全地婦連のあゆみ |
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<概要> |
○誕生まで |
与えられたピッカピカの民主主義に半ば戸惑いながら試行錯誤を繰り返していた戦後の混乱期に、新日本婦人同盟(後に日本婦人有権者同盟と改称)、婦人民主クラブ、大学婦人協会、日本産婆看護婦保健婦協会(後に日本看護協会と改称)、主婦連合会と、次々に婦人解放のスローガンとともに華やかなフットライトを浴びて各種の婦人団体が誕生しましたが、これとは別に地域婦人会というもう一つの芽が各地に着実に育っていきました。
地域婦人会は、親睦、隣保扶助を目的とした日本の伝統的住民組織の系譜に属する組織で、会員は年齢、職業、趣味はもちろん思想、政治的信条を異にしながらも、同一地域の女性であるということを共通項として結ばれている団体です。
単位地域婦人会はやがて郡市ごとに連絡協議組織をつくり、都道府県組織につながっていきました。
GHQ(連合国最高司令官総司令部)などのアメリカ流の指導と県社会教育課の指導に戸惑いながらも、平等の権利を持って横に手をつなぐ連絡協議会という民主的な柔構造の組織形態をとっているのは、被占領時代の苦しい学習の中から学んだ貴重な成果といえましょう。
1952年(昭和27年)7月9日、東京・上野の国立博物館講堂で開かれた結成大会には、21都府県の代表が集まりました。初代理事長(後に会長)に山高しげりを選出し、綱領案を満場一致で採択、全地婦連が誕生しました。
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○模索の時代(1952〜1961年) |
選挙違反の連座制強化に関する請願書を国会に提出するなど、公明選挙運動にはじまり、家族制度復活反対総決起大会、売春防止法制定運動、国鉄運賃値上げ・消費者米価値上げ反対運動、新生活運動などがありますが、何といっても原水爆禁止運動と沖縄返還運動への取り組みです。
1954年(昭和29年)、原水爆禁止署名運動全国協議会に正式参加。翌55年には第1回原水爆禁止世界大会(広島市)に参加し、以来、64年の脱退まで母親の集団として日本の原水爆禁止運動・平和運動に大きな役割を果たしました。
1955年(昭和30年)、沖縄復帰国民運動に参加するとともに、「沖縄を一人にさせない」と1961年には全地婦連、日本青年団協議会、沖縄県人会の三者が手を携えて調査団を派遣し、署名・請願運動、集会を開くなど、返還への世論喚起に努めました。沖縄は27年ぶりに1972年、復帰を実現しました。
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○行動の時代(1962〜1971年) |
沖縄に続いてもう一つの領土問題、北方領土への取り組みがあります。
1969年(昭和44年)の現地視察を革切りに、その年11月、東京・日比谷の野外音楽堂で行われた北方領土復帰促進国民大会に協賛するとともに、翌70年8月には日青協、北海道婦連、北海道青協、北方領土復帰期成同盟と共催の第1回北方領土復帰実現婦人青年交流集会を根室市で開催。この集会は今年で32回となりますが、あくまでも四島一括返還を目指して署名をはじめ世論喚起に努めております。
消費者運動では、「LPガス使用についての実態調査」(1967年)は、不当な「市価」を引き下げ、LPG新法の成立に大きな力となりました。
画期的な消費者運動といわれた「カラーテレビ買い控え運動」(1970年)は、全地婦連が実施した「二重価格表示の実情調査」がきっかけでした。常に割引率が高いものは、定価そのものがおかしいと問題を提起し、メーカーが消費者を無視する姿勢を改め、定価引き下げを行うまで「カラーテレビ一年間買い控え運動」の実施を決めました。この運動は消費者5団体の運動に発展し、一般消費者の支持も得て全国的に広がりました。消費者側は「不当な二重価格解消と実売価格の引き下げ」に大きな成果を収めてに71年、「終結宣言」を出しました。
「二重価格」とか「定価」「小売価格」などを見直すこうした運動は、消費者の自由な選択と小売店の自由な販売を妨げている「再販制度」廃止運動に発展しました。規制緩和の動きもあって「再販制度」は現在では書籍・雑誌、新聞、音楽用CD等のみに残っており、私たちはその全廃を求めて運動を継続中です。
これらの運動は、いずれも全地婦連の実態調査を基に発展したものであり、全国に網の目のように張り巡らせた地域婦人会組織の力を如実に示すものです。
さらに、1968年(昭和43年)には100円化粧品「ちふれ」を生み出しました。「値段の高いものほど品質もいい」という化粧品神話をくつがえし、"企業秘密"とされる構成成分をすべて公表するとともに、肌への影響が懸念される原料は極力避け、製造年月を表示し、容器や宣伝に経費をかけず、お肌と環境に配慮しながら今日まで続いております。
33年たった現在は平均500円になりましたが、幅広い消費者に支えられてがんばっております。
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○連帯の時代(1972〜1981年) |
1973年(昭和48年)からは生鮮食料品情報テレホンサービスを大都市で開始し、主婦の手作り情報を提供。
1975年(昭和50年)にはサッカリンや発泡剤を抜いた「ちふれハミガキ」を開発し頒布を始めました。
1976年(昭和51年)、国際婦人年を記念して「母たちの昭和史」刊行。
1978年(昭和53年)、国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民(NGO)代表団に代表派遣。(署名総数2002万余名、うち全地婦連532万余名)
引き続き1982、1988年にも国連軍縮特別総会に向けた要請団に、代表を派遣しました。
国際交流では、中華全国婦女連合会との長い交流の歴史があります。
国交正常化前からの民間レベルでの日中友好交流の流れを受けて、中華全国婦女連合会との直接な交流が始まりました。
1979年(昭和54年)の訪中、翌80年には招聘と、相互交流は今日まで続いております。 国際児童年の1979年(昭和54年)には、「世界の飢えた子供たちに1日分のオヤツ代を送ろう」と呼びかけ、1億8000万円をタイの難民キャンプとユニセフに寄託。
1981年(昭和56年)には、「バングラディシュの子らに光を!ビタミンAを送る運動」を展開し、1億2840万円を送りました。
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○共生の時代(1982〜1991年) |
平和や人権、家庭科の男女共修、年金制度、優生保護法改悪反対など、国際婦人年を機に結集した「婦人年連絡会」における共同運動、並びにテレビCM実態調査、食品添加物の規制緩和反対、売上税反対等の消費者運動があります。
1982年(昭和57年)より、大都市を中心にファミリー・サービス・クラブ事業を開始し、家事等をお互いに助け合って女性の社会参加推進を目指しました。(1996年まで。ただし一部地域では継続中)
1985年(昭和60年)、アフリカへ救援金5000万円を、1986年(昭和61年)にはエチオピアの干ばつ被災者救援事業に5000万円、難民を助ける会のザンビア飲料水確保のための井戸掘削に2000万円をそれぞれ送りました。
環境問題に関する学習の機会が増え、ハンドブック「はじめの一歩」(1991年)、「やさしさへの問いかけ」(1992年)発行。
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○変革の時代(1992〜2002年) |
製造物責任(PL)法制定を求める署名運動や学習会の開催をはじめ、消費税率引き上げ反対運動、遺伝子組み換え食品問題、消費者契約法制定、デポジット法制定などを求める運動等で共同運動展開。
1994年(平成6年)よりサッカーくじ導入反対運動、現在も継続中。
〃 ルワンダの難民救援活動に100万円を拠出。
1995年(平成7年)、沖縄における米兵の少女暴行事件に抗議する特別決議を採択。
1995年、テレフォンサービス事業を改組し、食品情報消費者ネットワーク支援事業として継続実施。
1997年(平成9年)より「伝えよう ヒロシマ・ナガサキ」運動に参加し、被爆の実相を広く伝える運動を展開。ハーグの世界市民平和会議(1999年)に代表派遣。
2001年(平成13年)10月、狂牛病(BSE)問題に関し、関係諸機関に安全性の確保と速やかな情報提供を要請。
2002年(平成14年)5月、アフガニスタン救援募金5,580万円余を日本ユニセフ協会を通して贈る。
2002年(平成14年)7月9日、創立50周年記念全国地域婦人大会を虎ノ門ホールにて開催。
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○現在 |
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以上、全地婦連の50年の歩みの主な項目を列挙してご紹介いたしました。
夢ひろがる地域社会の創造をめざしてさらなる前進を期しております。どうぞこれからもご支援くださいますようよろしくお願い申し上げます。
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