2013.04.17
罵倒の運用について
罵倒のようなやりかたにも使いかたがある。誰かを罵倒することで、その人の背中を強力に後押しするような効果を期待することもあるし、同じ罵倒のやりかたであっても、誰かを徹底的に否定してみせることで、その人から抵抗の意思を奪い去るような効果が期待できることもある。
海兵隊の教官は新兵を罵倒する
海兵隊訓練教官の罵倒を集めた記事を読んだ。
テレビ番組でときどき紹介される海兵隊の訓練風景は恐ろしいけれど、文章として罵倒の言葉だけを取り出すと、訓練教官をやっている人は、罵倒であっても相当に言葉を選んでいるのだろうなと思う。
訓練教官の罵倒は、読んでいて面白い。新兵に対して、何か「できなかった」ことを叱るのではなく、新兵ごとに到達点を仮想して、「やらなかった」ことを叱る。同じ「できない」を表現するにしても、結果を叱れば「お前は無能だ」というメッセージを送ることになる。できたはずの到達点を仮想して、そこに到達するためにベストを尽くさなかったことを叱れば、罵倒は「お前はもっと先にいけるはず」というメッセージに転化する。
公平の徹底は難しい
海兵隊の教官は、新兵を本当によく見張る。誰に対しても罵詈雑言をぶつけて、教官はひたすら怒鳴り続けて、全ての新兵に公平に理不尽をばらまこうとする。
映画「フルメタル・ジャケット」で、ハートマン軍曹は「俺はお前たちを公平に扱う。すべて平等に価値がない」と新兵に告げる。映画でも、あるいは実際の教育風景でも、「公平」はたしかに徹底されているように見え、あれをやるのは大変な労力がいるのだろうと思う。
気に入らない誰かを罵倒して、一罰百戒よろしく抑止力を期待するのは容易だけれど、それをやってしまうと、罵倒は単なる統治の道具になってしまう。教官に気に入られた新兵は楽ができるし、罵倒の対象になった新兵は、どれだけ頑張っても成果が認められることはないから、結果としてチームの到達度が低くなってしまう。
チームの背中を押すための道具として罵倒を運用するためには、罵倒という理不尽を、そこに集まった全ての新人に、公平に配分することが必要で、公平が徹底できないと、新兵の教官に対する信頼が損なわれてしまう。
ガスコンロでカレーなりシチューなりを作ろうと思ったら、材料を入れて火をつけて、焦げないようにずっと見張っていないといけない。お鍋に材料を放り込んで1時間、目についた材料を適当にバーナーで炙ってみせたところで、火の当たらない材料は煮えないし、いつまでたってもカレーはできない。
生煮えになった料理を前に野菜を罵倒する人は頭がおかしいけれど、「教育のために」罵倒を運用しようとする人は、往々にしてそれをやらかす。
餃子の王将における新人育成
ずいぶん前に話題になった、「餃子の王将」で行われている新人育成の番組を見た。同じ罵倒を用いた合宿形式の研修であっても、そこで行われていることは、アメリカ海兵隊とはずいぶん異なっているように見えた。
ビデオでは、受講生には到底達成不可能な課題が出されていたり、あるいは合格の基準がはっきりと示されないままに、講師の人が受講生に合否を一方的に言い渡す場面があった。誰もが大声を出して、場の空気は張り詰めていて、「気合の抜けた」受講生が真ん中に引き出されては、集中的に面罵されていた。
セミナーの目標は、海兵隊のそれと、餃子の王将で行われているやりかたとでは異なっていた。軍隊方式のやりかたは、新兵に対して到達度が示され、体力/知力の限りを尽くしてそれを達成することが求められる。餃子の王将で行われているやりかたは、むしろ思考の放棄を目標にしているように見えた。
「合格しろ」と命じられるのと、「不合格だ」と断じられるのとでは、状況は同じであっても、受け取る側の意識は異なってくる。合格を求められた誰かは、もっといいやりかたを考える。不合格と断じられた誰かは、講師の意にかなうよう、同じ事を繰り返す。
後押しの罵倒と思考放棄の罵倒
新興宗教の洗脳合宿は、思考の放棄を目標にする。到達点を示すことなく、合否のみを言い渡したり、やりかたを指示せずに「気合を入れる」ことだけを求め、何度もやり直しを要求したりする。背が低かったり目が悪かったり、性別や人種のように、努力で克服不可能な何かは、誰かに対して決定的な否定を突きつけるときの足がかりとして役に立つ。
海兵隊の教官が新兵を罵倒するときには、そうした克服できない何かを注意深く避ける。新兵を理不尽に罵倒しているようでいて、たとえば背が低い新兵に対して、背が低いことで失敗した何かを叱るようなことはしない。教官が面罵するのは、たいていは「新兵のパンツ中身」のように、状況とは無関係な何かを適当に妄想であって、自分の妄想を自分で罵倒してみせるから、文章に起こすと笑えたりもする。
軍隊は「ノー」を禁じない。「話しかけられたとき以外は口を開くな。口でクソたれる前と後に”サー”と言え」というハートマン軍曹の教えにしたところで、「俺の言うことに対してノーと言うな」とは一言も言っていない。新興宗教や餃子の王将で行われるセミナーは、たぶんノーと言える人を求めていない。
罵倒の運用について
誰かを後押しするためにせよ、あるいは思考の放棄を迫るためにせよ、罵倒という道具はよくも悪くも強力で、その行使は邪悪であっても、実際にそれを運用して役立てている人は世の中にいる。
現代軍隊の特殊部隊に所属する人たちは、命令に必ず従う殺人マシンみたいな人と言うよりも、むしろ何かを頼む上ではものすごく面倒くさい人なのではないかと思う。ああいう訓練を受ければモチベーションこそ高いだろうけれど、自分たちの意図をきちんと説明できないと動かないし、現場からの突っ込みに対して上司が矛盾なく返答できなかったら、なまじ仕事ができる集団だけに、上司は簡単に無能認定されてしまう。
餃子の王将的な罵倒の運用を受けた人は、「反抗しても無駄」という思いを徹底的に叩き込まれるだろうから、上司としては部下を扱いやすくなる。その代わりなにかあっても判断をしてくれないし、上司が無能なら、チーム全体が無能化するから、達成できる成果は低くなってしまう。
海兵隊と餃子の王将と、セミナーのやりかたとしてどちらが優れているというものではなく、求めているものが違うだけではあるのだと思う。極限状況でも冷静な判断を行い、作戦を遂行できるような人材がほしければそうしたセミナーが必要になるし、上司の命令には必ず従い、命令とあれば法律や道徳を破ることも厭わないような人材が求められれば、そうしたセミナーを提供するサービスが出現するのだと思う。
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