著作権部で働きながら、
僕はいったい自分に何が起きたのかを
考え続けていた。
 
そもそも、難しいのは、
フジテレビの出した処分であり、
フジテレビの対応に対しては、
一切の不満がないところだ。
 
いや、それどころか、
感謝すらある。
 
必要に迫られた、とその当時は感じたとしても、
書類を正確に報告せず、
調査に来た労務担当にも
説明を真摯にせず…。
 
僕の社会人として取った行動は
完全に未熟であり、
それに対するフジテレビの対応は、
一般論から考えると、
相当に、いや、むしろ、甘い、と言える対応だったと思う。
 
 
 
だが、
同時に、やはりこの職業をしていたせいか…。
社内で、何度か、不穏な噂を耳にしたことがあったことも、
また事実だった。
 
 
時期を特定されてもまた変な話になってしまうので、
数年前、としか言わないが、
ある女性アナと飲みに行って話をしている時だった。
 
「長谷川さん、絶対におかしいと思うんですよ!」
 
その女の子が憤慨していたのは
自分たちに対する週刊誌の記者の取材だった。
 
まぁ、しょうがない部分は多い。
言ってしまえば有名税。
そういう仕事だし、慣れるしかないよね…と言いながら、
少し気になる部分があった。
 
「私が新しい仕事についてるのを知ってるんですよ!その収録終わりで待ち伏せしてるんです!」
「なぜか、自宅にいるんですよ!尾行してるんだと思います!」
 
収録終わりに記者さんが待つことは
変なことではなかった。
気になったのは
「新しい仕事についたこと」
をなぜ知っているのかということ。
そんな情報は基本的に社内秘なものだ。
 
そして、自宅の住所…。
そこまで正確に尾行ってできるものか?
僕自身が取材していた人間なのでわかるが、
そこまで簡単ではないぞ?
なぜ住所を知っている…?
 
 
 
僕たちフジテレビの内部では、
都市伝説のように、ある噂が流れることがたびたびあった。
 
「実は契約社員などではなく、フジテレビ社員の中に週刊誌に通じる内通者がいる」
 
僕は男性アナだった。
当然、フーン、なんて言いながら、
気にもしていなかったが…
 
 
 
妙な胸騒ぎがする。
 
 
 
ここで、僕は一つの仮説を立てることにした。
 
仮に…
そう、「球体君」と、そう呼ぼう。
球体君はフジテレビの社員であり、
相当の情報を手に入れることのできる立場にいる、と仮定する。
 
その球体君にとって、
僕はなぜか目障りか、もしくは気に食わない存在だったとして、
その球体君は僕の懲罰委員会の内容を知りうる立場の人間だったと仮定する。
 
 
仮の話だ。
あくまで僕の想像でしかない。
 
 
だが、僕を追及する懲罰委員会では、
残念ながら、僕をクビにまでは出来なかった。
 
しかも、懲罰委員会では、
「ハセガワには小さな子供たちもいる」
なんて甘いことを言って、社外発表もかなり抑えた内容になっちまった。
 
なんだよ、それ?
 
週刊誌に連絡する。
長谷川の名誉を可能な限り傷付けられるように情報を流す。
 
 
 
気になった情報はもう一つあった。
 
「社内の女性スタッフたちは皆、ザマアミロと言っている」
 
調べていただければわかるが、
こんな見出しも踊った。
 
ちょっと考えれば、分かるが、
上記の見出し、
僕の懲罰と
 
関係なくないか?
 
 
ただの僕への人格攻撃である。
 
最悪、僕から訴訟を起こされても不思議でない範囲の記事と言える。
 
でも、僕は絶対に手出し出来ないのだ。
そう。
僕はその時…
 
 
アメリカに帰らされている!
 
 
日本にいない。
そもそも、そのことも、普通の日本人は分からない状態だ。
しかし、
当時の週刊誌は
まるで
「僕が何も手出しできないことを知っているかのように」
言いたい放題の記事を書いてきている。
 
 
 
すべて気のせいならいい。
それはそれでスッキリするじゃん。
 
でも、その仮定の話は
あまりにもすべての辻褄が合いすぎた。

 

 

僕はいるかどうかもわからない球体君との

戦いを開始することにした。

 

これは僕の最後の取材者としての意地だった。

 

そんなことをして、何にもならないことはわかっていた。

でも、

でもね。

 

腹立つんですよ!


ホントにそんな奴がいるとしたら! 

いや、ほんと。

そこは僕の人間の小ささだった。

 

 

でも、ダラダラやっててもしょうがない。

期限を決めることにした。

 

そもそも、あの時、

小倉さんの一言を聞いた時から

会社を辞めることはもう決めている。

けじめもつけたい。

会見なんて言っても誰も取材になんか来やしない。

ブログでいいや。

誰も見ないだろうが、それでもいい。

ブログで謝罪しよう。

 

僕はその期限を

2013年4月1日とした。

 

僕が1999年、誇りと希望をもって入社した日。

その日までに、何もわからなかったら、

ただ、謝って終了しよう。

そして、新しい第2の人生を歩もう。


僕の八か月間の

最後の取材生活がスタートした。