。こちらとしては誤読されないよう最大限努力しますが、ぼくのことばが絶対だと思い込むのは間違いです。
…なんてことは、当たり前のことですよね。これを「逃げ」と非難されるのは、微妙にピントがずれています。
ただ、唯一、ぼくが読者のみなさまを、ことばでコントロールしたいと思うことがあります。それは、「自殺してはいけない」という要求です。死んでしまっては、取り返しが付きませんから。命さえ奪われなければ、あとは何とか取り返しがつくものです。
もしも読者のみなさんが死にたくなったら、メールをください。カウンセラーではありませんが、何らかの助けを提供できるかと思います。