|
『全体目次』 『小説目次』 『本作目次』
2-2-14 蒲団蒸しの熱れ
扉が開け放たれた瞬間、重厚な熱気が大挙して大村と有希に吹きかかってきた。熱れ(いきれ)というやつだ。ボイラーのそばに顔を近づけると感じるあれ。鼻を覆いたくなるような臭気も含んでいる。
さらに大勢の男子部員達の奇妙な歌声も耳に飛びこんできた。
「早く入って戸を締めんか!」
それらすべてを振動させる男の怒声が轟き渡った。
中西益雄の胴間声である。
「・・・こりゃどうも・・・」
校長はこそこそと背を丸め恐縮し、さっと敷居を跨いで室内へ入りこんだ。
「有希君、愚図愚図しないでっ」
さすがに面食らった表情になっている有希は校長に呼びつけられ、続くように道場へ足を踏み入れた。
途端に扉が閉められる。
二十畳はゆうにあるレスリング道場──床に白のリングマットが敷かれており、壁際に沿って十数名の男子部員達が立ち並び、それを囲んでいるのだった。彼ら──歌声の主達──は皆、坊主に頭髪を刈っていて、体重別に整えられた様々な体格を、試合で着るワンピースのユニホームで包み、中には竹刀を手にした者もいた。ユニは学園のシンボルカラーである海老茶色である。
歌はおそらく応援歌のようなものなのだろう。威勢を強調した軍歌調のテンポである。劣悪な音質の再生装置から流れるカラオケに合わせているのだった。扉を閉め切ると騒音に等しい喧しさは一気に道場を覆いつくした。
とうぜん彼らの剥きだしの肌は大汗を光らせていた。
マットの中央にはサークルが赤く描かれ、その内側には三名が座りこんでいる。
彼らは顔まで隠れるほどの大きな毛布を身体に巻いていた。
薄汚れた毛布は厚手であり、しかも一枚ではなく何枚も重ねている。
一人は階級でいえば重量級のようで輪郭が大きく見え、他の二名は軽量級サイズであろうか。
その風情は、川や海で溺れてやっと救出され、たき火に当っている憔悴した遭難者のようだった。
室内の温度はサウナほどもある。
初夏だが気温は夏日に届いている。
窓は閉め切られ、換気扇も回っていない。
いやそれどころの話ではない。
道場の正面には石油ストーブが三台、一メートル間隔で置かれ、がんがんと焚かれているではないか。小窓から覗ける炎の橙色の揺らめきは熱量の最大を示しているようにしか見えなかった。
「せっかく生成した『気の組織』が崩れるではないか、校長!」
道場を横から見渡せる位置に中西益雄が仁王立ちしていた。
彼もまた胸の前で竹刀をつき、杖のように握っている。
白のポロシャツは半袖で、半ズボンも白。そして汗一つ掻いていない涼しげな表情。道場の状況から、一人浮いている印象だ。隣に立つレスリング部の監督である体育教諭の波多野がジャージにまで汗の染みを滲ませ、顔にもだくだくと滝の汗水を流しているのとは対照的であった。
「扉は完結する循環を断ち、外部より穢れを混入させる鬼門でしかない。開放が長ければ長いほど平衡が危機に瀕するのだ」
中西はそのドングリ眼で、後頭部に手をやり恐縮しきりの大村校長の横の、志方有希教諭をねめつける。このよく鳴く小雀は驚愕の眼差しで道場に起こっている事態を把握しようと躍起になっているようだった。
すでにその顔は熱気に当てられて蒸化してきており、肌も汗ばんできている。
だが三名の正体を知れば今の何倍も総毛立つだろうがなと中西も大村も腹の底の感想は一緒である。
「・・・これは・・・」ようやく声を絞りだす有希。「・・・減量ですか・・・」
「大村さん──」
中西の頭には顧問教師の言葉に答えようという意識はまったくないのだった。
「──近頃の校長というのは部下の教員に挨拶のやり方も躾けんのですか。神聖な道場に一礼もせず足を踏み入れて、責任者である波多野君を無視して意見を先に述べる。それがR高校の校風ですかな」
「いやあぁ、そのご指摘について一般常識を納得させる答えを用意できないのは内心忸怩たるところではありますですねハイ・・・」
「この高校に嘱託として迎え入れられて以来、ずっと懸念を抱いていたことだが、女子教育のずさんさは生徒は言うに及ばず教職員においても同質の悪弊をもたらしている。まあ私に許された権限では陸上部の規律を正すのが精一杯だが、それで収まる話ではないはずだ。この波多野君のように賛同してくれる有志も徐々に増えてきているとはいえ、肝心の大村さんあんたが目的意識を強く持ってもらわんと、抜本的な正常化なぞ、いつまでたっても望めませんよ」
「うーん、相変わらず厳しいところを厳しくついてきますな中西コーチ。おいおい有希君、聞いてるの、頼むよ君ぃ」
中間管理職の体になっている大村は、依然として毛布姿の三人に目を釘付けにしている有希の背を叱咤激励を装ってポンポンと叩いた。
──途切れることなく連続する応援歌──
肩につづいてのタッチだったが、ジャケット越しに肩甲骨ばかりでなく背骨の感触も伝わってきて、女体イメージがより明確化されてくる。汗の掻き具合もわかるようだから、生理現象の深いところまで実感できるようだった。インターネットのデータ情報では起こりえない猥褻感に大村は生唾を飲みこんだ。
「校長っ」
有希が叫んだので大村は思わず手を引っこめる。
「これは『蒲団蒸し』でしょうっ」
「へ? ああ、そう・・・か・・・な・・・」
自分の身体を弄られていたことなど気づいていなかったのだ。有希は教師としての任務のために集中していたのである。
「『蒲団蒸し』は体罰の一形態だと市の課外活動指針にもはっきりと書かれています」
かなり学習を積んできたなと大村は有希のきつい横顔に愛憎相反する感情を抱きつつ思った。一筋の汗がこめかみから頬を流れ落ちている。鼻の頭にハイライトがともっている。
「有希君、その前に波多野先生と中西コーチにご挨拶を」
「そんなことを言っている場合ではないでしょう。禁止項目リストにも載っている体罰が目前で進行しているのですよ。即刻やめさせないと」
「あの指針はねぇ。公立学校に向けられたものだよ、うちのような私立は拘束を受けんのだな」
「厳密な法律の話をすればそうでしょうけど、公立も私立も教育機関に代わりはありません。生徒を危険な状態にする体罰が認められるはずもないわ」
「有希君、越権ですよ。君は陸上部の顧問でしょう。レスリング部のことはレスリング部の顧問にお任せして。だからまず波多野先生と中西コーチにご挨拶を」
「中西コーチも陸上部の担当では!」
「それはだから君とは実績がちがうわけで」
「私はR高校の教師です。本校の生徒があぶないというのに黙っていられるわけがない。校長のご判断をお聞かせくださいっ」
有希は一歩も引き下がらぬ決意を眼光に漲らせる。やや乾いた感のあった素っぴんだが濡れて生彩が上がってきている。
「君はここにいったい何をしにきたの。山室君の一件を中西さんにお願いするために来たんじゃないの。他にも君に関する不明な疑惑を釈明するって話だったじゃないか。立場を思いだしたまえ立場を」
「お願いになんか来ていません」ピシャリと言い放つ有希。「面談からお逃げになられるようでしたら恥ずかしいことだし、デマは誹謗中傷と同次元ですからねと、それぞれ忠告しに来ただけです。釈明? 馬鹿馬鹿しい──」
このとき初めて、有希は視線を中西へ向けてあからさまに敵意を飛ばした。
「やれやれ大村校長。埒が明かないとはこのことだ。婦女子の議論は古今東西、このようにどこまでも本質からずれていく慢性病を患っている。男子が付き合って天下のためになる類いのものではない」
中西は有希の視線など痛くも痒くもない顔をして波多野にも何事か耳打ちした。
「──校長、あなたが見て見ぬ振りをするというのだったら、もう配慮しませんよ。あなた方もよろしいですねっ」
あなた方というのは波多野と中西のことだろう。もちろん彼らの返答など待たずに、有希はマットに向って歩きだした。三人を解放するため決然と実力行使に出たのである。
「待てっ」
中西の声が響いた。
聞く耳を持たずと進み入る有希。
「アッ──」
しかし数歩もいかぬところで、彼女はポニーテールが跳ねるほどガンと仰けぞり、たたらを踏んだ。
竹刀を掴んでいたはずの中西の腕が伸ばされ、親指と人さし指で、志方先生の耳をペンチのように挟んだのだ。
「痛っ」
遭難者状態の三人へ向いていた身体が、まず伸ばされた耳たぶに応じて顔が90°に曲がり、それから強烈な引力に負けて胴部全体も横向きになった。そのまま有希はバランスを崩しつつ床を踏み鳴らして中西の傍らまで戻ってしまう。
「放してっ、何するの!」
「耳が聞こえぬようだから、少しこうして大きくしてやっているのだ」
180センチを超える偉丈夫の中西が、さらに腕をダンベルでも持ちあげるようにするので、有希の耳たぶは皺をなくすまで引き伸ばされている。
すぐに香辛料のように充血してきた。
──途切れることなく連続する応援歌──
しかし男子部員達の目は女性教師の塗炭の様子を覗いて炯っている。薄笑いすら浮かべている。
ウサギの耳にされた彼女は爪先立ちして少しでも苦痛を和らげようとするも、歪んだ表情の顔はきつく傾き、引っ張られている側の法令線だけを目立たせる痛々しさで、両手細腕による中西の片腕暴力への懸命な抵抗など、まったく手がかりを得ることなく空を切るばかり。
「土足でマットに上がるとはどういう料簡だ!」
拡張されたその耳へ、仮借のない怒声を浴びせそそぐ中西。
「緊急事態でしょうっ。そっちが優先よ!」
少しも退かない剣幕に中西は片目だけ薄く細めた。彼にとってはこれが苦笑の表出なのである。
有希はさらに叫んだ。
「校長っ、早くやめさせてくださいっ」
犬猿の仲の彼に助けを乞わねばならないのは屈辱的だったがどうしようもない。
「私になんか配慮しないんじゃなかったの。そんなにコロコロ宗旨替えしてちゃ教師としての信用にかかわりますぞ」
「校長! うぅっ・・・」
中西がいっそう力をこめたらしい。有希は法令線だけではなく目尻にもキチキチの小皺を作って激甚の痛みに耐えようとする。
大村が腰を折り、手を揉みながら、中西へようやく声をかけた。
「コーチ、お怒りはごもっともですが、ここはまず穏便に。尻は青いが、気持ちだけは純な新米なのです。長い目で育てる寛容さこそ必要でしてハイ・・・」
しかし中西は校長の懇請など黙殺して波多野へ向かって言った。
「やむをえない──」引っ張るだけだった女教師の耳を今度はグリグリ回す狼藉開始。「──気は乱れるが三人の顔を拝ませてやろう」
耳が一回転するごとに、有希の顔も上下動をくりかえす荒々しさ。熱気にほだされていたその容貌は苦痛と恥辱にも炙られて、いまや紅潮の上気に染まっている。汗はほつれ毛の数と同じだけ流れだしていた。
「いやはやまったく手のかかる空想的人権主義者ですな」
波多野の言葉は大村に輪をかけて中西へのへりくだりに満ちていた。
「この減量手段が体罰でないことは明白なのに。有希君、また勇み足やっちまったねぇ」
「どこが勇み足なんですっ。波多野先生、目を覚ましてくださいっ──アタタッタァタッ──」
なんと中西ばかりでなく波多野まで、有希の耳を摘みあげたのだった。どんなトレーニングをすればそうなるのかというほどの、節くれ立った太い指で、コーチの担当している耳の反対を容赦なく万力掴みした。耳たぶから伝わってくる熱が女体の芯を感じさせ、波多野は昂揚感を押さえきれない。
「さあその目でしっかりとたしかめるのだ。己の過ちをな!」
屈強な男二人は有希の悲鳴にかまわず歩きだす。
肉体の急所といっていい無防備な耳を両側から牽引されて、志方先生は足を踏ん張る抵抗もできずにそのまま彼らに付き従うしかなかった。
マットに乗る手前でいったん立ち止まった二人は上座へ向って深々と黙礼した。
その動きを追うように、有希もまた自動的にお辞儀をすることになる。
背後からつづいていた男子部員の一人が、有希の足元へ屈みこみ、彼女の革靴を脱がしにかかった。
「なにをやってるのよっ」
「土足厳禁ですぞ、有希君」と波多野。「神聖な環境は守らねばならんのです。小城、かまわないから早く済ましなさい」
しかし小城と呼ばれた部員が靴ばかりでなくソックスまで引き剥がそうとしているのを悟ると有希はジタバタと暴れ始める。
すかさず両耳への万力が凶悪になった。
「足の穢れこそ甚大なのだ。大人しく清めを受けろ!」
引き伸ばした耳へ再び咆哮の如き中西の声が炸裂する。
「ほう、さすがにズボンを愛用しているだけあってストッキングは履いてませんね。悪い心がけではありません。素足なら清めやすい」
波多野の言葉どおり、小城の手には雑巾が握られ、それでもって女教師の桃色の足裏を拭うのであった。
「土踏まずもアーチを作ってる。外反母趾のない綺麗な足ですな。中西コーチの想像どおり運動に向いた構造だ」
土踏まずや踵どころか、足指の間にまで雑巾を挿しこんで拭くしつこさに有希は切歯の表情だ。
「あとで波多野君得意の足ツボマッサージでも志願すればよい」
「──っ、あなた達、少しおかしいんじゃないっ」
暴力行為に怯えることなく、有希はまだ訴えつづけている。
「おかしいのはお前の方だということを目撃させてやろう」
ひときわ万力を強めて金切り声を絞りとると、中西はどんどんマットのサークルへ歩いた。
波多野とともに土足ではなかったが、有希が強制されたような素足ではなく、儀礼にも差がつけられていた。
必死に身体を揺さぶってみる有希だったが、最も苦痛の少ないのが、すすんで男達に身を従わせることだと気づかされ敗北感に喘ぐしかなかった。
とうとう三人の前に引きずりだされたウサ耳女教師は、滑稽な自分の顔を三人だけでなく、その後に並んでいる男子部員達の正面にも晒さねばならなくなった。
彼らの中には薄いユニホームの股間を歴然と膨張させている者もいるではないか。
だがそれ以上に有希の視線を奪ったのは足元に座りこんでいる三名だった。
胡座をかいた姿勢で毛布を重ね着しているから、顔は埋まって判別できないものの、頭髪の渦は確認できた。
つまり坊主ではなく、豊かな量と艶もある髪の持ち主ということになる。
──女性ではあるまいか。
しかも運動部の女子なら短髪がほとんどである事実からして、三人は成人女性かと思われた。
自分が窮地に陥っている最中であるのに、有希の愕然とした表情から察せられる観察眼の集中力には、ぴったりと身体を寄せて盗み見している中西も一目置かざるを得なかった。
(この小河童は睨んだとおり将来大物になる器だ。今が尻子玉の刈り時になる)
中西は憎々しげに耳たぶを抓りあげた。
「もういい加減にしてっ。この人たちはいったい誰なのっ」
「顧問大先生も知った顔のはずだがな」
中西は右手に持った竹刀を器用に操り、まず廊下側の女の毛布の合わせ目をはだけさせた。この髪が三人の中では一番薄いようで白い地肌が見えたし、白髪も五分五厘、混じっているようだった。
力なくうつむいた顔が竹刀の切っ先によりこじ開けられる。
耳の痛みを忘れて有希はあっと声を放った。
額に白い鉢巻きをしたその病的に生気を失った赤ら顔は知ったものであった。
「三原先生っ──」
三原紀久子は R高校の図書館司書教諭である。年齢は五十代だが、元気溌剌とした肝っ玉母さん的存在だ。学園内では有希の数少ない理解者であり、有希が水面下で模索している学内組合結成にも賛同している心強い味方である。
彼女がなぜこんなところに?
その目も朦朧としてふらつき、有希に気づいているのかいないのか、意識の低下は明らかだった。
鉢巻きには文字が染め抜かれていた。
『研修中』
まちがいなくそう読める。
「三原先生、大丈夫ですか!」
有希はもう一度声をかけ、その身体を支えようと思わずしゃがみ込んでしまい、己の耳を摘んでいる指ペンチの無慈悲さを否応なく再確認させられてしまう。
「触るんじゃない。俗界からの助力は身を清める行いのすべてを台無しにしてしまう。また一からやり直さねばならなくなるではないか」
中西はそう言って苛々と暴れる女教師を耳を操縦してやりこめる。
「・・・こ、これは・・・」
顔ばかりでなく毛布の中の彼女の身体も覗けたが、海老茶色の何かを三原紀久子は着せられていた。
波多野が笑って答えた。
「特製の減量用全身スーツだよ。毛糸のタイツだがね。厚手だから保温効果抜群だ」
爪先から顎まですっぽりと、ワンピースのそれは中年太りの司書教諭の肉体を包んでいた。
「なぜこんなことを。三原先生がレスリング部に入部したとでも言うのっ」
「いくら何でもこんなオバチャン、選手として採用するわけにはいかないさ」
大笑いする波多野と小城、それに男子部員達。
「有希君、陸上部の顧問なのに知らなかったのかね」
大村は暴力にも加わらなければ、マットに上ることも控えている。軽く中西をとりなしたのと同じ、彼一流のアリバイ工作なのだ。責任は一切かぶらず甘い汁だけ合法分頂戴する。
彼は壁際の位置に留まり、背伸びするように説明した。
「三原先生は先週、歩亀の会に入会されたのだよ」
「え──っ」
歩亀の会とは陸上部の後援会組織である。OBや在校生の父兄などが会員だったが、中西益雄を信奉する人間たちが中心となり彼がR高校の所属となるやすぐに立ち上げられた、政治的色彩の匂い紛々たる会である。
「まあ有希君は顧問だから、入会を勧められることはなかっただろうがね。別に教師だって入会してもかまわんのだよ」
当たり前だ。有希が中西のタニマチのような組織に入るわけもない。顧問だから勧めないのではなく、勧めても即答で断るに決まっているので話をしなかっただけだろう。
しかしそうした事情は三原紀久子とて同じのはずだった。彼女の信条的立場は有希と変わらぬ位置にある。
「・・・どうして・・・」
有希の絞りだした問いに大村は楽しげに回答する。
「どうしてって君、三原先生は中西コーチの熱烈な支持者だからだよ。当初は真実の歪曲的理解もあって若干の行き違いがあったようだが、その懐の深さを知るにつれ認識を改め、今じゃ手放しでコーチの哲学を愛していらっしゃる、そうですよねぇ、コーチ──」
中西の竹刀が三原紀久子の全身タイツの肩を揺さぶり、グラグラ揺れる頭を上向かせた。
とろんとした眼差しは依然として定まらず、目前の顔すらようやく人のものとわかる程度かもしれない。
(『これ』も脂肪を絞りこんでやれば、そこそこ見られるようではあるな。謀反人の志方有希とつるもうとするからこんな目にあったわけだが、なーに女としてはこっちの方が価値が上がるってものだ。感謝せい、垂れ乳オバン)
活を入れるように、高熱を帯びた頬を軽く叩くと、三原紀久子は唇を震わせて言葉を発した。
「なんだって? しゃんとしろしゃんと」
中西の執拗な竹刀さばきに繰り返される年増教師の言葉。
「・・・み・・・ず・・・」
波多野が耳を向ける。
「水? 何だ、おねだりが先かよ」
彼は大袈裟な身振りで苦笑を演出し、指示を仰ぐように中西の顔を上目遣いに覗きこんだ。
重々しく頷く中西。
ここは慈悲を与える時間帯であった。
「三原はよく頑張っている。そろそろ癇癪が下って臓物も綺麗になる頃だろう──」竹刀が全身タイツの腹部をなぞった。「──慰撫を与えて気に反することはあるまい。軟水を飲ませてやれ。ただしコップ一杯だぞ」
中西の言葉を受けて波多野が小城に命じる。小城はヤカンから無色の液体をコップにつぎ、三原の口元へ持っていく。
「・・・ありがとうございます・・・中西先生・・・」
屈服しきった声が色のない唇から垂れ落ちる感じ。
「駄目よ、そんなものを飲んじゃ! 三原先生しっかり!」
山室沙耶香から聞いていた例の液体だ。有希は色をなして騒ぎ立てたが後の祭り。
有希が『R高の母』と慕う三原紀久子は差しだされたコップに唇を伸ばして吸いつき、喉を鳴らして飲み干していった。やむを得まい。脱水症状で失神の瀬戸際にある身体である。やめろというほうが無理である。
「こっちの出来上がりはどうか──」
三原の隣の毛布のテントを中西はまた竹刀で左右に広げた。
|