八重山石垣の歴史こぼれ話
首里王府の圧制に苦しめられた時代


唐人墓に眠る屈辱の歴史

石垣市の中心部から富崎海岸線を西へ3km程行くと左側に観音崎の灯台が見えてくる。その反対側の小高くなった台地に唐人墓はたたずんでいる。いや異彩をはなっているといったほうがいいかもしれない。それは日本や沖縄の墓のイメージとは大きくかけ離れた赤や黄、緑などの原色も鮮やかな奇妙な形の建物だからである。墓というより廟または陵という感じだ。唐人墓と命名されているからには当然中国人の墓であることには違いない。かつてこの地において米英の兵隊に無抵抗のまま殺害された中国人奴隷(クーリー)128名の御霊が眠っているのだ。

事件が起きた1852年当時のアメリカはゴールドラッシュに沸きたっていた。新たな町が建設され、それをつなぐために次から次へ鉄道が敷設されて行った。しかしながらそれらを担う労働力は不測しており、それを補うにはアフリカに次いで中国は格好の市場であった。中国(清朝)はこの時期、アヘン戦争やアロー号事件などで欧米列強との軋轢で政情は不安で、大多数の国民が飢えに苦しみ疲弊困窮していた。そのような状況下で生きていくためには、あろうことか、わが子でさえ売るという人身売買も公然と行われていたのである。
アメリカの貿易船ロバート・バウン号はこのような中国人奴隷・苦労(クーリー)を買付けアメリカ本国へ移送する仕事(クーリー貿易)を請負っていた。1852年2月、中国のアモイで400名余の中国人苦労(クーリー)を買付け出航した。目的地はアメリカの西海岸カリフォルニアであることから、太平洋航路を航海することになった。太平洋航路には八重山の島々も含まれている。航海は順調に行くかと思いきや、2月19日石垣島の崎枝村沖合いに差し掛かったところで座礁したのである。その原因はクーリー達の暴動によるものであった。狭い船室に数百人ものクーリーを詰込み家畜同然に扱い、殴り蹴る虐待は日常茶飯事。病人は海上に投げ捨てられ、また、ある者はべん髪を切られたりと極悪非道な扱いに、とうとうク−リーたちの不満が爆発したのである。船長ら乗組員7名を殺害し船を乗っ取った後座礁させ、その勢いでクーリー達は石垣島へ上陸を開始し保護を求めたのである。その数380人にも及んだ。
この当時の八重山は外交関係の問題に関しては首里王府から派遣された在番が取り締まっていた。崎枝村に異国人が多数上陸したという報を受けた在番は腰を抜かさんばかりに驚愕したと思われる。が、しかし、規模の大小こそあれこれまで何度も漂流民を救助保護したことはあり、崎枝村赤崎に仮の小屋を造り保護することにしたのである。その後、新たに富崎原に収容施設を造り、中国人クーリー達を移送した。富崎原の方が蔵元(番所)から近距離にあり何かと便利であったことが移設の理由である。しかし、移送されたばかりの富崎原収容所が襲われる事件が発生した。

座礁したロバート・バウン号はその後、生き残った船員達で離礁しイギリス船に救助を求めた。依頼を受けたイギリス船(2隻)は3月16日石垣に到着するや否や、ロバート・バウン号の報復だといわんばかりに富崎原の収容所を砲撃したのである。そして武装した兵隊200人以上を富崎原に上陸させクーリー探索を命じた。多くのクーリーは山奥などへ逃げるか、地元民に匿われたが発見されたクーリーは無抵抗のまま射殺された。一方、まだ労働力として見込めるものは捕縛し船へ連れ帰った。
本来ならよその国を勝手に砲撃をしたり、まして武装して上陸することは許されるはずはない。尚真王の代(1500年前期)より琉球には相手を攻めるための武器という概念がなく、防御のための武器すらもなかったのである。いわば非武装中立の体をなしている国家である。にもかかわらずこのイギリス船はなんの斟酌もなく富崎の収容所を砲撃し、中国人を殺害、捕縛して3月23日石垣島から引き上げたのだ。八重山の首里王府の在番や住民は、おそらく中国人が射殺されようと、地元住民が蹂躙されようとなす術はなく、ただじっと屈辱に耐えるしかなかったのかもしれない。
あぁこれでもう大丈夫さぁと石垣の住民と中国人クーリーは安堵したがそれも束の間、またもや黒々と煙を吐く異国の船がやって来た。4月4日のことで今度はアメリカの船(ペリー艦隊に所属するサラトガ号では?との推測がある)が来航したのである。前回のイギリス船同様アメリカ船は有無を言わさず100名以上の兵隊を上陸させ、クーリー達の探索・捕縛を行わせた。この暴挙に対しやはり首里王府の在番は無力であった。石垣島の住民も異国人の兵隊のやることを恐る恐る見るだけで、哀れな中国人クーリー達を助けることはできなかった。4月12日探索を終えたアメリカの船は恐怖感をたっぷり残して揚々と出航していった。
しかし、幸いなことに捕縛を免れ生き残った中国人クーリー達がいた。彼らは地元石垣の住民により手厚く保護され、翌年1853年9月中国本土に送還されることになった。送還される生存者は172名で上陸した時より半分以下の人数に減ってしまっていた。
「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入れば猟師も殺さず」という言葉がある。追いつめられて逃げ場を失った者が救いを求めてくれば、見殺しにはできないということのたとえであるが、まさに八重山の在番始め住民はこの言葉の如く実践した。しかし、全員を助けることはできなかった。窮鳥を懐に入れながらも強大な武器を持つ欧米列強の前には無力であった。これを屈辱と言わずなんと言おう。
しかし、皮肉なことに一方的な道理を強引に押し付ける武装した欧米列強(黒船)がやがては日本を開国させ、倒幕、明治維新へと導き、琉球王国を廃止し沖縄県の設立へとつなげていくことになるのだが、この時点では未だ知る由もなかった。



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