2013年04月17日 22時02分03秒 posted by uruseiblog

私達を介して神が為す

テーマ:ブログ



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神を信じる人間も、それを信じない人間も
この社会の多くの人間に共通していることがあると思います。


それは「誰かがそれをしてくれる」と言う意識であり
「自分が何かを為すのだ」という意識を持てていない事だと思います。


神が居ないと思っているのであれば
社会を改善するのは自分の意志である事になるはずです。


行動をしなければならないのは個々の人間であり
他人に意志を委ねるものではないはずです。


一方では神の存在を信じ神を信仰していると言っても
求められているのは神の意志を実践することです。


それは自らが行動する事ですし
誰かがしてくれるのを待つ事でなければ


神がしてくれるのを待つ事でもなく
救世主が現れるのを待つ事でもないはずです。


神は私達が願えばそれを実行してくれる
便利な存在ではないのです。


嘆く事があるならば、そしてするべき事があるならば
それを実践するのは自分自身に他ならないはずです。


私達の社会は無自覚のうちに
それを他人に頼っているのだと思います。


その相手が組織であったり神であったりしているだけで
その意識は多くの人間が似た物を持っているのではないでしょうか。


頻繁に私が取り上げている


「天は自ら助くる者を助く」


の真の意味をアダムスキーが語っていた内容を
思い出してください。


創造主は私達が望んでいる事を何でも叶えてくれるのではなくて
その想いが創造主の意志に叶っている時にこそ
その法は力を貸してくれる事になる。。


しかもそのためには自らが努力する事が大前提でした。


何も自ら行動する事なしに
棚から牡丹餅が落ちてくる事はあり得ないのですし


自分のエゴを持って自分の幸せを願っても
それは叶えては貰えない。


自分のエゴの願いが叶った時には
それは偶然に過ぎませんでした。


そして正しくは天は私達が”神の意志に叶った願い”をして
そのために自ら努力をした時に
その想いを助けてくれると言うのが私達にとっての正しい解釈でした。


単に神頼みを夢見ていたり
神や救世主による救済を夢見ているだけでは
この社会には何の変化もないはずです。


社会を動かすことになるのは
それがどんな想いを持ってであろうが
想いをもってそれを実践している人間達だと言うことになります。


社会が悪しき方向へ変貌しているのであれば
それは悪しき想いを持った人間達の方が
しっかりと行動を出来ているからだと言う話にもなってくるはずです。


想いは私達の行動のエネルギーでもあり、動機でもあります。


強い想いを持ってる人間が行動してそれが社会を変えていく。


強く正しい想いをもって行動できる人間が増えれば
きっとこの社会も変わっていくのだと思います。


私や兄弟姉妹だって、想いを持っての行動が
見えない影響を他人の心に対して齎す事ができていると思います。


それがすぐに表に見えて現れるものでなくてもです。

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591 :神も仏も名無しさん:2013/01/26(土) 17:16:57.00 ID:CMXUb7vA
少なくともキリスト教が主張する神は存在しません。
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真理はこの人間の主張とは正反対で、

私達の理解ではキリスト教が主張するような神しか
この世には存在していないことになります。


神とは人間が三次元器官としての視覚・聴覚・味覚・嗅覚をもって
認識することの出来ない存在であり、


私達が現象として認識できない見えない法則の全てを
司っている存在です。


正しくは私達が神と呼んでいるものは
意志ある存在としての創造主本体ではなくて


創造主の残像思念ありそれで満たされている四次元空間であり
その思念の一部である私達の魂です。


私達はその魂の存在ゆえに
時には創造主の意志により導かれることになりますし
肉体の心がその意志と反発している存在でした。


その存在は多くの人間の場合、
私達の心のエゴと照らして決して心地良い存在ではありません。


私達が心を持って作り上げた価値観は
創造主の価値観と大きく異なっているからです。


しかしその神は私達にとっての模範でもあり戒律でもあり
真理でもある存在です。


”キリスト”と言うのは真理であり神の想いですし、
それを実践していたことでイエスはキリストと呼ばれました。


そしてイエスキリストの行動や主張が
誰にでも心地良い物ではなかったように
本当の神は誰にとっても心地良い存在だと言うわけではありません。


一方、この社会の多くの神は
自分達のエゴを持っての行動を正当化してくれる存在であり


自分達の心を心地良くしてくれる存在であり
その神は普遍的なものではありません。


特定の人間達にとっては真理を与えてくれて幸せを与えてくれる存在であっても
他の人間には時には不幸を齎す神ですし、
他の人間と戦ってそれを倒すことをも認める神だからです。


それは、万物の生みの親であり
万物に対して平等に創造主の法を持って
恵みを与えている創造主の姿とは異なります。


人間が自分の価値観を持って
自分にとって都合の良い神を作り上げていることに
私達は気がつくべきだと思います。


例えばこの世には”私達にお金を齎してくれる神”がいます。


お稲荷さんの様な存在です。


元々のお稲荷さんの齎すと言われた功徳が何かは
私には判りませんが


農家の豊作や人々の健康を祈願するための
存在だったのかもしれません。


しかしそれが偶像という形をとっていた弊害もあるでしょうが
今では商売繁盛、お金儲けの神として君臨しています。


実際にそんな神が存在しているのかと言う話もなるかと思います。


創造主の法を理解している私達には
お金儲けを推奨してくれる神の存在など理解出来ません。


例えば少なくともこの太陽系では
お金を崇拝する習慣を持っているのは地球社会ぐらいのものでしょうし
お金を与えてくれる神は他の惑星には存在しないことになります。


それ以前にイエスキリストが語っていたように


「私達は神と富との両方に仕えることは出来ない」


と言う例えは、神への信仰と物欲とが
意識としてかけ離れたものであることを示しているのです。


神は私達に魂の経路を意識させる存在であり、
富(財産やお金)は私達に心を意識させる存在です。


私達はその両方に仕えることは出来ないと言うイエスの話は
私達が意識すべきは心ではなくて魂であるという意味でもありますし


そのためには私達が物欲に支配される事は妨げになると言う
話にも繋がって来ます。


そして私達に、地上に蔵や金庫を作ってそこに富を
溜め込むのではなくて
”天の国に財を積むこと”を意識しなさいと言っているわけです。。


天の国に財を積む行為とは言うまでもなく
万物に対する無償の奉仕のことです。


行動の動機で考えれば、


一方は心の欲やエゴと言った自分の心を心地良くする事がその動機であり
一方は創造主の教えとしての生き方を意識して
それを動機としていることになります。


そしてもちろんそれぞれを司っているのは
一方は脳機能を中心とした心であり、一方は私達の魂です。


私達が物欲を持って生きることを
「富に仕える」といってそれを良くない事だとし


私達のあるべき生き方として

創造主の予定していた神の分身、神の子としての生き方を実践すべきだと
イエスキリストは言っていたはずです。


そして私達の心の欲やエゴを使用しては
私達を堕落させる象徴としてサタン=悪魔を
イエスキリストは繰り返し触れてもいました。


つまり財産やお金に仕える行為は
そのままサタンの誘惑に負けること、


もしくは心のエゴの塊の象徴でもあるサタンを
崇拝する行為でもあることになります。


ところでこの社会の中で
自らにお金や富を齎してくれる神と言うのは
一体どんな存在なのでしょうか?


言うまでもなくそれは私達が心を持って願うことを
叶えてくれる象徴であり


心のエゴを満たす象徴、イエスの理解で言えば
それはサタンであり悪魔だと言うことになります。


私達は自分達の欲を満たしてくれる存在である悪魔を
神であると勘違いして拝んでいる事になります。


もちろんその想いは心から出ている肉の想いです。


私達の御霊と言われる魂には
物欲やエゴを満たしたいという想いは存在してはいないからです。


この社会がお金で成り立つような仕組みとなっているために
その中では良き事を実践するにも
時にはお金が効率的に使用出来る事にもなります。


創造主の法を広報するにもお金が利用できれば
その効果は高まることにもなります。


でもそのお金はあくまで広報の手段であって
私達がお金を得ることを目的としてはいけないことになります。


そしてこの社会の人間の多くを
心の価値観に縛り付けているその原因は物欲であり命への執着です。


イエスキリストは、私達の人間として持ち易いその想いが
サタンといわれた人間達の思想や策略に利用されることを
理解していたからこそ、


「肉を斬る者、肉体を殺すものを恐れるのではなくて
魂を斬る者、私達の真の命を奪える存在を恐れなさい」


と教えたのですし


先述のように
「神にも富にも仕えることはできない」


繰り返し、これらの趣旨の詳細を私達のあるべき姿として
聖書の中で例えをもって語ってもくれたのだと思います。


私達は自分達の心を持って神を作り上げていて、
その神は私達の心にとっては心地良い願いを叶えてくれる存在です。


しかしその私達の心が心地良いと願うものが
エゴや本能や負の意識で満ちる事になっているのですから


それを満たしてくれる神はそのままサタンの意識だと
言うことにならないでしょうか?

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聖書を取り上げている多くの人間達の議論を見ては
気がついたことがあります。


誰もが自分の思考能力に応じて
それを読んでいるのだという事です。


誰もが自分の持っている価値観こそが正しくて
自分は何でも知っているつもりになっているのですから
その読み取り方も百人いれば百通りになるかもしれません。


しかし私達の思考には価値観や知識の限界もあります。

思考能力の限界もあります。


イエスは「私達が見ているが思考せず
聞いているが悟ることはない」
と触れていましたが


これも個々の人間の知識や思考と
無関係ではないと言う例を考えて見ます。


例えば”魂”という活字を私達が見たときに
私達はそれぞれがどんな事を考えるかを想像してみてください。


”魂”という活字を見てそれを文字通り受け止めて
それ以上は何も思考しない人もいると思います。


ある人は”魂”から”自分の命”を連想するかもしれません。


ある人は自分の中の”霊魂”を想像することになると思います。


私達生命の科学を実践している人間にしてみれば
”魂”は私達人間の本体であり、もうひとつの意識の経路であり


創造主の意識の分身であり、
神の意志やテレパシーを受け止める経路だと想像することになります。


私達は何かを見たり聞いたりした時に
誰もが同じ事を思考するのではなくて


その人間の知識や思考によって異なったものを
イメージすることになります。


私達は自分を尺度として何事をも見つめる癖がついているので
そんな当たり前の事さえ理解出来ないでいるのではないでしょうか。


活字を見ても言葉を聴いてもそこから受けとめる印象も
その時思考する内容も千差万別となりますが


それはその人間の能力により
理解度が異なっていることを意味するのだと言うことをです。


それは私達が誰もが共通した思考能力と知識を持っていないことの弊害であり
その結果、私達は共通の認識を持つ事が出来なくなります。


さらには誤った価値観を持っていれば
”魂”と聞けば荒唐無稽なものとして
”オカルト”を連想することにもなるかもしれません。


私達の共通認識は心の知識と価値観によって
妨害されていることにもなります。


知識の差による認識力の差は
例えば私達が専門用語を目にした時には
顕著に現れることになります。


例えば会計学の用語で”減価償却”という言葉があります。


これは固定資産や備品を購入したときに
その全額を一度に費用にすることなく


その購入したときに支出した費用を
法定の期間に按分して費用とするする手法です。


しかし聞いたことのない方、知識のない方は
”減価償却”を見てそれが何であるかも理解できません。


軽い知識のある方はそれで上述のようなことを連想するでしょうし

もっと深い知識のある方は


一括償却、個別償却といったその延長の内容をも
想像することになるかもしれないわけです。


このように同じ刺激を私達の器官が受け取っても
それに対する私達の反応や認識や思考は
知識によっても大きく異なることが判るかと思います。


聖書を読むにしても、イエスの言葉を読むにしても
まったく同じことが言えるはずです。


聖書のイエスの言葉や聖書の内容を批評している人間達は
自分の知識と理解の範囲でそれを語っているに過ぎないのです。


私達は生命の科学、そして三次元と四次元、
肉の想いと御霊の想い、そんなものを全て理解して


しかも聖書の演出者が太陽系の兄弟姉妹である事まで理解したうえで
聖書を読むことになります。


その結果与えられた情報は知識の足りない人とは
異なったものとなる事になります。


そしてイエスキリストの求めていたものが何であるか
私達に勧めていたものが何であるかを
より正しく理解出来る事にも繋がっているはずです。


私達が理解しあうことが出来ないのは
人間それぞれが自分の知識や価値観を絶対的なものだと
認識している事にあるのだと思います。


そして例え共通認識を持つに至らなくても
私達のように自分の知識や理解が取るに足らないものだと言うことを
一旦認識することが出来て


その上でイエスの言っていた赤子のような意識で
それを積み上げようという意志のある人間は
お互いを理解しあうことも出来るようになるのだと思います。


私達は心の価値観を魂の価値観に置き換えて
相手を見つめることも出来ます。


お互いの至らなさを理解しあって
その上でそれを補い合うことも出来るからです。


この社会の中の自称善人や
自称博識者の惑わしに誘導されることなく
正しい道を指し示し進むことが出来るのは


真の創造主を理解した人間だけです。


私達はサタンの誘惑から逃れる術を理解している貴重な存在。


それをしっかりと自覚して生きていきましょう。


神が私達に何かをしてくれるのではなくて、
神は人間を通して何かを為すのです。


それをイエスキリストが実践していたのを
忘れないでください。



【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

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