創価学会・顕正会・正信会からの脱会を考える会

創価学会、顕正会、正信会からの脱会の相談に応じます。黒川和雄 186-090-9626-7585 当方大阪在住です。 大阪の方大歓迎(#^.^#)

恐れることはありません。勇気を出して脱会しましょう。

私の所属寺院は「日蓮正宗大阪南布教区妙輪寺支部法華講」。

お寺は天王寺から阪堺線(チンチン電車)で20分。姫松下車、進行方向へ100m。左側にございます。

妙輪寺住所
〒558-0054
大阪府大阪市住吉区帝塚山東1丁目12-14

日蓮正宗立正安国論正義顕揚750年サークル(会員制・非公開)
全国法華講員のための交流の場です。
http://www.c-player.com/ac56004/intro
法華講員の方は是非御参加ください。

日蓮正宗讃岐本門寺(三豊)所蔵品、県有形文化財に指定へ

香川県文化財保護審議会は9日、県指定有形文化財に、香川県三豊市三野町下高瀬の本門寺が所蔵する古文書「本門寺中世文書」と絵画「絹本著色日蓮聖人像 狩野常信筆」を指定するよう県教委に答申した。3月定例教育委員会で正式決定する。

 本門寺は、地頭秋山泰忠により鎌倉時代末期の1323年に建立されたと伝えられる日蓮正宗の別格本山。

 古文書は、室町時代初期の1353年から江戸時代中期の1732年に記された、寺領の譲渡に関わる置文や寺院運営の取り決めの定書など20点と、巻物にした際に加えられた奥書が指定の対象。

 1990年に県有形文化財に指定された「秋山家文書」との関連性や、同寺が法華宗寺院として発展する過程を明らかにしており、県内の中世史研究において重要な史料と判断された。

 絵画は、江戸時代前期の1654年に狩野派の中心的画家の一人、狩野常信が描いた日蓮聖人画像の写し。年記のある常信の作品は少なく、同審議会は「(常信の)初期画業を伝えるものとして貴重」とした上で、香川の歴史を考察する史料的観点からも評価した。

 今回の2件が指定を受ければ、県指定有形文化財は116件となる。これまでに古文書は1件、絵画は18件が指定されている。

http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/culture/20120310000146

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靖国神社参拝は謗法か?

【牧口氏の国家神道観によれば、「天皇(現人神)」に天照大神以来の神が、全て集約しているという一元論に立脚して、神棚・神札を受持しなかったということである。ただし、牧口氏のこの意見は、日蓮正宗の教義として、正しいとはいえない。たとえ「感謝」の気持ちにしても、「靖国神社参詣」は教義違反である。】

【日蓮正宗時局協議会資料収集班1班 日蓮正宗と戦争責任より転載】

【たとえ「感謝」の気持ちにしても、「靖国神社参詣」は教義違反である】


「大聖人時代は氷河期であり、身延に本門戒壇の大御本尊を彫刻するほどの楠木の大木は無い」を破折する。

あるインターネットのホームページに、弘安二年の大御本尊を誹謗(ひぼう)する内容の記事が掲載されていた。
http://megalodon.jp/2013-0403-2117-18/anti-nichirenshoshu.doorblog.jp/archives/cat_701628.html


 その中で目に付いたのが、「鎌倉時代の身延には楠木(くすのき)は存在しなかった」として、素材が楠木で造立されている大御本尊を後世の偽作であるとする疑難であった。


 そもそも「楠木が当時の身延には存在しなかった」との疑難は、過去において身延の安永弁哲なる僧が言い始めたものであるが、その後も、当宗を誹謗せんとする者からたびたび同様の疑難が起こっている。


 だが、実際には、身延山久遠寺の境内には楠木の大木が何本もあり、また、身延山の入り口に位置する大野山本遠寺には、町の天然記念物に指定された古木まで存在する。


 こうした事実から、少なくとも、〝身延は寒冷の地であり、楠木は育たない〟といった単純な疑難は、簡単に払拭されよう。


 そのためか、インターネット上では、「鎌倉時代の身延は小氷期であり楠木が自生できる気候ではなかった」「身延周辺には自生の楠木はない」「日蓮一門に経済力がなかったため、他から楠木を調達することは不可能だった」「日蓮一門に楠木加工・漆加工・金箔加工ができる経済力はなかった」等々、一見もっともらしく見える理由をつけて、大御本尊を誹謗しているのである。


 インターネット上にてこのような虚偽を掲載していれば、少なからず真(ま)に受ける人もいるだろう。そこで、まず、これら疑難の中の「鎌倉時代の身延は小氷期(※小氷河期ともいう)であり楠木が自生できる気候ではなかった」について破折する。


 ネット上の誹謗者は、


 「日本の小氷河期については『残念なことに、日本には気温変動を直接示す資料はないが、九州の南の屋久島に生育する屋久杉の年輪中に残された酸素の同位体O
18の分析結果をみれば、十三世紀に入ると日本付近における気温低下が始まっていることがわかる』(『太陽黒点が語る文明史・小氷河期と近代の成立』一一頁)

として、屋久杉中の酸素同位体O
18の経年変化グラフから、日本では十三世紀から小氷河期に入っていたとする説を唱えている。『小氷期と異常気象・地球は寒くなるか』の著者・土屋巌氏も一九七三年に中国の気象学者・竺可楨が発表した最近一千七百年の世界の温度推移として、雪の日付、河川の結氷、鳥の渡り、植物の開花、発芽という現象からとった中国の温度推移と、グリーンランドの氷河の氷柱から得た温度推移のグラフを載(の)せており、それによれば中国では十二世紀から十七世紀ころまで、現在の気温に比べてセ氏二度低くなっており、グリーンランドでも十二世紀から十八世紀ころまで、現在の気温に比べてセ氏一度低くなっていることがわかる。地球は十九世紀ころから温暖化の傾向を示してきており、現在の身延山に楠木があることが、小氷期の十三世紀・鎌倉時代の身延山に楠木が自生していた証明ではないことは明白である」


と、学者の見解を引用し、いかにも鎌倉時代が小氷期という低温期であり、楠木が身延山近辺に生息できないと決定づけているが、果たして本当にそのようなことが言えるのか。


 過去における地球の気候の変動については、近年の温暖化現象もあり急速に研究が進められているが、いまだ途上段階であり見解もさまざまである。例えば、ヨーロッパではブドウの収穫日、日本では観桜記録や諏訪湖の結氷記録、米の作柄指数など、過去の気候に関連する事柄から推測はできても、それが一部地域に限定したものなのか、それとも地球全体として見るものなのかは、いまだ学者によって意見が分かれているのだ。


 日本の気候においては、六百年周期で気候の寒暖を繰り返しているというが、寒暖の時期を明確に区別することはできていない。ただし、平安時代以前を寒冷期、平安中期から鎌倉期までは温暖期、室町時代から江戸時代は寒冷期と区分けすることが多い。


 問題となる鎌倉時代については、鎌倉時代全体を温暖期とする説、また鎌倉後期から寒冷期が始まったとする説もある。


 以上のように、鎌倉時代は小氷期と定まってなどいないのが実際であり、誹謗者のごとく、屋久杉の経年変化だけをもって鎌倉時代が小氷期であった等と断定するのは暴論である。


 さらにいえば、大御本尊に使用された楠木が、かなりの樹齢を経(へ)た大木であることから、注目されるべきは、むしろ鎌倉時代以前の生育環境であろう。その時代が温暖期であったことはほぼ確実なので、誹謗者の邪難はこの点からも崩壊している、といえる。


 あの手この手で大御本尊を中傷誹謗してくる輩(やから)が後を絶たないが、これらネット上に蔓延(まんえん)する怪情報に惑(まど)わされてはならない。 


以上、慧妙より抜粋

大阪市阿倍野区広宣寺正信会の皆さんへ

今こそ正信会から抜け出しましょう。

新寺院、一体本堂の本尊は如何様な本尊でしょう?
どこから持ってきた本尊でしょうか?

手塚山の日蓮正宗妙輪寺へ参集しましょう。
本門戒壇の大御本尊につながる正式な御本尊様に帰依いたしましょう。

お電話ください。
186-090-9626-7585

法話会


第50回 法華講連合会総登山 平成25年3月31日

http://youtu.be/zOcworutLgs
http://youtu.be/zOcworutLgs

創価学会設立の原則 

日蓮正宗の教義を守り、三宝を守り、各寺院に所属するというのが三原則であるということは、

昭和53年11月7日の大講堂大広間における創価学会創立48周年記念代表幹部会(通称「お詫び登山」)において、理事長の北条浩が、以下のように述べて認めているのである。


(以下引用)

「私は、21世紀への創価学会の新たなる船出にあたり、これまでの日蓮正宗と創価学会の関係について振り返りながら、今後の新しい基調について申し上げます。」

「創価学会は昭和27年、宗教法人として出発いたしました。」

「御宗門からはその設立にさいし

①折伏した人は信徒として各寺院に所属させること、
②当山の教義を守ること
③仏法僧の三宝を守ること、

の三原則を遵守するようお話があり、以来創価学会はこの三原則をふまえて御宗門の外護をつとめ広宣流布への歩みを始めたのであります。


(以上引用)

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【速報】 増々 内外ともに外道化が進む邪教創価学会

イタリア創価ホームページ
http://www.sgi-italia.org/press/Notizie.php?id=519
魚拓
http://megalodon.jp/2013-0322-1016-40/www.sgi-italia.org/press/Notizie.php?id=519

3月20日、イタリア創価の代表として婦人部リーダーのアサ 中島が立正佼成会の代表と共に新ローマ法王に招かれ就任式に参加。池田大作の贈り物を手渡し御満悦!!

増々邪教、外道化が進む内外の創価学会の現実だ。

現地イタリア人の声

【THE ITALIAN SOKA GAKKAI VISIT THE POPE!!!! UNBELIEVABLE!!!! VISIT THE POPE WITH THE ITALIAN BOSS OF RISSHO KOSEI KAI MR.Nichiko Niwano!!!!】

イタリアの創価学会がポープを訪問! 信じられない! イタリア立正佼成会のボス,MR.Nichiko Niwano!!!と一緒に!!

脱会者が続出するであろうことは間違いない・・・。



日本正学館 社主(戸田甚一)編集長(池田太作)


http://youtu.be/hDPiTm6UoUc
http://youtu.be/864MUyb4t7w

当初、『フェイク』は、『ルビー』の出版社は「大道書院」であって「日本正学館」ではなく、その編集者も「坊主になった矢島周平だった」と書いて、あたかも『ルビー』と創価学会や戸田・池田が無関係だったかのごとく装いました。
 これについて原島氏は、『ルビー』の編集部の所在地は当時の創価学会本部及び日本正学館と同じ場所であること、池田の『人間革命』の記述から見ても、日本正学館において『冒険少年』と『ルビー』が共に編集されていたことは間違いないこと、また『ルビー』には池田が編集長だったという『冒険少年(改め少年日本)』の広告が載(の)っていること等を挙げ、反証としました。
 もはや、この段階で勝負は明らかでしたが、まだ『フェイク』は同じような繰(く)り言を述べ、自らの誤りを認めようとしません。
 そこで1つ挙(あ)げてみたいと思うのですが、昭和50年2月16日付『聖教新聞』に載った「小説『人間革命』のふるさと=西神田旧本部」によると、創価学会の西神田旧本部の建物は、2階に3部屋あって、手前の狭い一室が編集室になっており、その同じ編集室で『ルビー』『少年日本』が編集されていたそうです。
 やはり、『ルビー』と『少年日本』は、別々な所で発行しているように見せながら、じつは同一の編集室において作られていたのです。
 同一の編集室であれば、編集室トップも同一のはずであり、奥付の表記のいかんに関わらず、もし『少年日本』の編集トップが池田大作(当時は太作か?)であったなら、『ルビー』の編集トップも池田大作であっただろうことは当然です(ちなみに、『ルビー』と同様、『少年日本』も、奥付では編集者は池田大作と表記されていません)。
 いくら後世になって、『ルビー』はポルノ雑誌だから関与していたと言ったら格好がつかない、と思って、「それは矢島が作っていたんだ」と池田が自ら強弁したところで、何のアリバイの証明にもならないと知るべきです。
 なお、『フェイク』は、原島氏が『ルビー』にはヌード写真が満載されていた、と少年時の記憶を述べたことに対し、あれは写真ではなく挿絵(さしえ)だ、訂正謝罪しろ、等と言っていますが、これで騙(だま)されるような学会員がいたとしたら馬鹿です。
 貴紙『慧妙』12月1日号に載った、『ルビー』掲載のいかがわしく写実的な挿絵は、少年時の原島氏が見たら「ヌード写真」と見えて当たり前のシロモノです。
 だいたい、『フェイク』の人々も、過去に貴紙『慧妙』に載ったカラー写真を「絵だ」と見間違えて、騒いだことがあったのではないですか。
 写実的な絵と写真とは見分けがつかないことも、しばしばある、という実例です。
 いずれにせよ、両者のやりとりは、もはや「勝負あった!」というのが、ほとんどの読者の感想でしょう。
 それでも、まだ見苦しい言い訳(偽装)を続けるのか、『フェイク』関係者の学会員は、少し冷静に現実を振り返ってみたらいかがでしょうか。

http://sudati.iinaa.net/netuzou/netuzou091201.html

春季彼岸会に当たりまして、心より朱里エイコさんの御冥福をお祈り申し上げます。

僕がアメリカに渡ったのは、19969年。その時彼女は既にベガスで歌っていました。
一年に二度ほど、僕は彼女の歌を聞きにベガスに行きました。リビエラ・ホテルでした。日本では有名でもベガスではバーの片隅で歌う無名の歌手です。それでも僕は同じ日本人としてアメリカで頑張っている彼女の歌が好きでした。また彼女は同じ創価学会員でした。日本人がアメリカで成功することは大変です。でも彼女は頑張っていました!
僕が日本に帰国してから彼女はヒトリポッチで逝去したのを知りました。創価学会は彼女に死に対し「何もしなかった」のです。…広告塔として利用されたのでしょう!

彼女の追悼をお祈りいたします!!

Shuri Eiko was a Japanese singer who played an active part as an advertising tower of the Soka Gakkai in 1960's.

She went over to U.S.A. in 1945 and did concerts in Riviera hotel , Sahara Hotel. etc..


For her death, the Sokagakkai did nothing.
noone came to visit her house but city officer did come and took care of her body and ashes.

Would she be used by the Sokagakkai?


英語版
http://youtu.be/lCziL9ZC98c
日本語版
http://youtu.be/0R3xxTiuGDg

大阪市内の皆さん、創価から一日も早く脱会しましょう !

このように本幹では人の悪口、中傷をやっております。
創価学会とは、表向き「教育 文化 平和」をテーマとするインチキ教団です!
学会員の皆さん、一日も早く脱会いたしましょう。


http://youtu.be/YHDNsQkkvbc

正しい信仰を持ちたい方、創価学会からの脱会をお考えの方

気楽にお電話ください。

186-090-9626-7585

黒川和雄(*^_^*)
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大阪市住吉区の創価学会員の皆さんへ

法話会
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脱会相談に応じます。
今すぐお電話ください。

186-090-9626-7585

先週も3名の住吉区の学会員さんが脱会され妙輪寺にて宗門へ復帰されました。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ある体験談を読んだ

主人が吐血と下血で入院手術で悪い所を取っても再発
退院後今度は娘が喘息とうつ病となる。
孫も喘息となり夫は家に帰らずで
仕事が終わって帰ると孫から電話
9時なのにまだご飯も食べられないとのことで
急遽車で食事作りに向い1時帰宅もしばしば
とうとう娘に荷物をまとめさせて連れてかえる。

それでも幸せになりたい一心で学会活動を熱心に行い
唱題も毎日欠かさず行った。
しかし悪いほう悪いほうへ転がる一方
定年を迎えることには体の調子も悪くなり両足も痺れを感じていた。

定年後は一日3・4時間の唱題を続け教宣部の会合にも参加
『日顕宗撲滅、日顕打倒、××寺××住職追放』という
大きな筆で書かれた物を前にして一心不乱に唱題
そんな中ある人が脳梗塞で入院その人も入院
5・6人が乳癌で入院、中には夫婦で癌で入院
ある人は自宅前で学会員の運転する車に轢かれ
入院手術となったそうです。

そして縁あって法華講の方にお寺に連れて行ってもらい
ご住職様より過去の戸田先生の指導を元に納得のいく
説明を受け脱会届けをだし入講した。

数日後入れ替わり立ち代り学会が電話や訪問をしてくる
しつもんで
『世間でも人を呪えば穴二つと言うが日顕げいか打倒
とか日蓮正宗撲滅なんて言うのはおかしい』と言うと
『願って当たり前、池田先生を破門にした佛敵だから』
この言葉を聞いて、やはり洗脳されているのだと
改めて実感し、自分の少し前は洗脳されていたのだと
つくづく思ったとのこと。
また、学会でニセ本尊を拝んでいる人にうつ病が
多いのはなぜという質問に対し
日本の3割が学会なのだから当たり前と言ったとのこと
つまりうつ病が多いのを認めているが
パーセントから現状世間でもうつ病が多いのだから
学会が多くても当たり前というのは
世間と比べて世間が多いように学会も多いと
信心しても良くならないということを自ら認めたという
ことになりますね!
この方もせつに学会の恐ろしさがより多くの人に
伝わってほしいと願っていました。

また、ある学園祭を利用しても布教活動でも陰湿な妨害活動があった。
法華講の会場に学会員が学会であることを最後の最後まで名乗らず
話を聞いて、そのことをネタに事務局に嘘の訴えを出した
『強制的に勧誘され入信を迫られた』
応援に来て頂いた御僧侶も『僧侶から強制された』と嘘の訴えを
そのため一時的に布教しづらい状態に陥ったが、御僧侶の指導の元
耐え忍んでがんばっていた
その結果、やはり御照覧で、学会員が忘れていった資料の中に
対法華講の作戦ファイルが入っていたため大学の事務局も
嘘の訴えだと認めてくれ無事再開できた!

こんなことをする学会はもういらない!

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

財務だけではありませんよ。
新聞および新聞を取ってもらうための交際費(生命保険など)、選挙活動の電話代&交通費、友好期間の交際費、出版物、通信教育などなど。
内部企業が販売している「信仰の必需品」なんかの出費もイタイと思います。

富士大石寺明細誌 ③

 什宝
 一、本門戒壇の板大漫荼羅 一幅
 日蓮聖人十界勧請御判の下横に並べ、現当二世の為め造立件の如し、本門戒壇の願主、弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日と、末代不朽の為に楠の板に書く厚二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分なり、彫刻は中老僧日法に之を仰せ付けらる、地黒塗文字金色なり、広宣流布の時に至り勅宣御教書を申請け富士山に本門寺戒壇を築く可き用意と為て兼て之を造り置かる、此御本尊は宗門の肝心蓮祖出世の本懐日興所属の簡要当山霊宝の随一なり、此御本尊を将て日興に付属する時の遺状に曰く、日蓮一期弘法白蓮阿闍梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而已事戒法謂是也等云云、又日興より日目に付属するの状に曰く、一日興身に宛て賜る所の弘安二年大御本尊日目に之を授与し本門寺に掛け奉るべきなり等云云、又三大秘法抄に曰く、戒壇とは王法仏法に冥し仏法王法に合し王臣一同三秘密法持時、勅宣並御教書申下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇建立すべき者か、時を待つべきのみ事戒法申是なり、三国並一閻浮提人懴悔滅罪戒法なるのみならず、大梵天王帝釈等来下して踏み給うべき戒壇なり等云云、古伝に云く、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ以て聖人に献ず等云云、又弥四郎国重の五字に就て表示し有りと相伝云云。
 一、日蓮聖人御影【居長三寸】 一体
 作初の御影と号す又最初仏と称す、弘安二年日法戒壇御本尊彫刻の時、右板の切端を以て末代の未聞不見の者の為に此像を造り蓮祖の尊覧に備ふ、聖人掌上に居え笑を含み能く我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり、薄墨素絹白五帖袈裟なり、即聖人の剃髪を焼消し以て之を彩色す云云、日法右板本尊並に此像を作り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之有り。
 一、日蓮聖人肉附の御歯一枚
 又御生骨と称す、蓮祖の存日生歯を抜き血脈相承の証明と為て之を日興に賜ひ事の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云、日興より日目に相伝し代々附法の時之を譲り与ふ、一代に於て只一度代替蟲払の尅之を開封し奉り拝見に入れしむ常之を開かず。
 一、日蓮聖人御身骨【玉瓶に入る升余】一瓶
 武州池上に於て荼毘し奉る所の頭面の御舎利なり、粲として円珠の如し。
右御本尊並に御骨等当山に安置する故に日興より日目への遺状に曰く、大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領し修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり云云。
 一、日蓮聖人画像【三枚続】 一幅
 鏡の御影と号す、伝に云く蓮祖在世土佐大蔵之亟に仰せ付けられ之を図画せしむ。
 一、蓮祖真筆大漫荼羅【三枚続】 一幅
 弘安三太歳庚辰三月日、紫宸殿の本尊と号す、伝に云く広布の時至りて鎮護国家の為に禁裏の叡覧に入れ奉るべき本尊なり云云。
 一、同本門寺重宝大漫荼羅 一幅
 傍書に云く弘安三年庚辰十一月、本門寺重宝たるべきなり。
 一、同病即消滅の漫荼羅 一幅
 傍書に云く建治二年丙子八月十三日、又死活の本尊と号するなり。
 一、同紺紙金泥の漫荼羅 一幅
 傍書に云く文永元甲子二月十五日。
 一、同漫荼羅 九幅
 一、一部一巻の法華経【長二寸極細字】 一部
 一、日蓮聖人御書四拾五巻
 此外秘書数多之有り。
 一、日興上人筆座替大本尊【竪七尺一寸五部横三尺六寸】 一幅
 首題の下日蓮在御判【左日興奉書写之右日目授与之】依て座替と号す日興より日目嫡々相承手続支証の大漫荼羅なり。
 一、同筆【正慶元年十一月三日】本尊 一幅
 傍書に云く最初上奏仁新田卿阿闍梨日目に之を授与す一が中の一弟子なり云云。
 一、同筆漫荼羅 二十五幅
 一、同筆一部一巻法華経 一部
 一、同筆一部八巻法華経 二部
 一、同筆安国論 一巻
 右は日蓮聖人弘安五年十月武州池上に於て安国論講談の節の聞書安国論大意問答と号す。
 一、同筆本門取要抄 一巻
 一、同筆本門四信五品抄 一巻
 一、同述作の書 八巻
 一、富士一跡門徒存知抄 一巻
 右の外開山筆書類多之有り。
 一、日興画像 一幅
 興師在世弟子三位日順之を図す。
 一、日目筆漫荼羅 八幅
 一、同筆書類 十巻
 一、日目画書像【三位日順図之】 一幅
 一、日朗筆仰書【南条殿へ遣はさるゝ状なり】 一巻
 一、日道已下代々漫荼羅 数幅
 一、日道著述書 五巻
 一、蓮興目三師の伝【日時筆】 一巻
 一、五人所破抄【日時筆】 一巻
 一、本門心底抄【日時筆】 一巻
 一、摧邪立正抄【三位日順作同筆】 一巻
 一、本因血脈詮要抄【仝断】 一巻
 一、日行已下代々書記 数巻
 一、立正安国論 一巻
 一、文永八年申状 一通
 一、日興上人申状【元徳二年三月】 一通
 一、日目上人申状【元弘三年十一月】 一通 
 一、日道上人申状【延元元年二月】 一通
 一、日行上人申状【暦応五年三月】 一通
 一、日有上人申状【永享四年月日】 一通
 右は天子将軍奏聞を経る所の訴状なり
 一、後陽成院【御宸翰】 一幅
 一、紺紙金泥一部八巻法華経 一部
   【小書】織田信長公御筆
 一、色紙短冊集張【宮公卿方古筆】 二巻
 一、百花鳥画【古筆】 二巻
 一、二十四節画【古筆】 一巻

   道具類
 一、太刀【三条小鍛治宗近作二尺一寸】 一腰
 蓮祖の所持諸国弘通の節之を帯す、北条弥源太殿より之を献ず。
 一、剱【久国作九寸五部】 一口
 蓮祖弘通の節笈中に入る。
 一、唐銅三つ具足
 蓮祖常々仏前に居え置き香華燈明を捧げ給ふなり、伝に云く唐の作日本只二対の道具なり、三各竜を鋳透せり此竜の口に水を●ぎ雨を降すなり、依て祈雨の三具足と云ふ云云。
 一、聖教葛籠【大朽破】 一筥
 蓮祖弘通の砌自ら之を脊負ふなり。
 一、大茶釜 一
 宗祖已来毎朝丑寅勤行の刻之を用ゆ。
 一、行者の太刀【宗近作三尺八寸九分】 一腰
 一、数珠【半装束】 一連
 右二品は日興所持。
 一、仏舎利【三粒宝塔入】 一筥
 一、鵜飼石【我の字】 一石
 一、珊瑚珠の数珠 一連
 一、伽羅数珠【小枝と云阿州家重宝】 一連
 右四品阿州先祖敬台院殿之を納む。
 一、剱【山内越前守藤原道光大永六年二月】 一口
 一、鎧通【月山法印作九寸五分】 一口
 一、鎧通【宗近作九寸五分】 一口
 一、長刀【越前住人武蔵守藤原下見ず】 一振
 右四品天英院一位尊儀御納。
 一、軍用椀三つ 一組
 伝に云く武田信玄所持云云。
 一、堆朱大焼香筥【指渡一尺一寸三分】 一
 一、堆黒香筥【指渡七寸】 一
 一、大宋国硯【長七寸横四寸】 一
 一、咸陽宮硯【長一尺横六寸二分】銘に東閣瓦と云云 一
 一、唐芦莨盆【指渡一尺二寸厚二寸】 一面
 一、沈香莨盆【一尺五分】 一面
 一、伽羅の枕 一
 一、鶏冠石 一石
 一、鴛鴦の衾 一枚
 一、綾織打敷 八枚
 敬台院殿本堂造営の砌之を納む。
 一、葵御紋付水引 一張
 文昭院様天英院一位様三門開眼供養の節御納、此時御紋付大挑燈高張挑燈等数帳御奉納之有り。

   歴代正統
 宗祖日蓮大聖人【弘安五年壬午十月十三日六十一歳御入滅】
 開山日興上人【正慶二癸酉年二月七日齢算八十八】
 第三祖日目上人【正慶二癸酉年十一月十五日寿七十四】
 【四代】日道【暦応二辛巳年二月廿六日五十九才】
 【五代】日行【応安二己酉年八月十三日】
 【六代】日時【応永十三丙戌年六月四日】
 【七代】日阿【応永十四丁亥年三月十日】
 【八代】日影【応永廿六亥年八月四日】
 【九代】日有【文明十四壬寅年九月廿九日】
 【十代】日乗【文明四壬辰年十一月廿日】
 【十一代】日底【文明四壬辰年四月七日】
 【十二代】日鎮【大永七丁亥年六月廿四日五十九才又は七十一才】
 【十三代】日院【天正十一癸未年七月七日七十二才】
 【十四代】日主【元和三丁巳年八月十七日六十三才】
 【十五代】日昌【元和八壬戌年四月七日六十一才】
 【十六代】日就【寛永九壬申年二月廿一日六十六才】
 【十七代】日盈【寛永十五戊寅年三月七日四十五才】
 【十八代】日精【天和三癸亥年十一月五日八十四才】
 【十九代】日舜【寛文九己酉年十一月十二日六十才】
 【二十代】日典【貞享三丙寅年九月廿一日七十六才】
 【廿一代】日忍【延宝八庚申年九月四日】
 【廿二代】日俊【元禄四辛未年十月廿九日五十六才】
 【廿三代】日啓【宝永四丁亥年十一月十四日五十九才】
 【廿四代】日永【正徳五乙未年二月廿四日六十六才】
 【廿五代】日宥【享保十四己酉年十二月廿八日六十才】
 【廿六代】日寛【享保十一丙午年八月十九日六十一才】
 【廿七代】日養【享保八癸卯年六月四日五十四才】
 【廿八代】日詳【享保十九甲寅年八月廿五日五十四才】
 【廿九代】日東【元文二丁巳年十二月朔日四十九才】
 【卅代】日忠【寛保三癸亥年十一月十五日五十七才】
 【卅一代】日因【明和六己丑年六月十四日八十三才】
 【卅二代】日教【宝暦七丁丑年八月十二日五十四才】
 【卅三代】日元【安永七戊戌年二月廿六日六十六才】
 【卅四代】日真【明和二乙酉年七月廿六日五十二才】
 【卅五代】日穏【安永三甲午年七月三日五十九才】
 【卅六代】日堅【寛政四壬午年十月三日七十五才】
 【卅七代】日●【享和三癸亥年五月廿六日七十三才】
 【卅八代】日泰【天明五乙巳年一月廿日五十五才】
 【卅九代】日純【享和元辛酉年七月晦日六十六才】
 【四十代】日任【寛政七乙卯年八月廿五日四十九才】
 【四十一代】日文【寛政丙辰八年八月十四日四十九才】
 【四十二代】日厳【寛政九丁巳年七月十一日五十才】
 【四十三代】日相【文化二乙丑年十二月二日四十七才】
 【四十四代】日宣【文政五壬午年正月七日六十三才】
 【四十五代】日礼【文化五戊辰年五月八日】
 【四十六代】日調【文化十四丁丑年正月廿七日五十二才】
 【四十七代】日珠【文化十三丙子年九月廿二日四十八才】
 【四十八代】日量
 【四十九代】日荘

   山内旧跡
 御閼伽【又御華水と云本堂より十丁余北なり】。
 毎朝此池の水を汲て以て仏前に供す閼伽とは水の梵名なり、仏へ備る水を閼伽と云ふ今訛転して上川と云ふは大に謬なり、谷隘より涌出する清泉なり早魃にも霖雨にも曽て増減無し、開山已来寺中番衆五日交代に之を勤む。
 子持杉【方丈客殿前東方にあり】。
 当山草創の時開山師植る所の古木なり、根元壱株にして中間より末真木数本に分る故爾か名るなり、伝に云く子無き婦此木の本を巡り祈誓を懸くれば則子を設るなり云云。
 枝低桜【方丈玄関前にあり】。
 開山上人植る所の古木なり、春時正の頃花盛美麗なり。
 千子の原【本堂より北十五丁余にあり】。
 実には勢子の原なり今け訛転して千子が原と云ふなり、建長四年五月源頼朝公富士野巻狩の時勢子を此所に集む故に名と為す、此所より頼朝公御狩宿の旧跡へ十五六町北なり、今に子孫あり狩宿村井出伝右衛門と云ふなり。
 牛石【千子の原北地境にあり】。
 黒牛の屈居に似たり大車牛の如し、伝に云く往昔富士野より夜々悪牛出で田畑を荒す、里人之を嘆く爾るに開山師之を祈て即化して石と成る云云。
 藤巻石【千子の原北西地境にあり】。
 大蛇窪【五重塔裏富士山街道東谷隘なり】
 伝に云く往昔此所に大蛇住む里人久く之を怖る、開山師説法の日毎に尺ばかりの小蛇と変じて堂の階下に来りて之を聴く、師云く憐むべし是彼の大蛇なり業苦を脱れんが為に来る、乃指を以て其頂き摩つ敢て動かず為に説て法要を示す、蛇忽然として本形に復し故栖に帰る云云、一夜夢に天人来て礼拝合掌して師に白して言く我は此大蛇なり師の慈恵に因り速に蛇身を転じて今生を都率天に受く恩を謝せん為に来ると云ひ已て去ると、翌日人を彼所に遣はして之を見せしむるに大蛇既に死す、則其谷隘に埋む此より大蛇久保と云ふなり。
 石滝【山門より東一丁半にあり】。
 高さ五丈余一枚磐石の上より落つ富士山の大谷より続く大沢なり。
 馬口穴【同所にあり】。
 霧ヶ峯【黒門前西南の山なり山海共に見る絶景の所なり】。
 熱原二十四人の塚【本堂の後にあり】。
 弘安二年興師富士の下方に御弘通の時、法の為に土の牢似入れられ頭を刎ねられし熱原神四郎等十三回忌菩提の為に塚を築き率都娑を造立す追福を修するなり、後年又大漫荼羅を書写し以て彼等の追善を擬端書に云く駿河国富士下方熱原神四郎法華宗と号し平左ヱ門尉の為に頚を切らる三人の内なり、平左衛門入道法華宗の頚を切る後十四年経て謀反を企るの間誅せらる其子孫跡方なく滅亡畢んぬ、徳治三戊申年卯月八日、日興在判。
 大石寺目薬【又上野目医師と云ふ】調合所市場村清三郎兵衛。
 右薬方は当山十七代日盈上人奥州会津実成寺に在る時に老母眼病を憂ひ衆医の手を尽すと雖更に寸効無し、師歎じて七昼夜御影の宝前に籠り丹誠を抽て之を祈る、即願満の夜新に霊夢を蒙り直に其薬方を制して以て之を療す、老母眼疾忽ちに平癒すと、師当山入院の後救民の為にに且は結縁の為に弟子本実坊日伝と云ふ者に相伝し寺中に於て衆人に施す愈せざる無し、老若群衆市の如し、然るに寺中児女子の出入を厭ひ且は法務の妨為るに依て之を俗甥清三郎と云ふ者に伝授す、此より彼家一子相伝数代眼科を以て業と為す、蓮祖夢想の霊方為るに依て療を受る者自他宗に限らず日夜題目修行を励ましむ、至誠深信の輩縦使ひ難治の症為りと雖往々感応を蒙り効験著明なる者なり。
 百富士四の巻【十四丁】大石寺見山中富士。
 時雨ては生るゝ富士や寿量品    活羽
 境内地間数。
 竪【北牛石より南黒門前に至る】南北二十一町余。
 横【北方地頭にて一丁余中程にて七丁余南地尻にて壱丁余】此平均三町余。
 惣坪数弐拾弐万六千八百余坪。
   此内弐万七千余坪の所諸堂大坊寺中家作の地所なり。

  平時光伝。
 当山草創大檀那南条【又上野と云ふ】七郎次郎修理太夫時光【初左衛門尉と云ふ】姓平氏北条時政の裔南条新左衛門尉頼員の子【家名東鑑四十七に出す】同兵衛七郎入道行増の嫡男なり、母松野六郎左衛門尉某の女なり、本国は豆州仁田郡南条なり、因て南条を以て之を呼ぶ、鎌倉副元帥北条時頼の烏帽子子一時の望重しと、駿州富士郡上野郷に館す因て亦上野を以て之を称す、又其先久く上野国に住する故に上野氏と云ふなりと、駿州の由井四郎光家、河井又二郎光次、大内三郎安清、松野六郎左衛門某、三沢小次郎入道法性、石川孫三郎実忠、高橋六郎入道妙常、甲州の大井荘司光重、小笠原二郎某、秋山与一信綱、波木井六郎実長野州の小野寺十郎道房、奥州の新田五郎重綱等親戚甚広し、所領豆州【新田郡南条邑】相州【山内庄前岡郷】丹波【小椋の庄内】上野【地名分明ならず】駿州【富士郡上野郷蒲原の庄関島】等在り【蓮祖書中時光自筆譲状に見ゆ】、興師と旧好在り父と倶に初興師の教化に憑り受法し篤く蓮祖に帰依す戴髪の弟子と称す、仕官の躬恣封を出るを得ず毎月使を差して資糧を身延山に贈る、審問怠らざる故に蓮祖書中【録内録外数十通あり】贈答の消息多し、文永八年九月十二日の夜蓮祖相州辰口の危難に罹る、其夜執権の第中数奇怪有り之に因て蓮師を誅すべからざるの旨南条兵衛七郎命を奉じて急使を以て之を竜口に達す、【其下知状に云く一守殿御館に於て大物怪共之有り、日蓮法師誅すべからずの由南条七郎を以て仰せ出さる所件の如し、九月十二日平左衛門殿、信濃判官入道観正判、此本書南都常徳寺重宝の由本化記念録に出す之有り】弘安四年辛巳年5月蒙古賊船四千余艘、人数二十四万騎壱岐対馬を襲ふ、西海諸将兵力を進むと雖戦終に支ふ能はず、天下怖畏せざる者莫し、之に因て異敵退治を籠め諸寺社に勅願すと雖更に験無し、執権時宗蓮師先言屡差はざるを以て南条七郎時光に命し使して救護を蓮祖に請ふ、蓮祖乃旗に漫荼羅を書して以て之に与ふ、同五壬午年初冬蓮祖武州池上に赴く時光鎌倉に在り之を聞き則往て蓮祖の滅度に値ふ、葬式の供奉散華の役を勤む、又浄宝を富士上野に構へ【今の下之坊】以て御骨の一宿を待つ【十月廿四日】、正応元年興師身延離山の後領地を割き興師に布施し以て宏基を創む、鎌倉相模入道高時奢侈日に募る時光再三之を諌むと雖用ひず滅亡遠からざるを念し致し仕して所領を嫡男太郎左衛門尉高直二男次郎左衛門尉宗直三男三郎兵衛尉時忠四男四郎右衛尉直重女子鬼鶴乙鶴御前等に配与す【自筆譲状数通之有り】、薙髪法号を大行と称し世事を捨て一向唱題の外他無し、正慶元壬申年五月朔日寿を以て逝く館の南高土と云ふ所に葬る、去る正中元甲子年五月後醍醐天皇連年鎌倉を滅せんと欲る由其密謀隠無し、二男南条次郎左衛門尉宗直長崎四郎左衛門尉泰元と関東の使者と為て上洛謀叛の帳本権中納言資朝右少弁俊基両人を捕へ鎌倉へ帰る。資朝佐渡に流されて京に帰る、元徳二年文観僧正等の白状に因て俊基再び召捕へられえ関東に下る、嫡男南条太郎左衛門尉高直【侍大将なり】之を請け取り諏訪左衛門尉に頂く、元弘三癸酉五月新田義貞義兵を上野国に起し同十七日軍を三手に分て鎌倉に攻め入る。嫡男南条太郎左衛門尉高直侍大将と為て赤橋前相模守平盛時の手に属し武蔵相模出羽奥州勢六万騎を率て洲崎の敵に向ふ、此陣の軍剛にして一日一夜の間打合六十五度、御方大に疲れ或は討死又は落失残兵僅三百余騎に打成され、同十八日晩程戦未だ半ならざるに大将盛時と供に帷幕の中に入り物具脱ぎ捨て同志侍九十余人枕を同して自害す法謚妙行霊と号す【已上北条九代記十二太平記一同十取意往見】、二男次郎左衛門尉宗直大仏陸奥守貞直の手に属し極楽寺切通口の寄手に向ふ、同十九日防戦討死す法号行連霊と謚す、四男南条四郎右衛門尉直重同二十二日東勝寺に於て北条高時入道及び一族三十四人と共に切腹す法謚行念霊と称す、嗚呼惜かな南条一門茲に多く忠死し畢り残族僅に壱両人、後足利家に仕へ功あり今に至るまで子孫江府御旗本の中に在り定紋五三の桐と云ふなり。
 太平記首巻【六丁】或記に曰く【理尽抄】五月十七日相模守高時南条左衛門尉以下各武州に向ひ山内離山に於て合戦す云云、十八日高時以下自害し畢ぬ云云、此等の文を以て南条氏の軽からざるを知るべきなり。
  末寺
 大日蓮華山、下之坊 上野郷下条村【当山惣門より二十余丁南西にあり】、客殿【間口六間奥行五間】、玄関【四間三間】、庫厨【七間六間】門【一間半一間】。
開基日興上人正応二年の春甲州より初て此所に移り給ふ、乃南条時光の持仏堂なり、又蓮祖御骨一宿の旧跡なり、祖師伝記【廿二ウ】云く弘安五年十月十三日、蓮祖武州池上に於て入滅、二十一日御骨を身延山に送る。乃至二十四日南条七郎次郎館入御云云、即此所なり。
 日目上人正墓当寺に在り。
 児塚 寺前田中にあり、時光舎兄南条太郎文永十癸酉三月十日行年十六歳井戸に落て逝く、即以て塚と為す法号行忍尊霊。
 甲州八代郡大杉山     有明寺
 駿州富士郡上野下条村   大乗寺
  同     上条村   妙喜寺
  同     上井出村  寿命寺
  同     淀師村   要行寺
  同     半野村   妙経寺
  同     抽野村   蓮成寺
  同     根方石川村 本広寺
  同     根方井出村 蓮興寺
  同     境村    妙光寺
 武州江戸下谷竹町     常在寺
  同  葛飾郡牛島小梅村 常泉寺
  同 江戸本庄中之郷元町 妙縁寺
  同 埼玉郡久米原村   妙本寺
 下総猿島郡新和田村    富久成寺
 同国猿島郡        大乗寺
 下総千葉郡中田村     真光寺
 武州稲毛領上作延村    広宣寺
 相州獺郷         浄久寺
 下野国都賀郡小金井町   蓮行寺
  同 都賀郡小薬村    浄円寺
  同 都賀郡平井村    信行寺
 奥州白河郡中野村     上行寺
  同白河郡滑津村     本法寺
  同岩瀬郡里守屋村    満願寺
  同岩瀬郡仁井田村    願成寺
  同田村郡三春城下    法華寺
  同栗原郡下宮野村    妙円寺
  同登米郡森村      上行寺
  同登米郡新井田村    本源寺
  同登米郡加賀野村    本道寺
  同岩城黒須野村     妙法寺
  同岩城菊田郡深山田村  蓮浄寺
 常州筑波郡八丈村     本証寺
 上野国大胡        本応寺
 上総山辺塚崎村      本城寺
 摂州大阪北野村      蓮華寺
 摂州大阪薬師堂村     源立寺
 京都九条         住本寺
 阿州名東郡徳島寺町    敬台寺
  同名東郡富田浦     本玄寺
 因州鳥取         日香寺
  同鳥取         正行寺
  同鳥取         宗林寺
 泉州堺町         本伝寺
 奥州八之戸        玄中寺
  同二本松        堪園寺
   文政六癸未仲夏之を述作す。
  嫡男第四十八世久遠阿闍梨本寿院日量 五十三才 在御判

 右謹で之を拝閲し奉り且尊命に随て手当甲申六十五歳より老眼を以て之を書写し奉り寺宝に備ふ、追日再写して再冊と成すべし、其所以如何喰虫磨滅を恐る、又其餘は書写を堅く之を禁ず他門に散在するを怖る敢悋惜に非ず、即尊命に云く深信の者に於て之を拝見せしむべしと、是即秘して之を伝ふべきの垂迹にして遠く散在を制する誠言なり、後哲深く之を思考せよ、若深信来至して聴聞を願ふに於ては日々夜々と雖聴聞に備ふべし、是即教論の最要一宗顕本の基源なり励て之を務むべし、然りと雖書写を許すべからず終に軽卒散在を成さん、既に今当門秘書世上に散在す、爾るに亦解せず信ぜず還て謗の助と成る此意深く之を思量せよ、夫今此冊や御本伝広博なりと雖然も畧して要を取り御大事を文底に含め開祖御離山の元由著明高顕なり、五百有余歳の往昔今眼前にして御宝物旧跡掌中に観るが如し、一宗大本山本門戒壇の霊場文に在りて分明顕然なり、若文上者為りと雖正信を以て之を拝せば忽に前非を悔ひ文底に帰入すべき宝冊なり、若又広布の時に到りて一宗の本源御糺明在るに於ては先此宝冊を以て上聞に達すべき者か、而して後問に任せ答ふべし是併ら諸末寺に於ても得意最要なり、既に今権経名字過て迹門題目盛なり、若爾らば本門の広布近に在ること之を疑はん、務めよや専ら修理を加へ勤行を致し待ち奉るべき者なり爾か云ふ。
  文政第七甲申歳正月十八日、法竜仏眼に於て謹で之を書す。

  編者曰く量師の正本を見ず一二の転写本に依る誤字多けれども強いては改めず、少しく訂正を加へ全文延べ書と為す、又此書は先師も曽て怪奇の書と貶せられたれども写伝八方に飛びをれるより正評を加へて誤解なきやうに努むる必要あるより、全然誤謬に属する所には傍に○○点を附し、疑義に属する分には△△点を施して、読者の注意を惹かんとす、後跋の文は仙台仏眼寺の住寿円院日倚の筆にして純信の文字なり。

富士大石寺明細誌 ②

方丈【本堂前一丁余西南の隅】。
 客殿【正南面、向拝造間口十四間奥行十二間】。
   左方厨子日興上人木像【御居長二尺六寸三分御膝両袖三尺九寸五分】。
  仏壇中央板漫荼羅日興筆の写。
   右方厨子日蓮聖人木像【御居長二尺六寸七分御膝両袖四尺一寸五分】。
 御霊屋【間口三間奥行二間】、将軍御位牌。
 玄関【唐破風横 三間檜皮葺 明五間】。
 書院【七間九間半】。
 奥居間【十三間五間】。
 庫裏【間口十三間奥行十間】。
 六壷仏壇厨子の中日蓮聖人木像【御居長一尺三寸五分御膝両袖二尺二寸二分】。
 下台所【間口十二間奥行五間】。
 赤銅●槌壱面【又雲板と云ひ又打板と云ふ方丈客殿東縁側にあり長五尺六分横四尺九寸厚二寸二分】。
   願主二十四代日永、元禄八乙亥正月十三日、鋳物師江戸住宇田川重賢作、功徳主江戸神田住村松七兵衛尉。
 不明門【客殿前明一間半】。
 裏門【五間二間】。
 表門【唐破風四ツ足檜皮葺】、【二間一尺二間二尺】。
 門番所【二間九尺】。
 宝蔵【間口四間奥行五間】、【客殿後二十間石垣六尺の上に立つ】。
 同門【明一間半横一間】。
 学頭寮蓮蔵坊と号す。
 講堂【間口七間奥行六間】、仏壇【中央十界勧請大本尊、右日蓮聖人木像左日興上人木像】。
 脇仏壇日目上人等身木像を安置す【居長二尺四寸五分御膝両袖三尺六寸五分】、奥居間【三間五間】、長屋【所化勤学所十二間三間】、表門【二間一間】。

  開基日目上人。
 宗祖の直弟子新田卿阿闍梨と号す、俗姓藤原氏御堂関白道長公の後裔、奥州登米群新田卿領主小野寺五郎重綱の五男なり、母平氏豆州南条二郎入道行増の女なり、父鎌倉に仕へ南条の家に寓居す、師胎に在ること十二箇月文応元年庚申四月廿八日伊豆波多の郷に生る、少名虎王丸甫十三歳文字を走湯山円蔵坊に学ぶ、文永十一年甲戌秋興師円蔵と法議を論ず蔵屈を受く師側に在り之を聴き当家を慕ふ即師を以て興師に奉ず【時十五歳】、健治二丙子四月八日剃髪受戒して改て卿公と名く、同十二月二十四日日興師に随ひ甲州身延山に登り蓮祖に謁し奉る、聖人感悦して曰く是諸天人世間の眼なり宜しく蓮蔵坊日目と称すべきなり【時十七歳】此より蓮祖に随侍し法華を習学す多聞広学の誉有り、弘安五年壬午九月蓮祖に従ひ武州池上に如く、旅次叡山徒伊勢法印と云ふ者有り将に蓮祖と法門を論ぜんとす、蓮祖師に命じて対と為す師進で忽に之を折く伊勢緘黙す、同十月蓮祖葬式先陣の列なり、身延に還て守塔の番は十月の詰衆なり、六年春豆州に如き一門縁者を教化す甥某弟子と為る日道と名く【大石寺四代】、又奥州登米郡に下り新田森加賀野玉野颯佐氏等を教化し寺を所弘の地に建つ、所謂本源、上行、妙円、妙教の四箇寺是なり、台徒其門人と為る日尊と名く【京都要法寺開山】、越後に往き太田郷某の子を弟子と為す日郷と名く【小泉久遠寺、房州妙本寺開山】、身延山に帰り弟子をして興師に給仕せしむ、又在々所々に行化し寺を所弘の地に建つ所謂駿州安居山、同州蒲原駅、甲州谷村三所の大法山東漸寺是なり、正応元年戊子冬興師に従ひ身延山を退き富士の上野に移る、興師宏基を大石原に開く法弟各子院を造る、師の構る所蓮蔵坊と呼ぶ、命を奉じて講莚を開き以て門人を励す、興師蓮祖の例に順じ六老僧を撰む、師其魁為り、正安元年己亥師十宗房と云ふ者と宗教を論ず利有り、師宗祖在世より已来或は代官と為り華洛に上り奏状を天子に捧ぐ、又自己の為に柳営に下り訴状を将軍に奉る、奏聞を経る都合四十二度なり、元徳二年興師書を以て大石寺の視篆を命ず師乃之に応ず其状に云く。
   日興跡条々之事
一、本門寺建立時新田卿阿闍梨日目座主となし日本国乃至一閻浮提の内山寺等に於て半分日目嫡子分として管領せしむべし、残る所の半分は自余の大衆等之を領掌すべし。
一、日興身に宛て給る所の弘安二年大御本尊日目之を授与す、本門寺に掛け奉るべきなり。
一、大石寺御堂と云い墓所と云い日目之を管領す、修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり。
 右日目十五の歳日興に値い法華を信じて以来七十三才の老体に至るまで違失の儀なし、十七才日蓮聖人の所に詣り【甲州身延山】御在生七年間常随給仕、後遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年間奏聞の功他に異るに依って此の如く書きおく所なり仍後証の為に状件の如し。
  元徳二年十一月十日     日興 在御判
 正慶元年壬申十月十三日日興師又本尊を書して師に与ふ其端書に云く、最前上奏仁新田卿阿闍梨日目之を授与す一中一弟子なり。
 正慶二年興師の滅後再び将に帝都に観光せんとす濃州垂井駅に抵りて疾を感じて乃寂す実に十一月十五日なり、春秋七十四、従ふ所の日尊日郷泣々喪事す乃骨を二瓶に分ち以て富士上野と洛の鳥辺山とに塔す、代々当院より本坊に進む当山補処の跡なり。

  表西側房中
 理境坊 客殿【間口六間奥行五間】、庫裡【五間三間】、門【一間半一間】。
 開基【宗祖の直弟下野阿闍梨】日秀上人。
 俗姓詳ならず富士加島の人天台の徒なり、興師の教化に依て衣を更て身延に登り蓮祖に仕ふ、弘安中熱原市庭寺に住す日弁と倶に折伏弘教し杖木瓦石を蒙る、宗祖之を感じて二人直に上人と召さる、宗祖滅後興師に随ひ身延に有り、正応元年興師延山を去る師従て当山に移り僧坊を造り理境坊と号す、老後小泉村に草庵を結び閑居す、興師に先て元徳元年己巳八月十日示寂。
 百貫坊 客殿【間口六間奥行五間】、庫厨【六間四間】、門【一間半五尺】。
 開基【高祖の直弟摂津阿闍梨】日仙上人。
 俗姓甲州小笠原の邑主某の子、秋山信綱の一族なり、興華両師に随ひ得道す、身延に登り蓮祖に仕ふ、弘安五年蓮祖御葬式は後陣の列なり、正応元年冬興師に従ひ身延を去り富士に移り坊舎を建て上蓮坊と曰ふ、興師老後側を離れず杖と履とを手元に置き起居動静孝思を竭くす給仕第一なり、甲州鰍沢の領主秋山氏所領を讃州高瀬に代ふ師彼地に住て法華寺を開く、茲に於て延元二丁丑年正月七日円寂。
 寂日坊 客殿【間口八間奥行六間】、書院【四間三間】、門【一間半4ツ足】。
 開基【高祖の直弟二十家阿闍梨】日華上人。
 俗姓は甲州鰍沢秋山与一源の信綱の子なり、同郷二十家に生まる、本七覚山の山臥なり、興師の説法を聴き得道して衣を更め弟子と為り延山に登り蓮祖に給仕す、鰍沢に於て法を説き日仙日伝日妙等を教化して弟子と為す、又寺を所弘の地に建つ小室妙法寺、鰍沢蓮華寺、経王寺なり、蓮祖滅後身延に在り守塔の番は十二月の詰衆なり、正応元年興師に従て富士に移り子院を構へ寂日坊と号す、元享中甲州秋山信綱所領を土佐国幡田庄に替ふ、師往て法華堂を造る、興師の御遷化に就て富士に帰り南条時光の旧宅を転じて妙蓮寺を開く、茲に於て建武元年甲戌八月十六日安祥として円寂す。
 観行坊 客殿【間口六間奥行六間】、庫厨【六間四間】、門【一間半一間】。
 開基【興師弟子伊勢公】日円上人。
 俗姓は詳ならず奥州栗原郡の人なり、初目師に従て出家得道して富士に登り開山師に給仕し坊舎を構て観行坊と呼ぶ、後命を奉じ奥州栗原郡宮野妙円寺に住持する年有り、茲に於て延元二丁丑十月廿八日示寂。
 蓮成坊 客殿【間口七間奥行五間】、庫厨【六間四間】、門【一間半一間】。
 開基【高祖の直弟越後阿闍梨】日弁上人。
 俗姓は詳ならず延応元年甲州東郡に生る、興師に従ひ得道し後蓮祖の弟子と為る、又一説に云く熱原神四郎の子なりと云ふ【実否詳ならず】、弘安中熱原竜泉寺に住し大に折伏弘通し謗者の為に寺を破却せられ躬に杖木瓦石を蒙る、蓮祖之を感じて直に上人と召さる、蓮祖滅後身延山に在り守塔の番六月の詰衆なり、正応元年興師に従ひ富士に移り子院を構へ乗観坊と号す後蓮成坊と改む、又上総国に行化し鷲巣鷲山寺を開く、行年七十三歳応長元辛亥年閏六月廿六日常州赤浜に於て示寂。
 南之坊  客殿【間口六間奥行四間】、庫厨【五間三間】、門【一間半一間】。
 開基【高祖の直弟少ゆ輔阿闍梨】日禅上人。
 俗姓は甲州西郡川村の邑主某の子なり、興師の母方由井氏の族なり、興師に従ひ出家し延山に登り蓮祖に給仕す、正応元年十月十八日興師の養父川井に於て逝去す、興師師をして蓮光の墓を衛護せしむ即小庵を結び妙光寺と号す、又上野に坊舎を造り南之坊と曰ふ、元徳二庚申二月廿四日興師の母妙福川合に於て逝く、命を奉じ両親の墓を上野下条に移し東光寺を開く、元徳三辛未三月十二日師に先て南之坊に於て入寂す。

  表東側房中
 浄蓮坊 客殿【五間四間】、庫厨【三間半五間】、門【一間半一間】。
 開基【興師弟子伯耆阿闍梨】日道上人。
 俗姓は藤原氏新田重綱の孫なり、母南条時光の女、弘安六年癸未年豆州波多郷に生る、襁褓の中より目師の弟子と為り富士に登り上野に住す、草坊を建て浄蓮坊と号す、後興師の座下に詣り法華の行学を修す、弁阿闍梨と称し後伯耆阿闍梨と改む、重須に行泉坊を造る、正慶二年冬目師上洛の時大石寺を付属せられ即的受第四の嗣法なり、行年五十九歳、暦応四辛巳二月廿六日示寂。
 久成坊 客殿【間口七間奥行六間】、庫厨【八間五間】、門【一間半一間四足こけら】。
 開基【興師弟子玉野太夫阿闍梨】日尊上人。
 俗姓は詳ならず奥州登米郡玉野の人なり、元天台学徒なり、目師に値て得道し衣を更て弟子と為る、目師に随て身延に登り興師に謁して法華を習学す、正応元年興師に従て富士に移り上野に子院を建て久成坊と名く、正安二年の秋興師重須の寺に於て説法を為す時祖道の乾に丁り梨樹有り其黄葉秋風に錯乱するを見て莞爾として意を移すに似たり、興師師を呵して擯出せしむ、師忽に勇猛の信を発し東西に行化する十二年寺を所弘の地に建る凡三十六宇、年々に還来して赦を請ふ、応長元年興師之に感じて師を免許せしめ剰へ三十六幅の本尊を賜ふ、正慶二年冬目師濃州垂井駅に於て遷化す、侍者は師と日郷となり、泣々尊骸を荼毘し舎利を二瓶に分ち日郷は富士に帰り之を上野に支徴す、師洛の鳥辺山に塔して法を帝都に弘め要法寺を開く、茲に於て寿八十一、康永四年乙酉年五月八日示寂。
 蓮東坊 客殿【六間半四間半】、庫厨【四間六間】、門【一間半一間】。
 開基【興師弟子三河公】日蔵上人。
 俗姓は詳ならず下野国小野寺の一族なり、目師に従て得道す、後興師に給仕し上野に坊舎を構へ蓮東坊と呼ぶ、後下の野州平井に行化して信行寺を開く、爰に於て康永元年壬午八月十二日示寂。
 本住坊 客殿【間口六間奥行四間半】、庫厨【六間四間】、門【一間半一間】。
 開基【興師弟子宮内卿阿闍梨】日行上人。
 俗姓は奥州三の迫、森の邑主加賀野氏某の子なり、母は南条時光の女なり、父鎌倉に仕へ師を下野国に生む、道師に従て出家す、後興目両師に給仕し下之坊に住す、また当坊を建て下の野州小金井に如き蓮行寺を開く、高氏将軍より寺領を寄附する黒印を賜ふ、道師師を招て大石寺を付属す即的受第五嗣法なり、暦応五年春申状を高氏将軍に捧ぐ、在住二十九年応安己酉八月十三日示寂。
 了性坊 客殿【間口六間奥行四間半】、庫厨【四間六間】、門【一間半一間】。
 開基【興師弟子尾張阿闍梨】日乗上人。
 俗姓は詳ならず奥州登米郡新田の人本儒者なり、名を大学と呼ぶ手跡を善くす、目師の教化を受け高年にして出家し身延に登り興師に給仕す、正応元年興師に従て富士上野に移り僧坊を構へて藤の木坊と呼び又蓮仙坊と云ふ、老後小泉村に草堂を建て閑居す、師に先て文保二戊午三月二十八日示寂。
右十二坊草創以来旧跡なり。

  裏坊中【本堂より東南】
 石之坊【間口六間奥行八間】、門【一間半一間】。
 当山濫觴の地なり、庭に霊石有り説法石と号す、開山興師当山草創の始此石を高座と為て説法し真俗男女を教化す故に爾か名るなり。
 説法石【高地上五尺余囲二丈斗】石上に松一株を生ず。
 古来伝に云く阿育大王所立の石宝塔の基ひなり、此石有る故に此所の地名を往昔より大石が原と云ふなり、私に云く往昔此所は甲斐の国えの駅場か、東鑑一【卅三】云く治承四年庚子十月十三日壬辰甲斐国源氏並に北条殿父子駿河国に赴く、今日暮大石駅に止宿す云云、前後文見合て考ふべきなり、伝に云く唐土大石寺三ケ処あり皆阿育王石宝塔の旧地なり云云。
 寿命坊 客殿【間口七間奥行六間】、庫厨【六間八間】、門【一間半一間】。
 建立の大施主は文昭院様御台所一位様御法謚天英院殿従一位光誉和貞崇仁尊儀【元文二辛酉年二月二十八日御宝算七十有六歳】。
 願主【一位様御猶子】【二十五世】日宥。
 遠信坊【間口八間奥行五間】、門【一間半一間】。
 又富士見庵と云ふ此庭より富士の正面を見る絶景なり。
 報恩坊  堅樹坊  円因坊  宗順坊  慈雲坊  清光坊  東光坊  随本坊  行信坊  信解坊  順行坊  完川坊  実成坊  玄明坊  浄性坊  善立坊  本如坊  勇本坊  西山坊  本行坊  宗智坊。
 已上塔中三十六坊。
 門前町【方丈裏門前に在り】十六軒。
 上川村【新田百姓本堂北十余町に在り】。

 

富士大石寺明細誌 富士宗学要集より 第五巻 宗史部 ①

   富士大石寺明細誌

 富士大石寺、法華宗、富士郡上方庄上野郷上条村、寺領六十六斛八斗五升余、七堂伽藍坊舎三十余宇。

  開山日興上人。
 日蓮聖人の上足六老僧の第三白蓮阿闍梨と称し又伯耆公曰ふ、俗姓は橘氏美濃守善根の裔大井の庄司光重の三男なり、寛元四丙午三月八日甲斐国巨摩郡●河沢に生まる、右額に七曜の文在り視る者奇と為す、幼少にして父を喪ひ駿州岩本実相寺に登り播磨律師を師とし事へ甲斐公と名く、叡嶽三井に渉猟し顕密二教を学ぶ、儒書和歌を冷泉中将に問ひ且筆道の秘を習ふ、頴悟博識にして名誉有り、正嘉中蓮祖講を岩本に開く師聴て得度し忽に持法を棄て蓮祖の弟子と為り因て名を改む、此より鎌倉に往き蓮祖に奉仕し旧寺に還ては在々所々に行化し受法の真俗枚挙し難し、松野氏の男門人と為り日持と名く【六老僧蓮華阿】鎌倉に携へ蓮祖に侍せしむ、文永辛未蓮祖佐州に謫せらる即従て往く在島四箇年蓮祖に随逐給仕す、阿仏房師の節操に感じ後一子を以て師に奉る如寂坊日満と名く、十一甲戌三月八日日朗赦状を以て佐州に著く、日已に暮る喚ぶこと数声師之を聞き炬を把て出で迎ふ同十三日蓮祖に侍し佐渡を発し同二十六日鎌倉に還る、同五月蓮祖身延に入る師乃随ふ、同十一月蓮祖大曼陀羅を書して師に授与す【万年救護の本尊と号す後目師に相伝す今房州妙本寺に在り】建治中豆州に行化し一弟子を得、蓮蔵坊日目と名く【新田卿阿と云ふ大石寺の三代】、甲州秋山の男出家す寂日坊日華と名く【下条妙蓮寺開山なり】小笠原氏の男弟子と為る百貫坊日仙と名く【讃州高瀬法華寺開山】、弘安元年戌寅正月駿州富士郡に行化す、改宗帰依の者日に衆し、蓮祖日法日弁に命じて之を扶助す、実相寺主厳誉師の宗化日に隆なるを怨嫉し之を官に讒す、二月師奏して公庭に彼と是非を論ぜんと請ふ【実相寺申状と云ふ】官果さず、同二己卯再書を以て之を請ふ【滝泉寺申状と云ふ】、爾りと雖奉行平頼綱等厳誉を贔負し敢対決を許さず、剰吏を富士下方に遣し寺院を破却し僧侶を打擲し檀越二十四人を捕へ而して之を鎌倉に送り以て地牢に下す、其頭領熱原の神四郎田中の四郎広野の弥太郎三人終に斬罪に行はる、師愁訴を懐て空く年月を過る中厳誉陰謀露顕して逃亡す【富士川を去て西中郷今其所を四十九と云ふ】寺因て本化の道場と為る、弘安元年蓮祖妙経の講延山に開く師其口伝を筆受す【世流布の御義口伝と云は是なり】師筆法に善し命を奉する毎に代て本尊を書す仍て其口伝を禀く【本尊七箇の口決と云ふなり】、同二年弥四郎国重なる者【一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり】霊瑞に感じて良材を得以て蓮祖に献ず、蓮祖満悦し本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫尅せしむ、日法材端を以て蓮祖の小影を作る【作り初の御影とも最初仏とも号す右二種大石寺宝庫に安ず】、蓮祖又日法に命じて等身の像を模刻せしむ【生御影と号し重須の寺に安す】、此の三種を師に付与せらる、同四辛巳蓮祖園城寺の申状を書す師命を奉し日目を相伴ひて帝都に上り上奏を経親く御下文を賜ふ【是を薗城寺御下文と云ふ天奏の最初一宗の規模なり】、同五年【壬午】秋蓮祖微疾を感じ其死なん事久しからずと念ひ一大事己証の法門を以て師に完付す乃遺証を賜ふ【之を身延山相承と云ふ】、其文に曰く日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師為るべきなり、国主此法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ事の戒法と謂は是なり、就中我門弟等此状を守るべきなり、弘安五年壬午九月日、日蓮【在判】、血脈次第日蓮日興。
 同九月下浣蓮祖安国論を池上に講す、師聴て安国論大意問答を撰す、十月蓮祖六上足を定む師厥の第三と為る乃命を奉じ其列次を書す、同十三日暁補処の遺状を師に賜ふ【之を池上相承と云ふ】其文に曰く、釈尊五十年の説法白蓮阿闍梨日興に相承す身延山久遠寺の別当為るべし、背く在家出家共の輩は非法の衆為るべきなり。
  弘安五年壬午十月十三日 日蓮【在御判】、武州池上に於て。
 同十六日師御遷化記録を書す【四人裏判之有り向頂二人他行】師遺名に任せ甲州身延山に住持する七箇年なり、地主波木井入道讒言に惑はされ蓮祖の遺誡に違戻し謗法一ならず、師歎て再三之を諌むと雖実長聞かず、師乃之と隙を生ず、正応元年戌子十一月蓮祖遺囑の霊宝残らず之を持参し身延を去て大井に到る、波木井一門大に駭き数度還住を請ふ師思ふ所有て帰らず、同二年己丑春南条七郎修理太夫平時光の請に応じて駿州富士郡上野郷に移る【今の下之坊なり】、茲の勝地を撰で宏其をを大石が原に創め本門戒壇の大御本尊を安置す、門弟各僧房を構る十有二舎乃建る所を以て号し大石の寺と曰ふ、維時人皇九十一代伏見院御宇正応三年癸寅十月十二日開堂す、蓮師を推して初祖と為し師第二世位に居る、化導利生の外他無し、蓮祖の例に任せ六老僧を定む、日目、日華、日秀、日仙、日禅、日乗なり【是を本六と云ふ蓮祖値遇の人々なり大石寺に在り本尊御骨の守番為らしむ】、就中嫡弟日目をして大石寺を管領せしむ、永仁六年戊戌春又一宇を北山郷に創し扁して重須の寺と号す正御影を安置す後に本門寺と曰ふ、嘉元中日澄に命じ【富木常忍の子日澄の舎弟寂仙房と云ひ一切経周覧の学匠なり】講莚を開く、乾元中真間日頂【六老僧伊予阿】母妙常妹乙御前師を慕て来る【北山正林寺を開く四人の墓有り】、遂に茲に於て寂す、延慶三年日朗来り稍本迹の僉議有り遂に屈を受け勝劣一味の誓状を捧げ御影の宝前に於て泣て前非を悔ゆ悲汗像を沾し涙痕今に新なり、師蓮祖在世の昔より或は帝都に上り公家に奏し又鎌倉に下り武家に訴ふ奏聞を経る都合三十二度なり、元徳二庚午正月大石寺守番の制を定む、元弘二壬申正月再六上足を撰す日代、日澄、日道、日妙、日郷、日助なり【是を新六と云ふ蓮祖滅後の人々なり重須の寺に在て御影守番為らしむ】、正慶元年遺戒二十六箇条を設け特に日目に遺言し葬地を指して桜樹を植え和歌一首を詠ず、明年春偶微恙を感じ自ら死期を知り本尊を床上に懸け奉り誦経唱題の外他無し、安詳に円寂す、葬儀全く蓮祖に同きなり、寿八十八歳実に正慶二年癸酉年二月七日酉尅なり。

  諸堂
 本堂【正南面檜皮葺】、【間口十四間奥行十三間】、仏壇宮殿の中板漫荼羅【竪三尺六寸横2尺】日蓮聖人木像【御居長二尺八寸五分御膝両袖四尺一寸】。
 右再建の大施主台徳院様御養女阿州太守至鎮の室御法謚敬台院殿妙法日詔大姉。
 天王堂【本堂前東方西向向拝唐破風檜皮葺】、【四間四面】、日天月天を勧請す神体は板本尊。
 垂迹堂【本堂前東方西向宮造一間四方】、天照八幡を勧請す神体は板本尊。
 鐘楼【本堂前東方三間四方】、撞鐘【長六尺二寸内竜頭一尺三寸指渡口三尺三寸厚四寸】。
 鼓楼【本堂西方二間四方】。
 青蓮鉢【本堂前東方にあり、唐銅高五尺口指渡五尺、八箇所より水落下す、池広八尺四寸四方中に八角の石台の上に伏蓮華あり其上に鉢あり】銘に曰く。
  本門円戒地    蓮鉢涌霊泉    源遠雪山下     流長湖水辺。
  清香熱悩を除き  盥漱勝縁を結ぶ  願神竜の力を破り  須臾大千を沾ん。
   施主、 本法阿闍梨広宣院日養。
   合力、 摂州大阪法華本門講衆。
   冶工  甲府住人池上源蔵巻次。
  維持享保第四太歳己亥孟冬上旬富士山大石精舎廿六世日寛之を誌す。
 経蔵【又論堂と云ふ】、【本堂の背北東方六間四方檜皮葺】、宋本の一切経全部。
 十二角堂【本堂北東一丁余五間四方】、歴代位牌。
 位牌堂十二箇所【一間半四方塔中一二坊】。
 五重宝塔【西向三間半四面、本堂東三丁余銅瓦葺土台より九輪に至る高十一丈余】、文昭院様御台所天英院殿一位尊女御再建なり。
 常唱堂【本堂東一丁余四間四方檜皮葺】、時の鐘常題目。
 常唱堂番長屋【奥行三間間口十二間】。
 中門【又二天門と云ふ】、【本堂五十間余南明二間半横二間二尺】。
 三門【中門より二百二十八間余南、明十一間五尺横五間四尺、二楼、檜皮葺】、文昭院様天英院様御二方様御再建なり。
 下馬札【三門前東方に有り】。
 惣門【明三間横一間半柿葺】、【三門より二百二十二間本堂より都合八丁四十間余】。
 制札【惣門前に在り】。
     定 御判
   駿州富士上方大石寺規矩法度并寺内諸役等の免許の事。
   右無縁所たるの間旧規の如く有る可らざるの状。
  一、当手軍勢甲乙人等濫妨狼藉の事。
  一、殺生禁断の事。
  一、寺中諸沙汰真俗共速裁許有るべき事。
  一、権門の被官人と雖檀那と号し寺中善悪の義綺い有るべからざる事。
  一、寺家郎従以下在家人等に至って自他非道の儀申しかくべからざる事。
  一、門前馬場と致すべからざる事。
  一、門前荷物を入れ押売狼藉すべからざる事。
  一、竹木截取事。
  一、大宮の役為りと雖も別無きの儀に就いては其沙汰すべからざる事。
  一、門前商買の物諸役有るべからざる事。
  一、門前に於て前々市之なき処只今立の儀停止せしむる事。
   右の条々天沢寺殿の袖判の旨に任せ堅く申し付る所なり、若し違乱の輩に於ては早速注進の上糾明あるべき者なり、仍て件の如し。
   天正十一年十月五日
    大石寺

 

富士大石寺明細誌

富士大石寺明細誌
日蓮正宗第四八世日量上人御作
①弘安二年十月十二日又はその前後一ヶ月でもよい。日蓮正宗大石寺において「本門戒壇の大御本尊」と呼称する板本尊の「全相貌」を、身延山で日蓮大聖人が認めたという証明。

「日法右板本尊並に此像を作り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之有り」(富士大石寺明細誌 原本)

要約
日法師が板本尊・御影像を彫刻し、これを称賛するために、現職に彫尅阿闍梨を大聖人から頂いた。また御影像を彫刻した旨の手形(書状)これ有り」

日量上人はその手形をご覧遊ばされている。以上、富士大石寺明細誌に明らかである。

②その板本尊を弟子の日法が彫刻したという証明。

同上、富士大石寺明細誌に明らかである。

③弘安二年十月十二日又はその前後一ヶ月でもよい。板本尊造立に日蓮大聖人が関わったという証明。日蓮大聖人が本尊を木製にせよと指示された証拠、彫刻中の日法に指南をされた証拠等々、何でもよい、一つでも出すべし。

同上、富士大石寺明細誌に明らかである。

④その板本尊を日蓮大聖人が「出世の本懐」と意義付けた直接の証拠。

件の疑難、既に諸氏が破折しており、すでに崩壊しておる。

「日蓮一期弘法白蓮阿闍梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而已事戒法謂是也」

「日興身に宛て賜る所の弘安二年大御本尊日目に之を授与し本門寺に掛け奉るべきなり」

⑤その板本尊を広宣流布の時に「本門寺の戒壇に安置する御本尊」と、日蓮大聖人自身が意義付けた証拠。

弘安二年十月十二日の大御本尊の脇書に「本門戒壇」と大聖人が認めておられること明白である。



⑥日蓮大聖人がその板本尊以外の本尊を「一機一縁」と意義付けた、称した証拠。

大聖人御図顕の多々なる本尊のうち、「本門戒壇」と有るのは弘安二年十月十二日の戒壇の大御本尊のみであることから、明らかである。以下「脇書集」参照のこと。


⑦日蓮大聖人が「文永、建治、弘安期の御本尊には、年代に応じて差異がある」と指南した証拠。後代の人物の説法ではない。日蓮大聖人自身の教示を。

薄脳の極めである。大聖人御図顕の本尊には、「二千二百二十余年」、「二千二百三十余年」の両方が存在する。大御本尊は「二千二百二十余年」であるが、それを以て大御本尊偽作説にはならぬ。
既に文証が存在する。

「日法右板本尊並に此像を作り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之有り」(富士大石寺明細誌 原本)



⑧日蓮大聖人が「曼荼羅本尊には様々な意義付けというものがあり、自身が図顕した中でも特定の一つの曼荼羅本尊だけが特別である」とした証拠。

大聖人「三大秘法抄】に曰く、

「戒壇とは王法仏法に冥し仏法王法に合し王臣一同三秘密法持時、勅宣並御教書申下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇建立すべき者か、時を待つべきのみ事戒法申是なり、三国並一閻浮提人懴悔滅罪戒法なるのみならず、大梵天王帝釈等来下して踏み給うべき戒壇なり」

「王仏冥合」、即ち全世界の人々が信じ奉る「本門戒壇」に御安置申し上げる本尊は、弘安二年十月十二日の大御本尊以外にはあるまい。

⑨日蓮大聖人が「本尊に関する権能を唯授一人で血脈相承」をした証拠。

「代々の聖人悉く日蓮と申す意なり」(御本尊七箇之相承)
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり」(本因妙抄)
その他の御書、及び歴代猊下の御指南多々あり。

⑩「本門戒壇の大御本尊」という、当たり前のように思っていた呼称表現は、いつ、どこで誰が言い出したのか?

日蓮大聖人が仰せである、「本門戒壇」と。

⑪「本門戒壇の大御本尊は日蓮大聖人の出世の本懐である」とは、いつ、どこで、誰が言い出したのか?

大聖人が仰せである。

「南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年弘安二年[太歳己卯]なり、仏は四十余年天台大師は三 十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七 年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(聖人御難事)

⑫大石寺貫主の唯授一人血脈相承による仏法継承・令法久住の根拠である「大聖人が日興上人に授与されたという二箇相承書」は、いつ、どこで、誰が言い出したのか?
その書が日蓮真筆である証拠は?

単なる言いがかりの極めであり、捨て置く。写本多々あり。
以上

第一回海外信徒総登山

http://youtu.be/r4Vm939g6j8

御受戒模様
http://youtu.be/qMQRtboankk

各国の決意発表
http://youtu.be/usjZO42H0sU

戸田会長の長男、喬久氏が逝去

イク夫人と同様、葬儀は日蓮正宗で執行!
toda

日興跡条条事に関する創価員の邪難を破す。

一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と爲し、日本国乃至 一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残るところの半分は自余の大衆等之を領掌すべし。
一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を 相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。
 
 右、日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以來七十三歳の老体に至るも敢えて違失の義無し。十七の歳、日蓮聖人の所に詣で(甲 洲身延山)御在生七年の間常隨給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依つて此くの如く書き置く所なり。仍つて後の爲証状件の如し。
 
  十一月十日
  日興 花押



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テーマ 「日興跡条々事」は真蹟か?

挑戦者である創価学会員・宿坊なるものは、本山に案文及び正本が現存しており、かつ、異流義 と成り果てた創価学会でさへ、「真筆は大石寺に現存する」と認めている当該文書を、なんと「そのような文書は存在しない」と、いつものことながら難癖をつけてきた。 従って当方は、破門後に出版された創価学会発行の、「仏教哲学大辞典」には如何に記載されているのかを問い正した。 それに対し いつものごとく、反論が不可能であるばかりか、逃げまわり、回答なし、更になんと、前回にも劣らず、異流義保田妙本寺の門弟が書写した文献、及び、異流義京都・要法寺の僧侶、日辰の写本等を用いて反論に及んだのである。 

創価学会発行 「仏教哲学大辞典」 1295Pには「日興跡条々事」に関し、次のように記載されている。

『「日目上人譲り状」ともいう。 第二祖日興上人から第三祖日目上人への付属書。 正本、案文ともに大石寺に現存する』

とある。 

創価学会諸君、いかがであろうか? 破門後に出版された「仏教哲学大辞典」でさえ、真筆の現存することを認めているのである。 数百年前に書かれた文献の真筆には、年号は書かれていない。 ・・だからといってそれが偽書、あるいは存在しない、とは簡単には言えないのであります。 (余談ではあるが創価学会員がよく使用する、「一生成仏抄」の真蹟にも年月日は記載されていません、これをもって、「一生成仏抄」を「存在しない」あるいは「偽書」とするや否や?

例をとると、

日蓮大聖人が最初に執筆された御書に、「戒体即身成仏義」(平成新編1p)がある。 この御書は大聖人、聖寿21歳の御時、仁治3年の御作とされている。 然るに、この御書には年月日が記されていない。 それに続く「戒法門」、聖寿22歳の御作(平成新編12P)しかり、年月日は一切記されていないのである。 この件に関し、立正大学名誉教授の茂田井教亭氏は、「日蓮の法華経観」36p(校成出版社)は、次のように述べている。

『戒体即身成仏義に関して、「文献学者の中には、本書は21歳の時のものではなく、後年のものである」と断言する人もあるほどである、しかし、宗門{*れいな注、邪宗日蓮宗}では処女作、21歳の作と決めており、「録内御書」の第一番に出てくる』

と述べている。 即ち古文書に於いて元号・年月日の無いものに関しては、その学者の研究成果において、真筆の年代及び月日を推測するしかないのである。 「日興跡条々事」に関しても、またしかり、年号がないのであるから推測するしか方法がないのである。

そのことは当方が法論において、宿坊氏に対し次のように述べている。

『そもそも「日興跡条々事」の原本には草稿及び本書を含め「年号」は記述されていないのです。 よく覚えておきなさい。 繰り返します。 年号は記述されていないのですよ。

しかしながら、その時々の研究者(歴代猊下を含む)が自身の研究の結論をもって、その年号を「推測」し記入されたのです。 したがって貴方が参考にする書物によって、確かに年号に違いが生じているのです。

分かりますか? まだ分かりませんか? 貴方が誰の書いた文献を挙げようが、それが日亨上人であろうが、異流義 京都・要法寺日扇の写本であろうが、保田・妙本寺の末裔が書写したものであろうが、なにを原本として書写したのですか?

真筆を書写したのでしょう? 違いますか? ・・しかしながらその真筆には年号がないのです。 この方たちは日亨上人を含め「学問という概念」で考えると、仏教学者の最高峰です。 あなたとか私とは違いますね。 その時代の権威ある学者です。 その方たちがそのときに応じ、「相伝す」を「授与す」と書かれた人もいたでしょうし、年号を書き入れた人たちもいた事実です。 日亨上人は日亨上人なりのお考えで年号を推測され「要集」として編纂されたのであります。

更に言いますと、今、貴方たちの使用している「御書全集」がありますね。この全集は戸田先生の時代に日亨上人が編集され出版された御書です。 日蓮大聖人様が間違って記述されておられる個所が数箇所ございます。 誤字もあります。 貴方はそれをもって、日蓮大聖人様が末法の御本仏ではなく、ニセ仏であると言いますか?断じてそうではないでしょう。

・・・そこで日亨上人が真筆をご覧になり、明らかに大聖人様が間違っておられる個所を訂正して出版されたのが、貴方たちの使用している「日蓮大聖人御書全集」なのですよ。 どっちが本物ですか? (大聖人様が)間違って書かれた真筆が本書でありましょう! 

「日興跡条々事」に関しても日亨上人がその学問的見地に於いて、年号を入れられ編集されたのが、「要集」なのです。

更に付け加えるならば、日興上人が日目上人へ「譲座御本尊」を授与し、血脈相承を内付された後、42年間、僅か大石寺より2KM離れた地、重須より日目上人を影で支えてこられ、重要御書の結集を始め、弟子の育成にその御一生を掛けられたのである。 日目上人への血脈相承に疑いは無いであろうと見るべきであろう。

余談であるが、ここに日達上人猊下の「富士年表」の発刊のお言葉を紹介する。

「省るみるに、古文書の調査と言うことは難しいことであるが、また面白いこ

とでもある。 例えば日華上人の如きは、保田文書に依ればその師ニ祖日興上

人御在世中遷化していることが明らかであるが、それが何年であるか年号が記

載されていない為、年表に死亡年を記載することが出来ないので、 残念なが

ら従来どおり建武元年に記入せざるを得なかったことや、三大秘法抄が従来弘

安4年4月8日となっておったのが、日時上人の古筆記の発見により弘安5年

4月8日と確定できたことなどがあった。」


以上をもって、当方の完全勝利宣言とする。

2003年8月13日

「 創価学会からの脱会を考える会」
代表 れいな

nikkouato

「日興跡条条事」に関する邪論を破す

『金原明彦氏の「日興跡条条事・真書説」は誤りである」の誤りを破す。』

本門戒壇の大御本尊を否定しようとする輩のすることは決まり決まっている。所謂、日蓮正宗の正当性を証明する文書を全て偽書とすることである。御本尊七箇相承しかり、御義口伝しかり、百六箇抄しかり、そして其の一つに今から論ずる日興跡条条事が含まれる。

なんせこの文書を偽書としない限り、最も否定したい本門戒壇の大御本尊を否定できないからである。この文書は第二祖日興上人が日目上人へ、①大石寺を譲ること。 ②大聖人御出世の本懐である弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊を日目上人へ譲ることを書かれた証明文「(譲状(ゆずりじょう)」である。

そりゃ、反日蓮正宗側にしてみれば、何としても偽書だとでっちあげたいではないか! しかしこの文書は草案、正本共に現在、富士大石寺に現存しているのである!

さて、閲覧者諸君、以下、習いそこないの珍論をまずはお読みください。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

①「日蓮と本尊伝承?大石寺戒壇板本尊の真実」の著者・金原明彦氏は、「日興跡条条事」の「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊」は日興真筆である可能性が高いという、実に珍妙な説を唱えている。
著書「日蓮と本尊伝承?大石寺戒壇板本尊の真実」の中で「戒壇の大本尊」なる板本尊は日蓮直造ではないという説を唱えている金原明彦氏が、「日興跡条条事・真書説」を唱えているというのは、まことに奇怪である
(「日蓮と本尊伝承?大石寺戒壇板本尊の真実」p154より)

「日興跡条条事」の第二条の文である。

②「日興宛身所給弘安二年大御本尊□□□□□日目授與之」

の□□□□□の欠損箇所について、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「相傳之可奉懸本門寺」の九字を加筆した後人の意図的な削除と解釈し、元々そこには「弘安五年御下文」との記述があったという説を唱えている。

③「日興跡条条事」が偽作文書だと確信犯的に何度も改作を繰り返してきた大石寺、それに代わって、「可奉懸本門寺」(本門寺に懸け奉るべし)の文を書き加えた。「授与之」を「相伝之」と上書きしているということは、どういうことかというと、本尊の脇書きに「授与之」と書いてしまうと、個人授与の本尊ということになり、代々の法主に相伝していくときに、一々授与書が必要ということになる。

これは無理だと考えたのか、「日興跡条条事」の偽作者は、第二条の「授与」を「相伝」と上書きすることによって、「大石寺歴代法主=日目」という教義を発明した。つまり大石寺客殿の大導師席を日目の座であると称して、その大導師席に座る法主は全員が日目であると定義づけた。大石寺歴代法主は全員、日目であると定義づけ、「日興跡条条事」の「授与」を「相伝」と上書きすることによって、日目以降の法主の代替にともなう「戒壇の大本尊」なる板本尊の授与書を不要にしてしまったということである。こうして「日興跡条条事」という文書を精密に研究していくと、

□大石寺17世日精が「富士門家中見聞」(家中抄)に記載した「日興跡条条事」、日付が「元徳四年三月十五日」になっている。

□大石寺48世日量が「富士大石寺明細誌」(宝冊)に記載した「日興跡条条事」
日付が「元徳二年十一月十日」になっている

□大石寺59世堀日亨が「正本」と鑑定した「日興跡条条事」
第二条が「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、弘安五年の御下文、日目に之を授与する」となっていて、日付が「十一月十日」と、元号がない。

□大石寺65世堀米日淳、大石寺66世細井日達、大石寺67世阿部日顕が「正本」だと言っている「日興跡条条事」第二条が「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を相伝する。本門寺に懸け奉るべし」となっていて、日付が「十一月十日」と、元号がない。

これらのものが全て、内容がそれぞれ異なったものになっている。

これらの事実を照らし合わせると、「日興跡条条事」は、日蓮正宗大石寺の歴代法主によって、何度も偽作され、後加文を付け加えたり、意図的に文を欠損させてきたことが明らかとなる。

それにしても、もし「日興跡条条事」という文書が本当に日興の真筆の文書だというのなら、こんなに何度も何度も改作したり、文を末梢したり、していいのか?

こういうことをしていること自体、日蓮正宗大石寺は「日興跡条条事」という文書は、ニセ文書であると認識しており、確信犯的に文書を改作しているのではないかとすら思えてくる。偽作文書を何度でも造って平然と自らを正統化してはばからない日蓮正宗大石寺のドス黒い体質が見えるではないか。

④□「元徳二年」「元徳四年」「元号なし」とバラバラになっている「日興跡条条事」の正本・写本
「日興跡条条事」という文書には、内容の違う写本がいくつもあることは先に述べた。ところがこの「日興跡条条事」の「正本」と称している文書、そして写本には、年号・日付がバラバラになっているという、おかしな矛盾を包含している。それらをまとめてみると、以下のようになる。

■1560(永禄3)年11月7日 京都要法寺法主 日辰が書写した「祖師伝」に記載されている「日興跡条条事」(富士宗学要集5巻31頁) □ 元徳四年三月

■1662(寛文2)年12月18日 大石寺17世法主日精が書写した「家中抄」に記載されている「日興跡条条事」写本(富士宗学要集5巻p188)□ 元徳四年三月十五日

■1823(文政6)年5月大石寺48世法主日量が書写した「富士大石寺明細誌」に記載されている「日興跡条条事」(富士宗学要集5巻p32□ 元徳二年十一月十日

■ 日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨が「正本」と鑑定した「日興跡条条事」(富士宗学要集8巻17p)
□十一月十日

■ 「日蓮正宗聖典」(p519)「平成新編御書全集」に記載されている「正本」

□十一月十日

このように日付がバラバラになっていること自体、甚だしい矛盾であるのだが、さらにそれに加えて、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨がが正本と称している「日興跡条条事」にも、日蓮正宗が「日蓮正宗聖典」や「平成新編御書全集」に収録している「日興跡条条事」にも、年号が一切記載されていない。ただ「十一月十日」と書いてあるだけなのである。

◆◆◆◆◆◆◆◆以下、破折①◆◆◆◆◆◆◆◆◆

以上がこの莫迦者の見解である。

「おかしい、偽書だ、加筆がある・・・」といくらにわか仕込みのド素人・町人学者が絶叫したところで、草案及び正本は大石寺にあるのだ。お前こそ勝手な思い込みで「まずは否定するという結論ありき」で論じていることに気が付かないのか?

まず、この習いそこないが示しているように、その正本はこのようになっているのだ。

①「日興宛身所給弘安二年大御本尊□□□□□日目授與之」

※画像①と②を参照して頂きたい。これは昭和55年度、御霊宝御虫払法要時における記念写真集から抜粋した日興跡条条事の正本である。
つまり文章の一部が欠損しているという事実。

②次に、正本には元号が示されていない、という事実。
「十一月十日」としか書かれていない。

画像③を参照

以上、お分かりか? 時の御法主上人猊下によって「授与之」或いは「相伝之」と読んだのである。お前たち習いそこないは「日蓮正宗の猊下は絶対間違いはないのだろう! 日蓮大聖人即法主だろう!その法主が何故、人によりバラバラなんだ!・・・だから日興跡条条事は偽書だ!」このように話を持っていきたい魂胆は見え見えである。

歴史の研究、就中古文書の欠損解読部分は推量を以て読み下すしか方法はあるまい。

よいか! これは法門のことではない。学問の世界のことである。従って時の猊下が「信徒用の御書等」を編纂されるときに「授与」或いは「相伝」と変わる時もあるのだ。これは歴史研究の成果である。

して現在は、

「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す、本門寺に懸け奉るべし」

とお読みしているのである。

◆◆◆◆◆◆◆◆破折②◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

次に『年号』に関しての邪難を破す。

これも画像を見れば分かるよう正本には明らかに年号は書かれていない。では年号が無いから偽書といえるのであろうか? 平和ボケし、他国からの侵略もない平和な国・日本であるが、現在を基準として元号が無いことに理由付けをしようとするから偽書だ!と言いたくなってしまうのである。

時は武士が権力を握る鎌倉時代である。朝廷は南朝、北朝が対立していた。今の中東シリアを想像せよ! 政府軍と反政府軍が国家を二分して争っているではないか!このような時代が日興上人の時代だったんだよ。
これを時系列で整理しよう。

――――――――――――――――――――――――――――

①日興上人、御座替本尊を日目上人へ授与  1290年10月13日

元号  正応

②南北朝時代の始まり          1329年

③日興上人重須にて滅           1333年

南朝の元号=元弘
北朝の元号=正慶

④南北朝・元号統一=南北共に「明徳」を使用 1392年
http://www.kumamotokokuf-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/nengoui.html

――――――――――――――――――――――――――――

分かったか、習いそこないのボケ町人学者よ!

日興上人は明らかに当時の時勢を鑑み、北朝、南朝のどちら側にも付かず、中立という立場で元号を書かず日にちだけを書かれたのである。

「そうではない!」というのであれば、他に理由は何か? 論証せよ。

さぞ残念であろう平和ボケの痴呆学者よ!

この文書を以てお前がいくら当時、「楠木は身延周辺に無かった、本門戒壇の大御本尊は後世の偽作だ」、と能書をいくら垂れ流しても、「有るものはある」のである。

ついでに更に付け加えて破折する。

【本門戒壇の大御本尊図顕に至る時系列】

1253(建長5年3月28日)    安房清澄寺にて宗旨建立の内証を宣示
1253(建長5年4月28日)    立宗宣言(安房清澄寺にて)
1271(文永8年9月12日)    竜の口の法難
1272(文永9年2月)       開目抄
1272(文永9年10月10日)   木画二像開眼事
1273(文永10年4月)      観心本尊抄
1274(文永11年2月14日)   幕府、赦免状を発布
1274(文永11年5月17日)    大聖人、波木井郷に着く
1274(文永11年12月)      万年救護の本尊図顕
1278(建治4年2月23日)    三沢抄(内々に申す法門あり)
1278(弘安2年9月21日)    熱原の法難
1279(弘安2年10月1日)     聖人御難事(余は27年なり・・出生の本懐)
1279(弘安2年10月12日)   本門戒壇の大御本尊図顕
1279(弘安2年10月15日)   熱原神四朗・弥五郎・弥六郎、鎌倉にて刑死、他17名赦免
1279 (弘安2年10月)      三世諸仏総勘文教相廃立
http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53747182.html

「内々に申す法門あり」「余は27年なり・・」とは何か、如何? 「内々に申す法門」とは一応は開目抄と観心本尊抄であるが、それは取りも直さず、大聖人御出世の本懐である本門戒壇の大御本尊の説明文である。

「いや、違う!」というのであれば、一体どの御本尊かい?言うてみぃ。

以上だ、反論してみろ!更なる破折を加えることとする。

参考資料
【御座替本尊とは?】

客殿に安置されている本尊は、大石寺落成翌日の正応3年(1290年)10月13日、日興上人が日目上人に授与した大幅の本尊である。古来、日蓮正宗ではこの本尊を、「御座替本尊」(おざがわりほんぞん)あるいは、「譲座御本尊」(じょうざごほんぞん)と称している。この本尊の脇書には、「正応三年十月十三日之を写す、日興、日目に之を授与す」と記されてある。

日興跡条条事2
日興跡条条事1
日興跡条条事3




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