投稿内容
タグ
ブログタイトル
ウェブ全体
お気に入り登録
|
ログイン
|
ブログを作る!(無料)
ブログトップ
世に倦む日日
critic5.exblog.jp
本と映画と政治の批評
by thessalonike5
アクセス数とメール
since 2004.9.1
ご意見・ご感想
最新のコメント
続き:新作の「色彩を持た..
by nyckingyo at 06:52
上にTBした記事「ひとり..
by nyckingyo at 00:50
調べてみると、96条改憲..
by 立憲主義者 at 01:04
「日の丸・君が代」の強制..
by ヒムカ at 19:59
敗戦となっても…いわゆる..
by ヒムカ at 19:47
>私は今でも、北朝鮮が本..
by ichiro.jr at 21:57
伊達判決の根拠となったの..
by かまどがま at 20:31
このように改憲は、たんな..
by ダメダメTPP改憲 at 16:59
いつの資本主義もそうだっ..
by ダメダメTPP改憲 at 16:57
最新のトラックバック
ひとりの中にあるふたつの..
from NY金魚
以前の記事
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
more...
since 2004.9.1
XML
|
ATOM
skin by
thessalonike5
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読む(3)
村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、遂に80万部の発行部数となった。が、書店では品切れ状態が続いていて、週末(4/20)まで入荷がないなどという情報もTWで流れている。村上春樹の作品が売れることは嬉しい。それは、自分の人格が普遍的に拡大していることを意味しているように思える。と、そう私は数年前に言った。しかし、今は少し違う。眼前のフィーバーは嘘くさい。村上春樹の新作を読む娯楽と祝祭の空間に積極的に参加し、自ら市場の過熱を煽る末端を受け持ちながら、逆に喪失感と疎外感を禁じ得ない。今の「村上春樹の作品」は、あまりに消費される商品でありすぎる。昔は、これほど大衆商品的な存在ではなかった。村上春樹の作品は、何かどんどん薄っぺらなものになり、市場化され商品化される中で、本当の価値のない軽いものになっている。昔のMSのWindowsとか、今のAppleのiPhoneとか、そんな無意味なクズ商品の一つに成り下がったようで、正直なところ面白くない気分でいる。この新作は商品だ。論じる前に「読め読め」であり、とにかく「買え買え」である。私が、2回の記事の書評で抵抗を試みたのは、この商品が「読め読め」「買え買え」と浮かれて騒ぐ価値があるものなのかと言いたかった所為もある。今回、三省堂の神田神保町本店が「村上春樹堂」の看板を設えて商戦を盛り上げ、そのプロモーションをマスコミが取り上げて話題にした。
出版業者と書店にとって大きなビジネスチャンスなのだと言う。店頭にタワー状に積み上げられた本と、レジに並ぶ客に笑顔で接客する女性店員の写真を見ると、何ともやりきれない思いになる。日本の書店は、Amazonに売上を奪われ、電子書籍の脅威に怯え、経営がとても苦しい状況にある。クズな脱構築本ばかり売り、右翼本ばかり売ってきた彼らの自業自得であり、同情する気には寸毫もなれないけれど、彼ら自身は、人が読むべき良書を多く知っている文化産業の専門家であり、市場と時代に流されながら、生き延びるために堕落を受け入れてきた者たちなのだ。おそらく、そもそもは私と同じように、若い頃から村上春樹を読み続けてきた熱心な読者の一人一人なのだろう。彼らは、客を見ながら、商品である本を見ながら、それに合わせて自らを変えてきた。変節を遂げ、金儲けだけを動機とするようになった。もともと、村上春樹は市場的なセンスのある作家であり、時代の空気に敏感で、マーケティングの才能のある商売人だ。何が売れるかをよく知っていて、市場をリードできる神様である。実際に市場をリードし、まさしく時代をリードしてきた。人々の意識や思想を村上春樹的に改造してきた。そのことは、2000年代までは、私にとって村上春樹のプラスのイメージだった。だが、おそらく重要で本質的なことは、そのときの市場というのは、健全な中産階級が主体の市場という意味なのだ。
金儲けのために業界とマスコミが村上春樹ブームを煽り、それに消費者が蟻のように群がる市場ではなかった。村上春樹が作風を変えたことを感じたのは、2004年の『アフターダーク』を読んだときからだった。それまでは、作品の中には必ず「これは私自身だ」と思える登場人物がいて、まるで分身のように縦横に代弁をしてくれていた。それは、1988年の『ダンス・ダンス・ダンス』、1992年の『国境の南、太陽の西』の頃までは、小説の主人公がそうであり、孤独なその男が言葉にする省察、憔悴、諦観、社会批判、どれもが深く共感できるものだった。主人公に感情移入したまま、その冒険の最後まで付き合って感銘した。2002年の『海辺のカフカ』では、それをカフカ少年と図書館司書の大島の二人が分担する配置になっていた。大島が放つ言葉は、どれも小躍りしたくなるような代弁の数々であり、あの立て板に水の現代思想批判とジェンダー主義批判の場面は、村上春樹の知性に溜飲が下がる思いだった。そうした人物が、「私自身」が、『アフターダーク』からぷっつりと途絶えた。姿を消してしまった。同時に、その頃から、世界で認められた村上春樹への市場的大衆的評価は最高潮となり、2009年の『1Q84』の空前のブームとなり、現在に繋がっている。その意味で、村上春樹の人気というのは、小澤征爾のそれとよく似たところがある。私なりに推測するなら、村上春樹は読者をチェンジしたのだ。主人公の人格を変えた。
若い世代の層に広く読まれる作品に変えたのである。若い人たちと私の心は違う。私の心を掴んでいた村上春樹の手は、今は若い世代の心を捉えている。だから、『アフターダーク』以降の作品は、内面の掘り下げが軽く感じられるのであり、社会批判の言葉がないのだ。ずっと私は、村上春樹のことを「時代をグリップしている」作家だと言い続けてきた。今、村上春樹は、「世界をグリップしている」作家だ。しかし、私自身の観点と基準からすれば、「時代をグリップしている作家」ではなくなっている。批判精神の所在が(小説作品からは)よく分からない。私の心は村上春樹の手からリリースされたようで、つまりは、私自身が「時代」からは用無しの存在になったというか、市場の神様である村上春樹が掴んでいる「時代」の外に放出されてしまった。今、新作に群がっている消費者たちは、確かに村上春樹ファンなのだろうし、私と同じく、村上春樹以外に心から愉しめる娯楽のない者たちだろう。しかし、きっと、彼らはプロレタリアであり、インダストリーとマーケットの欲望に翻弄されるまま、文藝春秋が輪転機をフル回転して刷った紙と日銀が刷った紙を交換させられているだけなのだ。新作は売れているけれど、読者に読まれているという実感がない。ネットの中に、村上春樹の読者が読んでいる証拠や痕跡が見えない。何かが変わった。村上春樹と村上春樹の読者の関係というか、構図というか、世界というか、そこに変化が起きている。
そのことに関連して、少し前の記事で、辺見庸の中国論(尖閣論)を批判しながら、村上春樹が尖閣問題で朝日に投稿したエッセイの素晴らしさを称えたことがある。あの記事を書いた後、考えたことがあった。それは、ユニクロの問題だ。銀座にユニクロの旗艦店があり、4回ほど行ったが、私の見たところ、7割が外国人の買い物客だ。そのうちの3分の1が韓国人であり、同じく3分の1が中国人であり、残りの3分の1が米国人など白人という比率になる。銀座もNYの五番街と同じであり、有名店はガイドブックに載って観光客が買い物に押し寄せる。村上春樹は、確かに中国で読まれ、韓国で読まれ、米国で読まれ、東アジアの人々の心を一つにした。国境のない世界にした。村上春樹の作品への中国人読者の理解と傾倒は、われわれ日本人と変わるところはなく、そこから生きる勇気を受け取っている。これは、村上春樹が80年代後半の(バブル期の)日本を指して言っていた「高度資本主義」の社会的現実が、そのまま中国の都市生活者の前にあることを教示するもので、辺見庸や吉本隆明が中国を侮蔑して言う「阿Q」を越えた、もっとハイレベルな個体的市民の精神性が、すでに中国に実在することを認めないわけにはいかない。そして、そのように中国を改造し、市民社会の水準を高め、東アジアの精神世界を高いレベルで一つに導いた立役者が、村上春樹なのだと、私はそのように論じた。その認識と指摘は間違ってないと思う。けれども、国境がとれて一つになった市民社会に入った日本人は、果たしてどうなのだろうか。
知性と精神の水準は上がったのだろうか。そういう問題を感じる。ひょっとして、(今の)村上春樹はユニクロではないのか。ユニクロ的普遍性であり、東アジア市民社会における村上春樹の文化の共有は、ユニクロに集る消費者の姿と同じではないのか、と、そう考えたりもするのである。現在の村上春樹は、あまりに消費的であり、商品的にすぎる。ユニクロの商品は決して悪くはない。しかし、これでいいのだろうかと常に思う。ユニクロ的な東アジアの融合でいいのだろうか、もっと日本人には上質な世界の可能性があったのではないかと、その想念を捨てられない。ユニクロはやはりプロレタリア的であり、どこまで行ってもミドルクラス的な臭いがしない。村上春樹は、今、世界をグリップしている。しかし、東アジアで、日本で、村上春樹がグリップしているのは、おそらくミドルクラスではなくプロレタリアの心だ。今、世界には、マスのボリュームとしては格差社会のプロレタリアしかいないのである。ミドルクラスが消え、知性も、内面も、それはプロレタリア化した。そして、村上春樹が読者をグリップしていると言うよりも、むしろ、市場が、資本が、村上春樹をグリップしている。村上春樹で金儲けしている。出版社と書店が金にありつく道具となり、ネットでネタにされ、プロレタリアの娯楽になり、プロレタリアの消費対象になっている。グリードな資本が売り、ハングリーなプロレタリアが買って貪る。最後に、どうしても気になったので触れておきたいが、作中、ずっと「ラップトップ」という言葉が出てくる。これは、現在の日本語では「ノートPC」であり、村上春樹はその意味で使っているのだろう。
米国で、果たしてノートPCのことをラップトップと呼んで使っているだろうか。通常、ITの用語は日米で差がない。嘗てはあったが、ITの世界では、いわばTPPが15年前に襲来して、ノルマン・コンクェストのように、米国のルールとフォーマットで強引に統一されたため、用語での環境差や時差がなくなった。マニュアルやカタログや雑誌での説明から、日本語がどんどん追放され、英語に置き換わっている。したがって、日本で「ノートPC」と呼んでいるIT機器は、米国での呼称も「ノートPC」だろう。村上春樹は、どうやら敢えて「ノートPC」の語を使わず、終始「ラップトップ」で通している。これは何かこだわりだろうか。それとも、「ラップトップ」の表現が文学的に気に入っていて、それを頻用しているのだろうか。おそらく、米英でこの作品を翻訳するとき、訳者にとってこの問題は小さいながら一つのイシューとなり、コンサーンになり、原作者の村上春樹に確認するところに及ぶはずだ。ITの世界でラップトップといえば、それは例えば、東芝の16ビット時代の製品を指す。ラップトップの語が新しい商品のカテゴリーとして市場で流行したのは、1985年から1987年の頃だった。その後、メーカーが出す製品が薄型軽量コンパクトになり、差別化の意味もあって1990年代には「ノートブック・パソコン」の呼称が一般的になる。「ラップトップ」の語は消える。やがて、それは「ノートPC」に置き換わる。「ノートブック・パソコン」が「ノートPC」になったのは、一足早い「TPP」襲来の影響で、用語を米国が統一(標準化)し、日本製の語(方言)を消したからだ。
それと関連するが、私がこの問題を取り上げたのは、村上春樹がこの小説の中でこんなことを書いていたからだ。「(つくるは)ラップトップのスイッチを切ってディスクを取り出した」。ディスクとは何のことだ。CDとかDVDなら分かる。まさかFD? 普通、こうした場面で個人でノートPCを使い、外部記憶を本体から取り外して保存した情報を管理するとしたら、そのとき使われる媒体はUSBメモリーだろう。村上春樹は、私生活でどういう機器を使い、何の媒体でデータ管理をしているのか。つまり、ここの書き方は、「(つくるは)ノートPCの電源を切ってUSBメモリーを引き抜いた」になる。前に、村上春樹は、その作品に仕込む音楽や料理のアイテムはセンス抜群で素晴らしいが、IT方面が音痴で、基礎的な知識に欠けると意地悪なことを書いた覚えがある。村上作品ではITが鬼門(ホール)だ。それがどうやら改善されることなく、放置されてどんどん悪化しているように思われてならない。本人がITに関心がなく、無理に必要も感じず、一般のレベルにまで知識を引き上げようとしないのだろう。しかし、それでいいのか。それを続けていると、小説の描写でこうした不自然な表現が随所に出ることになるし、イマジネーションそのものが貧弱になる。そして、それと逆行するように、現代人の日常生活は、仕事でも家庭でも、オフィスでもプライベートでも、次々と新しくなるITの環境にどっぷりと浸り、それ抜きに何もできない状態が窮まっている。スマホを使う生活を入れないと、物語の中でスマホの役割を挿入しないと、現代を描く小説はリアリティを欠いたものにならざるを得ない。
スマホをグリップしないと、村上春樹は時代をグリップできなくなる。本当は、フィンランドにスマホを持って行き、ホテルで使い、店で使い、東京の沙羅と通信しなくてはいけないのだ。私が、村上春樹はそろそろ小説から随筆に創作のメインフィールドを移した方がいいのではないかと思うのは、そういうところにも理由がある。神様になった村上春樹は、苦手なものに無関心になっている。関心は他のところにあるのに違いない。例えば、あの尖閣問題の議論などは、本当に最高の価値を持ったメッセージになるのだ。
Tweet
by
thessalonike5
|
2013-04-16 23:30
|
Trackback
|
Comments(
0
)
トラックバックURL :
http://critic5.exblog.jp/tb/20293287
トラックバックする(会員専用)
[
ヘルプ
]
名前 :
URL :
非公開コメント
※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。
削除用パスワード
昔のIndexに戻る
『色彩を持たない多崎つくると、... >>
ブログパーツ
記事ランキング
1
砂川事件と伊達判決 ..
2
「立憲主義」の言説が..
3
次のバブル崩壊のとき..
4
皇太子は意を決して離..
5
『色彩を持たない多崎..