眠い人の植民地日記

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help RSS 京都は町火消し人足の備え無し

<<   作成日時 : 2013/03/23 23:28   >>

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今日は午前中、昨日買った本が届いたので、それで叩き起こされ、その後、医者に行ってリハビリ。
でもって、昨日処方された薬を貰いに薬局に赴き、昼飯などを買って帰ってきました。
午前中は非常にうららかな日でしたが、午後から曇って少し寒くなってみたり。
それにしても、今日は桜が満開でした。
我が荒ら屋は良い位置にあり、窓の外を見れば直ぐに花見が出来るので、逆に桜のありがたみが薄れてしまいます。

しかし、各地では桜の満開が前倒しになっているので、色々と困っているところもあるそうです。
そう言えば、河津桜でしたっけ?
何処かで早咲きの桜の開花が遅れたので、ヒーターか何かで桜の開花を早め、祭りに間に合わせたのは…。
江戸時代から、何かの行事に間に合わせようと、植物に色々と働きかけているのは、伝統としてあるのですから、別に目くじらを立てなくても良いと思うのは私だけでしょうか。

さて、カクレの話しばかりで、ちょっと精進しすぎたので、そろそろ目先を変えて、また京都の話。

江戸時代の『守貞謾稿』に於て、喜田川守貞は「京都は町火消し人足の備えなし、これ火災稀なるが故に」と書いていますが、京都は以前も触れた様に、結構大火が多い土地でした。
それでも、守貞がこう書いているのは、あくまでも江戸に比べての事です。
江戸では、特に下町では、3年に1度は自分が住んでいる住居が焼けました。
京都は、それに比べれば少ないですが、それでも平均すれば1年に2度は記録に残る火災がありましたし、町火消も存在しました。

江戸期初頭、京都での火災は、放火がその原因のトップでした。
特に豊臣氏が滅びた1616年頃には、その残党が未だ各地を徘徊しており、徳川政権に報復として、京都や大坂で放火を繰り返しています。
例えば、この時放火犯を匿った「すみや町九兵衛」なる町人が処刑されたのですが、その際には町内の10人組まで処刑されるという苛烈な罰が科せられています。
また、1620年にも、徳川和子の入内に反対する勢力が放火を繰り返し、町家を数千軒も焼きました。
この年、上京の冷泉町では、町内消防に関する「火事定め」を申し合わせています。

1653年6月にも放火が頻発、禁裏御所まで焼失しました。
天皇が座す禁裏御所と言う、京都で最も重要な消防対象まで焼けた訳です。
因みにこの時燃えたのは1641年に建築されたものです。

徳川政権が安定してきた頃になると、放火は影を潜め、自然出火が増加します。
その原因を研究した小田東叡と言う人物が、『防火策図解』なる本を出版していますが、それによれば火事を起こすのはこんなものが原因となっています。
(前略)初発は僅かな消炭の残火、炭壺の中に起こり返り、…床下に入れ置くところの灰桶のぬくもり、…物置、二階などに灯火を置き忘れ、煙管の吸殻、…子供の戯花火の類、または大部屋、台所、普請小屋、…貧しき者共寒夜を凌ぐ為に抱く火桶、或いは炬燵の埋火または提灯をとぼしながら、枕元に起きて寝忘れ蝋燭の火より燃え移り、…焚火を頑是無き子供に打ち任せ置き、…熟睡して火を焚きながら居眠りして相発し、…蚊遣りを焚きながら居眠りして発するの類、これみな孤独の貧者、一時の過ち止む事を得ざるにより発す(後略)
「孤独の貧者」の消し忘れが大部分であるとし、「火の用心手薄の片隅、孤独、極貧の小家より発す、宜なるかな」とも記しています。
江戸時代の画家司馬江漢も、『春波楼筆記』に、「火を粗末にする事は軽き者」、「家無ければ財無し、衣服薄ければ…火事あれば幸いと思うべし」と同情を寄せています。
因みに、放火が頻発した1653年6月に「人妖」と罵られて処刑された放火犯は、「十四、五歳の児女数人」だったと言います。
これも、もしかしたら寒空に暖を求めたのかも知れません。

勿論町人は、「御公儀様より仰せ出され候御法度は申すに及ばず、家内火の用心、大切に相守り申すべき事」と安易な火の取り扱いを戒めたのですが、それでも火事は避けられないとの認識でした。
この為、江戸時代後期に町奉行所与力が記した『京都東町奉行所御番方与力覚帳』と言う与力マニュアルにも、火を出した者の処分は、「類焼家数、怪我人の議」を勘案するとしながらも、「手過」即ち過失なら、類焼10軒程度でも、町奉行所に呼び出し「御叱」だけとあります。
出火届の提出遅れや、出火原因の究明に役人の手間を掛けさせても、過失の場合は、精々自宅一室に3〜4日程度の「押込」で済みます。
放火犯が「死罪」、放火を唆した者が「火罪(と言っても実際には事前に絞殺してからの火焙り)」であるのに対し、遙かに軽い処分でした。

京都の都市伝説に、聯隊の弱兵ぶりを揶揄する戯歌とかがありますが、町火消についても素人衆ばかりで、皆怖がって逃げ出したので大名火消が頑張ったと言う見方があります。
とは言え、京都の中心で火事があったとして、その焔が大きくなるまで10数分。
月番の大名火消が膳所本多家の京都藩邸火消屋敷は八坂神社石段下にあります。
火の見櫓から煙を遠望して、駆け付けてくる決まりになっていますが、道具をもっての移動速度は、精々5kmを越えません。
そうなると、直ぐに発見して装具を調えても、10分では鴨川を越えたくらいであり、着いた頃には手が付けられなくなっているはずです。
つまり、町家が火事になったとき、その後も生活できる状態で消し止める事は大名火消には難しい事な訳です。
では、誰がそれを小火で消し止めていたのか…それを考えれば、先ほどの見方は消えるはずです。

話を戻して、1659年1月25日には薬師町の松屋から出火、18町の町家600軒が焼失しました。
1661年1月15日にも禁裏御所や周辺568軒が焼け、禁裏御所は江戸期2回目の焼失の憂き目を見ます。
そして1673年5月8日には、関白鷹司家から出火し、禁裏御所や周辺の公家屋敷群が形成する公家町、周辺100町の町家5,000軒が焼失し、江戸期3回目の禁裏焼失、1675年11月36日や1676年12月26日にも上京で大火がありました。
流石にこの時は禁裏御所は無事でしたが、御所周辺ではこの様に大きな火事が立て続けに起きています。

この京都の消防と言うのは建前上、京都所司代及び京都町奉行所の役目であり、彼等が町々から集まる町火消を指揮しました。
そして、御所との関係を楯にして消防に非協力的な者や、都市交通の滞留に目を光らせていました。
これに対し、町人も積極的に消防に加わり、成果を挙げていました。

しかし、下立売付近の町家1,000軒が焼けた火事があった1690年、老中は所司代の役目で京都の消防担当を意味する「京都火消番」を、畿内や近江の小大名家に肩代わりさせる制度として「京都火消」を整備しました。
こうして、京都の町々の消防体制を強化したのですが、1697年、消防行政に熱心な松平紀伊守信庸が所司代になり、1706年に京都火消を廃止し、所司代が再び京都火消番を兼務しました。
ところが、1708年3月8日、油小路通姉小路通下ルから出火、嘗ての「応仁の乱」よりも被害が大きな「宝永大火」となりました。
この火事では、罹災500町に及び、燃えた町家は約14,000軒、またも禁裏御所が焼失します。
散人春翁と言う人が書いた『音無川』と言う実録本では、「人の声慌ただしく、あまりの焔にあたり耀きて、焼け落ちる音は雷のことならず、八方へ降る火の粉は雨の如し」とあり、阿鼻叫喚の巷が其処此処で展開されていたのは容易に窺い知る事が出来ます。

焼け出された多くの町人は、鴨川の河原や、京都近郊農村の田畑で、「人相もふすぼりかえり、色黒く、髪は鍾馗様のお髭を見るが如くにして、都の人には見えざりけり」と言う有様で、正に茫然自失の態だったのですが、そこはバイタリティある京都の町人、直ぐに再建ブームに沸き返り、「昼は土ほこり立ち、さしかけの普請の音こそかしましけれ」となります。
勿論、建築材料は膨大な量に上ります。
普段は、保津川水運で運ばれる丹波材が主でしたが、とても足りないので、「竹や丸太、杉皮を、近在の山々林を伐り立て…売木の青々生々」しいものが、「馬と車」で引かれて来、「古家こぼち売れば、新しき時の価に倍せり」、「田舎よりも家をこぼち、門を崩し、山林の竹木かわり馬車につみ出す」とある様に、わざわざ解体した近隣農村の百姓家の部材が、高値で飛ぶ様に売れました。
勿論、「売り家あれば所により家により、五軒の価」と言うバブル状態です。

職人も引く手数多。
「仮屋の普請に鍛冶屋や材木屋は通いの付次第、大工、左官、屋根屋に至るまで言いかけ次第の手間代は三倍増」、「爺様や青二才野郎もうちまじり、わやわやもやもやとたばこ茶」で1日を過ごし、中には、大火直前の貨幣改鋳で京都銭座から出された大銭を信用できないとして、「われらは取りませぬ」と言うくらいに増長しました。
彼等の殆どは、幕府御大工で京都支配である中井家役所の管理が緩んだ隙に入り込んだ流れ職人だったと考えられます。

こうした中、京都所司代と京都町奉行所は18年前の老中命令を実行します。

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