九州あちこち歴史散歩★飯塚市 旧伊藤伝右衛門邸と柳原白蓮(略歴・和歌)          サイトマップ

飯塚市 旧伊藤伝右衛門邸と柳原白蓮(略歴・和歌)

  筑豊はかつて日本一の石炭産地として栄えました。
その中心地飯塚市の北部に筑豊の石炭王、伊藤伝右衛門の本邸があります。2009年6月下旬に訪ねました。
伝右衛門は貧しい生い立ちながら、石炭事業に才覚を発揮し、一代で筑豊一の炭鉱王となった立志伝中の人です。
前年に妻を亡くした伝右衛門は、明治44年(1911)に柳原白蓮
(びゃくれん)と結婚しました。(伝右衛門52歳、白蓮25歳、年齢は満年齢)
白蓮は華族の娘で天皇の親戚にあたりました。学問とは無縁で巨万の富を築き上げた炭鉱実業家と、美貌の華族の娘の取り合わせは世間の注目を浴びました。
白蓮はやがて処女歌集「踏絵」を出版し、全国的にその名を知られるようになります。
福岡、別府の別邸を舞台に上流社会の文学サロンの中心となり、詩集、歌集、戯曲などを次々に出版し「筑紫の女王」としてもてはやされました。
しかし、彼女は孤独でした。
結婚10年後、ある日突然朝日新聞に伝右衛門への「絶縁状」を発表し、伊藤邸を出奔し、東大学生の宮崎龍介と駆け落ちを決行しました。
封建制の色濃かった90年前のことです。社会に一大センセーションを巻き起こしました。

  旧伊藤邸についての説明は、飯塚商工会議所の 旧伊藤伝右衛門邸HP をご覧ください。
  飯塚市歴史資料館にも炭鉱関連の資料が展示されています。

駐車場は旧伊藤邸の東側(8台、身障者用)と、約200メートル西側の「幸袋リサーチパーク内駐車場」(150台)があります。
(地図は上記HPにあります。また、「飯塚と柳原白蓮」のページにもあります。)



建物の東端の二階部分が10年の間「筑紫の女王 歌人柳原白蓮」の居室となりました。
北側に庭が広がっています。
東側のすぐ近くを流れる遠賀
(おんが)川を行き交う石炭船のようすも、ここからよく見えたそうです。

伊藤伝右衛門略暦(1)
万延元年(1860)、現在の飯塚市幸袋
(こうぶくろ)で生まれた。父伝六は魚の行商をする貧しい家庭で、小さいころから丁稚奉公や父親の手伝いをして育った。
明治時代、日本は日露戦争を経て富国強兵に努め、遠賀川流域に広がる日本最大の筑豊炭田の開発が進み、飯塚はその中心地として中央の大手資本が続々と進出してきた。筑豊地方で多くの成金が生まれた。
伝右衛門は父と共に付近の山野で狸掘りといわれた小規模の採炭をしていたが、独特のカンとひらめきを持ち、また気性の荒い川筋男たちをよくまとめ、下請けなどで仕事をふやし、その才覚は一目置かれるようになった。
明治26年(1893)、石炭御三家の安川、松本と組んで炭鉱を開発し、折からの日清戦争時の石炭ブームに乗り、石炭事業家として大きな地歩を築いた。







この長屋門は、福岡市天神にあった別邸「銅
(あかがね)御殿」の門で、邸が焼失したため残った門を昭和2年にここに移築したものです。
福岡市の「銅御殿」は白蓮が去った年に完成しました。(福岡の別邸はそれ以前からあって、白蓮の社交の場となっていました。)

伊藤伝右衛門略暦(2)
明治30年(1897)に設置された官営八幡製鉄所が明治32年(1899)に伝右衛門の炭鉱を莫大な金額で買い上げ、また伝右衛門が新しく開発した炭鉱も次々に成功し、筑豊の石炭御三家の安川(松本は兄弟グループ)、貝島、麻生と肩を並べるほどになった。
併せて炭坑用機械を製造する幸袋製作所の社長となり、炭鉱機械化の波に乗って工場も発展拡大をたどった。
明治36年(1903) 43歳で貴族院議員となり、明治42年(1909)まで2期6年間務めた。
明治38年(1905) 日露戦争が勃発し、伝右衛門は国策の石炭増産の時流に乗って石炭財閥となり、地方政財界の重鎮となった。



入口には門番が詰める「武者窓」を備えています。

伊藤伝右衛門略歴(3)
明治42年(1909) 全費用を提供し郡立女学校を設置した。(嘉穂郡立技芸女学校、現在の嘉穂東高校)
明治43年(1910) 正妻ハルが亡くなった。
明治44年(1911)3月、52歳。柳原白蓮(本名はY子
(あきこ))と結婚した。
大正3年(1914)、54歳。個人企業から大正鉱業株式会社に組織変更した。この年に第一次世界大戦が始まった。
大正4年(1915) 伊藤育英会を設立した。



観音開きの門扉は桧板の一枚張りで、金属の鋲が打たれています。大名屋敷を偲ばせる堂々たる構えです。

伊藤伝右衛門略歴(4)
大正10年(1921)10月 Y子が新聞紙上に絶縁状を掲載する「白蓮事件」が起こった。(後述)
昭和22年(1947)12月 逝去。87歳。




旧伊藤伝右衛門邸の案内板。



建物全体は数奇屋造りの落ち着いた和風建築です。
応接間の一部屋だけが洋風で、マントルピースが備え付けてあります。

柳原白蓮(本名Y子(あきこ))略歴(1)
(年齢は満年齢)
父の実妹愛子(なるこ)が大正天皇の生母であり、Y子は大正天皇の従妹にあたる。
明治18年(1885)10月15日 誕生
枢密顧問官・柳原前光
(さきみつ)伯爵の二女として生まれた。
しかし、実際は伯爵が17歳の芸者おりょうに産ませた子で、生後7日目に柳原家に引き取られて二女として入籍された。
Y子はすぐに里子に出され、7歳のとき柳原家に戻ってきた。(公卿の家では里子に出すのは普通のことだった。)

母親奥津りょうの父は江戸幕府の外国奉行新見豊前守正興で、万延元年(1860)のアメリカ使節団の正使を勤めた家柄であったが、明治維新となって家は零落し、二人の娘は柳橋の芸者となっていた。
妹のりょうは17歳でY子を産み、3年後に病気で亡くなった。



旧伊藤邸の庭の総面積はおよそ1,200坪。伝右衛門は建物や庭の造作が好きで、センスはすぐれていたそうです。
(敷地面積2,300坪)

柳原白蓮略歴(2)

明治27年(1894)9歳。北小路(きたのこうじ)子爵家に養子に出された。秋に父が亡くなった。
明治33年(1900)15歳。養子先の北小路資武
(すけたけ)と結婚、16歳で男子が生まれた。資武に「妾の子のくせに」と言われ自分の出生を知った。資武は知的障害があったといわれ、Y子が苦しんでいたのを見かねた姉が実家に連れ帰った。20歳で離婚。
離婚後のY子は出戻り娘ということで、公卿の家の体面上実家に入れてもらえず、母の隠居所に3年間幽閉され一切外出もできなかった。
だんだん文学に親しむようになった。

柳原白蓮の歌
・「殊更
(ことさら)に黒き花などかざしける わが十六の涙の日記」(「踏絵」)
・「王政はふたたびかへり十八の 紅葉
(もみぢ)するころ吾は生れし」(「踏絵」)(白蓮は明治18年に誕生)
・「われといふ小さきものを 天地
(あめつち)の中に生みける不可思議おもふ」(「踏絵」)
・「幾とせか淋しき春を見て泣きし わが若き日の山桜花」
・「うもれ果てしわが半生をとぶらひぬ かへらずなりし十六少女」(「踏絵」)
 「十六や まことの母にあらずよと 初めてしれる悲しきおどろき」



東側から見た白蓮居室(2階)

柳原白蓮略歴(3)
明治41年(1908)22歳。東洋英和女学校に入学。伝右衛門と結婚するまでの約3年間寮生活を過ごした。
ミッションスクールで級友はすべて数歳年下であったが、Y子はこの時期が前半生で一番幸せなときであった。
後に「赤毛のアン」などを翻訳した村岡花子(当時15歳)と同級で親友になった。
佐佐木信綱の歌会「竹柏会」に入門し和歌を学んだ。

 「キリストのむすめとよばれほこりもて学びの庭にありしいくとせ」
 「我こそはキリストのあとをゆくものと思いあがれる日の美しき」
 「朝夕の祈りと歌に育ちたる 我魂よ神ともにあれ」
 「今もなほ咲くや咲かずや 遠き日の学びの庭の白萩の花」
・「邪宗の子われにみとがめあらばあれ 神より人を敬ひおそる」(「踏絵」)
・「何ものか飢ゑし心に 昼も夜も涙ながらにあさる俤(おもかげ)](「踏絵」)



伊藤邸は伝右衛門の本邸として明治30年代後半に建造されました。

柳原白蓮
略歴(4)
明治44年(1911)4月、25歳。正妻を亡くした伊藤伝右衛門と再婚した。(伝右衛門は52歳。)
今をときめく地方の財閥の当主と、天皇と親戚の華族の娘との組合せであった。年も親子ほど離れていた。
Y子は以前の肩身の狭い生活を続けるよりも、はるか遠い九州の地で新しい生活をやり直そうと決意していた。また、伝右衛門が設立したという女学校の少女たちの教育に尽力したいという夢を持ってやってきた。

・「かたはれの鳥さへさめぬうすあかり 星はめざめて春まで寒し」(「現代歌人作品集」)
・「雨風のはげしき夜や 小鳥らも怖れてあらむ あけ方は遠し」(「現代歌人作品集」)
・「神や知る結ぼれ解けぬ吾が魂は そもいづこよりいづくへか行く」(「踏絵」)
・「忘れむと君言ひまさばつらからむ 忘れじといはばなお悲しけむ」(「踏絵」)
・「朝化粧五月となれば京紅
(きょうべに)の青き光もなつかしきかな」(「踏絵」)
・「わが魂は吾に背きて面見せず 昨日も今日も寂しき日かな」(「踏絵」)




           オブジェのような桧の木

伊藤邸の10年間(1)
伝右衛門はY子を大事にした。
居室を増築し、Y子の希望に沿って洋式トイレに改造し、パンをいつも門司から取り寄せて朝食を洋式に変えた。
(当時、パンは外国船が出入りする門司にしかなかった。)
福岡、別府にある別邸をY子に自由に使わせた。(福岡、別府には後に数千坪の敷地に豪邸「銅(あかがね)御殿」が建てられた。)
(「女、三界に家なし」「女人の礼は、幼は即ち父母に従い、若くしては即ち夫に従い、老いては子に従う。」という考えが強い百年前の時代に、妻を贅沢三昧に、自由に振舞わせたのです。封建的な因習の強い当時としては破格の扱いだったと思われる。)

・「幾億の生命
(いのち)の末に生まれたる 二つの心そと並びけり」(「踏絵」)
・「何を怨む何を悲しむ黒髪は 夜半の寝ざめにさめざめと泣く」(「踏絵」)
・「妬(ねた)みとや恋とやつひに定まらず ふとあらはれてふと消ゆるかげ」(「踏絵」)
・「船行けば一筋白き道のあり 吾には続く悲しびのあと」(「踏絵」)
・「若き日も美しき日も暮れ果てて 恋の外なる悲しみぞ湧く」(「踏絵」)
・「よるべなき吾が心をばあざむきて 今日もさながら暮らしけるはや」(「踏絵」)



総平屋建てだった建物に初めて2階部分が建て増しされて、ここが白蓮の居室となりました。
窓のガラスはドイツ製です。

伊藤邸の10年間(2)
しかし、Y子からすると、それらはすべてお金で何とでもなる類のことで、一番重要な妻としての存在は認められなかった。正妻として結婚したのに、家の中には家内を取り仕切る妾がいて実権を握っており、伝右衛門の身のまわりの世話もその妾がした。他にも福岡、京都などを含めて数人の妾がいる状況だった。
伝右衛門が全額を出資した女学校は「郡立技芸女学校」としてすでに発足しており、Y子が校長として参入することはできず、教育に携わる夢も実現しなかった。
伝右衛門は読み書きを習ったこともなく、文学の話ができる相手ではなかった。

・「われはここに神はいづくにましますや 星のまたたき寂しき夜なり」(「踏絵」)
・「寂しさのありのすさびに唯ひとり 狂乱を舞ふ冷たき部屋に」(「踏絵」)
・「何ものももたらぬものを女とや 此身一つもわがものならぬ」(「踏絵」)
・「女とて一度得たる憤り 媚に黄金に代へらるべきか」(「踏絵」)
・「おとなしう身をまかせつる幾年は 親を恨みし反逆者ぞ」(「踏絵」)
 「いつにても我が玉の緒を絶つすべを 知れる身をもて何のなげきぞ」
      (我がいのち)





あずまやと橋。

伊藤邸の10年間(3)
二人は生まれも育ちも年齢も違いすぎた。
大正3年(1914)に一度東京で離婚について協議されたが、伝右衛門邸にいる妾を外に出して欲しいとの白蓮の要望は認められず、家族からもY子が我慢するようにいわれた。

(伝右衛門からすると世間に疎い公卿の娘に、家に出入りする気の荒い川筋者の炭鉱関係者や家の使用人を取り仕切ることはできず、ここで育った女でないと家業が保てない、と考えるのが当然だったのかもしれない。
しかし、家の中に家業を取り仕切り身の回りの世話までする人がいるのに、どうして結婚したのか?天皇の親戚になるのが目的だったのか?と現在なら誰もが疑問を持つと思うが、そのような考えが社会の常識として通用するようになるのに長い歳月を必要とした。)

Y子はここでも封建的な因習に泣かされ、妻妾同居の(しかも妾のほうが実権を握っている)孤独な生活を送らざるを得なかった。
(自分を金で買われた籠の鳥と感じていたのかもしれない。)
Y子はこの時代に本格的に歌を始め、歌に唯一の救いを求めた。
やがて九州の上流社会の文学サロンの中心となり、「筑紫の女王」として全国的にも知られるようになっていった。

大正4年(1915) 竹久夢二の装丁で歌集「踏絵」を白蓮の名で発刊し、情熱的な恋の歌が話題となった。
(白蓮という号は、ずっと師事していた佐佐木信綱先生の歌誌「心の花」への投稿に際し、大正初めごろから使い始めた。)
大正8年(1919)、詩集「几帳のかけ」 歌集「幻の華」を発刊した。

・「誰か似る鳴けようたへとあやさるる 緋房
(ひぶさ)の籠(かご)の美しき鳥」(「踏絵」)
 「月影はわが手の上と教へられ さびしきことのすずろ極まる」
・「ゆくにあらず帰るにあらず居るにあらで 生けるかこの身死せるかこの身」(「踏絵」)
・「待つ人のあるが嬉しさ 山越えて君にと急ぐたそがれの道」(「踏絵」)
・「観世音寺みあかし暗う唯一人普門品
(ふもんぼん)よむ声にぬかずく」(「踏絵」)
・「年経ては吾も名もなき墓とならむ 筑紫のはての松の木かげに」(「踏絵」)



庭の遊歩道

伊藤邸の10年間(4)
大正9年(1920)1月31日、34歳
雑誌に掲載されたY子の戯曲「指髷外道(しまんげどう)」の単行本発行、上演の打ち合わせのため東京帝国大学法学部の宮崎龍介が別府の別邸に訪ねてきた。
隆介は、中国で辛亥
(しんがい)革命を起こした孫文を支援した福岡県荒尾出身の革命家・宮崎滔天(とうてん)の長男で、東大新人会の編集部に属し、社会運動を行っていた。肺病を患い、留年2回、28歳で今年大学を卒業予定の、Y子より6歳年下の学生だった。
手紙のやり取りを重ね、何回か会ううちに二人は愛しあうようになり、Y子はこの人こそ、毎日寂しくて泣くばかりの自分を、泥沼から救い出してくれる人と信じるようになった。

・「わたつ海の沖に火もゆる火の国に我あり 誰そや思はれ人は」(「幻の華」)
・「わがために泣きます人の世にあらば 死なむと思ふ今の今いま」(「踏絵」)
 「今はただまことに人を恋ひそめぬ 甲斐なく立ちし名の辛さより」
・「吾は知る強き百千の恋ゆゑに 百千の敵は嬉しきものと」(「踏絵」)
・「天地の一大事なり わが胸の秘密の扉誰か開きね」(「踏絵」)
 「君故に死もおそるまじ かくいふは魔性の人か神の言葉か」



庭から眺める白蓮の居室(2階)

「白蓮事件」(1)
大正10年(1921)10月20日、36歳
「白蓮事件」が発生し、全国的に衝撃を与えた。
ある日突然、Y子から伝右衛門に宛てた絶縁状が朝日新聞に掲載された。Y子は伊藤家を出奔し、身一つで宮崎龍介と駆け落ちした。このとき龍介の子を宿していた。
10月24日には毎日新聞に「絶縁状を読みてY子に与ふ」との伝右衛門の反論が掲載された。
この事件は当時の社会に一大センセーションを巻き起こし、新聞、雑誌は連日この事件を特集した。
(上記の文書は「絶縁状と白蓮事件」のページに掲載しています。)

当時は平塚らいてう(雷鳥)が女性の人権向上をめざしてようやく活動を始めたころで、名のある人妻(形式だけのものであっても当時は形式が大事であった)が若い男のもとに走るなどは想像もできない、許されないできごとだった。「姦通罪」が当然のこととして存在していた。
(「姦通罪=有夫の婦姦通したるとき2年以下の懲役に処す。その相姦したる者また同じ。」 夫側がどんなに悪くても妻は離婚できず、悪いのは一方的に女性とされた法律で、昭和22年に廃止された。)

二人はしばらく宮崎家の近くに家を借りて潜んでいたが、やがて新聞に暴かれた。
新聞、雑誌上は白蓮を非難する記事がほとんどだった。

・「踏絵もてためさるる日の来しごとも 歌反古(ほぐ、ほご)いだき立てる火の前」(「踏絵」)
 「ひるの夢あかつきの夢夜の夢 さめての夢に命細りぬ」
・「吾なくばわが世もあらじ人もあらじ まして身を焼く思(おもひ)もあらじ」(「踏絵」)
・「ともすれば死ぬことなどを言ひ給ふ 恋もつ人のねたましきかな」(「踏絵」)
・「死の前にたたずむ吾と思ふ時 こころ静けく涙ながるる」(「踏絵」)
・「今こそはあれ われ死なむ日は秋の野の花の如くにあらなむ願」(「踏絵」)



庭から眺める白蓮の居室

「絶縁状事件」(2)
大正11年(1922)1月、35歳。Y子は実家に連れ戻され、髪を切り尼になるよういわれ、長い間軟禁状態に置かれた。
実家には「天皇の従妹である者がこのような恥ずべきことを起こすとはなにごとか」と右翼が押し寄せ、兄は貴族院議員辞職に追い込まれた。
Y子のもとに龍介が肺病で喀血したとの知らせが届き、Y子は絶望の淵に沈んだ。

大正11年(1922)5月、36歳。龍介と連絡もできず、赤子の産み月さえ考えることができない絶望の中で、ある日Y子に赤ちゃんが生まれた。(長男香織)
自分の胸に赤子を抱いたとき、何としても生き抜いていこうという希望が湧きあがってきた。

伝右衛門は二人を姦通罪で訴えることはしないで、離縁に応じた。
(伝右衛門は子どもを渡すよう裁判に訴えたが、白蓮側が勝訴した。)
伝右衛門は伊藤家の者に「一度は俺がほれた女だ」と言って一切の手出しを禁じ、今後家の中でY子の名前を口にしないよう指示した。

・「まゆに似て細き月なり星おちぬ かかる夕べは死もやすからむ」(「『心の花』別府より」)
・「花と花うす紫とくれなゐと うなづきあふは何のこころぞ」(「幻の華」)
・「こゝこそは破滅の門
(かど)と思ひつつ そとのぞき見て吾とたぢろぐ」(「幻の華」)
・「女房のふところなれば鬼も棲む などいふ詞
(ことば)ふと覚えけり」(「踏絵」)
・「秋来れば博多小女郎もなげきけむ 波の遠音に人の待たるる」(「踏絵」)
・「底知れぬ心のなやみ呪ふべく 歌を綴れり吾といふ歌」(「踏絵」)



あずまや。ここでひと休みして、白蓮に思いを馳せるのもいい思い出になるでしょう。(2010.12撮影)

「絶縁状事件」(3)
平成11年(1922)6月頃、36歳。 白蓮の願いが受け入れられ、白蓮と赤子は、京都綾部の大本
(おおもと)教本部の近くに匿われた。Y子は信者ではなかったが、教主出口王仁三郎は芸術に理解を示し、援助の手を差し伸べた。(大本教は信者が数百万人といわれたが軍国主義にあまり協力しなかったため、軍部による三度の宗教弾圧によりほとんど壊滅した。)
龍介とも連絡が取れるようになり、7月下旬に病身を押して龍介が訪ねてきた。久しぶりの再会だった。(暮れに龍介の父滔天が亡くなった。)

大正12年(1923)春、37歳。大本教が東京にひそかに離れを借りてくれ、親子はそこに移り住むことができた。

・「花咲きぬ散りぬみのりぬこぼれぬと 吾知らぬ間に日経ぬ月へぬ」(「踏絵」)
・「女とはいとしがられて憎まれて妬(ねた)まれてこそかひもあるらし」(「踏絵」)
・「石の床石の枕に旅寝してあるが如くも冷たさに泣く」(「踏絵」)
 「観世音寺ゆふべの鐘に花散れば 身も世もあらず泣かまほしけれ」
・「筆をもて吾は歌はじ わが魂と命をかけて歌生まむかも」(「踏絵」)
・「あすの日は炉に投げらるる運命
(さだめ)もて 野に咲くものを吾と思ひし」(「踏絵」)
・「骨肉は父と母とにまかせ来ぬ わが魂よ誰にかへさむ」(「踏絵」)



後ろの倉が資料室になっていて、当時の炭鉱や白蓮との生活について知ることができます。
2階の白蓮の居室も入室できます。

「絶縁状事件」(4)
大正12年(1923)9月1日 関東大震災
午前11時58分、関東大震災発生。死者・行方不明者10万人余。
Y子親子が隠れ住んでいた家も炎上したが、心配した龍介が使いの書生を寄こし、いっしょに線路を歩いて宮崎家に避難した。しばらく宮崎家のお世話になった。

帝都は壊滅し、新聞、雑誌などは白蓮を追いかける状況ではなくなった。
二人はようやくいっしょに暮らせるようになった。

大正12年(1923)11月、38歳。Y子は華族の身分を剥奪され、平民になった。
大正14年(1925)9月、39歳。長女蕗苳(ふき)誕生。
恋の逃避行から4年たって、ようやく結婚届けを出すことができた。

このあと数年間は、結核の龍介を自宅療養させながら、Y子は文筆や色紙、講演などで家計をひとりで支えた。龍介はやがて健康を取り戻し、弁護士として働けるようになり、一家ははじめて平穏のなかで生活を送れるようになった。

・「わが夫
(つま)のかへりおそきも嬉しかり 癒えたればこそと思ふがゆゑに」
・「父ありて母ありてなほ祖母ありて 愛の中なる子に涙おつ」
・「父と母と子等と四人がけふあらむ その日のためのある日のおもひ」
・「襖ごし吾子の眠りをのぞき見ぬ 机によれるわが手の冷たさ」
・「子とねむる床のぬくみのこゝろよさ そこはかとなき花の香もして」
・「旅にきて秋のそよ風身には沁む 筑紫はわれに悲しきところ」



玄関

その後の白蓮と龍介(1)
昭和19年(1944)12月11日 早稲田の学生であった長男香織は学徒出陣で熊本に入隊した。
昭和20年(1945)8月11日 終戦の4日前、香織が鹿児島県串木野で爆撃を受け、死亡した。
(この悲報を受けたY子は、一晩で髪が真っ白になったといわれる。)
やがて「悲母の会」を設立し、反戦運動、平和運動を続けるようになった。

・「空襲のさなかに蝶のあそぶ見て しみじみ人のおろかさに泣く」
・「海見れば海の悲しさ 山みれば山の寂しさ 身のおきどなき」
・「英霊の生きてかへるがありといふ 子の骨壷よ振れば音する」
 「もしやまだ帰る吾子
(あこ)かと脱ぎすてのほころびなほす心うつろに」
・「夜をこめて板戸たたくは風ばかり おどろかしてよ吾子のかへると」(「地平線」)
・「もろともに泣かむとそ思ふ 戦ひに子を失ひし母をたづねて」
・「この道は吾子が最後となりし道 夫と並びてゆくは悲しも」(「地平線」)



玄関前の蘇鉄
大きな蘇鉄です。いつ頃植えられたのか、白蓮はこれを見ていたのでしょうか。

その後の白蓮と龍介(2)
昭和36年(1961)、Y子は緑内障のため徐々に視力を失い、両眼とも失明に至った。
昭和42年(1967)2月22日 Y子逝去。81歳
(目も見えず心臓も悪くなったY子を、龍介はすべて自分の手で介抱し、誰にも手を触れさせなかったそうです。)
昭和46年(1971)1月23日 龍介逝去。78歳
ふたりは苦難を乗り越え、最後まで添い遂げました。

・「思ひきや月も流転のかげぞかし わがこしかたに何をなげかむ」
・「世の中のすべてのものに別れ来し われに今更もの怖
(お)じもなし」
・「岐
(わか)れたるふたつの道を一つ得て あやまちぞとは誰(た)がいひそめし」
 「そこひなき闇にかがやく星のごと われの命をわがうちに見つ」(辞世の歌.「短歌研究」昭和41年11月号)
 (そこしれぬ)



新芽が力強く伸びています。「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」

その後の白蓮と龍介(3)
宮崎龍介「柳原白蓮との半世紀(抜粋)」(「文芸春秋」)
「私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は、伊藤や柳原の人人よりはY子の個性を理解し、援助してやることができたと思っています。波乱にとんだ風雪の前半生をくぐり抜けて、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだ、と思っています。」

瀬戸内寂聴
「不倫も命をかければ純愛。本当の恋はすべてをなげうつもの。打算ではないんです。その覚悟があるかどうかを、白蓮は私たちに問いかけているように思えます。」



伝右衛門と同じ石炭財閥の麻生元首相筆の門標が掛けられています。



この長屋門は昭和2年に移設されたものですが、それ以前の塀(塀も白蓮の希望で家の周りに建てられた)の門を出入りするとき、白蓮はどのような思いを胸に抱いていたのでしょうか。



長屋門も福岡、飯塚で百年近くの歴史を有しています。



駐車場の西側には伊藤家の墓があります。
最上部の右側が風雲児伊藤伝右衛門氏の墓です。



近くを流れる遠賀(おんが)川。
筑豊炭田の灯が消えて約40年。往時は石炭を運ぶ船で賑わいました。
白蓮の2階の居室からも船を眺めることができたそうです。
その後、鉄道が石炭を運ぶようになり、やがて世の中のエネルギー源は石油に取って代わられました。

 「遠賀川小暗き中に銀色の光は長く 夜は明けそめぬ」

この河川敷に白蓮の歌碑が建てられています。(「飯塚市と柳原白蓮」のページに紹介しています。)


   
  (参考文献)
「伊藤伝右衛門物語」深町純亮 飯塚商工会議所HP
「旧伊藤邸よもやま話」深町純亮 飯塚商工会議所HP
「白蓮 娘が語る母Y子」宮崎蕗苳
「白蓮れんれん」林真理子 中央公論社
「愛の歌 恋の歌」坂東真理子 関東図書
「踏絵」(復刻版)
「愛を貫き、自らを生きた白蓮のように 柳原白蓮展」朝日新聞社
   

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